黒猫チャペルのつぶやき

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父殿と母殿について その2

2010年12月09日 | みのりのつぶやき-成長の足跡
 母殿は昭和46年、東京のお生まれ。群馬県吾妻町の商家の長男である祖父殿と、静岡でみかん山や茶畑などを広く領する地主の長女である祖母殿が、東京の大学で同級生として知り合い、結婚し長女として母殿が誕生した。日野市、高幡不動尊の近くに祖母殿のご実家の援助で建てられた家で幼少期を過ごすが、程なく祖父殿が故郷群馬で高校教員の職を得られ前橋市内の公営住宅に転居。ただ祖母殿が体調を崩し入退院を繰り返す時期があり、母殿は吾妻町の祖父殿のご実家に預けられがちで、曾祖母殿や祖父殿の弟である大叔父殿と過ごされることが多かった。この大叔父殿は子供向けの当時学習塾を営む傍ら、現在もしばしば個展を開く画家でもあり、母殿にも積極的に絵を描かせるよう導いたところ、描線にも色彩にも鋭い感覚を示すのを見出し、幼い頃から絵筆を持たせるようになった。母殿も次第に興味を深め、空想を主題とする絵を次々に描くようになる。

 祖母殿もそのうちに健康を取り戻し、前橋の家で家族そろっての生活がはじまる。Y叔父、M叔父も誕生、M叔父については母殿と祖母殿でどちらも面倒をみたがって取りっこをしたという。小学校に入学し、勉強もかなり上の部だったが、絵については群を抜いた才能を発揮し、児童向けの展覧会では様々な賞を総なめにした。間もなく、前橋近郊の榛東村に新居を建て転居。現在の祖父母宅である。当時は家の周囲に全く建物とてない、水田と桑畑ばかりが広がる土地であったという。榛名山の懐に抱かれ、前橋市街を一望に見下ろし、赤城山の雄姿と対峙するこの土地が、再び東京に居を移し10年以上を経た今でも母殿の立脚する原風景となっている。母殿はしばしば夜に溶け込むようにして田畑の間を歩き、星空を見上げて過ごした。UFOを目撃したことも実際におありだという。絵だけではなく様々な分野に関心を持ち、ピアノも弾けば、水泳はかなりの達者になり、剣道場にも通ってみるといった感じで、自然に親しむ環境を大いに喜ぶとともに心身とも健やかに成長していく。祖父殿に二人の弟とともに車で川釣りに連れて行ってもらうようなことも多かった。

 この頃から祖母殿も、真剣に絵画に向き合うようになっていて、家事の手が空けばいつでも画用紙に向かって制作に取り組む。母殿が難しい描線のところは手伝ったり、配色について助言したりすることが多かったという。長じてもこの関係は変わらず、祖母殿が独自の画風を確立し広く発表するようになった近年でも、ときに競うように作品を造りながら祖母殿は常に母殿の批評に一目も二目も置いている。中学、高校と進み、水泳などにも引続いて熱心に通ったが、絵についてはますますめざましい成長を続ける。油彩画の技術を覚えると、ダヴィンチやフェルメールの筆使いに強く惹かれ、盛んに模写を試みるようになる。展覧会などに出品しては、相変わらず次々と金賞を得ていった。

 群馬大学教育学部に進学、専攻は無論美術。気の合う二人の友人を得て、学内で三羽ガラスと称される。油彩画のみならず、フレスコ画、銅版画、彫刻、七宝等様々な技術を学ぶとともに、専門とする油画では100号を超す大作にも取り組む。この頃、文通を介して父殿と知り合われたことは既に述べた通り。父殿以外にも手紙を交わされた相手は何人もいたようだが、次第に往来が絶えていき、長期に渡って続いたのは僅かであった由。父殿の寄こした手紙に対しては、当初「何て傲慢な文章だろう。」と呆れたことを記憶されている。哲学書、文学書もよく読まれたが、オペラやバレーにも関心が深く、良い公演があるときは祖母殿と連れだって見に行かれることも多かった。在学中に自動車免許を取得し、はじめは軽自動車に乗ったが、後に中古のインテグラを入手され、走る楽しみを覚えるようになる。野反湖などに一人でドライブされることが多かったようだ。4年間の学部課程の後更に大学院修士課程に進学、一層多くの時間を制作に費やされるようになる。

 卒業後、更に高いレベルの練磨を志し、東京藝術大学への入学を考えるようになる。群馬県内の予備校などに通ってみるが、合格水準に必要な技術はそこでは得られず、不本意なままにアルバイトなどをしてしばらく過ごす。そのうちに、中学校の美術臨時教員の話が舞い込み、何もしないでいるよりはと引き受けることに。臨時教員とはいえ学務以外の種々の雑用もやらねばならず、もともと人づきあいが得手な方ではないから、勤めはあまり楽しいものではなかったようだ。それでも2年余り勤務し、仕事にも慣れてきた頃、夏休みを利用して一人で北海道を旅する。ユースホステルなどに泊まり、レンタカーを使って摩周湖などを巡られた。旅先からしばらく音信の途切れていた父殿に葉書を出し、返信を読んで父殿がやや乱暴な転職をされておられるのを知る。ひと月ほどおいて、何となく顔を見てみたい気になって、父殿に電話をかけられた。ともに休みの日に、本庄駅で待ち合わせる。

 どのような会話があったのか定かではないが、それぞれやや不安定な日常を抱えて、実際に会って話したことは僅かとはいえ青春の日々に真剣な議論を交わした相手に心を安堵させるものを感じたようである。それから急速に二人は接近し、母殿が車で父殿のアパートを訪ねたり、父殿が群馬に出かけて祖父母殿にお目にかかったりを繰り返し、瞬く間に婚約を交わす。平成10年10月、父殿28才、母殿27際の秋だった。当時、大阪の父殿側の祖父殿は、肝臓がんを患われ、肺にも転移があり、入退院を繰り返している状態だったが、この報告を受け12月には結納のため祖母殿とともに群馬に来訪、群馬の祖父母殿とともに伊香保温泉に泊まって親しく交歓し、翌日も水沢観音などを見て回られた。群馬の祖母殿、今でも思い出しては「かっこいいひとだったねえ。」と懐かしまれる。年が明けて1月、父殿の勤め先の店は年中無休であったが1日2日は休みが取れて、母殿と松島に旅行。二人睦まじい新年を過ごされる。それから間もなく、開店準備中に父殿、段差につまずいて転倒し、足首を骨折してしまう。しばらく仕事にならない身になり、母殿に電話で話したところ、その頃大阪の祖父殿がまた入院され容態のおもわしくないのを聞き知っていた母殿「お父さんが呼んでるんじゃないの?行ってきたら?」と勧めた。なるほど、と父殿、急遽松葉杖をついて東京駅から夜行バスに飛び乗り、大阪へ。


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