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【読書ノート】 あなたはリスクに騙される(ダン・ガードナー)

2012-08-14 16:49:27 | ツイッター

リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理
リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理(ダン・ガードナー 著


以前の記事「反原発の正義の話をしよう」で、ヒステリックな反原発運動の欺瞞と原発の必要性について、正義の観点から述べた。それを書いた後にも、僕の頭の中ではまだ十分に整理できていない部分が残った。

なぜ人は原発という低リスクなベネフィットを避けて、脱(反)原発という高リスクな選択に走ってしまうのか? 一部の人間はなぜウソをついてまでデマや歪んだ情報を無反省に流し続けるのか? 十分な時間が経っているにもかかわらず、一般人にはなぜ科学者の言葉や科学的言及はかくも浸透しないのか?

「知らないものへの恐怖」が関係していることは薄々分かっていたが、この本を読んでようやく原因が明確になった。

福島第一原発の建屋が爆発したシーンと東北沿岸に津波が押し寄せたシーンとが合体して、生々しい記憶として刻みつけられたことによる「実例規則」が発動し、理性(頭)が思考停止して感情(腹)が赴くままに、「原発廃止」という高リスクを自ら招いてしまう。今回の原発事故で放出された放射能による健康被害が軽微であるにも関わらず、恐怖のあまりに「確率盲目」「分母盲目」になってしまい、野菜などの必須食物の摂取を回避したり外出を控えたりして、栄養不足・運動不足により自ら健康被害を招いてしまう。

なぜ原子力はダメで、それよりも桁違いに大量の死者を出し続けている自動車や火力発電、喫煙や飲酒は容認できるのか? 人々が利便性を実感しているからだと、今まで僕は思っていた。しかしそれよりももっと明快な説明が本書でなされている。「良い・悪い規則」である。

自動車や火力発電は使い馴れているから「良い」もの。喫煙や飲酒は気持ちよいから「良い」もの。自分が良いと思っているものは低リスクであり安全であるという思い込み。しかし実際には毎年大量の死者を出し続けている。それに対して原子力は放射性物質や廃棄物を出す「悪い」もの。自分が悪いと思っているものは高リスクであり危険なものであるという思い込み。しかし実際には原発由来の死者は過去の全世界の原発事故全て足し合わせたとしても、自動車事故などと比べると無視できる数にしかならない。「自然」エネルギーは全て良いもので、原子力などの「人工」的なものは全て悪いものと無批判に思い込み。しかし良い悪いだけで判断してしまうために、太陽光などの不安定エネルギーに代替することによる経済的損失については全く「頭」が働かなくなってしまう。

今回の原発事故をきっかけに、メディアやジャーナリスト、政治家、企業家、学者、アーティスト、アイドルに至るまで、デマや誤った情報を拡散し、一部の人間に至ってはウソをついてまで反原発活動を継続している。僕は彼らに憤り続けてきたわけだが、本書により彼らの意図がより明確になった。恐怖を利用して儲けようとしているのだ。人は恐怖に突き動かされると「頭」が働くよりもずっと素早く「腹」が反応し、「原発は悪いもの=ハイリスクなもの」という情動ヒューリスティックが作動して思考停止状態になる。そして一旦反原発という見解が形成されるとそれを支持する情報を好意的に受け入れ、それ以外は無視するか拒否するようになる(=確証バイアス)。反原発活動家はこのような人々の特性を利用して、自分の利益(売上、私利、人気、支持、支援、購読数、寄付)に繋げようとする。安全安心は儲けにならないが恐怖は儲かる。原発の恐怖を煽り、デマを流し続け、無反省にウソをつき続けるのは、それにより自分の利益を最大化しようとするためである。

科学的情報や科学者の意見は望むほど強い影響がないことも、本書で述べられている。それほど「腹」の思い込みは強く、「頭」の働きは遅いのである。人は「数」ではなく「話」に引きつけられてしまう。たった一人の少女の小児ガンの「話」に涙して過剰な支援を行う反面、それよりも大量の死者を出している糖尿病のようなありふれた目立たない話には少ない関心しか示さない。また、科学的に間違っていると分かっていても声高の反原発派の意見に同調してしまう(=同調バイアス)。

