ふざん<書道WEB>

書道は漢字文化から発生した東洋の文明=哲学文化遺産であり、芸術=ARTよりも奥が深い。(2014.2.13記載)

会陽の花

2016-02-24 14:09:49 | 短編小説

           短編小説「会陽の花」          吉田日出子 著       


  西の湯の離れ座敷で小夜は木偶の坊のように突っ立って、叔母の清子のされるがままに身を任せていた。清子は手際よく小夜の胸高に巻き終った晒しの端をはさみ込み、あらわな首筋から肩のあたりが少しでも隠れるようにと小夜の髪を広げたり撫で付けたりした。けれどむきだしの肩先は隠しようもなく、とうとう清子はフーッと溜め息をついて小夜の髪をふんわりと背中で束ねてやった。
 「小夜ちゃん、綺麗よ」
  清子は小夜のまわりを回って眺めた。そして晒しの裾を引っ張り一歩下がってまた眺めた。前から横から後ろから、晒しを巻いた小夜の半裸な姿をうっとりと見つめて
「やっぱり紅を入れとこうね」一人合点してコンパクトを開いた。頬紅をつけると小夜の顔はパッと明るく輝きを増した。

 「おーい。支度は出来たんか。消防の人に裏木戸へ回ってもらうよう言うたがな」
  母屋から続く廊下を通って、主の耕助が大声で話しながらずかずかと座敷へ入ってきた。
 「どう、お人形さんみたいでしょう」得意顔で清子は言った。
 「おっ! べっぴんさんじゃ。こりゃ男共がほっとかんぞ」
 「まあ、へんなこと言わんで。その為に消防の人が付いてくれるんでしょうが」
 「そういうこと、そういうこと」
 「でも何だか外へ出すのが勿体のうて。嫁にやる親の心境かな」
 「何をごちゃごちゃ言うとる。我家からこんな綺麗な観音さんが出るんじゃ。今年は福がたくさん頂けるで! 小夜ちゃん、頼むよ」
  小夜は晒し姿に戸惑いながら表情をかたくしてうなずいた。
  離れの端に内湯があって、風呂の洗い場から直ぐに小庭へ出られるようになっている。洗い場の取っ手を開けて一歩外へ出ると敷石は足袋を通してじいんと冷たかった。全身に鳥肌が立ち緊張で身体がこわばって立ちすくんだ。思わず小夜は頭の鉢巻に手をやった。同行二人と鉢巻の裏に母の加代が書いてくれている。後ろでかたく結んだ鉢巻にすがりつきたい気持ちである。小夜は胸元をかばうようにして手を合わせ、意を決して清子の後から木戸の方へ向った。
 「よろしくお願いします」
  裏木戸で待っている消防団の人達に清子はていねいに頭を下げた。
 「大事な姪っ子じゃ。一遍回っても充分願いは聞いてもらえるじゃろう。事故のないように気をつけてやってください」
  耕助が横から言葉を添えた。
 「なんとこりゃ、若こうて初々しい……生きた観音様じゃ」
 「責任重大じゃ、張り切って行こうや。今年はおかげが沢山あるぞ」
  四人の消防団の人達に守られて、小夜を中心にした一団は西の湯を出て観音院の参道を通り抜けた。
  ピッピッ! ピッピッ! 笛の音で、提灯を持って先導する消防団員に気付くと参拝客は急いで両側へ寄り小夜達の為に道を開けてくれた。
           

