リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理(ダン・ガードナー 著)
以前の記事「反原発の正義の話をしよう」で、ヒステリックな反原発運動の欺瞞と原発の必要性について、正義の観点から述べた。それを書いた後にも、僕の頭の中ではまだ十分に整理できていない部分が残った。
なぜ人は原発という低リスクなベネフィットを避けて、脱(反)原発という高リスクな選択に走ってしまうのか? 一部の人間はなぜウソをついてまでデマや歪んだ情報を無反省に流し続けるのか? 十分な時間が経っているにもかかわらず、一般人にはなぜ科学者の言葉や科学的言及はかくも浸透しないのか?
「知らないものへの恐怖」が関係していることは薄々分かっていたが、この本を読んでようやく原因が明確になった。
福島第一原発の建屋が爆発したシーンと東北沿岸に津波が押し寄せたシーンとが合体して、生々しい記憶として刻みつけられたことによる「実例規則」が発動し、理性(頭)が思考停止して感情(腹)が赴くままに、「原発廃止」という高リスクを自ら招いてしまう。今回の原発事故で放出された放射能による健康被害が軽微であるにも関わらず、恐怖のあまりに「確率盲目」「分母盲目」になってしまい、野菜などの必須食物の摂取を回避したり外出を控えたりして、栄養不足・運動不足により自ら健康被害を招いてしまう。
なぜ原子力はダメで、それよりも桁違いに大量の死者を出し続けている自動車や火力発電、喫煙や飲酒は容認できるのか? 人々が利便性を実感しているからだと、今まで僕は思っていた。しかしそれよりももっと明快な説明が本書でなされている。「良い・悪い規則」である。
自動車や火力発電は使い馴れているから「良い」もの。喫煙や飲酒は気持ちよいから「良い」もの。自分が良いと思っているものは低リスクであり安全であるという思い込み。しかし実際には毎年大量の死者を出し続けている。それに対して原子力は放射性物質や廃棄物を出す「悪い」もの。自分が悪いと思っているものは高リスクであり危険なものであるという思い込み。しかし実際には原発由来の死者は過去の全世界の原発事故全て足し合わせたとしても、自動車事故などと比べると無視できる数にしかならない。「自然」エネルギーは全て良いもので、原子力などの「人工」的なものは全て悪いものと無批判に思い込み。しかし良い悪いだけで判断してしまうために、太陽光などの不安定エネルギーに代替することによる経済的損失については全く「頭」が働かなくなってしまう。
今回の原発事故をきっかけに、メディアやジャーナリスト、政治家、企業家、学者、アーティスト、アイドルに至るまで、デマや誤った情報を拡散し、一部の人間に至ってはウソをついてまで反原発活動を継続している。僕は彼らに憤り続けてきたわけだが、本書により彼らの意図がより明確になった。恐怖を利用して儲けようとしているのだ。人は恐怖に突き動かされると「頭」が働くよりもずっと素早く「腹」が反応し、「原発は悪いもの=ハイリスクなもの」という情動ヒューリスティックが作動して思考停止状態になる。そして一旦反原発という見解が形成されるとそれを支持する情報を好意的に受け入れ、それ以外は無視するか拒否するようになる(=確証バイアス)。反原発活動家はこのような人々の特性を利用して、自分の利益(売上、私利、人気、支持、支援、購読数、寄付)に繋げようとする。安全安心は儲けにならないが恐怖は儲かる。原発の恐怖を煽り、デマを流し続け、無反省にウソをつき続けるのは、それにより自分の利益を最大化しようとするためである。
科学的情報や科学者の意見は望むほど強い影響がないことも、本書で述べられている。それほど「腹」の思い込みは強く、「頭」の働きは遅いのである。人は「数」ではなく「話」に引きつけられてしまう。たった一人の少女の小児ガンの「話」に涙して過剰な支援を行う反面、それよりも大量の死者を出している糖尿病のようなありふれた目立たない話には少ない関心しか示さない。また、科学的に間違っていると分かっていても声高の反原発派の意見に同調してしまう(=同調バイアス)。
人々がよくできた「話」に弱いこともしばしば利用される。「テロリストが飛行機をハイジャックして原発に突っ込んだら大惨事になる」みたいな「話」は、想像が容易であるだけに反原発派によく利用されるが、その確率は「テロリストが飛行機をハイジャックする」という心配するには小さすぎる確率(=デミニミス)よりもさらに小さい。これは「典型的なものに関する規則」として本書で述べられている。
このように、いくら人々の「頭」に辛抱強く問いかけても、たった一つの「話」によって人々は判断を容易に誤り、同調圧力によって間違った意見を固定化してしまう。科学的言論を行う者にとっては厳しい現実だが、人々が「腹で」感じて判断するという現状はなかなか変えることはできない。
そして第11章「テロに脅えて」の考察は本書の中でも最も刺激的な箇所である。仮に米国都市の中心で核爆発テロが起こったとして約10万人が死ぬ。しかしこれは毎年糖尿病で死ぬ米国人数7.5万人よりずっと多いわけではなく、死亡者という観点から見れば「核テロ攻撃は大惨事とは言えない」。この言明が理解できるかどうかで、自分の中で「腹」と「頭」のどちらに支配されているかが分かるだろう。そして米国での対テロ戦争の愚かさに気付ける人は、脱(反)原発活動の愚かさにもすぐに気付くだろう。
本書を読み終えて、「石器時代から現代に至るまで、結局われわれは感情に支配されて合理的な判断ができない存在のままである」といういささか絶望的な気分にさせられた。しかし本書のもう一つの結論を読み返そう。
「過去は常に今よりも確かに見え、それのために未来はますます不確かに感じられる(=後知恵バイアス)が、それは錯覚である」
「先進国に暮らしている者は、歴史上最も安全で、最も健康であり、そしてもっとも裕福な人間である」
「腹」の特性を利用して儲けようという人間によりリスクが高まっている今、「頭」を働かせよと言い続けることに今後も多少の意義はあるだろう。これからも自分の「頭」で考え、人々の「頭」に訴えかけることを辛抱強くやり続けるしかない。