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pianist平川勝朗ページ

ピアニスト平川勝朗に関する情報です。
スケジュール、チェックしてねー。

近況

2009-01-29 | 日々雑感
他の楽器もしくはボーカルの方から誘ってもらって一緒に演奏する、というのは、
すごく勉強になる。
自分と音楽の好みなんかが違う人とやるときなんかは、特に。
それはなぜかというと、
端的にいって「自分のやりなれたことができない」からである。
自分の行きやすい方向、得意な方向に行けない状況の中で、いかに気の利いたことをできるか。
こういう、「ちょっと疲れる」経験をすることは、自分の芸の幅を広げるためにはすっごく有効だと思う。
そういう大変な状況を通して、ライブ本番中の、とっさの判断力みたいなものを養っていくのだ。
こういうの、すごく大事。
そして、家に帰ってから、
自分ができないこと、あるいは苦手なこと、に目を向ける。
うまくすれば、自分ができる、と思い込んでいたことも、さらに批判的な視点で検証するきっかけにもなる。
しんどい作業ではあるけど、まあ、ラクして上達するなんて虫のいい話はない訳で・・・。

キースですら、あのキースジャレットですら、
なんかのインタビューで、「自分の部屋にはついつい好きなモノを並べて置きたくなる。でもそれでは前に進めない・・」みたいなことを言ってた。自分がリーダーでやる場合(あるいはソロで)ですら、そういう考えを持っているわけだ。


今読んでる本について・・
という話題はカテゴリーに入れてないけど、
なぜか、そういう内容の記事は多いな。
内田百﨤の「サラサーテの盤」は、新しいのをネット通販で買って、何回目かは忘れたけどとりあえず読了して、
ああ、やっぱり百鬼園先生はいいなあ、って思った。
昔やってたブログで、極私的百鬼園論みたいなことを何回かほざいたような気がするが、また書くとなると、長くなって多少ウザイ感じになることは目に見えているので、割愛。

最近はフィッツジェラルド「マイロストシティ」(村上春樹訳)を再読してるとこ。
ムラカミファンとして、ちょっと言わせてもらうと、僕はナニゲに村上氏の「解説文」というのが好きである。
特に氏の翻訳モノには、たいがいその作品に対する氏の「視点」みたいなものが小説本体の後にくっついていて、その文章が、すっごく含蓄があって、いろいろ考えさせられることがあって、僕は好きなのである。
自分以外の作品の解説として、そういう含蓄のあるものが書ける、というのは、つまりそれほど深く、氏がその作品を読み込んでいるということにもなる訳で、またそういう経験が、村上氏自身の創作の根っこであったり、滋養になってたりするんだろうな、と思う。
フィッツジェラルドはムラカミ氏のフェイバリットbest3に入る小説家の一人だ、ということもあるのか、この文庫本には、相当熱っぽい解説が載っていて、ほんとによいです。小説自体よりも感動してしまったりして、まあこれはけしからん状況ですけど。

自分のことに置き換えて考えてみると、ほんとによい音楽に感動して、深くコミットする、という経験は自分自身の音楽を育てるために、すごく大事なことなんじゃないかな、って、
まあ、当たり前といえば当たり前なんだろうけどね。

そんな感じで、「マイロストシティ」、
これ確か読んでない短編もあったような気がするので、頑張って全部読み切ろうと思います。











あけまして

2009-01-05 | 日々雑感
おめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

今年はいやな事件があまりおこらなければいいなと思います。
景気もよくなればいいなと思います。

元旦の朝日新聞には「希望は女性にあり」、という見出しで吉田秀和氏と丸谷才一氏が対談しておられました。
昨今の世相を覆う閉塞感を打破するのに母権的なパワーが必要だ、みたいな話。

昨日仕事の前によった本屋でみつけた、河合隼雄と中沢新一の対談集の中にも、仏教の母性原理についての話が書いてあり、納得することしきり。

個人的にも、今年はこういうこと念頭において生活するのもいいかも、って思った。
女性的な強さ、みたいなものについてちょっと考えてみて、それを日々の行動の指針にする、みたいなかんじかな。

