黒猫チャペルのつぶやき

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父殿と母殿について その1

2010年12月08日 | みのりのつぶやき-成長の足跡
 このあたりで私の父殿と母殿の人となりについて、私の知りえた範囲で記しておきたい。経歴にしても性向にしても、お二人それぞれに個性的であり、私の人格形成に与えるところの影響は大きく、私自身で整理する意味でも良い機会と思う。

 父殿は昭和45年の元旦生まれ。大阪で生まれ育っている。祖父殿は私の生まれる前、父殿と母殿が結婚された年に亡くなっていて、私はお目にかかれなかったが、新聞記者でいらっしゃったとのこと。若い頃から亡くなるに至るまで豪酒家で、喧嘩っぱやいところもあり、お酒の上での過ちは数知れなかったと言われる。昭和15年の生まれで、26才の折に昭和18年生まれの祖母殿とお見合いをして結婚、その年の暮に長男が誕生、2年後次男であるところの父殿が生まれる。大阪北郊の高槻市で幼年期を過ごし、父殿8才の年に現在の祖母殿宅である大阪市内のマンションに居を移される。小学校では、足だけは速いもののスポーツはさっぱりだったようだが、勉強はむやみにできたらしい。読書好きで、こまっしゃくれた口をきく、やや子供らしさに欠けたところのある子供だったようだ。

 同じく学校の勉強のできた伯父君(父殿の兄)がピアノを習ったりクラッシック音楽を好まれたりしたのと対照的に、父殿は読書の傍ら魚釣りなどアウトドア方面に関心を持たれ、学校友達と川や池に頻繁に遊ばれた。祖父殿もそうしたレジャーを好まれ、幼いころからよく家族で飯盒炊さんなどにも連れていかれたが、父殿がある程度大きくなると、釣り好きのご友人などが渓流釣りに行ったり船釣りに出たりする機会があれば積極的に父殿を伴って加わり、大いに父殿を喜ばせた。それに加えるに、休日など、道頓堀や通天閣の周り、鶴橋などの猥雑な盛り場を歩くのを好まれたが、その際もしばしば父殿を同道され、居酒屋などに入ってご自身はビールを飲まれ父殿には焼き鳥や串カツなどを食べさせて眺めていた。伯父君はほとんどそうした場所に伴われることは無かったから、兄弟それぞれの性癖を祖父殿として見込んだ上での行動であったろうと思われる。こうして父殿は年少の頃から、街角の安直な食べ物や居酒屋の雰囲気に馴染んで育った。

 中学校に入っても勉強は常にトップクラスだった。読書熱は一層高まり、国語の教科書の末尾についている文学史年表に記載されている外国文学を片端から読まれた他、眉村卓、筒井康隆、平井和正などのSF小説を乱読、また北杜夫、曾野綾子などの作品を好まれた。同年代の中学生の間ではやや浮き上がった存在だったようで、名字に様をつけた呼び名を尊敬とからかいの相半ばしたニックネームとして呼ばれ、同じように浮いた存在の、映画マニアであったり軍事マニアであったりSFマニアであったりするようなエキセントリックなところのある級友とばかりつき合った挙句、自ら変態集団と呼称したりした。

 公立の名門高校に進学。なお伯父君も同じ高校に進まれている。大阪府内の秀才が集まる学校だけに、決して努力家ではないところの父殿はここでは成績は振るわず、せいぜい中の下というところだったらしい。同級生に現大阪府知事がおられたとのこと。山岳部に入部、地図や天気図の読み方、歩行、幕営技術などを習得し、以降山登りに熱中する。ここでの仲間には哲学や文学談義を愛する者が多く、父殿としては初めて自分が浮き上がる感じを持つことなく溶け込めたという。冬休みには近所の和菓子店でアルバイトに精出し稼いだお金で登山用具を買い、翌年の夏には今度は精肉店でアルバイト、山岳部としての活動とは別に単独で北海道旅行に出かけ、テントを担いで各地を野宿で回って歩いた。読書の方ではロシア文学に傾倒し、特にドストエフスキーを好んで全ての長編を繰り返し読んだ。ニーテェの哲学にも大きく影響されたという。

