ひろっちゃの「力まない力」

ひろっちゃの脳内景色をまたーり語ります

「自分の富は自分の実力の賜物」の正義の話をしよう

2010-10-26 21:43:40 | 日記

マイケル・サンデル先生の分析手法を用いて、実社会で起こっている論争を解読するシリーズです。

さて、第3回目は「金融証券税制は予定通り2012年に本則税率10%から20%へ引き上げ―政府税調議論」というニュースに対して過敏に反応したトレーダー達を話題に取り上げる。彼らの反対意見は次のようなものである。

反対意見
(1) 「俺たちは高いリスクを背負ってマーケットと戦った結果として自分の実力で富を得た。これは侵さざるべき私的財産であり、それに対して課税するのは権利の侵害である」
(2) 「マーケットは可能な限り自由であるべきであり、政府が税率を上げたり規制したりすれば自由で効率的な市場を妨げる
(3) 「軽減税率が金持ち優遇などという批判は的外れであり、持たざる者による嫉妬である

さて、このようなトレーダー達の考え方は、サンデル本でいう所の「自由至上主義(リバタリアニズム)」の立場に立っているのは明らかだだろう。

自由至上主義者(リバタリアン)は、課税などの富の再分配に反対し、自己の富の扱いに対して個人に自由に任せることを求め、国家に再分配を強制する権限はないと考える。それは全体の効用を最大にするという効率主義の立場ではなく、自己の富への所有権は人間の「基本的権利」であるとする立場である。トレーダーに限らずこのような自由至上主義の考え方は自由主義経済で活動している人々のなかに意識・無意識に浸透している。

リバタリアン思想の持ち主は、優れた才能があったり多大な努力を重ねたりした結果として富を獲得した人が多い。自分の富は自分の実力で勝ち取ったものだという自負がとても強い。そのような富を持つ者としての占有意識から、反対意見(3)のような「課税強化は持たざる者による嫉妬」という反感が生まれてくる場合があるのだろう。また、富を蓄積できたのは「自分が他の人よりも優秀な人間だからである」という有能感を持つ人もいる。

その有能感は「富を持たざる人間は劣った人間である」という蔑視とは紙一重だ。そしてそれは、再分配に対する強い反感と混じり合うことによって「貧乏人には嫉妬抑制剤を接種するべきだ」などという反人権思想に容易に転じうる。リバタリアニズムは常にそういう危うい傾向をはらんでいる。

また、課税のような再分配制度に対しては、反対意見(2)のように「重税を課して有能な人間のやる気を失わせるのは社会全体にとってもデメリットが多い」という「功利主義」のフレーバーを加えて論じられることが多い。自由と再配分とをどうバランスしてゆくかという問題は常に議論の分かれるところなので、本ブログではこれ以上議論しない。

むしろ僕が俄然意識するようになったのは、反対意見(1)で表明されている「自分の富は自分の実力で得たものである」という考え方である。確かに一見正しいように思えるし、僕自身もこれまでそう考えていた。しかしそれは必ずしも自明ではないというのがサンデル先生の主張である。イチローは野球、マイケル・ジョーダンはバスケットボールというスポーツ労働市場の中での成功者であり、彼らは自分の才能が最も活かされるシステム(チーム・マスメディア・ファン等々)が存在していたからからこそ大成功した訳である。ビル・ゲイツが大富豪になったのもIT革命が起きる社会背景とタイミングとが彼の才能と出現が見事にマッチしたしたからであり、彼の誕生がもう少し遅かったりしたら彼以外の誰か(スティーブ・ジョブス?w)が代わりに画期的なOSを開発していて、ゲイツは有能ではあるが数多くのIT起業家の一人で終わっていたかもしれない。

富を蓄えられるシステムがその時代のその社会にあったからこそ、その仕組みにうまくマッチして才能や努力が開花したと考えると、集まった富をどれだけ「自分の実力」のお陰だとすることができるだろうか?

「運も実力のうち」などというが、実は自分の実力と思っているもの自体が「運」とか「まぐれ」から成り立っているのではないか?

