daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

小林一茶ってさあ

2014年10月17日 | 俳人 - 鑑賞
            

一茶の句は他の人の句とは一風変わってるよね
正岡子規は一茶の句を滑稽・諷刺・慈愛だと特徴づけたんだ
滑稽とか風刺は川柳に突出した特徴だとも言えそうだけどね
それを確かめるため一茶の代表的ともいえる有名な句を観た

①雀の子そこのけそこのけお馬が通る
②我ときて遊べや親のない雀
③やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
④これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺


①~④のどの句にあなたは滑稽とか風刺を感じるだろうか?
慈愛なら私は④以外の①~③に感じる。それで思った
子規は滑稽や風刺だと想ってもそれは普遍的な感覚ではない。

雀の子にお馬が通ってあぶないからよけなさいと教える一茶、
その一茶の姿を滑稽と感じるか優しいって感じるか‥個人差か。
食べる物がなく住まいもなく飢えて凍えてる人を見てどう想う?
可哀相だと想う人がいるし、汚い・どっかへ消えろの人もいる。

風刺についてはどうだ?
④は風刺と捉える人もいるとは想うが、皆が皆そうではない。
風刺と採るばあい、批判されてるのは? 一茶か? 政治か?
批判してる一人は子規だろうけど、それは健康的感覚なのか?
つまり、正岡子規は俳句をつかって何かを批判する感覚なの?
まあ、一茶の俳句四句しか挙げてないから結論は出せないが‥

ともあれ、
一茶の作句姿勢に無理は感じられなく、道理に則った感覚だ。
それゆえ一茶のは俳句以外の何物でもないと結論づけておく。

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名句か否か?

2014年10月13日 | 俳人 - 鑑賞
             

句界の未来を案じて持論を述べるのは一向に構わないと思う。
実際、俳論を述べた文は多いが、俳句を鑑賞する文は少ない
私がこんなふうに想ってしまうのはどうしてだろうか‥?
以下、茶色文字は以前にモノした私の「俳句鑑賞」の文です。

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                 aruq 2009年11月10日(火) 23:16:48


☆ いくたびも雪の深さを尋ねけり   正岡子規

◎私は、この句に大きな疑問が感じられてならない。

1) いくたびも雪の深さを尋ねた人物は、誰でしょうか?
2) 深さを尋ねた雪は、果たして何処の雪でしょうか?
3) 深さを尋ねた雪は、いつごろ降った雪でしょうか?

正岡子規の高弟たちはこの点をどのように説明しているのでしょうか?
高浜虚子・河東碧梧桐ほかの多くの弟子たちはどう解釈したのか?
東大の教授でもある弟子・夏目漱石や寺田寅彦はどう述べたのか?

詠んだのは明治29年暮れごろではないかと考えられているようです。
正岡子規は病の床で・窓の外に降る雪を見ながら詠んだのでしょう。
病床で詠んだことを証明する資料に「病中雪(三句)」とあるようです。
・いくたびも雪の深さを尋ねけり     子規
・雪の家に寐て居ると思ふ許りにて   子規
・障子明けよ上野の雪を一目見ん    子規

それでも、この句に詠み込まれた雪が病床で見た雪とは言えない。
私には「子規が昔を思い出して詠んだ」かも知れないと考えられる。

子供のころですけど、大雪が降って大騒ぎしたことがあります。
どのぐらい降った?沢山積もった?滑れる?…しつこく尋ねました。
朝になったら早速、雪を集めて山を作りました。もちろん、滑るため 。
私たちは板をソリ代りにしたり、スキー板代りにして滑って遊びました。

降る雪を見て、子規はそんな昔を思い出して重ねていたのでしょうか。
それなら、子規の子供の頃、故郷に降った雪を詠ったのかも知れない。

もう一つ、私が疑問に思うのは「雪の深さ」です。
「雪に深さ」があるとするなら、その雪でスキーを滑るのも可能になる。
「雪に深さ」がなければ「雪の厚み」とでも表現するのではないだろうか?
当時、子規が療養していた室で見た雪は滑れるほど積ったのだろうか?

☆ いくたびも雪の深さを尋ねけり   子規

もしも、この句に詠った雪が病床で見た窓の外の雪だとしたら、
この句は「駄句」以外のナニモノでもないのではないだろうか?
「私は何回も積雪の深さを尋ねました」では、なんとも詰らない。

そんな駄句は子規の日記に残しておく程度の意味・価値しかない。
報告俳句は個人の日記に記録として残すのは構わないでしょう。
だが、駄句を子規の代表作の一つとして俳句史に遺して好いだろうか?
子規の句を高弟・東大教授たちが駄句扱いしたと考えて好いだろうか?

★駄句に見える子規の句だが、実は駄句ではないのではないか?