人々がよくできた「話」に弱いこともしばしば利用される。「テロリストが飛行機をハイジャックして原発に突っ込んだら大惨事になる」みたいな「話」は、想像が容易であるだけに反原発派によく利用されるが、その確率は「テロリストが飛行機をハイジャックする」という心配するには小さすぎる確率(=デミニミス)よりもさらに小さい。これは「典型的なものに関する規則」として本書で述べられている。

このように、いくら人々の「頭」に辛抱強く問いかけても、たった一つの「話」によって人々は判断を容易に誤り、同調圧力によって間違った意見を固定化してしまう。科学的言論を行う者にとっては厳しい現実だが、人々が「腹で」感じて判断するという現状はなかなか変えることはできない。

そして第11章「テロに脅えて」の考察は本書の中でも最も刺激的な箇所である。仮に米国都市の中心で核爆発テロが起こったとして約10万人が死ぬ。しかしこれは毎年糖尿病で死ぬ米国人数7.5万人よりずっと多いわけではなく、死亡者という観点から見れば「核テロ攻撃は大惨事とは言えない」。この言明が理解できるかどうかで、自分の中で「腹」と「頭」のどちらに支配されているかが分かるだろう。そして米国での対テロ戦争の愚かさに気付ける人は、脱(反)原発活動の愚かさにもすぐに気付くだろう。

本書を読み終えて、「石器時代から現代に至るまで、結局われわれは感情に支配されて合理的な判断ができない存在のままである」といういささか絶望的な気分にさせられた。しかし本書のもう一つの結論を読み返そう。

「過去は常に今よりも確かに見え、それのために未来はますます不確かに感じられる(=後知恵バイアス)が、それは錯覚である」

「先進国に暮らしている者は、歴史上最も安全で、最も健康であり、そしてもっとも裕福な人間である」

「腹」の特性を利用して儲けようという人間によりリスクが高まっている今、「頭」を働かせよと言い続けることに今後も多少の意義はあるだろう。これからも自分の「頭」で考え、人々の「頭」に訴えかけることを辛抱強くやり続けるしかない。


【読書ノート】 エネルギー論争の盲点 (石井彰)

2012-07-20 19:52:23 | 書評

エネルギー論争の盲点―天然ガスと分散化が日本を救う (石井彰 著)

福島第一原発の事故により原子力発電の安全神話が崩壊し、反原発派の激しい反対運動によって日本における原子力発電は再稼働するのでさえ大きな困難を生じており、今後の新設などに至ってはほとんど不可能であることが予想される。当面の電力安定供給のためには、安全性を高めつつ既存の原発を稼働してゆく他ないが、いずれこれらの原発も寿命がくれば延命されることなく停止・廃炉することになるだろう。

すなわち日本は好むと好まざるとに関わらず、脱原発の道に進まざるを得ないと思われる。

原発の代替として太陽光発電などの再生可能エネルギーに期待が集まっているが、30%にも上っている原発の発電量をまかなうには全く力不足である。そもそも安定供給を必要とするベース電力には向かないし、発電コストも高すぎる。

従って当面は火力発電を増強せざるを得ないが、火力発電には大気汚染物質のNOxや地球温暖化ガスのCO2を排出するという環境的デメリットがある。近年地球上様々な場所で起こっている異常気象とそれによる豪雨・洪水・干ばつは地球住民に甚大な被害をもたらしている。先日起こった九州北部豪雨の甚大な被害は記憶に新しい。原発の替わりに火力発電を増やすことは、大気汚染と地球温暖化を促進し、かえって自然災害や健康被害を増大させるリスクが増えてしまう怖れがある。

果たして我々は長期的にどういうエネルギー源を選択してゆけばいいのだろうか? そう考えていたときに本書を知った。

本書は上述の問いに対してずばり「天然ガス」という明快な答えを出す。著者は再生エネルギーに対する安易な技術楽観論やコストを度外視した政策を批判しながら、原発擁護でも反原発でもない第三の道として天然ガスによる火力発電の活用を提案する。

