あまり書きたくはないが、厄払いというからには、今年が厄年ということ。干支という言葉があるが、「子、牛、寅・・」は12支で、これと十干というものを組み合わせたものが干支で、今年は干支でいうと庚子(かのえね)になる。私も庚子の生まれで、60年で干支が一回りして、61年目に生まれた年の干支に戻ってくる。だから暦が還るで、還暦を迎えるということになる。来年の誕生日を迎えると満で60才ということになる。
12支と十干の組み合わせなら12×10で120通りだろうと思うのだが、「甲、乙、丙、丁、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)」でなる十干は、陰陽五行説というものが深くかかわり、五行説は世の中のものは全て「木・火・土・金・水」の5つの要素からできていて、陰陽は世の中のものは全て2つの陰と陽の二つに分けられるとする考えだという。これに基づいて、先の十干は5つのグループに分けられるため、12×5で60通りの干支が出来上がるということらしい。
それはともかく、同級会は還暦の厄払いをかねて呼びかけられた。この同級会は三ヶ月会(みつきかい)と名付けられ、自主的に幹事を務めるみなさんが、折に触れ同級会を主催し、参加を呼びかけている。
はじめて参加したのが2011年1月2日に開かれた同級会。50才を記念した会だったが、中学校卒業から考えれば35年ぶり、高校卒業で地元を離れてからでも32年ぶりの再会ということになった。
ただ、その年の3月11日、東日本大震災が発災した。いわき市でも大きな未曾有の大災害となったが、同級会を開いた宮古魚市場にほど近いホテルアートシティ(同級会当時の名称は違ったような。経営者が変わったのかもしれない)が、津波で被災した後、廃業を考えたものの、復興を支える作業員を受け入れるために再会する準備をしているとネットで伝えられたニュースを、少し感動の思いを持って呼んでいたことを思い出す。
それはともかく、私が出かけると、その先で何かしらの災害がおこるような気がしている。若い頃、伊豆の伊東市に出かけた時には、伊豆大島が噴火し、別の時には伊東市沖の海底噴火があり、また別の時には御巣鷹山に日航機が墜落した日本航空123便事故が起こった。そんな、思いもあって、何となく躊躇したが、まっ、それも気の迷いだろう。ほぼ9年ぶりの参加となった。
中学校の同級生は65名。うち5名はすでに亡くなっていると、この時聞いた。1人は連絡をいただいていたのだが、そんなに亡くなっていたとは・・何ともやるせない。60名のうち24名で、参加していた同級生が東京、茨城、栃木、また岩手県内でも他市町村からの参加が多いということを考えれば、良く集まったということになるのだろう。かくいう私も、常磐自動車道と三陸自動車道を経由して約390km、まぁ、これはほぼ直線距離で、東北新幹線と山田線を経由しているので移動距離はさらに、磐越道と新幹線、そして山田線と移動して距離ではほぼ470km程度になるのだろうけれど、これだけの距離、そして時間にして8時間かけて宮古に移動して臨んだ同級会なので、よく行ったなという感じがしないでもない。
2日午前8時頃、自宅を自家用車で出発した。JR郡山駅で、10時59分発やまびこ45号に乗車する予定だった。郡山駅に到着し、無事に乗車し、一路岩手・盛岡駅に向かう。
福島駅、仙台駅など停車しながら岩手県に入ってしばらくすると、平地に雪が積もっていた。
昨年12月21日だったか、遠野町の山に少し積もった冠雪を見たが、本格的な雪景色は久々だ。
盛岡駅に到着する。ホームに入線する少し前に一時停車した。そこから山の上に並ぶ風力発電の風車が見えた。
以前来たときにはあったのだろうか。