それがサンデル先生がリバタリアンに対する問いかけだと僕は理解した。成功に対して果たす運の役割に関しては、ニコラス・タレブが著書「まぐれ」や「ブラック・スワン」でおいても述べられている。

じゃあ一体どうするのかと言われても、僕自身もどうすればいいのかまだよく分からない。富の再分配で生じる正義の問題は、正解のない難問であり続けるのである。


拝金主義の「正義」の話をしよう

2010-10-14 21:09:39 | 書評

世の中で論争となっているテーマについて、マイケル・サンデル先生流の分析方法でアプローチする「○○の正義の話をしよう」シリーズ。前回の「ベーシック・インカム」編に続きまして第2弾です。

堀江貴文氏(以下、ホリエモン)がライブドア社長として絶頂期にあったとき、大論争になった有名な発言がある。

「誤解を恐れず言えば、人の心はお金で買えるのです。女は金についてきます。(中略) 人間を動かすのはお金です。」 (堀江貴文著「稼ぐが勝ち」から抜粋)

この発言がなされた2004年当時の日本はベンチャー起業ブームの最中にあり、若い起業家達が大きなお金を動かし始めていた。大きなお金を獲得し、そのパワーを実感した人の多くが感じるであろう万能感を隠さず表現したのがホリエモンだった。

果たせるかな、「世の中にはお金で買えないものがある」、「人の心はお金では買えない」という社会からの猛烈な反発が起こった。ホリエモン発言の真意がどうあれ、この発言をもって「ホリエモン=拝金主義者」という一般イメージが出来上がったのは間違いない。

僕自身も当時の株ブーム、マネーゲームの熱狂に浮かれていて、ホリエモンの発言を支持していたことは認めざるを得ない。その一方で人々と同様に「なんかどっか間違ってる気がする」という反感をずっと感じてきたことも確かだ。そしてその反感の根拠を説明することができずにずるずると人生を過ごし、こんにちの「枯れた」僕に至ったわけだ(笑)。

さてこの話をマイケル・サンデル氏の「これからの正義の話をしよう」(以下、正義本)を元に分析してみよう。目的はどちらが「正しい」かということを論じるためではない。それぞれの価値観がどのような道徳理念に依拠しているかを理解し、人々の間にわき起こった感情の根拠を明らかにするためである。

「すべてのものはお金で買える」という考え方(以下、拝金主義)は、道徳を含むあらゆる物事を単一の価値尺度(お金)に換算できるという立場に基づくものであるが、実は拝金主義は功利主義の最もラジカルな最終形である。

正義本において説明されている功利主義は、暴走する路面電車の軌道上で作業する5人を殺すより、待避線に軌道を変えてその先にいる一人に犠牲になってもらうという立場であり、漂流している四人の船員のうち衰弱した一人を殺して食べて、残る三人が生き延びることが許されるとする立場である。サンデル先生の「ハーバード白熱教室」においても、少なからぬ学生達が「犠牲者の数をできるだけ少なくして効用を最大する」という理由から、功利主義を支持した。

このような功利主義の根底にある、コストと利益を計算して最善の状況を選択するという考え方をさらに純化して(ある意味で過激に)突き詰めてゆくと、すべての価値あるものは道徳も含めて共通通貨=お金に換算して損得勘定で効用を判断することができるという拝金主義の考え方に行き着く。つまり拝金主義は功利主義が産んだ鬼子なのである。

それに対して「人の心はお金では買えない」と考える立場はどういう価値観に準拠しているのだろうか。「お金で買えない価値が人間人格にはある」という考えは、間違いなく人間の尊厳を最も崇高なものと考える「カント主義」に基づくと言えるだろう。また一部の文化遺産や芸術品に関しては「お金に換算できない」と見なされて自由市場から分離保護されているものも存在する。人間の人格や理性およびそこから生み出された成果物の価値に関してはこのようにコスト利益分析で量り得ないものが存在することも、どうやら確からしい。

こうして見ると、ホリエモンの拝金論争は功利主義とカント主義との間で繰り返されてきた古典的論争に帰着されるような気もする。しかし拝金主義に対しては、暴走路面電車の例にはそれほど感じなかった「えも言われぬ反感」を覚えるのは何故だろうか。