僕もCO2排出量さえ増えなければ他の方法で原発は無くしてもよいと考えていた。簡単にだが計算してみよう。2010年における日本の発電量の割合は下記の通りだ。

石炭                    24.7%
石油                      7.6%
天然ガス             29.4%    
火力の合計        61.7%

原子力                29.2%

同一エネルギー出力に対するCO2排出量は、石炭100に対して石油75、天然ガス55だという。同一エネルギー出力を発電量に等しいと仮定すると、CO2排出量は24.7×100 + 7.6×75 + 29.4×55 = 4657。燃料を石炭と石油から天然ガスに置き換えたとするとCO2は61.7×55 = 3394に減るが、原発の発電量29.2を天然ガスで転換するので、29.2×55=1617を足して合計で3394+1617 = 5011となって、単純に脱原発・天然ガスへの置き換えだけではCO2排出量が4657→5011と7.6%増えてしまうことになる。

しかし、本書で紹介されている「コンバインドサイクル」と呼ばれる天然ガス発電方法を用いると、高温でガスタービンを回しつつ発生した熱エネルギーで蒸気タービンを回すことによって効率よくエネルギーを使うことができる。この方式を用いると同じ発電量に対するCO2排出量を大幅に低減することができるという。

方式によって変わるので一概には言えないが、本書に載っている図7(111ページ)を使って概算してみる。石炭をコンバインドサイクルに置換することでCO2量がなんと最大で1/3にできるようだ。そこで同一エネルギー出力に対するCO排出量が石炭3:石油2:天然ガス1にできると仮定しよう。先ほどと同様に計算すると脱原発前のCO2は24.7×3 + 7.6×2 + 29.4×1 = 118.7、脱原発後は61.7+29.2 = 90.9となんと23%も減少する。最大に見積もったとはいえ、この減り方はすごい。

実際に中国電力・水島発電所1号機は石炭から天然ガスコンバインドサイクルに転換することによってCO2排出量を60%(!)削減したらしい。

水島発電所1号機 コンバインドサイクル発電方式採用でCO2排出量6割削減
http://www.ecool.jp/press/2009/04/post-86.html


僕はこれまで脱原発で火力発電が増えればCO2が増えてしまうと思い込んでいたが、コンバインドサイクルのような最新の火力発電に代替することによって、CO2排出量を減らしながら脱原発できるという理想的な解決方法があることを知った。

各国の天然ガス田の発見やシェールガス革命によって資源開拓が急速に進みつつあり、天然ガスは埋蔵量も豊富。国際調達リスクが石油に比べて低い。今は液化して輸入しているが、本書の提案のとおりにサハリンからパイプラインを引けば調達コストも低減されるだろう。今後、天然ガスは石油に変わる主力エネルギー源となることが期待される。

さらに本書はエネルギー源の安定供給やリスク回避のために分散化も提言している。理想論やイデオロギーではない中立の立場から具体的で現実可能性の高い提案を行っている本書を読んで、脱原発への方向性が僕にもはっきり見えた気がする。脱原発への切り札は再生エネルギーではなく、天然ガスであるということだ。


反原発の正義の話をしよう (その3: 反原発の欺瞞と偽善)

2012-07-12 21:07:33 | 日記

反原発の正義の話をしよう(その1:序論)、(その2:原発の必要性)に引き続き、今回は反原発運動が持つ欺瞞と偽善について述べます。

すべからく利便性や快楽はリスクとベネフィットの両面を持っている。火力発電というベネフィットのもつ大きなリスクについては前回の記事で述べた。もう一つの例として自動車を挙げよう。平成22年中に日本においては4,863名の交通事故死者を出している。このうち2.3%(111人)は15歳以下の子供である。事故だけではない。排ガスによる大気汚染が原因の肺がんや喘息によっても毎年数千人の死者を出し続けていると推定されている。

それに対して、福島原発事故では直接原因による死亡者はゼロ、避難や移住が原因の死者(精神的ストレス死など)をカウントしても「累積ですら」自動車による「毎年の」死亡者には桁違いに及ばない。にも関わらず、なぜ原発にはヒステリックに反対する人間がいるのだろうか?