☆ いくたびも雪の深さを尋ねけり   子規

即ち、この句の正しい読み方は別にあるのではないだろうか。

◆昔、(私は)何回も雪の積もり具合を尋ねたっけなあ…。
◆昔、(兄さんたちと)雪の積もり具合を尋ねたもんだなぁ…。
◆思えば、(子供たちは)雪の積るのを何回も尋ねてたことだなあ…。

このように読んだとき、私たちは病床の子規の束縛から解放される。
この句を子規に則して読むのでなく、私たちの自由に読めるのです。
俳句は自由に読んで構わない、いや、自由に読まなければならない。
読み手の立場での自由な解釈がなされるのでなければ、詩ではない。

降る雪を見ながら、かつての出来ごとに思いを馳せた子規なのです。
私たち各自の「降る雪への想い・記憶」を引き出して味わって良い。

即ち、
雪がどのくらい積ったかと気になり、何遍も尋ねたことがあったなあ!

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「これは名句だ」とか「巧く出来ている」とか、評論・俳文もいいが、
その評論で俳句作りを始めた初心者・新人さんに何を伝えるお積りか?
色々とお忙しいのは分かるが、ドヤ顔で評論して済ませてはいないか?
他人の句に一時間も掛ける暇はないなら、暇つぶしに読んでいるんだ。
そりゃあ、もっともらしい文章を書いて突っ込まれたくはないだろう。

それにしても自分の俳句鑑賞文を批判されないための警戒心は必要か?
ドラマも小説も絵画もシビアに評論され・評論に耐えるのではないか?
俳句界だけがどうして時代遅れなんだ‥疑問に想ったことはないのか?
いやいや、私は俳人がどうのと言っているのではありません。
出版関係が身内で固めて安泰を図っているのではないか‥と言いたい。

俳句関係の出版業界よ、だれにゴマを擦っているのですか?
無名の私でさえも鑑賞文を書いて発表している‥況してやあなた方は?
句界の近代化は有季・無季とか自由律・定型とかで図れる物ではない。
それなのに近代化を語るとき鑑賞文の一つも載せられない実状・事情、
鑑賞文こそガンガン突っ込まれて好いじゃないか…と私は思うのだが。


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モダンhaiku(4)

2014年10月12日 | 俳人 - 鑑賞
              

細見綾子氏の俳句は好きだし真似られるものなら真似たい。
ところがそうはいかないのだが、悔しくもない‥な~でか?
ピカソの絵は‥児戯に見えて、だけど真似られないでしょ?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    
             aruq 2009年11月15日(日) 11:03:16

  そら豆はまことに青き味したり   細見綾子氏

えんどう豆も枝豆も青くさいけど、そら豆はもっと青くさい。
分厚い甘皮は小父さんの顔のようで、可愛くないイメージ。
私はそんなそら豆の青い味がとっても苦手な子供だった。
それに私は、そら豆の甘納豆にまだ出合ったことがない。

そんなそら豆を嬉しそうに炊く母が恨めしく・不思議だった。
大人になったら意識しなくなる青さに気づくのは子供の時。
作者がそら豆を好きか苦手か、この句からは分からない。
但し、そら豆をつよく意識したらしいことは確かなようです。

この句、そら豆を一句一章仕立てで・只ただ写生している。
それだけの句ですけど、そら豆の強烈な印象を思い出す。
どこがどう好いのか、説明のしようがない細見綾子・俳句。
目撃した事実「そのまま」を淡々と詠っている細見綾子氏。

彼女の優れた点はきっと・驚きを発見する眼なのでしょう。
誰でも知っているけど忘れていた記憶を呼び覚ます俳句。
そうなんだ・そうだった・確かにそう、みんなが共感する句。
豆に好き嫌いはあっても、だけど共感する場ができている。

この細見氏に傾倒しているのが甘納豆の坪内念典氏です。
哲学も論理も感じられない俳句作りの両者の共通点は何?
共感する場の提供が、両者の喜びだと言えないでしょうか。
そしてその喜びの根源に両者の哲学・思想が見えそうです。

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普通「それがどうしたの?」となる所だが、そうならない、
この句は説明してるだけでしょう‥だけど何か違うでしょ、
感性の違いを見せつけられては見惚れるしかないでしょう。


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モダンhaiku(3)

2014年10月08日 | 俳人 - 鑑賞
             

ひぇえええぇぇぇぇ~ \(◎o◎)/!
こんな感じの句が時に世に現わる。短歌だと俵万智さんかな。
坪内稔典氏‥‥自由律? 男性? 女性? 年齢は?

