私の母は、小学校の保健室の先生です。養護教諭ともいいますね。
家業は旅館業なので、母は二足の草鞋を履き、大忙しの毎日です。
きのう帰宅したら、いつものようにお客さんの食事の片づけをしている母の様子が、とても嬉しそうでした。
「なにかいいことあったの?」と私が聞くよりも先に、どんどん喋りはじめました。
31年間前、母の初任地の小学校で出会った生徒から、31年ぶりに連絡があったの♪という。
当時はほとんどいなかった、不登校気味の保健室登校状態の女の子で、声も体も細くてか弱い女の子だったそうです。
ちょうど母が転勤する時期で、「いつか遊びにおいで」と我が家の住所を書いた紙を手渡して、それっきりになっていたそうです。
心のどこかではずーっと気になっていたけど、と。
まさか、相手も覚えているなんてねぇ、と。
その女の子は、いまは立派な教師になって、さらには渡米してカリフォルニアの学校で働いていたそうです。
その彼女が、たまたま仙台に用事があって帰国していて、勾当台公園で開催されていた宮城県内の物産市に立ち寄りました。
そこで見つけた和菓子屋さんで、「栗駒名物」と書かれたお菓子を見たとたんに、母のことを思い出したんだそうです。
見ず知らずの店員さんに「じつは、栗駒に私の恩師がいて、住所は忘れてしまったのですが、菅原旅館というところにお嫁さんにいった方なんですけど、ご存知ないですか?」と聞いたそうです。
その和菓子さんが、我が家の遠い親戚で、我が家から100数メートルのご近所さんだったことが、思いがけない再会を結んでくれました。
我が家の連絡先を確かめた、(元)教え子の(元)女の子は、弾んだ声でゆうべ母に電話をくれました。
先生のことは忘れたことはなかった、と話していたそうです。
人間ひとりの31年という時間には、本当に数え切れないくらいの出会いや出来事が途切れずに繰り返されていくのですが、記憶に残る仕事をしている母はすごいな、と心から思いました。
ふたりでエビスビールで乾杯してからも、母はずっと繰り返していました。
よかったなぁ~、ほんとうによかったなぁ~。
まさか31年ぶりにねぇ~。
昔の声とは全然違ってたなぁ~。
カリフォルニアで、先生だってよぉ~。
元気でよかったなぁ~。
彼女がかけてくれた電話によって、私の母はここしばらくなかったくらいの元気を取り戻し、私にもその喜びを分けてくれました。
保健室の先生というのは、クラス担任になることはなく、長く勤めて管理職になるような、華々しい魅力はありません。
でも母の姿を見ていると、教室では見られないような子どもの様子を見ていたり、担任していないけど教え子の結婚式に招待されたりと、子どもたちとの距離が近い役割でもあるんだな、と感じます。
気付いてみれば私も似たようなことを仕事でやっていたりする。
いまやっていることが、何年か後になってから花咲くこともあるのかも、と背中を押された気分です。
本日の写真は、私が受け継いだ母の味・菅原家名物の『がんづき』