それは人々が負の感情に支配されて、リスクベネフィットを正しく認識できなくなってしまったからである。自分の知らないもの・理解できないもの・見えないものに対する恐怖、(自動車などと異なり)自分が直接コントロールできないことに対する不安、自分が信用していない人(東電・政府)がオペレートしていることに対する不信。これら負の感情によって完全にリスクを読み違え、合理的な判断ができなくなり反原発という逆にリスクを高める行動に走っているのである。

逆に、自動車が毎年数千人単位の命を奪っておきながら、反自動車を叫ぶ人はほとんどいないのはなぜか? おそらく最大の理由は、自動車は生活に欠かせないという利便性からだろう。自動車は毎年数千人近くの人をコンスタントに殺すリスクを持っているが、それを上回るベネフィットが社会にあると考えているから反対しないのである。自動車に関しては人々は合理的にリスクベネフィットを計算し、車社会を容認しているのである。むしろ「自分だけは事故は起こさない(事故に遭わない)」という「リスクの過小評価」すら感じられるほどだ。

「自動車は欠かせないから無くせないが、原発は代替エネルギーがあるから無くせる」という意見は反原発派ばかりでなく広く人々のあいだに存在する。一見合理的な論理のように聞こえる。原発が当面無くせないことは前回の記事で述べたとおりだが、「欠かせないから無くせない」という前提はどのような「正義」に基づいているだろうか? そこで「車は欠かせないから毎年5千人死のうが無くせない」と言い換えれば、この意見のもつ「悪魔の側面」に気付くだろう。

すなわち、利便性が行き渡った我々の社会では、人の命や健康や環境を犠牲にするリスクを負ったとしても、それを上回るベネフィットをもたらすものを許容しているのが現実の姿なのだ。車だけではない。ダム、道路、飛行機など、いたるところに同じ構図が見られる。従って、原子力エネルギーも一時的な感情に基づくのではなく真のリスクを合理的に勘案し、それを上回るベネフィットを相変わらず持っていることを冷静に確認する必要がある。

利便性や快楽の持つリスクベネフィットを勘案するというやり方は、サンデル流にいえば功利主義ということになるだろう。サンデル講義では功利主義は人権の蹂躙や少数意見の抹殺、拝金主義の弊害を招くものとしてネガティブな例が数多く挙げられた。しかし我々の現実の政治や経済においては、様々な利便性と快楽を許容するかどうかは功利主義に基づいて決められている。「生活に欠かせないから(人が死のうが)無くせない」と主張することは、「難破船の中で生き残るためには弱った人間を殺してその人肉を食うのもやむを得ない」と主張するに等しいかもしれないということは、はっきり自覚する必要がある。我々は決してきれい事だけの社会に生きているわけではない。

反原発派がしばしば掲げる「いのちを守れ」とか「子供の未来を守れ」などというスローガンは、サンデル流にいえば人間の尊厳を第一義に考えるカント主義に基づいているように見える。しかし、原発以上に人を大量かつコンスタントに殺し続け、原発以上に深刻な環境被害をもたらしているハイリスクなベネフィット(例えば火力発電と自動車)については都合よく許容し、その恩恵に浴し、時には自分だけはリスクは無縁などと思い上がりながら、罪の意識を感じないように他人にリスクを押しつけている。そういうカントの理想からほど遠い人間が、こと原発に関してだけ「いのちを守れ」などと叫ぶ資格があるだろうか? 自分は利便性をぬくぬくと甘受していながら「いのちが大事」などと叫んでいるとすればそれは単なる偽善であり、自分の気に入らないものだけ排除するためにこどもをダシにしているとすればそれは許し難い欺瞞である。

利便性のもつ悪魔の側面はリスクだけではない。それはしばしばサクリファイス(犠牲)を要求することを忘れてはならない。原発反対の理由としてしばしば聞かれるのは、原発事故が起これば周りの住民や村々や自然が壊滅させてしてしまうからだというものがある。それならば自分たちがこれまで便利に使ってきたダム、道路、空港についてはどう考えるのか? これらを建設する際に、原発事故とは比較にならないほど多くの住民や村々を強制移転させて自然を破壊して犠牲を強いてきた。自分がこれまで他人に押しつけてきた様々な犠牲のことは知らんぷりして、原発立地周辺住民の意志を勝手に憑依して反原発を叫ぶような度し難い偽善を、ここでも発見することができる。