  通称観音院とは高野山真言宗別格本山の寺院で、金陵山西大寺のことである。中国観音霊場の第一番札所でもあり会陽(裸祭り)は今日まで勇壮に脈々と寺院に伝わる伝統行事なのだ。旧暦の一月十四日に行われる会陽は金陵山西大寺の修正会の行事であって、この日は女湯も男湯も会陽に出る男達の為に無料で開放されている。町内のどの銭湯も裸衆に開放するのだが、西の湯は観音院の仁王門から三百メートルばかり下がった所で代々続いている銭湯であり、観音院に近いこともあって利用が多く毎年混雑していた。銭湯で冷えた体を温めて、まわしを締め直した男達はワッショイ、ワッショイの掛け声を上げて三々五々集まり大人数の裸の群れになり仁王門から境内へ繰り込む。こり取り場で身を清め境内をワッショイ、ワッショイと威勢よく練り歩き宝木投下の時は本堂の大床へ上って本押しをする。午前零時を過ぎた頃明かりが全部消され一瞬無言の闇の中、本堂の御福窓から陰陽一対の宝木が投下される。裸の渦が幾重にもでき、流れて広がり新しい渦が再びできて絡まり合う。
  会陽は裸の男達が福男になろうと宝木争奪戦をくりひろげる雄大な祭りであるが、元来宗教的な行事であるから誰が出てもかまわない。男女や年令の制限はない。だから女性も会陽に出て祈願する。裸の集団は半裸の女の人が近づくと道を開けて通す。祭りに参加する時のルールがいつの間にか自然に人々の中で出来上がっていた。

 「お参りの時は、ただひたすら南無大師遍照金剛と言うてお勤めしたらええ。一心にお大師さんをお唱えしたら寒さも忘れ人の目も気にならん。お大師さんが一緒についてくれとるんじゃから」
  同行二人。母の加代の言葉を思い浮かべ、小夜は先へ行く消防団の人が持っている提灯の明かりをしっかり見すえて手を合わせ「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」と弘法大師の名を口の中でくり返した。警護役である消防団員に導かれ小走りに順路を回る。
 「ピッピッ! ピッピッ!」 先達の鳴らす笛の音で人々が道を開けてくれる。男衆が出る時間はもっと遅い。仁王門から境内に入り、こり取り場で身を清める。
  本堂に上って本尊千手観音様を拝み牛玉所大権現にお参りして、本堂の裏手を通って四本柱の中をくぐり抜ける。再び、こり取り場へ出て合掌、このコースを何回も回って願をかける。 境内に参拝に来た人々や会陽の見物客は垣根を作って小夜達の一団が通るのを見送り、中には彼女に手を合わせ拝む人もいた。
            

  小夜の家は柳町で箱屋を営んでいた。岡山駅がすぐそこである。市内を流れる西川沿いに商家が軒を連ねて立ち並んでいる。川べりは柳や桜の並木道で風情があり芸者衆のいる色街も目と鼻の先にあって、行き交う人々はどことなく華やいでいた。
  本家は南方で畳屋をしていて伯父夫婦が跡を継いでいる。伯父はかっちりとした仕事のできる畳職人で、その腕を買われて店は結構繁盛していた。伯父の弟にあたる小夜の父は線香やロウソクを扱う問屋へ奉公に出ていた。
 「兄弟が同じ仕事をしとったら商売が左前になった時は共倒れになってしまう。別々の仕事でお互い様に助け合う方がええ」
  若くて後家になった祖母は、幼子二人を抱え職人を使って畳屋を切り盛りしてきた気丈者である。祖母は、商売を通して知り合った茶屋町のい草農家の娘である加代を見込んで二男の嫁に迎えた。加代夫婦は畳屋の隣へ分家してもらってロウソク屋をはじめた。
 「嫁ぎ先がロウソク屋と聞いて蚊取り線香を思い出したんよ。原料の除虫菊は因島でいっぱい咲いとる。白いかわいい花じゃ。い草よりええなあと思うた」と加代が嫁いだ頃の話を小夜に聞かせたことがある。
 「線香やロウソクを入れる箱も作っとったんよ。形や大きさをいろいろ考えとる内に箱作りの方が本業よりおもしろうなってしもうてな。仕上げに綺麗な紙を工夫して張ったりするのが楽しいんよ。そしたらお菓子屋さんが化粧箱を注文してくれるようになって、とうとう箱屋になってしもうた」
  小夜は若い頃の両親が箱作りに夢中になって試作品の出来具合を語り合う姿を想像してほのぼのとした気分になった。
 「おばあちゃん、どう言うた? 怒ったじゃろう」
 「いいや怒るどころか、好きな事をして商いができるのは有難いことじゃ。南方の家は隠居家にすると言うてくれたんよ」
 「それで柳町へ引越したん?」
 「そう。おばあちゃんが箱屋は街中の方が商売しやすいじゃろうと賛成してくれたから。うれしかったわ」