盛岡駅に着いた。岩手山が見える。
盛岡駅で山田線に乗り換える。午後1時51分発、宮古市行き快速だ。電車ではない。ディーゼルカー。ここから2時間強の旅だ。
線路は、ほぼ川に沿って進む。盛岡を出発すると米内川沿いにすすむ。
沿線の雪は、先に見た雪よりも深い印象だ。
沿線で最も高い区界峠を通り過ぎる。
ここまでが盛岡市だ。この先は宮古市。
平成の大合併以前は、この先は宮古市ではなかった。少なくとも川井村や新里村など、いくつかの自治体を通過した。いまは盛岡市の隣が宮古市だ。現在の宮古市の広さには舌を巻く。
白樺林が見えた。
この先線路沿いの川は閉伊川に変わる。
川幅を広げながら線路沿いを流れ下る。
2時間6分の山田線の旅で宮古駅に着いた。
久々に宮古の町を歩いて、同級会会場で本日の宿泊場所のホテル沢田屋に向かう。10分程度で到着した。
昔、この町に住んでいた頃は、それなりに広い町と感じたのだが、今になっては狭い町だ。あの頃は井の中の蛙だったんだと実感する。
チェックインし、開会の時間になった。
まずは還暦の厄払いの式でお札を受け取って記念写真を撮影した後、懇親会に入った。
公開の許可を取っていないので、顔はぼかさせていただいた。
24名の参加で、同じ日には他の学校の同級会も開かれていたが、もっとも賑やかに騒いでいたのは私たちの同級会だったようだ。
ひとしきり楽しんだ後、1次会、2次会と会場を移動し、基本、カラオケで懐かしの歌を絶叫した。 1次会場から2次会場に向かう途中、空には月が浮かんでいた。まわりに光環が見えたのだが、スマホのカメラではうまく写らなかった。
午前1時かな、1時半かな、残った同級生と過ごし、ホテルに戻って就寝。あっという間に眠りについた。
3日朝、目覚めたのは午前6時頃。同室の4人はまだ就寝中だ。外はまだ暗い。
布団の中でしばらく過ごした後、起きだし、朝食を済ます。
明るくなった部屋の窓の正面には、早池峰山がきれいに見えた。懐かしい。
この日、バスで盛岡市に向かうことにしていたが、東京から来ていた同級生がレンタカーで盛岡方面に向かうので乗せてくれるという。
約2時間のドライブ。沿線を楽しみながら、近況など語りあい、盛岡駅に到着した。
わざわざ送ってもらってありがとう。
盛岡駅では妹家族と1年半ぶりだろうか、待ち合わせして食事を共にした。もっとも、食事代は妹の夫に出してもらったのだが・・。
妹は妹で、妹のままなのだが、自分が年齢を重ねたという意識が薄く、自分と同じように年をとったという意識が薄い。面倒くさい言い方だが、たぶん自分には還暦を迎えるなどという意識はほぼなく、15の頃の意識の延長線上にしかいないため、妹にも年をとったという印象をもてないのだろう。でも確実に年を重ねていて、誕生日を迎えると57才になる。その事が信じられない。
それはともかく、私にとって、たった1人の姪っ子は高校1年生。小柄ではあるが、もう子どもではない。自分がやりたいことをしっかり考え、進路を見定めながら、日々を過ごしているようだ。高校後に進学したい大学もしっかり見定めていた。実現のためには、一生懸命勉強に励むことが必要なようだが、これからの頑張りに進路の可否がかかっているにせよ、残りの2年間、がんばって道筋を切り拓いて欲しいと思う。
高校生にもなると、やはりスマートフォンを持っている。土産は何がいいか聞いてみたのだが、白金豚といわれる豚のお肉の味噌漬けがおいしいらしく、姪っ子が検索して見せてくれた。土産には、白金豚を買って帰るよと、妹家族と別れ、探してみるが見つからない。駅ビルの土産店、JR駅及び新幹線ホーム内の土産店を回っても見つからない。唯一、見つかったのが白金豚をスープに使ったというインスタントラーメンだったので、これを求め、帰りの午後2時33分発やまびこ166号に乗車した。