ま、丑年であることだし、
牛的なペースで、
着実に。


今年もおわり

2008-12-30 | 日々雑感
クリスマスを過ぎてからちょっと時間に余裕が持てることがわかっていたので、
この期間、つまり今年のラスト一週間くらいの間にやろうと思っていたことが3つあって、
この3日間で、それらを無事に片付けることができた。
1つは居間のカラーボックス内の整頓。
引っ越してきてから、「とりあえず」ということで、割と日常的に使うものをそこに置くようにしていたのだが、ほとんどぐちゃぐちゃになっていて、必要なものを探し当てるのに時間がかかるようになっていた。
不必要なものは捨てて、きちんと分類したら、全体の量がえらく少なくなってしまって、ちょっとびっくりした。
2つめは譜面の整理。
これは今までにも定期的にやっていたのだが、きれいなのは最初の1週間ほどだけで、すぐにもとのカオス状態にもどってしまうのが常であった。毎回整理の仕方を微妙に変えていたのだが、今回はめんどくさい分類をやめて、ほぼ、おしなべてアルファベット順にして、それを3分割してレタ-ケースにしまう、というやり方をとってみた。曲調だとか誰のバンドのものだとか、オリジナルだとか、そういうことでカテゴライズすると、必ず後で分類場所に困って、ま、とりあえずここに置いといて・・、みたいなことが積み重なって乱雑になっていく、ということを、まあいい加減学習したので、もっともシンプルなやり方に目を向けてみたのだ。今の所、調子が良い(って、まだ3日めだけど)。
3つめは防音室の壁のクロス張り。
引っ越し時に中古で防音室を買って部屋に備え付けたのだが、中古なだけに外側の壁紙が解体したときそのままのべろんべろんに剥げた状態で、下地の鉄板がむき出しのところがいかにも寒々しい感じがしていたので、ホームセンターで、素人でも簡単に貼れる「のり付きクロス」なるものを買ってきて貼った。
仕上がりの自己採点は、まあ、70点、というところか。写真を載せてみたい気もするが、「それで70点か」とつっこまれるのもしゃくなので、載せない。

今年は自分にとって、本当にいろいろあった、変化の年であった。
京都の地では新参者にもかかわらず、ライブなんかを通じて多くの人と知り合いになり、また、好意的に接して頂けたのは、ほんとにありがたかったと思う。
来年はいよいよ腰を落ち着けて、この地で、いろいろと活動を展開していけたらと思う。

お世話になった皆様、今年一年、どうもありがとうございました。
よいお年をお迎えくださいませ。



かぜ

2008-12-25 | 日々雑感
今、23時31分。

実家にいるかみさんから、風が強いから洗濯物入れといて、
ってメールが入って初めて

今、外が、風が強い、
ということに気がついた。

向かいのうちの庭の木だろうか。
さわさわさわさわ、
ざわざわざわざわ、
葉っぱのこすれるような音が
しきりにしている。

遠くでパトカーのサイレンらしき音も聞こえる。

なんということもなく
窓を開けてみた。
遠くの方から
ぼわーーん ぼわーーん
という、不吉な音がきこえてくる。

もしかして
比叡山の山鳴りだろうか。
なんかちょっとこわい。
でも
なんかちょっと
・・・
高揚する。

とりみきの「山の音」ってマンガを
ちょっと思い出した。


あしたはかなり寒くなるらしいね。




ランチのあとのプラタナス的ひととき

2008-12-16 | 日々雑感


近所の公園で2日前に撮ったシャメ。
青空と枝打ちされたプラタナスの対比がすごくきれいだと思って撮ったんだけど、
こうやってパソコンに取り込んで見てみると
このプラタナス、
あたかも街なかを駆け抜けている珍獣みたいである。
何かを追いかけているのか、あるいは追いかけられているのか。
いずれにせよ、どことなく間抜けそうで
人に害を与えそうなカンジはまったくしない。

最近、ブローティガンの「芝生の復讐」を移動時間に読んでいるので、
彼だったら、こんな光景、なんだか突拍子もない比喩表現でブンガクにしちゃうんだろうな、
なんて考えた。
ブローティガン的プラタナス。

もう、何度言ったらわかるのよ、このオタンコナス!