  昭和二十年(1945年)太平洋戦争の戦況は悪化し敵機の来襲による爆撃の不安は深刻になっていた。小夜が九才の時である。
  六月二十二日、ついに米軍機B29が水島に来襲し三菱重工業水島航空製作所の建物などを爆破した。
 「加代、小夜を連れて茶屋町の様子を見てこい。水島はやられて大打撃じゃそうな。茶屋町はどうもないと思うが、当分い草の手伝いがてら泊まらしてもらえ。岡山もいつ空襲されるかも知れん」
  父はそう言って妻と娘を送り出した。父の片腕となって商売に励んでいた小夜の兄は、父と共に柳町の家に残った。
  加代の実家は水島にほど近い倉敷茶屋町にある。この辺りは畳表に使うい草を栽培する農家が多い地域である。い草は1.6メートル程にも成長する。七月初めに夜露に濡れたい草を刈り取って、その日の内に泥染めを行う。い草の艶やかな青さを保つためである。
  夜明け前に鎌で刈り取り泥田に漬け込んで道路脇へ並べて乾燥させる。茎の長い水分を多量に含んだ重い束を持ち上げたり運んだりするのは並大抵なことではない。
 「い草の『おやっちょ』は根性のある筋金入りの働き者じゃ」と言われるほど屈強の男達でさえ過酷な重労働だ。い草を刈り取る二~三週間、泊り込みで手伝いに来てくれる人を『おやっちょ』と呼んでいる。おやっちょは近隣の人も四国方面から来る人もいる。
  水島の爆撃から一週間後、六月二十九日午前二時頃岡山市が空襲を受けた。爆音を消して侵入してきたB29の大編隊に全く気付かず、警戒警報も空襲警報も発令されない状況で市街地ほとんど全域に火災が発生した。寝耳に水の市民は夜空を焦す焔に追われ逃げ惑うばかりだった。
 「岡山が空襲じゃ」茶屋町でも人々が騒然としていた。小夜達は飛び起きて、庭から夜空を見上げると東の空が真っ赤になっていた。岡山の東南に位置する西大寺には加代の妹清子が嫁いでいる。嫁ぎ先の西の湯の二階から見ると岡山方面は花火のようにシューシューと焼夷弾が落ち、山ぎわ一面紅に染まって、まるで仕掛け花火をしているようだったと後に清子は話していた。背中におんぶしていた拓也が手足をばたつかせキャッキャッとよろこんで歓声をあげているのが何とも哀しかったとも言った。
 「まだ一才だもの。訳がわからんの。うちの拓也みたいな子も焼け死んだんね。あつかったろうね」
  清子は我身におきかえて涙ぐみ空襲の夜のことを話していた。
                        


  小夜は南無大師遍照金剛とひたすら唱えながらこり取り場へ入る。
 「あつかったろうね。つらかったろうね。この世に二度とこんな生き地獄がありませんように」
  こり取り場の中央の石で造った噴水の出る観音像に手を合わせると両眼から熱い涙がこぼれ落ちる。水の冷たさや寒さは不思議と感じなかった。水ごりを取り再び本堂の方へ向かう。こり取り場へ集っている見物の人達は寒そうに身を縮ませて小夜を見ていた。付近では合掌誦経している老人がいる。


  空襲の翌日、やっと岡山へ帰った小夜達は一瞬にして焼け野原になった市街地に言葉もなく茫然として立ちすくんでしまった。父や兄はどこなんだろう。柳町の箱屋はすっかり灰になっている。商売道具も家財も跡形もない。紙を扱う商いだったのだから全部きれいさっぱりと燃え尽きたのだろうか。焼け野原にくすぶった煙が立ちのぼり、ごろごろと転がっている黒焦げは人か物かわからない。胸のつぶれる想いで目をおおうばかりの惨状である。
 「手を離したらいけん。しっかり握っとくんよ。小夜、目をつぶって。見ん方がええ。はよ行こう!」
  あまりの残酷な光景から逃げるように二人は本家の畳屋へ急いだ。伯父一家と隠居して別宅に住む祖母のいる南方、この一角だけは奇跡的に焦土を免れていた。

