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渦を巻き、堤防を越えて、濁流となって

2024-12-31 17:08:11 | 

濁音のような夕暮れを見ながら思考の中に潜り込んだ、目を覆いたくなるようなおぞましい景色に眉をしかめながら最奥を目指す、そこにはまだ辿り着いたことが無い、人間の集中などでは到底辿り着けないところなのかもしれない、すべての情報を遮断して、一年間瞑想し続けたとしてもおそらく無理だろう、でも時々、その末端に手が届くのではないかと思える瞬間がある、もう少し、もう少しだというところで一瞬のうちに現実に引き戻されてしまう、だからそれを求めるやつらは躍起になって間違いへと踏み込んでいく、食事を止めたり、寝るのを止めたり、苦行を強いたりしてもう一度その先を見ようとする、しかしだ、それでは無意味なのだ、人であるための感覚であるはずなのに、それを手に入れるために人の暮らしを捨ててしまったら本末転倒だ、仮にそんな苦しみの果てに運良くそれを手に入れることが出来たとしても、もうそれがなぜ自分の手の中にあるのかということすら理解出来ないだろう、修行が必要だと誰もが言うんだろう、でもそれはあくまで、生活に根差した先にあるものでなければならない、瞑想の為だけにすべてを投げ出すのなら、ウォーキングの習慣を身に着けるとか、少ない稼ぎの中でやりくりしてジムにでも通う方が余程有意義だ、熱意など真実には邪魔だ、どんなに語ったところで一行でも良い文章が書けるわけでもない、それは話が違うというものだ、矛先と方向を間違えてはいけない、だがこれが厄介なことに、何もしない人間は殊更に懸命になっているもののことを異様なまでに受け入れる、受け入れられるから勘違いして度を越えてしまう、それはおそらく、退屈な観客たちの眼前に舞台というものが現れた瞬間からそうなのだろう、彼らはいつだって、ほんの少し自分を勘違いさせてくれる材料を探している、そういうネタを提供することがエンターテイメントだと思っている間抜けも沢山居る、そんなところに真実はない、見つめる目を意識した言動など興醒めってもんだ、そうは思わないか?日本人が大好きな客観という概念がある、だけど果たしてそんなもの、本当に存在するのかね?生身の人間に語れるのは自分自身のことだけさ、誰かに届けるためにこうする、なんていう工夫も結局自己満足に過ぎない、詩人の言葉など本人だけがわかっていればそれでいい、たとえそれが音楽だって、小説だって同じことだ、誰もが自分の手の中に在るものをばら撒きたいだけなのさ、「普通は」「常識的に」「みんなが」そんな言葉が逃げ口上に思えるのは俺だけなのかね?誰もそのことを疑問に感じていないのか?そういう世界を俺は凄く気味悪く感じるんだ、まるで自主的に洗脳された食用の豚だよ、喜んで殺されに行く家畜だ、いや、俺は別にそういう連中をどうこうしたいわけじゃない、ただ、俺の視点から見るともの凄く悍ましいものに感じるってことを言いたいだけなのさ、フラットな自分というものがまずある、その中ですべては生まれて来なければならない、あくまで当り前の自分が語るものでなければならないのだ、能書きにとらわれず、主義主張に振り回されず、矛盾や辻褄を気にすることなく自由に書かれなければならない、そのままで生きている自分が起点となっていないことには、文章になどなんの意味もないのだ、肉体をふたつ持つことは出来ない、そもそもひとつで充分なのだ、もともとたったひとつの魂の言葉の価値が世界を作り上げてきたのだから、分析して形式化することなど無意味なのだ、これはただの放出だ、雨や雷と同じものだ、体内における自然現象なのだ、いつのどんな時代だって、理屈を必要とするのは臆病者だけだよ、おお。いつの間にか夜だ、いつの間にか夜が、足元まで忍び寄ってきている、一日中点灯しているこの部屋ではそういったことをなかなか感じ辛い、だからいつだって記憶は抜け落ちている、自分が生きるのに必要なこと以外は廃棄されていくのだ、毎日会う人間の名前だって曖昧になる、俺がそれを必要としていなければ、起点は自分なんだ、いや、模倣や追随がいけないと言っているわけではない、形式なんてもともと意味の無いものだ、そこに自分を乗せる技量があるのなら模倣や追随にも意味はある、自分自身をそこに込めることが出来るなら、在りもののスタイルでもオリジナルだと呼ばれることになる、受け取る側だってそれぐらいのことは本能的に理解することが出来る、もっとも、そこにエンタメが絡んだ場合は、これは該当しない、特に今は、本質など問題にもしないようなものばかりばら撒かれているからね、すべては自分の為だ、自分の為にだけ書くんだ、誰が何を言おうが知ったこっちゃない、お前自身の矢を放て、そうでなければたとえ真ん中を射止めようと誰も拍手してはくれない、自分が自分である理由、それが語れないのなら指を止めて、いままで書いてきたものを火の中に投げ込むべきさ、俺がやりたいのは俺自身の存在の証拠を示すことなんだ。


