伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

北斗七星はどこに。共産党地区委員会の要望提出の報を読んで

2020年10月23日 | 市政
 共産党を離れることで、党外からだが、党に関して自由にものをいえる立場になった。一介の支部党員だった時にはあまり考えなかったが、党員という内部の人間、ましてや専従活動家から党公認の市議会議員という立場だと余計に、自由に考えを表明することには民主集中制の関係もあって逡巡がある。政策に関して、ここまでの考えや表現は大丈夫かなどと、民主集中制との兼ね合いを計算しながら表現する。そんなことのl繰り返しだった。

 そんな私だが、共産党に対する願望として「北斗七星」という信頼を持っていたと思う。現代の政治において、自民党政治と対局にある政策的展望を示し、未来社会への希望を指し示す役割を持っているという信頼だ。

 共産党が「北斗七星」という信頼は、もともと哲学者の故鶴見俊輔氏が表現したものだ。戦前、侵略戦争に反対し非合法下に置かれても命を賭して節を曲げなかった。この共産党を「北斗七星」に例えた。北極星を不動の真理とすると、その北極星の位置を指し示すのが北斗七星。詳しくは知らないが、どんな困難のもとでも時流に流されず、生産力の発展に伴い人類社会が行き着かざるをえない「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る社会」共産主義社会をめざす立ち位置を堅持し、天皇という万能の権限とそのもとで進められた侵略戦争に命を賭して反対した共産党に絶対的信頼を寄せ讃えたのだろう。

 かつてその一員とだった私が、その役割を果たすことができたかどうかは分からない。
 しかし、その時々の問題で、立ち位置と政策を違えず、現状を踏まえた上でより正確な姿勢をとろうと悩んできたことは間違いない。

 しかし、報道を読んで、今や「北斗七星」としての共産党の存在は過去の話になったと思わざるをえない。

 22日の新聞は、共産党いわき・双葉地区委員会と共産党市議団が、国が今月末にも原発処理水の対応方針を国が決定する旨の報道を受けて、いわき市が国に放出反対を伝えるよう求めたと報じた。あわせて、処理水対応の早期方針決定に反対せよとも求めたともいう。

 この記事を読んで2つの疑問が湧く。1つは、要望内容に相矛盾するものを感じるということだ。

 いったい要望の内容はどのようなものだったのか。ネット検索をしてみた。結果、16日に行われた要望書を読むことが出来た。要望提出からほぼ1週間経っているわけだが、市はどのような対応をしたのか、あるいはするのか興味深い。

 どうしてそう思うかというと、要望した2項目が相矛盾する内容と思えるからだ。具体的に見てみよう。

 要望書は、前文で、政府の今月の方針決定の報を受けながら、漁業関係者等は放出に反対しており、トリチウム等の放出の影響は分かっていない上、倫理的にも問題があるとして、市が放出に反対することは関係者の努力に報いるとの趣旨を述べながら、
① 漁業者をはじめあらゆる産業をさらなる窮地に追い込む原発汚染水の海洋放出に対し、いわき市として断固反対の姿勢を明確にすること。
② 海洋放出を軸とした汚染水処分方針の早期決定に反対する申し入れを、国に緊急に行うこと。
と要望している。

 要望には違和感を覚える。1項で、「汚染水の海洋放出」に「断固反対」と言っている。ならば、2項に盛り込まれた「汚染水処分方針の早期決定に反対」は要望の必要がないと思える。海洋放出に「断固反対」なら、早期決定だろうが、ゆっくり決定だろうが、決定時期に関係がなく反対となる。従って2つの項目を要望する必要はない。

 では、2項はどうして要望に盛り込まれたのだろう。
 1項と違うことを表現したかったからに違いない。

 この2項の要望自体が分かりにくい。
 「海洋放出を軸とした汚染水処分方針」としている。
 「海洋放出を軸とした」の部分は新聞報道の文言だと思う。私は新聞記事を読んだ時に、政府小委員会が報告に盛り込んだ海洋放出と大気放出の2つのうち、国は海洋放出の方針を前提に進めていると捉えた。「軸」は「要」とか「中心」を意味する言葉だから、大気放出は望ましい処分方法のその他の方法にすぎない。そう考えながら記事を大胆に要約すれば、「海洋放出の処分方針」を決定しようとしていることになる。