サンデル先生の教えのとおり、コミュニティで生きる以上、大きいものは原発から小さいものは地域のごみ処理や火葬場建設に至るまで、コミュニティの成員たる我々はさまざまのリスクと犠牲を他人に負わせている。リスクがあり犠牲が出るからといって生活に浸透している様々な利便性や快楽を捨てるわけにはいかない。現実社会はもう引き返せないほどそれらに取り込まれてしまっているからだ。誰かが汚い・危険・きついものを引き受けなければならないコミュニティの現実を正しく認識し、リスクを負い犠牲を払ってくれている方々に常に感謝の念を忘れず、事故が起こってしまったらしかるべき補償を粛々と行いつつ、リスクベネフィットを勘案しながらコミュニティは前に前に進むしかないのである。

取りあえず今回で「反原発の正義の話」シリーズは終わりです。今も移住先で不便な生活を強いられている被災者の方々、地域の復興や大量のがれきの処理に困っている被災者の方々に対して、震災を風化させることなく、できる限りの支援を継続することを誓ってこのシリーズを終わります。


反原発の正義の話をしよう (その2:原子力発電の必要性について)

2012-07-11 20:11:58 | 日記

反原発の正義の話をしよう(その1)に引き続き、今回の記事では原子力発電の必要性について述べます。

震災前の原子力発電量の割合は30%近くに上っていた。原発を性急に止めるとなれば、これだけ多くの発電量を他の電力エネルギー源でまかなったり、電力需要自体を下げる(=節電する)必要が出てくる。太陽光発電などの自然エネルギーに期待が集まっているが、現在の技術レベルでは発電量としても安定電源としても原発の代替となるには遠く及ばない。となると今後長期に渡って火力エネルギー源で不足を埋めなければならないことになる。

それは地球温暖化や大気汚染など他の環境リスク・健康リスクを発生させ、日本での肺がん増加などの健康被害ばかりでなく、地球上で洪水などの自然災害や異常気象を発生させることになる。環境被害はまさしく因果関係が直接証明できないという意味で放射線被曝被害と同列におかれるべきリスクであるから、どんな低い放射線被曝も危険だなどと叫ぶ人たちは、火力発電による環境被害の危険性についても同列に叫ぶべきだろう。

しかし反原発派は地球温暖化防止のために国際社会が多大な努力を払ってきた経緯などすっかり忘れてしまっているようだ。原子力発電を世界が推進してきたのは、地球温暖化防止のためだったはず。それなのに日本だけ反原発・火力に逆行して地球温暖化ガス出しまくりなどということが許されるとでも思っているのだろうか。結局、反原発という行為は決して麗しいものではなく、環境リスクを他の地球住民に押しつけることによって、自分だけリスクを減らしたいと考える身勝手な行為なのである。

火力発電の増加と節電圧力は経済リスクも増大させる。燃料購入費増加による国民負担の増大、電力不足による企業の倒産や海外流出、そしてエネルギー自給率の低下による国際リスクの増大、節電運動による労働生産性の低下などにより、総じて国民経済が脅かされれば経済弱者(老人や貧困層)から先に、多くの死人を出すことは昨夏の経験から身に沁みて実感しているはず。死者が出ないようにと原発を停止することで、逆に他のリスクを増大させて(弱者から先に)死者を増やすことになるのだ。

現在、国内では原発再稼働反対デモなどという茶番が繰り広げられている。原発を再稼働しないからといって原発が安全になったということはなく、燃料棒が冷え切るまで何十年にもわたってずっと冷やし続けなければならない。デモを行うなどして原発再稼働を阻止しようという行動は反原発派の虚しい示威(自慰)行為に過ぎない。