  終戦から数年後、加代と小夜の母子は南方の祖母の家に身を寄せている。加代は年と共に身体の不自由な姑の世話をしながら、二階に岡山大学の学生を下宿させている。隣に夫の兄夫婦もいてよくしてくれるし、日常の雑用で忙しいけれど平穏な毎日が過ぎていた。
  秋口になってから勝子さんが加代を訪ねてきた。勝子さんは茶屋町の幼馴染みである。勝子さんと加代と妹の清子は仲良しでよく遊んでいた。家も近所で同じい草農家。ござやむしろなどを入れてある納屋は隠れる所が多くて隠れん坊の遊びに格好の場所だった。
 「勝子さんは器用なあ。どの花ござも模様が綺麗。わたし等のとは比べ物にならん」
  年頃になると娘達は織機でい草を畳表に織り上げる。織機の扱いが勝子さんは上手だ。色とりどりに織り上げられた花ござを加代と清子は感心していつも見とれていた。宗三郎さんは四国の丸亀から勝子さんの家へ毎年おやっちょに来ていた人で二人は周りの知らぬ間に好い仲になり子どもまで出来てしまった。あわてて勝子さんの家では宗三郎さんを娘の婿養子にした。
 「実はな加代ちゃん、わたし西大寺の会陽に出ようと思うんよ」
 「勝子さんが? 何を祈願するの? 宗さんのこと?」
 「ええ」とうなずいた勝子さんは                
「知っての通り宗さんは働き者じゃろ。い草の暇な時は百姓家におやっちょに行くし、い草の植え付けの合間をみては『牡蠣打ち』にも出かける。丸亀へ帰った時は家業の大工仕事を手伝って本当にじっとしとれん人だったんよ。働きすぎね。足腰たたんようになってしもうて。使い痛みよね」と言葉を続けた。
 「寝付いてからもう四年。来年は五年目じゃ。夫婦になってから宗さんには大事にしてもろうとるし世話するのは当たり前のことと思うて苦にもならん。けど……」
 「けど、何なん」
 「下の世話やら私らに手間を掛けるのがすまんらしゅうて」
 「宗さん、ようできとる人じゃからなぁ」
  加代は実直な宗三郎の気持ちを思いやって相づちを打った。
 「会陽に出て水ごりを取った晒しでおしめを縫おうと思うたんよ。宗さんを大切に思うとるのが分かってほしいし、観音さんが守ってくれとると思やぁ、宗さんの気も休まるんじゃないかと思うて」
 「来年出るんじゃったら暮から水をかぶって体を鍛えんといけんなぁ。勝子さん、えらいなぁ」
 「西大寺へ連絡とってくれんかしら。清子さんじゃったら万事段取りしてくれると思うんよ。今日はこの事を頼みに来たんよ」
 「清子もな、西の湯に嫁いでから長いこと子どもができなんだろ。拓也ができた時は大喜びじゃ。耕助さんは五ヶ月の腹帯に間に合うと言うて安産を祈願して会陽に出たがな。その時のまわしを清子は腹帯にして巻いたんよ。おかげで拓也は元気すぎる子じゃ」
  加代は笑いながら勝子さんを見た。
 「会陽も祭りじゃもん。悲愴な気持ちで水ごりとるより楽しゅうせにぁ。清子さんにもよろしく伝えてね」
 「清子に知らせてみるわ。ええ心掛けじゃもん。それまで勝子さん、体をこわさんようにしてよ」
                                        