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        最終更新: aruq 2009年11月11日(水) 20:17:56

  三月の甘納豆のうふふふふ    坪内稔典氏

いったい全体、これは何なんだと言いたくなるような俳句。
この句には哲学もなにも有ったもんじゃないと言いたい程。
三月といえば雛あられが思い浮びますけど、甘納豆ですか?
甘納豆がどうして三月なんだって、頭を悩ましてしまいます。
けど、私は甘納豆が大好きだから、とにかく赦せる気がする。
それなら、この甘納豆の句をほめる言い訳を見つけなきゃ…。

甘納豆にする豆は大豆や南京豆以外は何でも好いのだろうか。
炊いて軟らかくしなきゃいけないし、甘いほうが好いのです。
小豆・いんげん豆・うずら豆・とうろく豆・とら豆・金時豆。
そんな甘納豆は美味しいから女の子は文句を付けないだろう。
坪内稔典氏も甘納豆が大好きに違いないから、もしか謀略か?
ひな祭りにオカキも好いけど、甘納豆を食べたいに違いない。

三月は卒業や転勤の別れがある悲しいシーズンでもあります。
悲しみを癒すには何時でも何処でも食べられる甘納豆が好い。
贈って嬉し・贈られてもっと嬉しの甘いあまい甘納豆が好い。
しかもその甘納豆のおこぼれを作者も貰えるかも知れません。
その甘いあま~い期待も捨てがたい魅力に思えてきませんか。
これは作者・坪内稔典氏の周辺を徹底的に調査すべきと思う。

作者の体型は既に甘納豆になっているのではないだろうか。


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この句に窺える作者像は若くなく、ま~るいお腹がまろびそう、
ジャンルは私のなかで「モダンhaiku」だけど、なんだかなあ‥
モダンhaikuはイメージ的に女性のものみたいに思ってますから
しかし、この甘納豆の作者は男性だろうし…と考えた

俳句やってる殿方はどちらかというとこの手の句を詠まないよね
俳句やってる奥方はというとやっぱりこの手の句を詠まないから
いやいや、本音をいうとこの手の句を詠む女性は増えて欲しい私
きっと、自由奔放な女性が俳句界を羽ばたく羽になる気がして‥

俳句界のきついシバリを断ち切ってくれそうな期待感も窺えそう


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客観写生ってさあ

2014年10月07日 | 俳人 - 鑑賞
                

みんな分ってるのかなあ‥!?

余計なお世話と思ったら飛ばしてくださって構わないけどね
俳句を始めた人が誤解したら俳句出来なくなっちゃうでしょ?

あなたの弟子かも知れないけど、俳句界が寂れたらイヤだから
それでね新人さんが俳句を続けやすいように教えてあげてね?

景色を観て「客観写生しなさい」って指導で良いのかなあ‥
それどう考えてもオカシイでしょう? そうは思えませんか?

例えば花火見て感動するでしょう?
感動は客観的に感動するの? そんな馬鹿な感動はないだろ?

スゴイとか、キレイとか、ビックリしたあとか、
これ全部あなたの感動なワケなんだよね。

(主観的)感動を俳句に詠うんだよ、
主観的な感動を無視してしまったら、何を詠みたいの?

それなのに馬鹿の一つ覚えみたいに「客観写生だー」?
そんなこと言ったら新人さんに正しく伝わらないじゃないか


私のやり方を書いとくね、参考にならないか知れないけど。
他人の詠んだ句を読むと好いよ。それが客観写生だからね。

他人の句なんて誰が読んでやるもんか…だと駄目なの。
他人の句だから客観写生しなきゃ意味が分らない。

名句はいっぱい有るじゃないか!?
それを間違っても構わないから説明するのです。

それこそ一人一人で解釈は異なる。
その異なる沢山の解釈が客観なんだよ。

雷・稲光‥恐い・光った・凄い音・近い・落ちた‥いろいろ
色んな人が色んな観方をするから、客観的は一つじゃないよ。

新人さんを迷わさないようにお願いします。みんなごめんね。


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今は幸せですか?

2014年10月07日 | 俳人 - 鑑賞
             

自分の以前の書込みだけど結構シビアなのが多いな‥
そんなこと思いながらももっと厳しいこと書いたりしている私、
私は有言実行の人だから言えば責任が伴なう訳で
自分を追い込んでそして自分を励ましている感じもあるかな?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
aruq 2009年11月12日(木) 15:51:02

☆ まつすぐな道でさみしい   種田山頭火

飾り気のない・真っ直ぐな道は寂しいでしょう。
寂しいだけではなくて、遠く感じられもします。
ここを歩くなら、夜のほうが気が紛れるだろう。
動物は本能的に曲がりくねって歩きたいだろう。

意味は通っているし、意義のある内容でもある。
社会や自然を見る種田山頭火の視点は正確です。
それでは次の短詩形の格言をどう思われますか?

★ 可愛い子には旅をさせよ。
★ 子供の喧嘩に親が出る。
★ 棚から牡丹餅。
★ 酒は百薬の長。
★ 盗人に追い銭。

・どちらも、口ずさみやすいフレーズであろう。
・どちらも、真理をついたフレーズと言えよう。

そして、相違点の現時点での私の分析であるが、
格言は人の暮らしの役に立つのを本分とするし、
子供でも覚えやすいフレーズに作られているが、
山頭火の句は人の役に立つことを目的にしない。

結局、山頭火の句は格言の一部分と言えそうだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


山頭火のフレーズも詩篇の中でなら役立つにちがいない
折角なら山頭火に役立つ途を考えてあげたい私、
そうでなければ私は人でなしになってしまう気がする
苦しんでいる人を見て「愉しんでますか」は酷いだろ?