coincidentia oppositorum

2024-12-25 21:40:38 | 

散らかったイメージを一瞬の構成の中に誘い、ひとつの体系を生み出す、その時の真実、その時のリアル―俺は思考がまだ信号の段階である時にキャッチして変換する、脳味噌はその作業をするには遅過ぎる、それは神経の反応のようなものだ、俺の神経系統はどうやら、言葉と直結しているらしい、医学や化学を信じている人間はこんな言い草を鼻で笑うだろう、でもそんなことどうだっていい、やつらにはイメージの中で言葉を紡ぐことなど出来はしない、知りたかったことを知ろうとしなくなったことで俺はそれを手に入れた、人間の本質は思考に縛られはしない、思考は補佐に過ぎない、思考に頼り過ぎると人間は感覚を忘れる、俺はそのバランスの取り方にほんの少し長けている…人間というものはそもそも、様々な作業を同時に行う生きものだ、それなのに表現においてはひとつに絞りたがる、フォーカスがきちんと合っている方がいいものだと考える、思考に頼り過ぎたせいだ、どんなことについても、人前でベラベラ喋れる方が利口そうで格好いい、そんな安直なものを権威にしてしまう、そしてなにひとつ証明することなどない―俺がしているのはそれとは真逆のことだ、余計な口をきく必要などない、なにかを上手くやる必要などない、ただ、自分がするべきことだけをすればいい、そんな姿勢をどこに向けて叫ぶ必要もない、本来そうしたものが表現の実態ではないのか?満たすべき器を満たすことなく唾ばかり飛ばしているなんてひどい体たらくだ、自分が何の為にそれをしているのか、いつでもそれを理解して余計なことに気をやらなければそんなに難しいことでは無い、まあ、簡単なことでもないけどね、俺だって横道にそれることはある、下らない揉め事に首を突っ込んでしまうことだってあるさ、どんな境遇でも同じことさ、常に自分の中で蠢いている得体の知れない生物のことを感じているだけでいい、そいつとは話が出来ない、でも、気にかけてやっていれば拒絶されたりするようなことはない、なんたって求めているものは同じなんだから…わかるかな、つまり、書くということはそいつの中にあるものを自分が使っている言葉で語るということなんだ、だから、こちらがあまり考え込んでしまうと、そいつも自分の中にあるものを差し出すことが難しくなってしまう、折角良いものに触れているにも関わらず、考え過ぎたせいで変換の仕方を誤ってしまう、そういうことが起こるのさ、こうしようと思い過ぎないことだ、それは、正しく流れている水の道筋を無理矢理に捻じ曲げるようなものだ、こちらでどうこうしようなんて考えちゃいけない、水の流れる先を見つめ、そこからどんなものを受け取るのか待っていればいい、それは次々と現れる、言葉にするべきものもあるしないものもある、それだけ見極めることが出来ていればあとは勝手に出来上がっていくというものさ、変な色気なんか出さないことだ、それは余計な言葉を作ってしまう、ただただあるがままに、向かう道の中で見えるものすべてを言葉に変えればいい、もっともその景色に近い言葉を瞬時に選択するのさ、整合性だの辻褄だの矛盾だの気にする必要はない、人間の存在に整合性は無い、辻褄など合っていないし矛盾など当り前に生じる、わかるだろ?身に覚えがあるだろう?今お前が必死になっているのはもしかしたら、それを知っているからかもしれないぜ、その記憶がお前を躍起にさせるのさ、無茶苦茶だからこだわり続けてしまう、荒れた地平に新しい道を作りたくなる、でもそんな思いにとらわれてしまってはいけない、それは逆効果だ、思いは様々にあっていい、でも、あまり感情任せにしないことだ…俺も昔はそんな書き方をしていた、言葉とは感情でなければならないと考えていた、でもそうじゃなかった、本当はそうじゃなかったんだよ、それはまるで自分とは関係ない言葉でもよかった、その時その瞬間に浮かんできたものだけが真実なんだ、真実など定型ではないから、束の間のそれを引っ掴んで連れてくるのさ、わかるかい、真実とは空気さ、瞬間の空気の中で呼吸することさ、その中で蠢いている信号を次々に変換して、お前がいまこの時に生きている証拠をテーブルに並べるんだ、小細工は必要無い、小細工など何の役にも立たない、小細工が表現に成り得たことなど過去に無かったし、これから先も無い、いや、もしかしたらテレビジョンの中にはそういうものもたくさんあるのかもしれないね、表現ぶった娯楽ってやつがさ…数字を集めるだけで得意になれるなんてお気楽な連中だよな、同じことが続くぜ、同じことの繰り返しだよ、でもひとつ作り上げる度に、パラレルワールドを少しずつ移動していくみたいに、ほんの少し何かが変わっているんだ、朧気にそのことを感じながら、また最初のフレーズから書き出せばいい、すべてはそこにある、いったいそれ以上どんな言葉が必要だっていうのかね?まあ、こんなこと並べたところで色々な人間が色々なことを言うんだろうけど、気になるんなら後をついてくるがいいよ、俺の言っていることが少しずつわかって来るだろう…説明なんかしないよ、これより上手く話す方法なんて俺にはまったく思いつかないからね…。