 それにもかかわらず要望項目で「海洋放出を軸」の言葉を記事から引用したことには意味があるのだろう。
 「軸」という言葉は大気放出も絡んでいる表現なので、海洋でも大気でも、とにかく環境放出全般に反対と読んでもらえることを期待したと考えて良いと思う。環境に放出せずに、タンクなどの自然環境と隔絶された形で保管をしろと望んでいることを示す。言い換えれば〝陸上保管の継続〟で良いかもしれない。

 とすれば、2項の内容は1項「海洋放出」に「断固反対」と意味はがほとんど変わらないことになる。2項はなくても1項に「大気放出」という文言も入れて、「海洋放出や大気放出など環境に放出する処分方法」に「断固反対」、あるいは「陸上保管を継続」と書けばいいだけということになる。

 どうして2つの要望項目にしたことには、どんな理由があるのだろうか。

 加えて2項は、方針の「早期決定に反対」と「早期」をあえて入れている。「早期」を入れることで、「早期」でなければ良いという読み方が出来るようになった。つまり、共産党としては、海洋放出等の環境放出の方針であっても、時間をかけて検討するならば受け入れる考えを持っていることを読み取ることができるようになった。

 とすると、1項の「海洋放出」に「断固反対」との整合性が崩れることになる。

 このように、共産党が行った2項の要望は相対立する内容を含んでいる。この要望を受け取った側、つまりいわき市はその対応に苦慮することになる。というより、内容を掌握しがたい要望は検討の価値もないと放置されることになるのではないだろうか。

 この要望に私が応えるとするなら、この間にいわき市として国等に提出してきた意見をまとめることで回答に代えるだろう。つまり、処理水の科学的性質の説明や関係者の意見を十分考慮した検討をすすめるよう求めて来たことを回答にするのだ。それで十分なように思う。

 2つ目の疑問が市の対応に関わることだ。

 要望書には、処理水の対応に関していわき市や市議会がとってきた対応には全く触れていない。そもそもいわき市は、7月8日にいわき市議会での処理水の処分に関する請願の採択を受けて国に、処分に関する要望書を提出している。

 その内容は、トリチウム等を含む処理水の処分に関して、
① 処分方法の公表とこれに対する関係者、県民からの意見聴取、
② 処理水に関する情報発信と国民の理解と合意の醸成、
③ それまでの間の陸上保管・・。
つまり、処理水の処分に関して国民的理解と合意が出来るまで陸上保管を継続せよという内容だ。いわき市としては、それ以前から処理水の科学的な性質等の説明や関係者の意見を十分反映することなどを求めていた。

活動日誌 No.232で議案を紹介します


 余談ではあるが、私を含む会派「共産党・市民共同」は、この市の要望の前提となった請願や意見書に賛成し・・というより、請願や意見書採択に向けて内容をまとめるために行動し、現実に採択に導いたと自負している。それ以前に、市議会の質問等で、請願や意見書等とほぼ同様の主張をしながら質問をしている。

6月定例会請願・意見書の顛末を議員だよりに


 私は共産党を離れていたが、共産党議員と引き続き会派を構成していた。そして市議会での質問や請願・意見書等の対応は、発案者は私であるとしても、会派で話し合って総意のもとに取り組まれてきたものだ。

 今回の要望は、その対応とは全く違うものとなっている。であるならば、要望提出にあたってこれまでの共産党としての対応や、いわき市及び市議会の対応に問題があることを指摘しながら、その批判的見地に立って、新たな対応を求めることが必要になるだろう。というより、私がもし今回の要望書をまとめるとするなら、そのような観点で要望書を作成するだろう。

 ところが、今回の要望には、過去の経緯に批判的にふれた内容は全くない。市議選前の共産党議員を含む会派がとった対応を踏まえているにもかかわらず、それに対する批判的総括もなく、全く違う対応をしている。こうした対応は政党として市民に対する責任も、議員としての責任も放棄した、ご都合主義のそしりを免れない。

 それでいいのか・・と思うのは私だけだろうか。

 それにしても、共産党の要望書がこうも整合性のとれないものとなっているのはどうしてなのだろうか。

 私は、共産党自身が責任を持った政策も展望も持っていないことの現われではないかと考えている。

 私自身の考えは、本ブログでも再三記載してきた。トリチウムを含む処理水の性質について、運転する原発から放出してきたという歴史的経過も含めて国が国民的規模で説明し、風評被害が起こらない環境を作るために、その安全性について理解と合意を広げ、大方の合意の上で必要な対応を行えという立場だ。