宮古市を出発したときには、日差しも強く暖かい日差しを感じていた。しかし、盛岡市に入ってからの気温は4度で、少し肌寒い感じ。空は曇り空で、岩手山も雲に隠れ見えなかった。
新幹線が走り出し、最初の停車駅・北上駅を過ぎてからだったか、曇り空の岩手県と晴れた岩手県分ける瞬間を見ることができた。
右側のゲート状の施設のさらに右側(北側になる)は、ずーっと曇り空で薄暗かったのだ。明るい空のもと、積もった雪も見る。
新幹線は順調に進んだ。仙台、福島、郡山。ほぼ予定時刻に到着した新幹線から下車し、車に乗り換えた。
車は近くの市営駐車場に止めたのだが、前日の午前10時頃の停車から翌日の午後4時30分頃の出車で1,800円で済んだ。この程度で済んだことに感謝もするが、もしかして、いわきからバスでくれば、自動車道の料金も含めた総額よりは安く済んだかも知れない。
宮古市も、ご多分にもれず、人口減少の流れの中にあるらしい。おまけにクマやシカなどの獣害も懸念する状況にあるようだ。少なくとも私が住んでいた頃には、クマもシカも気にする状況にはなくーーというより、おそらく周辺には生息しておらず、襲われる懸念を持つことなく里山に入っていた。
思い出すのは、津軽石払川に住んでいて、おそらく小学校低学年の頃、おばあちゃんといっても、考えて見ると60前だったのもしれないが、いっしょに着いていったドングリをかごいっぱいに拾った。拾ったドングリはあく抜きをして佐藤を加え、あんこの代わりに使うのだが、控えめの味がしっかり記憶に残っている。そのドングリ拾いで、動物の心配をすることはなかったのだ。唯一、生き物でびっくりしたのはカナチョロが突然に走り出したことにすぎない。
にもかかわらず、クマだとか、シカだとか、そんなに気候が変わってきたのかと痛感した。
それはともかく、いつまでも・・おそらく死ぬまで、15の心を残すことができる、中学校の同級会って良いものだと思う。苦労をかけている同級生たちに感謝をしたい。
12支と十干の組み合わせなら12×10で120通りだろうと思うのだが、「甲、乙、丙、丁、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)」でなる十干は、陰陽五行説というものが深くかかわり、五行説は世の中のものは全て「木・火・土・金・水」の5つの要素からできていて、陰陽は世の中のものは全て2つの陰と陽の二つに分けられるとする考えだという。これに基づいて、先の十干は5つのグループに分けられるため、12×5で60通りの干支が出来上がるということらしい。
それはともかく、同級会は還暦の厄払いをかねて呼びかけられた。この同級会は三ヶ月会(みつきかい)と名付けられ、自主的に幹事を務めるみなさんが、折に触れ同級会を主催し、参加を呼びかけている。
はじめて参加したのが2011年1月2日に開かれた同級会。50才を記念した会だったが、中学校卒業から考えれば35年ぶり、高校卒業で地元を離れてからでも32年ぶりの再会ということになった。
ただ、その年の3月11日、東日本大震災が発災した。いわき市でも大きな未曾有の大災害となったが、同級会を開いた宮古魚市場にほど近いホテルアートシティ(同級会当時の名称は違ったような。経営者が変わったのかもしれない)が、津波で被災した後、廃業を考えたものの、復興を支える作業員を受け入れるために再会する準備をしているとネットで伝えられたニュースを、少し感動の思いを持って呼んでいたことを思い出す。