山頭火の句碑は数百あるらしいが生前の碑は一か所のみ?
つまり死んでから噂は広まって人気者になったのか
絵画は死ななければ値段は吊り上がらないと言うらしい
死んでくれたらアリガトウの気分になるとしたら酷い話
それで今、元気で生きようやと人に囲まれてるだろうか?
俳句は元気に生きて・元気に詠みたいものです

気の毒な気持ちばかりの私には山頭火が幸せに想えない。


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モダンhaiku(2)

2014年10月06日 | 俳人 - 鑑賞
             
5年ほど前の記事、面白かったので貼りつけます。

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        更新: aruq aruq 2009年11月22日(日) 10:39:11

 ☆ 約款の文難しき金魚かな  武田和代氏
親しい友人とこんな俳句を作って遊ぶのも楽しいものかも知れません。
俳句は17文字の文学、ゆえに無駄を極力、そぎ落とすことになります。
それでも今や、世界中に広がる勢いで季語も言葉も縁語も増えている。

和歌を嗜んだ雅な人たちが「縁語」に強かったのは当然ですけれど、
ましてや、17文字しか使えない俳句は縁語を生かさなければならない。
即ち、俳句は頭脳を鍛え・柔軟にしていかなければならない文学です。

さて、タイトルの句を読んだ俳人たちの頭脳はグルグル働き始めます。
約款って何のこと? 文って? 難しい? 金魚? 切れ字は? 季節は?
俳句ってそんなにヤヤコシイのか?いろいろ不審に思われる・あなた!

そりゃあ、あなた!
考える習慣なんかつけず、大学を卒業する人はいっぱいいらっしゃる。
詩人は文学、建築、医学、商、絵画、あるゆるジャンルを勉強します。
これからの日本はどの方向に進んだら国民のためになるだろうかとか、
いや、人類が地球と共に生きる方途は?などと頭脳は回りに回ります。
生きてるうちに脳は使いましょう。ふふふ。

…と長々と書きましたが、これ位の前置きは読んでいただけなければ、
この俳句の意味は解けません。
俳句は、意味も読み解くヒントも全て、その俳句に隠されています。
よそから持って来たりは致しません。親切でしょう?

約款の縁語、、すぐに思いつくのが「契約書」でしょう。
金魚の縁語、、びろうな思い出しかたで結構です。はい、金魚の糞。
難しい勉強は鬱陶しいでしょう?約款も金魚の糞も鬱陶しいのです。

契約に付きものの「約款」の鬱陶しいこと…役に立つとも思えないのにヤヤコシイ文で書かれています。
しかも無視する訳に参りません。それって、金魚の糞そのものじゃありませんか。
こねくり回した文、いや、糞。それを引きずってるのは契約書も金魚も同じこと。

けど、こんな俳句をつくった武田和代さんって、どんな脳ミソなんでしょう。
女性俳人恐るべし、侮るなかれ…と、本人がいなければ好き放題を申します。


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この句も遊びのツモリで戴いたものです。(ご本人ではありません‥)
五七五の17文字にこれだけ多くの情報を詰込めるのは有季定型歴史かな遣いならではの持ち味・特技でしょうね。
同じ分量の情報を現代口語文体で書こうとしたら少なく見積もっても原稿用紙が必要ですからね、それでご紹介したくて‥ \(◎o◎)/


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ちるさくら海あをければ海へちる

2014年10月05日 | 俳人 - 鑑賞
           

他者が詠んだ句を鑑賞するのが大好きな私は何時間も掛けて一句を愉しむことは珍しくありませんが、この句もそんななかの一つです。茶文字は私の過去の書込みです。
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                  aruq 2009年11月19日(木) 21:00:13

☆ ちるさくら海あをければ海へちる   高屋窓秋氏

高屋窓秋氏が心を込めて詠んだ俳句、どう読んだら良いでしょうか。
花びらにウツツを抜かしていてはならないと考える人は多いと思う。
すなわち、その考え方は人間として果して正しいと言えるだろうか?