心が騒ぐままに

2024-12-21 00:01:30 | 

靴の泥を掃って玄関に揃え、浴室に籠ってシャワーを浴び続けた、筋肉が完全に弛緩するまでじっとして、それから全身を洗い、髭を剃った、手のひらで感触を確かめ、まあいいと片付けた、それでようやく、自分自身の息の仕方を思い出すことが出来た、ジョン・メレンキャンプのアルバムを聴きながら、椅子に身体を預けて時々うとうとしたり、思考を遊ばせたりしてそれから、思いついたフレーズを指が止まるまでメモした、楽に書くときと息巻いて書くときがある、どうやら俺は、詩までが分裂し始めたようだ、まあそんなことはどうだっていい、誰がどんな風に書いたかなんて、読む側にしてみたらまるで関係の無いことだ、目的を忘れちゃいけない…初めて歩く道をマッピングするようなものだ、どんな歩き方でもかまわない、要は、その時こうするのが大事だと思うことをすること、決まり事など何も無い、時々で最適なものをきちんと選択すること、それが出来ればもう完成は見えたようなものだ、気負わず、ディスプレイを埋め尽くしていくものがどんな風に流れているのかを見極めて、その先を並べていくことだ、辻褄や構成など気にする必要はない、詩なんてきっと、ニュアンスで遊ぶためにあるものだ、尻が痒くなるような主義主張なんかお呼びじゃない、そんなものが欲しいなら原発反対のデモにでも並んでいればいいさ、それだけでいいんだろ?俺は肩を竦める、俺が欲しいものは塗絵じゃない、どんな線も引かれていない真っ白な紙なんだ、ね、少しでも安全な足場を求めた方の負けだぜ、そんな風に考えていた方が自然に書いて居られるはずさ、これはあらゆる表現に言えることだけど、「こうやらなきゃいけない」なんて決まりは本来無いものなんだからね、道に迷ったら根源に戻ればいい、そしてそれは何かと言うと必ず欲望なんだ、欲望と寄り添うこと、欲望と心中すること、俺がやるべきことはいつだってそれだけさ、正当か不当かなんてどうでもいい、ただ生きることに正しいも間違いもあるものか、そうは思わないか?主張という名の自己弁護を繰り返すのはよせよ、必死になればなるほど見苦しいだけだぜ、俺は手を止め、少し頭を休める、ムキになって言葉を突っ込むことはしなくなった、それは結局勢いだけのものになるからだ、出ないときは出ないでいい、その方がムラが無くなる、もちろん、最後まで一気に書くべきものもいまだってよくあるけどね、今の俺は割と、均等に削られた円柱みたいなものを作りたいと思っているんだ、それが出来た時の満足感って、結構凄いんだよね、若い頃のように感情任せで、スピードの中で思いのままに言葉を並べるのも楽しいけどね、でも、それだけじゃ満足出来ないんだよな、なにしろ俺は貪欲だからね、いろんなものを求めてしまうのさ、そうして身に着けた様々なエッセンスは、後々ひとつの手段としてまとめられていく、別々に存在していた要素が同時に展開されるようになるのさ、その頃には俺はすっかりあれこれ試したことを忘れていて、ある日急にそういえばこんなことを前に徹底的にやってみたことがあると思い出すんだ、きっと、最初にとことん意識的にやってみることが大事なんだろうね、そうしてあとはそいつが身体に浸透して、分析されて、最適化されて、再び浮上してくるときを待つのさ、そんな風に自分が段階を踏んでいるんだということに気付いたのはつい最近のことだった、そう、ほんの少し、自分の文章を密度の濃いものにしたいと考えたのがきっかけだった、意識的になったんだ、不思議だよな、誰に教えを請うたわけでもないのに、勝手に始まって勝手にかたちを成していく、もしかしたら本当はこの俺もなにか巨大なものの道具のひとつに過ぎなくて、使い勝手を試されてるだけなのかもしれない、なんて考えることがあるよ、だけど、きっとそれだけじゃないんだって強く思える理由は、静かに、じわじわと高揚するものが確かに自分の中にあるからなんだろうな、どれだけの言葉を記して来ただろう、それはどれも同じようなものに見えるけれど、それぞれに違いがあり、いろいろな道へ好き勝手に飛んで行っては、ブーメランみたいに手元に戻って来る、帰って来ることを理解している、もしかしたらそれがテーマというものなのかもしれないな、飛んで行った時と帰って来た時ではほんの少し様子を変えているんだ、道の途中で色々なものを拾ってきたんだろうね、それは勝手に俺の中に潜り込んで、俺が使いやすいものへと形を変える、数週間後か数年後か、はっきりとはわからないけれど、ある日それは突然また俺の手のひらへと現れて、違う意味を持ちたがる、ずっとその繰り返しだ、いつか俺の言葉は、俺にしか理解出来ないものになる、もしかしたらもうなり始めているのかもしれない、その時俺は初めて、そこそこ満足するものが出来たと感じるんだろうな、でもさ、これは正解があるものではない、ゴールが定められているものでもない、俺は生きるだけ生きて、続きを探し続ける、陳腐な言葉で言えば終わりなき旅ってやつさ、どこに行こうとしているかわからない旅が一番楽しいんだ、そうは思わないか?