我々が金で買えない人間の尊厳をそれほど強固に信じているからだ、とこれまで僕はずっと思っていた。いや、そう思い込もうとしていた。しかし僕は別の大きな理由があることにようやく気づいた。それは、「お金で何でも買える」ところの自由市場が「不正義」の問題を本質的に含んでおり、拝金主義の背後に隠れているその不正義を我々が敏感に感じ取るからだ。それは「自由市場は本当に自由であるのか」という問題に係る。

それを理解する例も正義本に載っている。他人の受精卵を胎内で育てて子供を出産する代理出産の問題である。カント的な立場に立てば、女性の身体(の一部)を金で貸し借りしてよいかという道徳的な問題提起がなされるわけだが、代理出産は子供が産めない夫婦にとっても、報酬がもらえてしかも感謝される代理母にとっても、双方に利益のある「Win-Winの関係」であり、道徳的な問題は比較的少ないように思える。実際に代理出産を認めている国(韓国、インド、アメリカ)も存在する。しかし着目するべきは、経済的な理由から(つまり貧乏などのお金の必要性から)代理出産を選択するケースが(特にインドで)現実として生じていることである。つまり、「自由市場」においてなされた選択は必ずしも「自由で公平な選択」に基づくものではないということだ。

極端なケースとして「札束で相手の顔をひっぱたく」ようにして、金の力で欲しいものを手に入れ、自分の思う通りのことをするような「ハゲタカ」をイメージするかもしれない。しかし代理出産の例でも分かるように、自由市場はもっと巧妙な形で、富を持つ者が持たざる者の自由選択権をコントロールしている。デフレ日本の貧困社会・格差社会を見れば、それはまぎれもない自分たちの現実であることは実感しているはずだ。

これらの例で分かるように、自由市場においては富を多く持つ者が持たざる者を金銭的にも身体的にも巧みにコントロールし、時としてあからさまに搾取することによって、人間の尊厳を損なっているという不正義を人々が実感しており、それが拝金主義への感情的反発とつながっているのではないだろうか。


ベーシック・インカムの「正義」の話をしよう

2010-10-13 20:40:52 | ツイッター

マイケル・サンデル先生の「これからの正義の話をしよう」(以下、正義本)を読んで、現代社会において論争となっている争点は大まかに分けて三つの理念(功利主義、自由自立の理念、美徳と涵養)を論拠としていることを学んだ。この本で取り扱われている例のほかにも、たくさんの面白い論争やテーマが世の中にはたくさんある。それらがどういう理念に依拠しているのかを分析してみるのは面白そうだと思った。

そこで例題として「ベーシック・インカム」(以下、BI)を取り上げてみる。国民全員に一律で一定額を生涯給付することによって最低限の生活を直接保障してしまおうという大胆な制度である。本エントリーでは、BIがどのような「正義」に基づいて支持されるかという点だけにフォーカスして考えてみることにする。

この制度を導入するための技術的問題(財源とか適正額など)については触れない。下記の文献を紹介するにとどめる。

「やさしいベーシック・インカム」 新田ヒカル・星飛雄馬
「働かざるもの、飢えるべからず。」 小飼弾
「希望」論 堀江貴文 

まず僕は「低収入層に所得を再分配し全体の幸福度を増やすということが目的であると考えると、最大多数の最大幸福を目指して効用を最大化する功利主義といえるのではないか?」と考えてツイッターで投げかけてみた。これに対して

" @nozuem ベーシックインカム メールニュース編集長: 功利主義的に捉えることも可能ですが、各人の基本的人権をお金の面で保証するという点では、功利主義に尽きない内容があります。"

という意見が寄せられた。

また、「やさしいベーシック・インカム」の著者である新田ヒカルさんからも直々にコメントをいただいた。

" @hikaru225 新田ヒカル: 最大多数の最大幸福というより、最小不幸社会ですね"

単なる衣食住だけでなく人格の自律活動を保証するという意味では確かにカント的と言える。「衣食足りて礼節を知る」という言葉にあるように最低限の生活があってこそ、善き人格として振る舞うことができるのかもしれない。職がない・収入がないという不幸を最小にすることによって人間として最低限の生活をする権利を保障するという憲法第25条の精神でもある。