ちがうよ、ぼくはプラタナスだよ。

うるさいわね、もうおっかけてくるの、やめてちょうだい。

そんなつれないことゆーなよー

・・・・

さ、明日は福井市でお仕事。
もう寝なきゃね。




とりあえずコーヒー

2008-12-14 | 日々雑感
である。

居酒屋入ったら、
とりあえずビールである。

でも
ちょっと忙しい日が続いた後
ひさびさにのんびりできる、というとき
昼前にのそのそ起き出して階下の居間に降りてきたら
とりあえずコーヒーである。

おとといのライブの仕事の前に風呂入って
それからなんやかやでずっと入ってないので
はやく入ってさっぱりしたい。

ま、でも、とりあえずコーヒーである。

コーヒー飲んで、
っほーっ・・・・・
ってあほみたいなながいためいき吐いて

時間が実は
そんなにははやく流れていないことを
ひさびさに実感して

そんで
それからである。






偏愛的・・

2008-12-07 | 日々雑感
ある種のモノに対して偏愛的態度を示すことって、多かれ少なかれ誰にでもあるものだと思う。
うちのかみさんは調理器具というものに対して、偏愛的な態度を持っている。
調理器具、というか、本当は、もっと広い意味での「道具」というものに対して、というようなものだと思う。
そして、かみさんに偏愛される道具たち、というのは、ある一定の特徴を備えたものである。
ハタからみてわかる一番のその特徴というのは、作りが頑丈で、その道具に与えられた使命を、「完全に、キッカリ」全うできるもの、(あるいはできそう)であるということ、である。
ハタから見て、とことわったのは、どうせそういうことを言うと、「いや、正確にいうと、それだけじゃないんだなー・・・」なんて偉そうに蘊蓄語られそうなので、一応、「あってるかどうかわからないけど、とりあえず第三者の目に映った印象を言えば」という言い訳も含めてのことである。

なんでそんな話をしたかというと・・・

だいぶ前から、「圧力鍋って、あると便利やろなあ」という話が、うちの中でかわされていたのであるが、
ま、子供もできたことやし、ってことで、(ま、そこに論理の飛躍があることはジュージュー承知の上であるが)
よし、じゃあ、この機会に買おう、ということになって、
ネットでいろいろ物色して、安いのから、ちょっと高めなのまで、いろいろ比較検討してみたのだが、
僕的に「これで十分ちゃうの」と思えるのと、かみさんの「これがええわー」と考えるものに若干価格的なひらきがあって、
かみさんの意見に対しては、まあ正直、「こんなわしらの身分で分不相応な・・・」というふうに思ったのだけど、
なんか、その商品の写真をみつめるかみさんの目が、えらいうっとりしてて、もうまさに偏愛ぶりをいかんなく発揮しつつあったので、これはまあ、しょうがないな、と開き直って、結局その高い方のやつを買う、ということで話が決まった。
で、買った。
どうでもいいけど、人を説得するに必要なこと、というのは、「合理的な理由」よりも「理屈じゃない、単に、『強い気持ち』」であったりするのだ。ばあいによっては。

そんな訳で、ことのついでながら、僕のささやかな偏愛的傾向をちょっと暴露すると、
僕は、文庫本に対して、やや偏愛ぎみな態度を持っている。
ただ単に本読むのが好きだ、というだけではなく、
文庫本、というモノの質感、(茂木センセー的に言えばクオリアですな)自体がすごく好きなのである。
ま、それも厳密なことを言えば、何でもいい、という訳ではなく、
なんかやっぱ、「好きになる文庫本」というものがあるようである。
最近の例で言えば、ブローティガンの「芝生の復讐」(新潮文庫)なんか、かなり気に入っている。装丁もすごく感じがいいし、厚さも持ち歩くには調度いいぐらいだし、ま、もちろん中身については言わずもがな、だし・・・。
そんで、「あ、やっぱこの本、いいなあ、」って思ってたら、つい思い出してしまった。
昔、超のつくお気に入りの文庫本でいつも持ち歩いてたのに、あろうことか、とある駅のトイレに置き忘れてなくしてしまった、福武文庫の、内田百﨤『サラサーテの盤」。
ほんと、大好きだったのに、なくしてしまった。
悲しいかな、今は福武文庫自体がなくなってしまって、必然的に絶版になっている。
他の出版社で同じようなのが出ているのは見たことがあるが、やっぱ違う。福武のがいい。
というわけで、今しがたamazonさんで物色してみたら、なんと拍子抜けするくらい、あっさりとそのブツが見つかってしまった。
そうか、最近は本屋に行って、ないからと言ってあきらめることは全然ないんだな、
って、つくづく思った。今更ながら。