それだけじゃ片付かない何かの為に

2024-12-15 15:58:12 | 

夢を見ながらなにかを叫んでいたような気がする、喉の痛みが冬のせいなのか夢のせいなのかわからなかった、ベッドに腰をかけて夢の続きを探していた、そんなものはどこにも無いのだと気付けるほどにはまだ目は覚めていなかった、眠っている間のほうが不思議なほどに生々しい時がある、自分はすでに棺桶の中で、生きていた頃の夢を見ているのではないかと思うくらいに―いつだってなにかからはぐれている、全貌を知ることすら出来ない巨大な流れ、そこに近付いたり離れたりしながら、結構長い時間を生きて来た、一時期は何もしなくなった頃もあったけれど、どうにかこうにか乗り継いできた、命を更新してもいいと思える程度の人生ではあった、本当に欲しかったものがついに手の中に来たと思えるのあここ二、三年のことだ、それは要するに、スタイルの入口に来たということだ、俺は自分が何を欲しがっているのか知らなかった、自分が何を手に入れようとしているのか知ろうとしなかった、そんなことには何の意味も無いからだ、俺が欲しがっているのは、セオリーによって組み上げられる、様式美的な何かではなかった、しいて言うなら、自分なりの様式美を見つけることから始めていたのだ、スタイルを欲しがっていたわけではない、最終的に自分のスタイルと成り得る、自分自身の本流のようなものが欲しかった、そしてそれは、奔流でなければならなかった、それはわかっていた、スタイルの話じゃない、わかるね?最終的にはスタイルになる、でもスタイルそのものではない、それはただの結果でしかない、結果などには興味が無い、自分が結論を持っていると思っている人間は、結論を手にしたと思った時点で成長が止まっている、だってそうだろ、結論が出てしまったらあとは惰性で生きるだけだよ、どんな王冠も手にしていないくせに、何をひとかどの者みたいな口を聞いているんだ?俺は態度の為に書いているんじゃないぜ、ハハ、そんなことする暇があったら一行でも書いた方がいいからね、終わりが無くて正解が無いからこそ、死ぬまでこだわり続けるのに相応しい、これはもう何度も言っていることだけど、俺は、人生かけてたったひとつの詩を書いているつもりなんだ、俺の人生そのものが一篇の詩となって完結するのさ、まあ、本当にそうなるかどうかは神のみぞ知るって感じだけどね…もしかしたらボケちまったりするかもしれないから、なんせ俺の家族、みんな頭がおかしくなっちまって、普通に暮らしているのは最早俺だけなんだ、だからもしかしたら、俺もそういうことになるかもしれない、だけど俺、その線は越えないような気がしてるんだ、だってそうだろ、いかれちまったら何も書けなくなるじゃないか、俺は自分の中のそういう血みたいなものを感じていたから