 神戸大学経営学部に進学。ワンダーフォーゲル部に入るが、夏の合宿で団体行動に嫌気がさし退部。その後は主に高校山岳部の先輩と休みの度に山に入る。活動資金捻出のため家庭教師をはじめ様々なアルバイトに学業以上に熱心に取り組む。中之島の中央公会堂地下にあるハヤシライスが名物のレストランで調理補助のアルバイトをしていたとき、シェフの奥さんに「プロの料理人になる気ない?」と誘われ、一時大いに心を動かしたという。入学から一年を経た春休みには、鑑真号という客船に乗って上海に渡り、1か月近く一人で中国各地を鉄道で旅する。無論中国語など一言も話せないが、すべて筆談で用は足りたとのこと。翌年には西ヨーロッパ8か国を巡り、さらに次の年にはアメリカ西海岸に滞在する旅をしている。また国内でも、東北、四国、九州などにそれぞれ長期の旅行をし、日本百名山を意識して多くの名峰に登頂。この頃、高校在学中に購読していたSゼミという学習教材のOB向けの雑誌があり、その中に文通相手募集のページ設けられていて、「哲学的な議論を好む方」を探しているという同年輩の女学生に手紙を送る。以後、8年に渡って文通が続く。その相手が何を隠そう、現在の母殿である。

 進学した早々から酒を大いに愛するようになり、しばしば酔っぱらっては前後不覚になった。初めて飛行機に乗ってパリに行った時は機内で完全に酔っ払い、空港からどこをどう走ってパリ市内に入ったか記憶が無いという。また一時期はパチンコにのめりこみ、アルバイトして得たお金を全てつぎ込み、昼食代にも事欠いたりした。卒業時期となり、大手保険会社に内定を得ていたが生活ぶりがたたって単位が取れず、留年。内定はふいになり、翌年はバブルの崩壊とやらで極端に厳しくなった求人状況の中、どうにか某クレジットカード会社の内定を得、最低限の必要単位数だけぎりぎりで取得して卒業、東京の独身寮に移り住み、一人暮らしを始める。以後、生活ぶりはますます乱脈を極め、給与の大半が飲み代に消えたようである。行く店は概ね極安直な居酒屋、炉端焼き屋であるが、肴にもお酒にもうまいと思えば糸目をつけず、繰り出す回数も多いから生活はいつもかつかつであった。その上寮の自室でも飲む。毎日、欠かさず飲む。

 この頃の読書は司馬遼太郎、山本周五郎といったものも多く読んだが、祖父殿も傾倒されたという檀一雄の著作に特に惹かれるところが大きかったという。また色川武大、山口瞳といった作家も愛読。休日には地方の競馬場などに遠征することもあったがのめりこむことはなく、むしろ雰囲気と雑多な食物を楽しみに行かれた様子。週末や夏の休暇などでは山に出かけることは相変わらず、一週間に渡って一人で南アルプスを縦走したり北海道を歩いたりしている。仕事はそれなりにしていたようだが、特に熱意を抱いていた形跡は無い。東京に出てきた翌年の春、母殿の大学院卒業制作展が前橋市で開かれているのにふらりと顔を出し、初めて顔を合わされる。もっともその後もそれまで同様の文通が続くのみで、とりたてての発展は無し。寮の近くの鮨屋の馴染みになる。決して安い店ではなく、よくプロゴルファーや噺家などが出入りしていたがお高くとまったところはなく、安サラリーマンである父殿も気がねなく仲間感覚で過ごせた。魚がおいしいのはもちろん、主人が好きで集めた全国の銘酒を講釈を交えて飲ませてくれるので、いよいよ酒への傾斜が深まる。同期入社の仲間と海水浴に行ったりすることもあったようだが、つきあいは浅く、単独行動を専らとした。

 そんな生活を5年近く続けたある日。父殿は寮に入った当初から、部屋で酒を飲むとその空き瓶を押し入れの棚に並べておき、そのうち棚が一杯になると蓋だけをとっておくようにしていた。ふとそれを数えてみたところ丁度500本に達したことを発見する。その瞬間突如として、そうした生活を続けていくのが馬鹿馬鹿しくなり、退職を決意する。その夜のうちに荷物を整理し、翌朝早々に会社に辞意を伝え、余りに突然のことであるので無論慰留されたが詳細は語らずそのまま初志を貫き、数日後極近所の6畳に台所・ユニットバスつきのアパートに転居。実家には事後報告のみであった。周囲にとっては甚だ乱暴な話である。これを機に父殿は、正式に料理を学び、ゆくゆく小さな居酒屋店主としてやっていくことを心に決め、外食産業界は常に人手不足であったのを幸い、ただちに某居酒屋チェーンを展開する会社に店長候補として採用され、勤務を始める。それまでとは全く違った生活となり、出勤は昼過ぎ、料理の仕込みを一から教わり、開店準備を終えて賄いの食事を食べ、学生のアルバイトとともに威勢のいい声を出し焼き鳥を焼いたり唐揚げをあげたり。勤務時間は不規則な上重労働でもあったが、父殿としては大いに充実感を覚えたという。結果からいうと1年半程を経てまた父殿は普通のサラリーマンに戻るのだが、いまだにこの頃の生活をしばしば夢に見るという。

 半年ほど経って一通りの仕事を覚え、店長代理の肩書で店を任されるようになった頃、母殿から電話を受ける。どこかで逢いませんか?というお誘いであった。


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