 国が何らかの環境放出が必要とするなら、その安全性についての説明は国の責任である。風評被害は、必要な情報が行き届いていないために起こっていることなので、必要な情報を国民的な規模で共有することで防ぐことができると考えられる。

 しかも、稼働している原発からは一定の基準値内とはいえトリチウムをはじめとした放射性核種が環境に放出され続けており、この影響は確認されていない。
 であれば、こうした事実を国として国民に広く説明し、必要な情報を国民と共有することで風評被害は起きにくい状況が作られるはずである。

 国民との情報共有ができないということになれば風評被害が発生することになるので、そもそも何らかの形での処理水の環境放出を実施する前提はできないことになる。前提ができない間は陸上保管等、環境と隔絶するための対応をとり続けるしか、政府は方法がないことになる。

 政府等が言っている風評被害への対応は、被害が発生した際の金銭的補償などだ。しかし、漁業や農業などの生産関係者は、事故前のように漁をしたり、生産をして、普通に販売し購入してもらい利益を上げ、その利益で営業と生活を支えることを願っていると思う。当たり前の生活を取り戻すことだ。であるならば、風評被害の原因を根本からなくすための取り組みこそ重視されなければならない。これが私の考えだ。

 しかし、私のような環境放出もありうるという政策を内在する考えは、環境放出に絶対に反対とする立場の方々は受け入れがたいと考えている。それはそれでやむを得ない。事故原発の地元を故郷とする方々が故郷に寄せる思いや産業関係者の思いなどを踏まえると、国民的理解と合意を広げるために政府が努力するという政策面からアプローチすることが、何よりも先行されなければならないと考えているのだ。

 共産党地区委員会の要望項目には、残念ながら「断固反対」とした政策の背景にある考えが見えてこない。見えてくるのは、処理水への対応に関する多様な意見を持つ人々のうち、反対を主張する方の同調を狙う姿勢だけだ。

 処理水の処分に関しては、大型タンクを作るなど保管量を増やして陸上保管を求める声やトリチウム除去の技術開発を進めて必要な対策を施して処分することを求める声、処分の前提に国民的な理解を求める声、または廃炉作業を進めるために放出はやむを得ないという声など多様な声がある。

 この中で、共産党いわき地区委員会及び市議団の整合性がとれていない要望には、とにかく無条件で海洋放出等に賛成という人を除けば、反対から条件付き賛成までの幅広い考えの方々に門戸を開いているようなポーズだけは見える。しかし、前述のように、実に間口は狭い。とにかく反対なのだ。

 広い門戸のように見せようという姿勢。そこには、できるだけ幅広い人に共産党に感心を持ってもらい支持につなげたいという、選挙対策的な意図しか見えてこない。八方美人になって、みんなに好かれようというのだろう。

 報道写真で要望提出者を確認すると、衆議院選挙に立候補を予定している者、新市議会議員、そして県議会議員だった。納得。要望提出時の写真を選挙の宣伝や日常活動の宣伝に利用したいのだろう。その写真の説明をする時に、できるだけ広い人たちにアピールできる文言を要望項目に並べたい。要望書にはそんな意図が透けてくる。問題解決のために何が必要かという政策よりも、選挙でうけを良くするために何を求めるか、どう主張するかを重視した。そうとしか見えないのだ。

 そしてこのメンバーは私が離党を決断する原因となった人たちの一部だ。遠野地区で計画された民間事業者の事業で、住民に嘘の宣伝をしても、未だに反省できないでいるか、それが嘘であったことを理解できないでいる人たちだ。こういう人たちが共産党地区委員会をリードしているのだからしょうがないか。

 今回の要望書を見て、ポピュリズムの言葉が浮かんだ。大衆に迎合し、その声に自らをゆだねていく。朝日新聞のキーワードには次のように解説されたという。

 一般的に、「エリート」を「大衆」と対立する集団と位置づけ、大衆の権利こそ尊重されるべきだとする政治思想をいう。ラテン語のポプルス(populus)=「民」が語源。こうした考えの政治家はポピュリストと呼ばれる。複数の集団による利害調整は排除し、社会の少数派の意見は尊重しない傾向が強い。「大衆迎合」「大衆扇動」の意味でも使われる。ただ、有権者の関心に応じて主張を変えたり、危機感をあおったりする手法は、ポピュリストとみなされない政治家も用いる。(2015-12-23 朝日新聞 朝刊2外報)