他の技術と同様に、科学技術というパンドラの箱を開けていったん手にしてしまった以上、原子力というエネルギーは技術革新しながら維持しコントロールし続ける以外にない。今後の技術革新の中で、原子力や火力を上回る対コストパフォーマンス・対リスクパフォーマンスのよい技術が将来実用化されるという条件の下でなら、ゆっくりと段階的に「脱原発」してもよいと僕は考える。新エネルギー技術が開発されるまでは既存の原子力施設の安全性を強化しつつ、原子力エネルギー利用を維持・継続してゆく以外に道はないと考える。

次回は反原発という名の偽善と欺瞞について述べます。(つづく)


反原発の正義の話をしよう (その1:序論)

2012-07-10 21:10:03 | 日記

これまで何回か書いてきた「正義」シリーズ。サンデル先生の講義に基づき、現代の諸問題を分析してきた。これまでは分析主体であまり自分の意見を出さないスタイルだったが、今回は原発問題についてサンデル分析法を僕なりに活用して僕自身の考える「正義」をストレートに書く。

原発事故が起こった直後はパニック状態だったせいもあったが、デマや不正確な情報が多く流されて人々を不必要な不安に陥れた。それと並行して、従来型の「反政府・反権力は常に正義である」と考えるタイプの人間達と、原子力を使った発電方法やその政策に反対し、今存在している原子力発電施設を即時廃止しようとして「反原発は常に正義である」と叫ぶタイプの人間たちが合流し、自分たちの思想にそぐわない政治家・専門家・ジャーナリストに対する激しい非難中傷が開始された。「原発利権」「原発ムラ」「御用学者(ジャーナリスト)」といった、彼らお得意の思考停止型レッテル張りがそこで安易に行われ、パニックに陥った人々は政府や専門家に対する不信感を増大させられる結果となった。

そうやって反原発派がいい加減な情報を繰り返し流すことは、僕にとって本当にストレスだった。どんな誤情報でもいったん流してしまえば「反原発ムラ」の住民たちが素早く拡散してくれることを彼らはよく知っている。冷静で正しい情報によりいずれは訂正されるが、その速度は遅いこともよく知っている。彼らはその時間差を利用するのだ。さすが卑怯者、やり方をよく知っているとしか言いようがない。

特に許しがたいのは、一部の大学教授やジャーナリストなど、教育をしっかり受け、本来人々に正しい知識を説明し、討論や民主主義の意義に基づいて冷静かつ合理的なオピニオンを先導する責任のあるはずのこれらの人間が、率先して誤った情報を流し、危機を煽り、人々を無用な不安に陥れた(未だに陥れ続けている)ことだ。僕は彼らを絶対に許すことができない。あまりの憤りで僕は原発事故後しばらくツイートする気力を無くしてしまったくらいだ。

原発事故の実態が少しずつ明らかになってきて、放射能汚染の範囲や程度、および人の健康への影響が当初懸念されていたよりもはるかに小さく、幸いにも今後の健康被害が最小限にコントロール可能であることが分かってきた。しかし未だに放射線被曝に対する過度な恐怖から逃れられない人達がいる。事故からこれだけ十分な時間が経ったにも関わらず、正しく理解しようとする努力や知力がそもそも欠けているのが主な原因だと思うが、人の不安心理につけ込む連中(例えば人気取りや宗教勧誘や営業活動)に騙されて利用されてしまっている場合も多く見受けられる。

僕の原子力(原子力発電を含む)技術に対する意見は次の二つ。まず一つ目は原発は今後しばらくは必要不可欠であるということ。事故が起きたからといってすぐに原発だけを無くそうなどということは不可能であり、無くすとしても数十年単位でゆっくりと代替化を行ってゆかないと逆に死人を増加させる結果を招くということ。もう一つは、原発は他の利便性や快楽(水力発電、火力発電、自動車、航空機、喫煙、飲酒)とリスクベネフィットを勘案するに当たっては全く同列に扱われるべきであり、原発の危険性だけを抜き出してヒステリーを煽るのは間違っているだけでなく欺瞞であり、他人にサクリファイス(犠牲)を強いてきた過去を忘れているという意味で偽善であるということだ。

次の記事で、もう少し詳しくその根拠を述べようと思う。(つづく)