(一往)
花びらがハラハラ舞って、青い海に散っていくのが見えるでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

花弁は、青い海を壁紙に持ってくることで際立って見えるに違いない。
この「ちるさくら海」の句の場合、誰がどんな照明を当てただろうか。
この句は世の脚光を浴びているし、世間的には不満のあろう筈はない。

☆ちるさくら海あをければ海へちる     高屋窓秋氏

ところで「上五」と「中七下五」で違和感を感じるのは何故だろうか。
上五の「ちるさくら」が居心地の悪さに喘いでいるように感じられる。
宇宙の采配は「散る桜」に青い海を選ばせることは決して有り得ない。

「上五」は宇宙の采配だが「中七下五」には人為的な強引さが窺える。
宇宙の采配を超えた人為的力=暴力をこの句が受入れたように見える。
しかし、上五「ちる」が人為的力の結果であれば、バランスは取れる。
しかもこの訳にして、高屋窓秋氏が云わんとした所を外れないのです。

(再往)
海の青に執着する心は、花弁が青い海に落ちるのを欲っするでしょう。

海風が桜に吹く時、作者は「違う違う、そっちじゃない」と呟いたか。
陸風が桜に吹く時、作者は「好し好し、もっと吹け」とでも頷いたか。
そのうち、陸風に合せて桜の枝を揺すって桜を散らせたのだろうか。
人為的に散らされた花びらは、青い海へと散らされて舞い降ったろう。
結局、この句を正確に読もうとするならば、次ぎのようになるのです。

(句意)
作者が散らせる花弁は、作者が望む青い海へ向って散っていく筈です。

花びらは花びらとしての、生を生き・役目を終えて、生を全うします。
それが世界の・宇宙の・大生命の意思に適った生き方であろうと思う。

私たちは私たちの立場で懸命に生き・役目を全うし・次の生へと向う。
現在の生を全うしてこそ、満足して枯れ果てることが出来るでしょう。
誰かの犠牲になって嬉しいのでなく、己の役目を全うしてこそ嬉しい。

何かを・誰かを迎える使命に立つときは懸命に迎えるのが好いのです。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この句への不信感は他でもない私の内部で溢れでたものに違いない
不信感の初めは不公平とか不平等に囚われたところにあるだろうし
その不快な想いは当人が意識するとかしないとかに係わらず噴出し
て周囲をも混乱に巻き込む事態は多いのではないだろうか。それゆ
えに私は不信感に振り回されないよう常日頃から気をつけている。

長い物には巻かれろ式に暮らす人は多いがそれが良いことだと当人
も思っている訳でなく、しかしそのような不満は善い意見として皆
で集約し生かさなければ不信感はやがて憎しみなどの感情に変るだ
ろう。それで仕返しされそうにない弱者や社会に腹いせしたり・ヘ
イトスピーチしたりしたところで根本の解決策にならず燻り続ける。

その救いようのない輪廻そのものを正さなければ社会に根付く不信
感はなくならないと思うからこの句のマイナス面に同調しないが不
満をぶつけて腹いせしたい気持ちは分かる。同時にこの手の腹いせ
に乗せられた人の不信感は煽られてどんどん脹らむから可哀相でな
らない。小集団であってもリーダーたる者は心しなければならない。

句意 : 好いように振り回された民衆は犍陀多の後について蜘蛛の
糸を登ろうとする群のようにドボンと嵌るのである。

こう理解したなら、この句は社会に害悪を為していることを説明で
きるのであるが、ともあれ高屋窓秋氏にもこの句が及ぼす害につい
ては分らなかったのだろう。誹謗しているだけでは駄目ですが皮肉
って良くなる訳もなく、皮肉るほどに悪い結果になるからそれこそ
皮肉なものというしかなくて当人も感化された人もともに不幸です。


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ふりかへりだあれもゐない秋の暮

2014年10月04日 | 俳人 - 鑑賞
          

この句を観て佳句の条件は何だろうか‥そんなことを思います。
すなわち、この句を佳句と云わずしてなんとしよう。
して、その心は? \(◎o◎)/!

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                 aruq aruq 2009年11月11日(水) 22:14:20

 ふりかへりだあれもゐない秋の暮   草間時彦氏

秋の暮…多くの人が、とかく物思いにふける時期かも知れません。
恋患い?仕事関係も?家族関係とか?将来の事とか?体調不安?
具体的に後ろを振返ってみる? 人生の来し方を振返ってみる?
あなたがこの句を「読んだ」場合には、如何なるのでしょうか?

マラソンで後ろを振り返ってみると、誰もいないって事はある。
後ろの人を引き離したのか、自分がどん尻になってしまったか?
マラソンなら自分の凡その位置は具体的に見えるものでしょう。
具体的に見えるマラソンなら、いっそう頑張るか諦めるかです。

それなら、私たちの人生についてはどう判断してるでしょうか?
私たちは見えている積りで喜んだり・愚痴ったりかも知れない。
なんにも努力せず・ほめられて横着な態度を取るなら傲慢です。
弱気になり自分から希望を失くし、敗残者になるなら愚かです。

ウサギの親子がキツネから逃れ・洞穴に隠れる時、どうするか?
子ウサギを穴に隠れさせた後で、親ウサギは穴に潜るでしょう。
後ろに子ウサギが残っていないのを確かめ・安心して穴に潜る。
後ろにキツネがいないのを確かめて、親ウサギは隠れるのです。