BIの効用として、「嫌な仕事で無理に働く必要がなくなり、自分の好きな仕事を選んだり、文化芸術活動に取り組んだりできる」というものがある。これなどはまさしく人間が人間らしく生きることを促進している考えだ。幸せの「量」よりも「質」を高めようというものだ。実際のところは、BIの最低額では「量的」に全く満足でずに物質的に豊かさを維持するために働き続ける人が多いと思う。しかし、生活のために幸せを犠牲にしてまで働きたくない、あるいは働きたくても職がない、といった不幸の量を減らして、「幸せの質」を高めることができる。

そのような「理想」に対して、一切働かなくなって、ただ食べて寝るだけの怠惰な人間が増えるだけだという意見がある。また、5万円とも8万円といわれている給付額で人間としての最低生活水準が満たされるかについても議論がある。この他にも多くの意見があるが、ここではこれ以上深入りしない。

以上のような考察から、ベーシック・インカムは、人間の物質的要求を最低限満たすことによって、人間らしい生活を促進させることを目指すところにその理念がある、と僕は理解した。


これからの「正義」の話をしよう ― マイケル・サンデル

2010-10-11 01:28:27 | 書評

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学


ベンサム、カント、ロック、アリストテレス。本書に現れるこれら哲学者の名前は高校生のときに「学習」した。どんな思想かも「暗記」した。倫理社会という科目だ。不得意だった文系科目の中でも比較的好きな科目だった。

それは、当時の自分が苦悩する青春のど真ん中にあり、悩みを解くのに多少は役立つかもしれないと思ったからだ。しかし実際は、薄っぺらい教科書や参考書を「勉強」する程度では思想内容を理解するには至るはずもなく、従って自分の悩み解決に資することはできなかった。

歳を重ねてもはや悩むことすら少なくなってすっかり「枯れてしまった」この僕(笑)に、再びこれらの哲学者の思想内容を明確なイメージをもって提示してくれたのが本書だ。しかもその思想内容は決して机上の空論ではなく、現実社会において激しい議論を巻き起こしている論争の基盤になっているものだった。

本書では、現代社会論争の論拠となっている「三大理念」を詳しく解説する。(1)幸福の最大化(ベンサムの功利主義)、(2)自由と自律の尊重(リバタリアン思想およびカントの思想)、そして(3)美徳の涵養(アリストテレスの思想)である。

本書が他の難しい哲学書や教科書(笑)に比べてとても読みやすいのは、具体例が実際に論争を巻き起こしたテーマが多いため、争点のイメージが掴みやすいためだ。それに加えて、暴走路面電車などの仮想物語を併用することによって、我々の正義がどのような道徳的根拠に立っているかが明確になってゆく。

結論から言うと(ネタバレ注意)、功利主義では測りきれない「価値」が存在し、自由至上主義では反証しにくい「偶然性」の問題が存在することを明らかにする。そして我々はアリストテレスの哲学に引き戻される。公平な分配の正義を決めるためには物事の「テロス」(目的)を調べなくてはならない、ということが主張される。

戦争責任のような集団的道徳責任は誰にあるかという問題に対しても、自由主義的な道徳的個人主義の考え方に反証しながら、連帯の責務(コミュニタリアニズム)の思想に行き着く。

本書の最終的な結論に、サンデル氏自身の思想信条(コミュニタリアニズム)が反映されているのは確かである。しかし本書の真価は、激しい論争となっている諸問題(戦争責任、中絶問題、課税問題など)において感情的議論に隠されて見失いがちな論拠を、「三大理念」としてクリアに抽出してみせたという点にあると思う。

これら三大理念を念頭に置いて議論に参加すれば、他人の論点を容易に把握できる。議論が白熱してくるとしばしば繰り出される感情的な言葉の陰に隠れてしまいがちな議論の本質を見失わないで済む。

本書を読んで、枯れてしまったと思っていた僕の「正義感」が、再びむくむくと力強く回復してきたのを感じる。サンデル式分析法で、これまで考えてきた自分の「正義」の中身をいちから分析し直してみよう。

枯れるのはまだ、早い(笑)。