書き始めたのかもしれないなと思うこともままあるよ、まあ、何かまともじゃないなっていう自覚くらいはあったからね、でもさ、俺の基準は俺だけなんだよな、俺にしてみれば普通に生きてるつもりのやつらのほうがずっと狂っているように見えるよ、まあそんな話、いくらしてみたところでたいして意味がないんだけどね、俺の言ってることのほとんどを彼らは理解することが出来ないからね…生きるためのテーマを自分以外に求めている人間は嫌いなんだ、社会的価値をキープしさえすればあとはどうでもいいようなやつらさ、反吐が出るね―これは別にややこしい話じゃないぜ、好きか嫌いかってだけの話さ、ややこしい話をした方が勝ちみたいなゲームにはまるで興味が無いんだ、人間の価値なんて何が言えるかじゃない、そいつが何をして、何を残したのか、それだけのはずじゃないか、難しいものを簡単に書こうとし、簡単なものを難しくするような真似をしてなんになるんだ、シンプルに、それぞれの本分を尽くせばいい、俺は自分が一番シンプルだと思う方法をとっている、それは、すべてをありのままに投げ出すという方法さ、つまり、それを書いている時間のすべてをそのまま書きとるのさ、でもそんなもの書ききれるわけがない、だから、たった一篇の詩の為に人生を使うと言ったのさ、俺の数日はすべて記録されている、出来事や感情から抽出された、残るべきものは、すべてね、俺はそうして自己の内部をデフラグするんだ、整理して、見えやすくする、ハードディスクと違うのは、終始それをやり続けなければいけないところさ、なにしろ俺の電源は落ちることが無いからね、ちょっとでも隙があればすぐに余計なものを捻じ込んで来ようとするしね、そうだな、もしかしたら俺にとっての詩というものは、俺自身と日常と人格と本質の鬩ぎ合いなのかもしれないな、こんな風に考えたのは初めてだけれど、なるほど、こいつはとてもわかりやすくて、核心をついているような気がするよ、こんな風に、書きながらいろいろなことが霧の中から見えてくるのさ、思うに思考というものには、それに適した速度というものがあるんだな、エンジンと同じで、ある程度回さないと状態が良くならないんだ、出来るだけ早く、長くね…そうしないと不純物が混じってしまう、そして、効率が悪くなるんだ、熟考すればいいというものではない、日常の延長にあるリズムでは辿り着けない、深度と慎重さは決して比例しない、要は、自覚や認識が追いつかないくらいの速度の中で、ばら撒かれたものたちの感触を覚えるんだ、そいつらが少しずつ言葉になっていくことを、それをキャッチする瞬間を維持出来るような、そんなスピードを自分で見つけるんだよ、言葉は誰のオリジナルでもない、でもそこに込められた意味は、それぞれの思惑によってどんなものにでも姿を変えたりするんだ。