後ろに誰もいないからって、ガッカリして・落胆するだろうか。
後ろに誰もいないからって、安心すると決まっているだろうか。
その場の状況を正しく判断できてこそ、安心もガッカリもする。
即ち、人生という長丁場において一喜一憂するのは愚かである。

それで、自然を写生したとき、自然物は落胆しているだろうか。
私は、自然のどこにも落胆する要素はないと思っているのです。
自然が悲観的に見えるならそれは悲観的に見る人に原因がある。
兎を食べようとする狐でも、兎が見つからない事を愚痴らない。

予測する能力に秀でた人間は半歩先の獲物の不在を嘆きたがる。
明日を予測する人間は半歩先を嘆かず、希望に燃えるでしょう。
春を待って眠る熊や虫たちは自然に逆らわず・賢く生きている。
春を待って体を鍛え・心を富ます人間は頼もしく生きています。

☆ ふりかへりだあれもゐない秋の暮

俳句は詠み手が作るものですけど、読み方は読み手の自由です。
読み方が悪ければ秀句・佳句でも駄句として読んでしまいます。
読み方が良ければ駄句であっても佳句として読むことができる。
そう考えると、良い読み方と悪い読み方があると言えそうです。

俳句を読んで希望を失い・元気をなくす読み方は間違っている。
俳句を読んで己や他の誰かを憎むなら、読み方を間違えている。
俳句を読むなら朗々と力強く・元気が出るように読むべきです。
明日も頑張ろう・人を正していこう・人を勇気づけるのが良い。

希望を失くしたり・人を憎む者は他者の幸せを祈れるだろうか?
不幸な人間は己をもっと不幸に追い込み、他者をも呪うだろう。
不幸な人は不幸の渦を起こし広めて、周りも渦に巻込むだろう。
嘆きの波紋は家族・友人・知人へと広がりを見せていくのです。

それゆえに素敵な詩(俳句)は希望をベースに生まれるのです。
そして希望から生まれた詩(俳句)でさえも、歪んで読まれる。
即ち、詩(俳句)は「詠み方」よりも「読み方」が大事になる。
読み方しだいで佳句が駄句になり、駄句が佳句・秀句にもなる。

☆ ふりかへりだあれもゐない秋の暮

誰もいない今こそチャンスだ。しかも絶好の秋の暮じゃないか。
いつでも・素敵な読み方をしていきたいと思っているのですよ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この句の素晴しさ‥それは私にも分かる素晴しさだからですよ。
しかもこの句の素晴しさはこの私でも言葉を以って説明できた。
言葉で説明不能な素晴しさなら、どうして人の役に立つだろう。
お分かりだろうか‥分りやすい俳句、私は中々作れないのです(T_T)


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ジョニーは戦場へ行った

2014年10月04日 | 俳人 - 鑑賞
         

私の5年前のこの記事、イマイチだと思った
俳句は詠み手と読み手のコラボレーションなのに読みが甘い
今日は丁度、ジョニーに触れたところだったから付足します。
(なお、aruqは以前に使用した私の別ハン)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
           aruq 2009年11月15日(日) 22:56:51


 紅い椿白い椿と落ちにけり  河東碧梧桐


これは河東碧梧桐の代表作とされている俳句のようです。
それにしても、このフレーズをあなたは理解できますか?
そのまま読めば、紅い椿の花と白い椿の花が咲いている。
それで、赤い椿の花がポトリと落ちたということらしい。
それに続いて、白い椿の花がポトリと落ちたのでしょう。

さて、事情を知らない読み手には何のことやら分らない。
真面目な読み手は真剣に「椿」って何だろうって考える。
ともかく、取っ掛りはいっぱい有るけど確信が持てない。
紅い?白い?落ちるって?これは判じ文じゃないのか…。
否々、判じ文にも成っていない文字の羅列でしかない…。

そう考えたとき、こんなフレーズを詩と言えるだろうか。
これを詩というならば、詩の定義を先に述べるべきです。
これを俳句というならば、俳句の定義を述べるべきです。
定義を述べられず「俳句」というなら恥知らずな輩かな。

因みに、若き寺田虎彦の目には赤白の激しい炎に見えた。
赤白の炎に見えたのは好いが、その説に説得力はあるか。
革命の炎が打ち上がり、赤い炎が落ち、白い炎が落ちた。
赤と白の差は何か。碧梧桐に関するモノか、違うモノか。

フレーズを見た視聴者にTVスイッチを入れさせる為の、
この番組は面白そうだなと思わせるだけが目的のコピー。
このフレーズがテレビ番組の集客用のコピー文なら好い。
中身のない番組にコピー文で視聴率をあげる魂胆も許す。

だがそれが俳句だというなら、なんと下らないのだろう。

俳人・詩人は、言葉の力を利用する者か、悪用する者か?
文壇が、反動思想の巣窟と目される根拠は何でしょうか?
この句「紅い椿」が平和を目指さなければ混乱を招こう。
この句に男性は「戦争」更に「戦勝」を想像し勝ちです。