 世間一般にある声を網羅的に取り上げようとする結果、どこに真理があるのか理解が難しく、整合性のとれない要望を行政に平気で提出した今回の要望書はポピュリズムそのものだ。そこには、迎合はあるが、自ら政策を練り上げ、その政策に人々を動員しようという姿勢を見いだすことはできない。

 共産党が示す綱領的展望である、日本の軍事同盟からの離脱、そしてその先にある資本の支配を排し富を平等に分配する社会の実現に向けた主張と政策には共感を覚える。その方向に一歩でも二歩でも近づくために日本の政治と社会を動かして行くべきだろう。

 しかし、少なくとも今の地区委員会(県委員会も似たようなものであるかもしれないが)の主張を見て、共産党にその期待を持つことは難しい。共産党は「北斗七星」。この評価も、もはや遠い過去のもの。地区委員会、いや県委員会もそうかもしれないが、その対応を見てそう実感する。

 そんなことを書いていると、テレビニュースで、処理水の処分方法について今月27日の公表をめざしていた政府が、この間出された意見を踏まえて十分な検討するために期限を延長したという。その結果は、産業関係者をはじめ、行政や市議会、市民運動など党派を超えて、政府の一方的な方針決定に異論を申し立て来た結果だと思う。大切なのはこうした党派を超えた声を、どれだけ大きくしていくかだろう。

 最後に一言、要望の言葉遣いで気にかかるのが、「汚染水」という言葉を注釈なしに使っている点だ。私の理解では、トリチウム以外の核種の濃度を下げるために、アルプスで再処理して放射性物質の濃度を基準値以下まで低下させた上で海洋放出等何らかの対応をするという考えだったと思う。汚染水という言葉は、再処理の課程を無視しなければ使えない。再処理して線量が十分下がっているならば、やはり処理水、あるいは精一杯がんばっても残っているトリチウムとらえてトリチウム水と表現するのが精一杯だろう。

 「汚染水」と書いた記載はうっかりミスで、極端に放射性物質で汚れた水という印象を醸し出す意図を持ったものでないと信じたいが。

※本記事を読み直してみると、あまりにも分かりにくい部分がありましたので、一部加筆・修正しました。(2023年2月16日)


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4 コメント

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整合性(矛盾) (Unknown)
2020-10-26 08:47:49
整合性。
普段自分で言っていることの中に、どれだけ矛盾が潜んでいるんだろう、ということを考えてしまいました。
自分の中では、首尾一貫しているつもりでも、言葉としてよく読み返してみると、意外と矛盾が生じていることがあるかもしれない、と。
こんなことを考えると、次の2つに行き着きました。
・1つは、矛盾が生じていないか、整合性は取れているか、に日頃考えを巡らせること。
・2つは、ある人の言動などに矛盾が生じた場合に、それを、どのように解釈し、どこまで許容できるか、ということ。
普段何気なく考えている言葉には、結構矛盾が潜んでいるのではないか、と考えた次第です。

と、書いておきながら、最後に、今回のコメントの中でここだけはしっかりしておかないと、という部分がありましや。
それは、最後に出てきた「汚染水」です。
やはり、この言葉だけは、はっきり言って違うかな、と思った次第です。
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言い忘れたこと (Unknown)
2020-10-26 08:53:52
今の投稿で言い忘れたことがありました。

何かというと、「今回の要望書、深く考えていないのではないか」ということ。
何気なく考えていたがために、こういう矛盾(整合性)が取れないものができてしまったのではないか、と思ったわけです。

まあ、深く考えてないとしたら、それはそれで大問題ですが。
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そう、そこが問題 (伊藤浩之)
2020-10-26 10:20:33
私もそうですが、特に長文になると、整合性がとれないことを書いていたり、先と後で別の論理で表現してしまったり、読み直してみて、慌てて手直しするなどと言うことがよくあります。
考察してよく考えることが大切だと思います。
提出者が衆院に立候補をしようとしている者、県議会議員、そして市議会議員という、外部的に党を代表し、しかも地区機関の指導部であることを考えれば、余計に責任を持った要望をするために真摯に行動することが求められている思います。
処理水の問題の新聞報道を受けて、自分達も反対して取り組んでいると宣伝するために、思いつきで出した要望なのかな・・という感はあります。
自分達の宣伝のために、要望書提出という時間を作らせ、その要望内容もお粗末というのでは、相手方に迷惑をかけるだけとなります。
市民のためにもなりません。
よく考えて行動すべきと思います。
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コメントありがとうございます (伊藤浩之)
2020-10-26 10:22:47
私も言い忘れました。
コメントありがとうございます。
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