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daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

トライ(8)

2014年10月07日 | 詩篇
                 

八世紀ごろのシェヘラザードの物語に登場し、旧約にも登場するソロモン王はBC千年頃の人だが、その古い文化は旧約圏からイスラム圏にまで広まっていたと分かる。キリストより400年ほど前に生きたソクラテスはギリシャ・アテナイの市民だが、旧約の歴史から観るときは内庭を挟むお向かい同士。そうするとインド・中国も指呼の間‥なるほど、各国の哲学が似ても不思議はない。

釈迦国に起った仏教には対話主義を引き継いだ歴史がうかがえる。対話は互いの智恵・知識を共有し・高めあう。キリストが遺そうとした対話路線、それを仏教のみが必要と認識したのはどういう訳だろうか。嫡子は権威を引継いでも庶子は権威を引き継ぐことを認められない文化は中国・朝鮮・日本に観られる東洋の思想の傾向だろうか‥そんなことが想われる。

日本・韓国に観られる長男の弟妹に対する権威的な言動は引継ぐ権威を守ろうとするところに生れると考えると理解は一気に進みそうで、ナルホドそれなら庶子は身一つで出世していくしかないという理屈も生れるだろう。同様に旧約の正統が新約を起したならそれは権威主義に堕しても寧ろ当然といえて「信徒は黙って神官に随え」の権威主義になっていくだろう。

ともあれ、新約を振りかざす人たちは対話せず権威的であるなら私の認識で合っている訳であり、事実は私が証言するまでもなくあなたはあなたの責任で判定することができる。キリストがラビに疑問をぶつけたように私は私で新約に対する疑問をぶつけて、それに対してゾンビに似た言動をくり返すならキリストを迫害した者の末裔に違いない。

我が友・キリストを護ろうとするか食い物にするか、私は仏教徒であるが言論の自由・対話主義・人権主義を採るもの同士として、同じスタンスに立つキリストの周囲を見守っていきたい。なにせキリストは私生児であり、庶民であり、私は庶民であり、エリートでないキリストの同類の私に違いない。釈迦は王族であるが私もキリストも庶民という貴重な事実。

あなたがエリートの出自であってもエリート意識をかなぐり捨てた瞬間に庶民の仲間・民衆になれる気安さが庶民の持ち味であり、学歴が高いから民衆になれないなどという姑息さの持合せは庶民・民衆にはない訳です。そういう姑息さは民衆に馴染まず、仮にもあなたが姑息さを隠し持つならすでに覇権主義の思想に染まった出来損ない・不良品なのです。

いやいや、この「トライ」は散文詩八回まで無事にたどり着きました。詩篇には必ず目的があり・ロマンがあると思っているが、この「トライ」に目的・ロマンは感じられるだろうか? 仏教の証言者には雪山童子もいれば維摩詰もいて、しかし私が周梨槃特(すりはんどく)に誰よりも親しみを感じるのは彼の存在が庶民の私の幸せを保障するからだと思っているのです。(トライ・完)


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