  勝子さんが茶屋町へ帰って少し経ってから加代は小夜に言った。
 「わたしも勝子さんと連れになって会陽に出るわ。おばあちゃんの病気快復と家内安全。お父さんとお兄ちゃんの成仏もお願いせんとなあ。おばあちゃんも気に病んどんよ」
 岡山空襲で家も焼け、父も兄も行方不明になったとき祖母は
「柳町なんかにやるんじゃなかった。箱屋なんかするから他所よりひどう焼けてしもうて何にも残っとらん。むごいことじゃ」
と半狂乱のようになって嘆き悲しんだ。
 「お義母さん、ごめんよう。わたしらだけ茶屋町へ行って……」
 「何言うとん。あんたらだけでも助かって感謝せんと。夫や息子を亡くしてしもうたのは加代さんも同じ。辛い気持ちはよう分かる」
  しっかり者の祖母は生きて後に残った者を責めては道理に逆らう、皆がいたわり合って暮さにゃと言った。戦争に対する悔恨の気持ちはいっぱいあるだろうけれど、加代や小夜に対して愚痴ったりなじったりしたことはない。しかし小夜には、時折祖母が針仕事の手を休めて物差しで長机をバシバシッと叩いたり襖をピシャッと閉めたりする音で、やり場のないうっぷんを晴らしているように思えた。
 「あんなに総出で西川をさらえて捜しても二人とも見つからなんだし、観音さんにお願いしてお父さんもお兄ちゃんも成仏さしてもらわんと。空襲なんて二度とごめんじゃ」
  加代は胸のつかえを吐き出すように言う。勝子さんと連れ立って加代は来年の会陽に出ようとすっかりその気になっていた。
  いよいよ新年を迎えて、勝子さんから会陽に出るのを楽しみにしているとの年賀状が届いた。けれどあいにく加代の方は年末から風邪気味で体調がすぐれない。とても会陽に出るどころではなかった。
 「お母さん、来年わたしが会陽に出ようか。もう十八になるし、お母さんの名代ということで水ごりを取って、お父さんやお兄ちゃんの供養をきちんとせんと。生きとる者は申し訳ないがな」
 「小夜のような若い娘が……」
 「大丈夫よ。消防の人が付いてくれるし、まあちょっと恥ずかしいけど。お母さんは疲れたらすぐに熱を出す体質じゃから。いつまで経っても会陽には出れんよ」
  加代には娘の小夜が急に大人びて見えた。


  小夜は消防団員に見守られ、こり取り場から本堂、牛玉所、四本柱をくぐって再びこり取り場へと足早に走った。水面に立つ観音様の石像に手を合わせ祈った。                             
 「お父さん、お兄ちゃん、どうぞ成仏してください。この世に生まれた人はどんな人でも役割があるという。まだその役割を果さん間に死んでしまうなんて。お父さんやお兄ちゃんばかりじゃない。空襲にあって命を落した他の人も、戦争で死んでしまった人み~んな心残りと思います」
  水の中で手を合わせ一心不乱に祈る小夜の姿を月が皓々と照らしている。
 『小夜、ようきてくれたなあ。成仏するよ。みんなと仲良うして可愛がってもらえ。人の気持ちになって考えられるようになれよ。空襲で死んだもんより生き残ったもんの方が悲しかろうな。そんな悲しみをこれから二度と絶対に味わわんように世渡りするのが小夜の勤めじゃ』
 「どうぞ安らかにして下さい。毎日がよい日になるよう気をつけます」小夜の思いつく言葉で祈った。
 『みんなが平和なことを大切に思うて穏やかな世の中になったら戦争で犠牲になった人々もこの世に生まれた役割があったんかも知れん。淋しいことじゃけどな』
  月光は冴え渡り、夜の闇をすみずみまで明るくしてくれた。凛として静寂。下界を超越して天上の月は寒空にたゞ清々しかった。
 「お父さん! お兄ちゃん!」
 『小夜、ようきてくれたなあ。ありがとう』見上げた観音様の顔は父にも兄にも見えて微笑んでいるように思えた。
  小夜も笑みを浮かべ観音像の周りをひと回りして水から上った。外気が肌を突き刺し寒さで奥歯がカチカチとなった。微笑んだ小夜の顔は引きつっていたかも知れない。そう思うと恥ずかしさで胸の鼓動が高まり身体が小刻みにふるえた。気をゆるめたらいけん!
  奥歯をかみしめて両手に力をこめて手のひらを合わせ本堂へ参拝して牛玉所に詣で、四本柱から仁王門へ向った。参道は大勢の人であふれている。ピッピッー、ピッピッーと雑踏の中で大きく笛が鳴ると人波が左右に分かれ小夜達の一団を通してくれた。
  向うからワッショイ、ワッショイと一番乗りらしい裸の一群が景気よく繰り出してくる。裸の男達は堤灯を認めると肩を組んだまま道の片側へ寄り、足踏みをして小夜達の通り過ぎるのを待ってくれている。小夜は寒さで小刻みに動く肩の震えを少しでも抑えようと身体を硬くして力を入れた。水に濡れた晒しが肌にはりついている。ひざまで巻いた晒しの裾に水がたまってぽたぽたと落ちた。小夜は気を引き締めて転ばないよう小走りで参拝客の間を通り抜けた。
 「あっ、小夜ちゃん!」      
  人込みの中から呼びかけられたような気がする。小夜は奥歯をかみしめ手を合わせたまま無表情で行き過ぎた。
  西の湯の裏木戸へ行く曲がり角まで来ると、迎えに出ていた清子が小夜の冷えた体を毛布で包んでくれた。
 「お世話になりました。熱いお茶でも飲んで行ってください」
 「娘さんの方こそ、ごくろうさん。ぬくうして休まれよう」
  突然表の方から喧嘩じゃ喧嘩じゃという声が聞こえてきた。挨拶もそこそこに消防団員の人達は参道へ引き返して行った。
 「冷えてしもうて寒かろう。中へ入ろうね」
  清子は内湯の戸を開けて小夜を洗い場へ上げ、小庭から内湯の中の小夜に口数多く声をかけた。
 「晒しは洗い場の隅に置いといてよ。ぬるま湯ぐらいでゆっくり温まってから、湯を熱うしてな。いきなり熱い湯を出して火傷せんように。髪も洗ってね。ええ気持ちになって風呂の中で寝たらいけんよ。脱衣場で待っとくからな。困ったことがあったら言うてよ」
  まるで清子自身が水ごりを取ってきたような気分になっている。
              