それはともかく、私が出かけると、その先で何かしらの災害がおこるような気がしている。若い頃、伊豆の伊東市に出かけた時には、伊豆大島が噴火し、別の時には伊東市沖の海底噴火があり、また別の時には御巣鷹山に日航機が墜落した日本航空123便事故が起こった。そんな、思いもあって、何となく躊躇したが、まっ、それも気の迷いだろう。ほぼ9年ぶりの参加となった。
中学校の同級生は65名。うち5名はすでに亡くなっていると、この時聞いた。1人は連絡をいただいていたのだが、そんなに亡くなっていたとは・・何ともやるせない。60名のうち24名で、参加していた同級生が東京、茨城、栃木、また岩手県内でも他市町村からの参加が多いということを考えれば、良く集まったということになるのだろう。かくいう私も、常磐自動車道と三陸自動車道を経由して約390km、まぁ、これはほぼ直線距離で、東北新幹線と山田線を経由しているので移動距離はさらに、磐越道と新幹線、そして山田線と移動して距離ではほぼ470km程度になるのだろうけれど、これだけの距離、そして時間にして8時間かけて宮古に移動して臨んだ同級会なので、よく行ったなという感じがしないでもない。
2日午前8時頃、自宅を自家用車で出発した。JR郡山駅で、10時59分発やまびこ45号に乗車する予定だった。郡山駅に到着し、無事に乗車し、一路岩手・盛岡駅に向かう。
福島駅、仙台駅など停車しながら岩手県に入ってしばらくすると、平地に雪が積もっていた。
昨年12月21日だったか、遠野町の山に少し積もった冠雪を見たが、本格的な雪景色は久々だ。
盛岡駅に到着する。ホームに入線する少し前に一時停車した。そこから山の上に並ぶ風力発電の風車が見えた。
以前来たときにはあったのだろうか。
盛岡駅に着いた。岩手山が見える。
盛岡駅で山田線に乗り換える。午後1時51分発、宮古市行き快速だ。電車ではない。ディーゼルカー。ここから2時間強の旅だ。
線路は、ほぼ川に沿って進む。盛岡を出発すると米内川沿いにすすむ。
沿線の雪は、先に見た雪よりも深い印象だ。
沿線で最も高い区界峠を通り過ぎる。
ここまでが盛岡市だ。この先は宮古市。
平成の大合併以前は、この先は宮古市ではなかった。少なくとも川井村や新里村など、いくつかの自治体を通過した。いまは盛岡市の隣が宮古市だ。現在の宮古市の広さには舌を巻く。
白樺林が見えた。
この先線路沿いの川は閉伊川に変わる。
川幅を広げながら線路沿いを流れ下る。
2時間6分の山田線の旅で宮古駅に着いた。
久々に宮古の町を歩いて、同級会会場で本日の宿泊場所のホテル沢田屋に向かう。10分程度で到着した。
昔、この町に住んでいた頃は、それなりに広い町と感じたのだが、今になっては狭い町だ。あの頃は井の中の蛙だったんだと実感する。
チェックインし、開会の時間になった。
まずは還暦の厄払いの式でお札を受け取って記念写真を撮影した後、懇親会に入った。
公開の許可を取っていないので、顔はぼかさせていただいた。
24名の参加で、同じ日には他の学校の同級会も開かれていたが、もっとも賑やかに騒いでいたのは私たちの同級会だったようだ。
ひとしきり楽しんだ後、1次会、2次会と会場を移動し、基本、カラオケで懐かしの歌を絶叫した。 1次会場から2次会場に向かう途中、空には月が浮かんでいた。まわりに光環が見えたのだが、スマホのカメラではうまく写らなかった。
午前1時かな、1時半かな、残った同級生と過ごし、ホテルに戻って就寝。あっという間に眠りについた。
3日朝、目覚めたのは午前6時頃。同室の4人はまだ就寝中だ。外はまだ暗い。
布団の中でしばらく過ごした後、起きだし、朝食を済ます。
明るくなった部屋の窓の正面には、早池峰山がきれいに見えた。懐かしい。
この日、バスで盛岡市に向かうことにしていたが、東京から来ていた同級生がレンタカーで盛岡方面に向かうので乗せてくれるという。