戦場に咲く一輪の花のイメージはドラマチックでしょう。
戦場に咲いた花であっても「紅い椿」には何の罪もない。
その「紅い椿」を好きな人は多いし、それは理解できる。
だけどもう一歩深く踏み込んで考えてみたいと思います。

戦場に椿を植えたり・兵隊を送り込んだのは誰でしょう。
もちろん、それが誰であれ・椿や兵隊に罪はありません。
戦場に咲く花・戦場に散る兵隊…人間って哀しい生き物。
人も花も戦争に関わりなく生きられたら好いのでしょう。

戦争は人間を分類する…否、憎しみは人間を分類します。
人間を分類する方法は結局、つぎのどちら寄りが良いか。

■人間を「味方・傍観者・敵」に分類していく思想。
未来を見ず・人間を敵にして・家族をないがしろにする。

■人間を「同志・傍観者・敵」に分類させない思想。
今日を辛抱し・未来を見て・人間の味方になろうとする。

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赤い椿と白い椿は時間差はあっても両者ともに落ちた
両者ともに‥これを見落としては反戦思想にならない
いやいや、まだまだな私だと反省しきり。

戦場へ送られる兵隊は赤も白も悲惨な目に遭う人たち
戦争責任者は敵だというがそうじゃない‥同じ人間だ
同じ人間を殺しに行けという政府があるなら‥邪悪だ

総理大臣がなぜ日本にいるのだ。絶対オカシイだろう?
戦争になるかも知れなければ世界行脚に行くべきだろ?
戦争をしないためにニコニコ外交で年中行くべきだろ?

訪問先の国で暗殺される外交を総理大臣はしないだろ?
平和外交がイヤな総理大臣は軍備増強を考えるのだろ?
日本はジョニーを生まない政治が好いのじゃないかな。

直前の私の記事ジョニー、
ジョニー繋がりでチト激しい文章になったかな(^◇^)


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モダンhaiku(1)

2014年10月04日 | 俳人 - 鑑賞
モダンと云うか、お洒落と云うか、以前に知った俳句をご紹介します
aruqは以前に使用した私の別ハンです

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aruq 2009年11月23日(月) 16:00:17

 鍵しまふ抽斗すこし開けて秋    岡本眸さん

この俳句、うっかりしたら・句の意味を取り違えてしまいそうです。
「言葉遊び」の俳句ですけれど・駄洒落でなく、句意もまた美しい。

この句に見られるように、女流俳人は美を尊ぶから・私は好きです。
目に美しく・耳に聞き触り良く・口に転がして気持ち好いのが良い。
さらに、その句に深い意味が含まれていれば、言うことはもう無い。

さて、
漫画ばっかり読んで育ったからといって、それは悪いことじゃない。
けど、日本の文化は漫画だけが全てではないと知らなきゃいけない。
つまり、漫画以外の文化を否定・拒絶する姿勢は正しくありません。

☆ 鍵しまふ抽斗すこし開けて秋

読みかた : 鍵(けん)し舞ふ.

この句、普段使われない言葉が入ってますけど、間違いでしょうか。
自分が理解できない句は間違い?そんな可笑しな理屈は変でしょう。
この句に使われた言葉は全て日本語で、しかも、美しい標準語です。

正統の俳句は日本文化の結晶といっても、言い過ぎではないのです。
今の世間は美しい日本語が失われ、人を罵る汚い言葉が蔓延してる。
仮にも俳句詠みが人を罵る目的で句を語るのを私は絶対に認めない。


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大王膳

2014年09月28日 | 俳人 - 鑑賞
ごあいさつ

ブログタイトル‘dai O zen’を“daiozen(大王膳)”に改めます
タイトル「大王膳」の意味 : 私たちの大地は大王膳に他ならない

あなたの家庭にルールがあり、食卓にはマナーがありますから
マナーを守れない人は食事を愉しむことは決してできないでしょう
大王膳には大王膳のマナーがあって、人々はマナーを守っています
マナーはそこに集った人々が食卓を愉しむための必須事項であって
大王膳に着いているかぎりマナーを守って愉しむのが良いようです
そういった私の想いをブログのタイトルに込めております

このブログは無礼講をヨシとしますからお気楽にお過ごしください
ありがとうございました。


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鶏頭の十四五本もありぬべし

2014年09月27日 | 俳人 - 鑑賞

俳句を語るときに無くてはならないのが正岡子規だ
それにしても子規ほど多作した俳人は少ないのではないか
それなのに子規の句が私の記憶に残っていないのは何故か
そういえば子規の句を読みたいと思ったことはなかった
いやいや、子規ファン面々には実に申し訳ないことだが
全国数千万の子規ファンの逆鱗に触れるのを覚悟で言おう

多作多捨は駄目なのでないか?
もちろん、生涯に五点ほどの傑作を遺したい私は別です
俳句の師匠の気概を示すなら年間12点の名句は欲しかろ?
もしか12点が達せられない原因は多作にあるのでないか?