  のんびりと湯ぶねにつかって小夜はやっと人心地がついた。窓から見える月が美しい。お父さんもお兄ちゃんも、小夜よう来てくれたなぁ安心せぇと言ってくれた。お母さんもおばあちゃんも喜んでくれると思う。それにしても帰りの参道で小夜ちゃんと声をかけてくれたのは誰だろう?
 「田上さん」口を衝いて出た名前に、頬をぽっと赤らめた。田上さんは小夜の家に下宿している学生である。近くにある岡山大学の教育学部で美術を専攻している。県北の湯原の出身で、はにかんだ様子で話しかける優しい人だ。田上さんだったら湯原温泉から来た人だから温泉客は見馴れているはず、小夜の晒し姿に驚くことはないだろうと思った。
  下宿している学生は三人で田上さんの他に大崎さんと松本さんが居る。大崎さんと松本さんは二人とも山陰の松江出身で法文学部の先輩と後輩である。大崎さんは絵を観るのが好きで、田上さんと馬が合うようだ。よく揃って倉敷の大原美術館へ出かけている。時々松本さんも誘われていた。
  小夜の家は食事が朝晩二食付きの下宿屋で毎日の賄いに忙しい。学生さん達は食事に降りて来た時でも、先刻の話の続きをしようと美の快楽だとか法の極限だとか、尤もらしく悦に入って喋っている。ご飯を食べながら大声で言いたい放題に自画自賛するものだから、家の中は騒々しいけれど活気があっておもしろい。若い元気な声に祖母も下宿屋が嫌ではないらしい。
  去年の夏頃、田上さんが最新のニュースだと言って大崎さんと松本さんに西大寺の会陽のことを話していた。アメリカの『ライフ』という雑誌の四月号に会陽の写真が載っていたというのだ。外国では宝木の奪い合いがダンテの『神曲』に例えられているとか言っていた。田上さんは二人に詳しく話していたが小夜にはあまり解からなかった。ただ田上さんが絵になるなぁと言っていたのを覚えている。この話は気にも留めていなかったのだが今思い出した。田上さんは会陽見物に来たのかしら。大崎さんと松本さんも一緒だったかもしれない。唇が紫色になって震えている晒し姿の小夜を見て三人はどう思っただろう? あの声はきっと田上さんだったと思う。
               

