昔の音楽雑誌は宝の山ですね。ホコリやカビで喘息気味になるけど、面白いから我慢でける。
『音楽現代』1974年6月号には「ジョルジュ・オーリックに聞く」というインタビュー記事が掲載されていました。
オーリック(Georges Auric,1899-1983)は日本では映画「ローマの休日」の音楽の作曲者として有名ですよね。あとムーラン・ルージュ(赤い風車)のワルツのメロディーなんかは超有名。
この記事では竹原正三(1927-2006)という方が1974年3月22日にオーリックに直接インタビューしています。すごい。
(1)この記事の中では、まず6人組(Les Six)の結成の経過がオーリック目線により話されています。簡単にまとめると
6人組は「ただ単に仲の良い友人の集まり」だった。
1913-14頃コンセルヴァトワールでオーリックがミヨーとオネゲルと知り合う。
次に、ピアニストのリカルド・ヴィニェス(Ricardo Viñes, 1875-1943)に師事していたプーランクとヴィニェス宅で会うとたちまち親友になる。
1915年戦争のさなかに、やはりコンセルヴァトワールのタイユフェールらと音楽会を開催。
終戦後、モンパルナスでデュレと知人になる。
デュレの兄弟に画家がいて、その関係でユイガンス街のアトリエで音楽会をやることになった。ジャン・コクトーとの出会いはそのあと。
(2)オーリックとプーランクが特にサティを尊敬していた。サティに関する個人的な回想は?と聞かれてオーリックは次のように話しています。
「私とサティとの出会いは、他の人と全然違います。私はまだ13歳の頃から作曲をはじめ、コンセルヴァトワールに通っていましたが、1913年14歳の時、はじめてサティの音楽に接して非常にショックを受けました。そしてある音楽雑誌にサティについての評論を書きました。その当時、サティの音楽は討論の対象になることはあっても、世間では全く認められていない時代でしたので、彼は私の評論を読んで大変喜んでくれて、私が14歳の少年と言うことを知らないものですから、非常に礼儀正しい、丁重な礼状を送ってきました。勿論私も大喜びで、私の家へ彼を招待することになり、忘れもしない午後4時の約束だったのですが、私はもう胸がわくわくしてちっとも落ち着きませんでした。そしていよいよ来訪のベルが鳴って扉を開けたとき、子供である私が出てきたものですから、サティは「お父様はどこにいるの?」と尋ねる始末でした。でも私がその当人だということが判っても、何しろ彼はもともと子供好きでしたので、かえって非常に喜んでくれました。私とサティはその時以来の付合いで、6人組では一番はじめにサティを知ったことになります。」
なかなかイイ話ですね!その他にもいろいろ面白いことが書いてありますが、ヤベーのでこのへんにしておきます。
有名作曲家のナマの声をもっと探していきたいっす!
一緒に載っていた1931年の写真。竹原氏提供とのこと。左からプーランク、タイユフェール、デュレ、コクトー、ミヨー、オネゲル。肝心のオーリックはデュレの背後の絵として写っています(よく見えないけど)。同じ時に何枚か撮られたようですが、オネゲルが横を向いているバージョンは初めて見ました。