世迷言トゥルース

2024-12-10 22:07:48 | 

反故になった約束が呪いに変わり、天井の隅で焦げ付いたような臭いを放つ、だからなんだというのだ、と俺はひとりごちる、そんなこと別に珍しいことじゃないだろう、どうして誰しも、他人が自分の思い通りになるなんて考えるのか、俺に言わせればそんなものは甘えだ、線の引き方は信じないくらいでちょうどいい、善悪はたったひとりの基準では決まることが無い、少しの間ソファーに座り、自分の座標を確認する、羅針盤はまだ役に立つみたいだ、一昔前の道具は突然壊れたりしない、わからないのだ、誰もが、ただ便利なことだけを重宝し過ぎて、まあ、他人様のことなんてどうだっていいけどな、そばにあったピーナッツを齧る、インスタントコーヒーの粉をマグカップに投げ込んでポットの湯を注ぐ、目を覚まさなければならない、粉を追加する、馬鹿みたいに苦さを求めるのは幼さだ、それはわかってる、でも、そんなことにこだわらないとやってられないことだってあるさ、どれぐらい眠り続けたのか、部屋に時計もカレンダーも無いからすぐには確認出来なかった、携帯を見てみればいいのだが、そんなに急いで確認する気にもならなかった、どうせしばらく用事はなにもない、そんな日はほんの少し日常の時間軸をズレてみてもいい、面倒ごとなど特別起こることも無い、流れの外に出ることを覚えなければ、自分が正しく流れているかどうかも判断出来なくなるかもしれない、流れに乗っかるだけの盲目的な連中を見ていると本当にそう思う、いつだってこの街は反面教師には事欠かないんだ、コーヒーを飲む、熱いとわかっていて飲む、喉を焼くような温度じゃなければ、それを撫でていく蒸気を感じることは出来ない、俺はインスタントコーヒーにいたぶられている、別にマゾヒズムについて話すつもりはないが、自傷行為に近いものかもしれないと思うことはたまにある、たまにね、だけど、そんなことカテゴライズするほどのことでも無いじゃないか、俺はこれからも時々そうやってコーヒーを飲んでは軽い火傷を負うだろうし、変だなと考えることもあるだろう、でもそれはただそれだけのことなのさ、こんなちょっとした話をああだこうだとこねくり回しても出来上がるものはたかが知れてる、そういう間違いについては俺は多分人より詳しいんだ、俺のオリジナリティーはディティールだって思うこと、多々あるからね、そんな模索の中でそうした間違いをおかすことだってままある、学ぶこともあるし、学ばないときもある、だってさ、有意義なものだけで書かれたものが美しいのかっていったらまた違うだろう、建築と一緒でさ、無駄なものの方が得も言われぬ味を持っていたりするんだ、機能的な住宅とやらの味気無さ、俺たちみんなそのことを知っているはずじゃないか、コーヒーを飲んでしまうとしばらくぼーっとして、その日やることを考える、反故になった約束はしばらくざわつかせただけで気が済んだらしい、いつのまにか姿をくらましていたし、臭いも消えていた、そう、少しは、煩わしい思いだってする必要があるのさ、どんなに好きに生きて行こうとしてもね、そういうこともないとわからないこともある、望み通りのものだけで生きて行こうとするなら、早めに楽隠居するくらいしかすることはないさ、でもそんな人生にどんな意味があるっていうんだい、自分がどんな年寄りになるかなんて想像もつかないけど、少なくとも自分で動いて自分で考えられる人間のままでいたいとは思うね、若いうちから頭の使い方を忘れてる連中がワンサカいるような街で暮らしているとね、俺は生まれたときからずっと、反面教師に囲まれて育って来たようなものさ、会うヤツ会うヤツ、気に食わない人間ばかりだった、ああはなりたくない、こいつは嫌いだ、おかげで今では、地元民なのかどうか疑われる始末さ、とあるところじゃ、外人みたいだって言われたよ、あれについては心の中でどうもありがとうって言ったね、日本は好きだけど日本人は好きじゃないことが多いよ、惰性を美徳とするような場所で詩を書いて生きていると俺の方がまるで変人みたいになる、でもそれは俺みたいなヤツが少ないってだけのことなんだ、俺はそのことでやったともしまったとも思わないよ、だってそんなことどうでもいいことじゃないか、そもそも俺は俺しかいないわけだしね、俺は他のやつらとは違うぜ、なんて、そういうんじゃないんだ、これはただ、現実としてそういうことがある、という程度の話に過ぎないんだよ、何の用事も思いつかなかったので散歩でもすることにした、近くの繁華街を歩いて、本屋でも覗くのさ、本当はCDなんかも物色してみたいけれど、繁華街に唯一残っていたCDのショップもとうとう閉めてしまった、もう徒歩圏内にCDが買える店なんて残っちゃいないのさ、まったく嘆かわしい話だぜ、アンプにスピーカーを繋ぐことすら知らないようなのが、デジタルデータをブルートゥースイヤホンを耳に突っ込んで聞きかじってわかったような口をききやがる、そんなものは音楽なんかじゃない、彼らは自分でそれを選んだと思っているけど、実は掴まされてるだけなのさ、俺の言ってることを懐古主義の老人の戯言だと思うかい、まあどんな風に思ってもらってもいいけれど、でも、これだけは言っておきたい、全部がそういう言葉で片付けられると思ったら大間違いだ、紙とペンしかなかった、木を削って作った簡易的な楽器しかなかった、そんな時代から変わらずに受け継がれている真実というものは必ずあるんだよ、さて、じゃあそろそろ出かけるから、またな。