 「小夜ちゃん、お腹が空いたでしょう。たくさん食べてよ」
  座敷の机の上にはご馳走が並んでいる。きつね寿し、お煮しめ、白魚の卵とじの澄まし汁。会陽の時の定番料理だ。
 「白魚のおつゆ、美味しいわねぇ」
  薄く醤油で味付けされた汁が胃の中にやさしく染み渡っていく。
 「美味しいじゃろう。白魚は九幡の四つ手網ですくうたんよ。会陽の頃が一番たくさんとれて味もええし何杯でもおかわりしてよ」
  清子は小夜が美味しそうに食べるのを見て喜んだ。
 「小夜ちゃん、ご苦労さん。消防の人がよう頑張ったなあと褒めてくれとったよ。西の湯には観音様がおると評判じゃ」
  耕助が入ってきて、上機嫌で小夜をねぎらった。
 「喧嘩はどうだったん?」
 「それよ。西の湯をちょっと行った所で五、六人の裸の群れにチンピラが襲いかかってボカボカと素手で殴りつけて逃げたらしい。手を出したのは三人ほどじゃ。いきなり後ろから飛び掛かってきたんでどうしようもない。相手は小者よ、粋がっての悪ふざけじゃ」
 「まあ、怪我はなかったん」清子は眉をひそめた。
 「素膚をやられたんじゃから痛かったろう。血は出とらんけど赤こう腫れとった。風呂へ入って出直しせられぇ言うたら湯につかって元気に繰り出しとった。やれやれじゃ」
 「ほんまになぁ。小夜ちゃんが何ともなくてよかったわ。女の人が会陽に出ても周りの人の節度がなくなったらお仕舞よ」
 「あんな不心得者が居るから心配なんじゃ。大事にならんでよかった。小夜ちゃんゆっくりくつろいでな」
  耕助は表の方へ見回りに行った。
 「おばさん、おじさんと番台を代わらんでええの」
 「今日は小夜ちゃんが一番大事なお客さん。表はおじさんに任せとけばええ。わたしは小夜ちゃんとお茶を飲むのが仕事なんよ」
  小夜は笑って大きなきつね寿しを口一杯に頬張った。こってりと甘い油揚げが母の加代の味付けと同じだなと思った。
 「去年、西の湯からは勝子さんを入れて三人だったけど今年は小夜ちゃん一人だったね。これからは会陽に出る女の人も、だんだん少のうなるじゃろうなあ」
  清子はお茶を一口飲んで
「宗さんは相変わらずのようね。変わりないのが何よりよ。勝子さんところは相思相愛の仲じぁから幸せと思わんと」
  と一人で納得している。
 「それはそうと小夜ちゃんはどうなん? 好きな人がいるの。二階の学生さんなんか年頃もぴったりでお似合いじゃない」
  勝子さんから小夜の方に話が向けられて小夜はあわてた。
 「そんなんないわ。小夜ちゃん小夜ちゃんと声をかけてくれるけど、あの人等のお嫁さんはどっか他の所へ居るじゃろ」
  本気で否定したけれど、田上さんの顔が浮かんできて思わず目を伏せてしまった。清子はからかい半分の言葉が小夜の娘心を傷つけたかも知れないと思って、急いでその場を言い繕った。
 「冗談冗談。小夜ちゃんのお兄さんみたいなもんね。きつね寿しをお重に詰めとくから、おみやげに持って帰ってね。学生さんにも食べてもらってよ」
 「おばさん、いろいろありがとう。明日一番の軽便で帰ります」
 「もう宝木が投下された頃よなぁ。宝木はどこへいったかしら」
  清子は表の方を気にしはじめた。間もなくドヤドヤという足音やワーッという喚声が聞こえてきた。ワッショイ、ワッショイと掛け声をかけ宝木をやりすごした裸の一群が西の湯へ戻ってきた。ここで体を温め着替えをするのだ。外は大勢の見物客が帰途について、ぞろぞろと人波は果てしなく続いている。田上さんや大崎さん、松本さんも群衆の中にいるだろうか。ダンテの『神曲』に例えられた宝木の争奪戦は田上さんの心の中でどんな絵になっただろう。明日、田上さんと顔を合わせたら知らん顔をしとこうかな。でも聞かれたら嘘はいけないな。表の喧噪は次第に遠くなっていく。

  会陽が終わると備前平野に春が来るといわれている。寒さも今夜あたりが峠だろう。

                                        ~終~
                                        



 



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