子規のこの「貴重な? 希少な?」鶏頭の句は名句か?
と恐ろしいことを言ってみる。アセアセアセアセ…೮೮೮೮೮೮೮ (';')

あなたの「この句は良いから良いんだ」も好いけれど
どう好いのか言葉で説明できる人、それが詩人だと思う私。
詩人が言葉に依らず「KY」だ‥は悲しかろ?

十四五本もありぬべし‥十四五はあるに違いない
あるいは「当然あるようにしなければならない」‥だよね。

それで何があるって言いたいの?
いやいや、私がそんなこと問い返す訳がありません。
それは誰かがです、虚子でもいい訳だけど、アセアセアセアセ
江戸っ子の巻き舌ならこうなるかなぁ‥
「どこにそんなもんあるってんだ、ざけんじゃねぇ‥」

経済観念のない子規、だからこそ事業家・虚子を指名した

ハテサテ、句意はそれで面白いかも知れないけれど
俳句に高尚さを求める意味はないかも知れないけれど
それで「詩心」はどうしたものでしょうかねい!?

え? なんの話? イエイエ そちら様に関係ないこってす、ハイ
いやいや、どなたももうお忘れくださいませ。(T_T)



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落椿投げて暖炉の火の上に

2014年09月25日 | 俳人 - 鑑賞
新婚早々の橋本多佳子は櫓山荘の女主人であり、
ここが北九州小倉の文化サロンの中心拠点と目されていた

櫓山荘に各界の名士が集っての俳句会が催されたが
そのとき、虚子が即興的に詠んで多佳子に贈った句がこれ

即興は居合い斬りのようで一刀のもとに斬ってすてるが
斬られた人はその見事な切れ味に斬られたことを感じない

いやいや、これは斬られた多佳子の負けにはならないなあ
斬り結ぶのなら互いに覚悟して抜刀しても、これは闇打ち

いやいや、男は勝取るために戦うのだから虚子を咎めない
斬られて好かった多佳子は程なく虚子の弟子になったのだ

落椿投げて暖炉の火の上に‥と背後から斬られて
斬られた者が「なんじゃね、それ」ではどうしようもない

立ち居・振る舞い・行儀・躾けは幼い時からの習慣です
多佳子は厳しく躾けられて育って、恥らいを知っている人

ブリブリ屁を扱いて平然とする九州男児はいくらもいるが
多佳子は家元の跡取りとして育った上品なお嬢さんなんだ

初対面の紳士らしき虚子にスキを見られてしまったら?
いやいや、現実はどうだったか私は責任を持たないけど‥

床に落ちた椿の花弁を摘みあげて何気にポイッ!
あ~ら、見てたわねぇ‥って、そんなワケないのだから

落ち椿投げて‥多佳子は落ち椿を投げ捨てた
そのようすを全て観られていてどうなっただろうか

落椿は暖炉の火の上で燃えて灰になるだろうけれど
多佳子は体の芯から火照ってカッカしてもう為されるまま

いやいや、俳句ってホント好いものですねい
だから愉しまなきゃ俳句じゃないってくらい想っていいね。






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去年今年貫く棒の如きもの

2014年09月25日 | 俳人 - 鑑賞
何を言いたいのか初めは意味が分らなかった
それが前回の文中で引用したこの高浜虚子の句だ
いかにも虚子らしいなんとも捉えどころのない句だ
何回も何回も口中で転がしているうちに味が出てきた
なんの変哲もない575だくらいに想ってる所にゴ~ン!
思いっきり体当たりを食らって吹っ飛ばされたような感じ

去年今年貫く‥去年から今年へ仕事も気持ちも切り替わる時
いやいや、虚子はそんな甘いことはちっとも考えてなかった
事業家の虚子だもの、お屠蘇で酔ってられる立場じゃないさ
綺麗なお弟子が挨拶に来たって好い気分になって酔えないさ
それがホトトギスを委ねて安心して旅立った子規の後継者だ
いつでもホトトギスの行く末を案じ考えてた虚子なんだなあ
その虚子の意思たるやどんなにシッカリしたものだったのか

棒の如きもの‥野球のバットほどじゃ大した音は出ないから
釣鐘を突く丸太ん棒みたいな太い太い棒でなきゃ音は出ない
日本中に響けとばかりに突く虚子の根性棒とでも言うべきか
もっとも根性棒といっても懐奥に仕舞ってて滅多に見せない
人目に触れさせるときは如何にもポトリと落ちる椿のような
いやいや、軽く見てたら宇宙の果てまでブッ飛ばされる訳だ
落椿投げて暖炉の火の上に」とヤラレた多佳子は敢えなく

落椿の佳さ‥多佳子には分ったとだけ書いておきたい。



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