約2時間のドライブ。沿線を楽しみながら、近況など語りあい、盛岡駅に到着した。
わざわざ送ってもらってありがとう。
盛岡駅では妹家族と1年半ぶりだろうか、待ち合わせして食事を共にした。もっとも、食事代は妹の夫に出してもらったのだが・・。
妹は妹で、妹のままなのだが、自分が年齢を重ねたという意識が薄く、自分と同じように年をとったという意識が薄い。面倒くさい言い方だが、たぶん自分には還暦を迎えるなどという意識はほぼなく、15の頃の意識の延長線上にしかいないため、妹にも年をとったという印象をもてないのだろう。でも確実に年を重ねていて、誕生日を迎えると57才になる。その事が信じられない。
それはともかく、私にとって、たった1人の姪っ子は高校1年生。小柄ではあるが、もう子どもではない。自分がやりたいことをしっかり考え、進路を見定めながら、日々を過ごしているようだ。高校後に進学したい大学もしっかり見定めていた。実現のためには、一生懸命勉強に励むことが必要なようだが、これからの頑張りに進路の可否がかかっているにせよ、残りの2年間、がんばって道筋を切り拓いて欲しいと思う。
高校生にもなると、やはりスマートフォンを持っている。土産は何がいいか聞いてみたのだが、白金豚といわれる豚のお肉の味噌漬けがおいしいらしく、姪っ子が検索して見せてくれた。土産には、白金豚を買って帰るよと、妹家族と別れ、探してみるが見つからない。駅ビルの土産店、JR駅及び新幹線ホーム内の土産店を回っても見つからない。唯一、見つかったのが白金豚をスープに使ったというインスタントラーメンだったので、これを求め、帰りの午後2時33分発やまびこ166号に乗車した。
宮古市を出発したときには、日差しも強く暖かい日差しを感じていた。しかし、盛岡市に入ってからの気温は4度で、少し肌寒い感じ。空は曇り空で、岩手山も雲に隠れ見えなかった。
新幹線が走り出し、最初の停車駅・北上駅を過ぎてからだったか、曇り空の岩手県と晴れた岩手県分ける瞬間を見ることができた。
右側のゲート状の施設のさらに右側(北側になる)は、ずーっと曇り空で薄暗かったのだ。明るい空のもと、積もった雪も見る。
新幹線は順調に進んだ。仙台、福島、郡山。ほぼ予定時刻に到着した新幹線から下車し、車に乗り換えた。
車は近くの市営駐車場に止めたのだが、前日の午前10時頃の停車から翌日の午後4時30分頃の出車で1,800円で済んだ。この程度で済んだことに感謝もするが、もしかして、いわきからバスでくれば、自動車道の料金も含めた総額よりは安く済んだかも知れない。
宮古市も、ご多分にもれず、人口減少の流れの中にあるらしい。おまけにクマやシカなどの獣害も懸念する状況にあるようだ。少なくとも私が住んでいた頃には、クマもシカも気にする状況にはなくーーというより、おそらく周辺には生息しておらず、襲われる懸念を持つことなく里山に入っていた。
思い出すのは、津軽石払川に住んでいて、おそらく小学校低学年の頃、おばあちゃんといっても、考えて見ると60前だったのもしれないが、いっしょに着いていったドングリをかごいっぱいに拾った。拾ったドングリはあく抜きをして佐藤を加え、あんこの代わりに使うのだが、控えめの味がしっかり記憶に残っている。そのドングリ拾いで、動物の心配をすることはなかったのだ。唯一、生き物でびっくりしたのはカナチョロが突然に走り出したことにすぎない。
にもかかわらず、クマだとか、シカだとか、そんなに気候が変わってきたのかと痛感した。
それはともかく、いつまでも・・おそらく死ぬまで、15の心を残すことができる、中学校の同級会って良いものだと思う。苦労をかけている同級生たちに感謝をしたい。