ま、そういう訳で、その本、online shoppin'しました。
本自体の価格と送料がほとんど変わらなかったけど、世間的な相場なんてものは、その道の偏愛者にとっては全くどうでもいいものなんであって、たとえそれが2、30円であろうと2,300万円であろうと、僕にとって代え難いシロモノであればそれでよいのだ。
・・・というのが偏愛の偏愛たる特徴なのかな、と
思った次第でした。
(あ、でも2,300万は、やっぱ困る)

閑雅な食慾

2008-11-29 | 日々雑感
この間本屋でたまたま見つけた吉行理恵のエッセイを、暇があるとは読んでいる。
人付き合いが苦手で極度に内向的な性格の人のようだが、文章に独特のリズムがあって、
読むのがなかなか楽しい。
いや、誰が読んでも楽しい、というものではないだろう。
単に個人的に「ツボ」なんだと思う。

田辺聖子の小説を読むのが好き、という話のなかで、

・・・食欲不振の私としては珍しく、『休暇は終わった』を読んでいると、閑雅な食欲が湧いてきて・・・

とある。
閑雅な食欲・・・ん??

このフレーズは知っている、と思った。
なんやったっけ、なんやったっけ・・・

わかった。萩原朔太郎の「青猫」におさめられた詩の題名だった。
郊外の珈琲店(かふえ)でおむれつ、ふらいの類を喰べて、空には白い雲が浮んで、たいそう閑雅な食慾である、
というようなやつだった。

吉行さんは他のところでは朔太郎のことも書いているので、
まあ、わざと拝借して書いたのだろう。

閑雅・・・

1 みやびやか、上品
2 閑静で趣があること

辞書にはこうある。
でも、なんとなくこの言葉のイメージとしては、それに加えて、ちょっとダルでレイジイな感じもする。
怠惰な気分だけど、のびきってはしまわない、ちょうどいい感じ、なカンジ。
そんなカンジ。

「閑」という字のせいかもしれない。朔太郎の語調のせいかもしれない。自分がそういうのにシムパシイを感じがちだからなのかもしれない。

ま、でも、吉行さんの閑雅な食欲、というのは、
まさにぴったりくる感じがした。

僕はわりと調子こきなので、そういうのを発見すると、すぐに他に応用したくなってしまう。

閑雅な秋晴れ
閑雅なピラカンサ
閑雅な飛行船(これはほんとついこないだ、そんなのがうちの上空を飛んでいたんです)
閑雅な腹のぜい肉
閑雅な性慾
・・・

まあ、なんとかかんとか。

さっきまで気持ちのいい天気だな、と思っていたら、
なんだか、どよーんとした雲が出てきた。







満月の夜は

2008-11-13 | 日々雑感
子供が生まれやすい、という俗説ははたして信憑性があるのかどうか。
満月の時は月の引力が一番強くなるから、そのチカラでもって赤ちゃんを胎内から引っ張りだすのか。
うそのようなほんとのような。

今日は満月。
写真ではちょっとわかりにくいけど、
うちの近くから見える比叡山のてっぺんの横に
ほんとにきれいな満月が、懸かっていました。

そんでもってうちのnewcomerは
満月が空に出る、その数時間前に
まんまる顔をしてひょっこりとやってきたのです。


急に寒くなってきた

2008-11-11 | 日々雑感
午後、かみさんと近くのデパートまで歩く。
間近にせまった出産が少しでも安産になるように、階段を何度ものぼるトレーニングをするためだ。
(病院の方針らしいが、こんな方法があるとは知らなかった)
1時間くらいみっちりやるらしいので、僕は道路はさんで向かいにある本屋で時間をつぶす。
2階の文庫のコーナーを適当に物色。筑摩文庫のところで、吉行理恵という名前に目が止まる。
昔、この人の詩集を何となく立ち読みしていて、どこかしら心にひっかかるものを感じていたのだが、それきりずっと忘れていた人。
エッセイみたいな文が中心のようだが、巻頭はこの人の詩が載っている。

流れ星

猫は
明るい星
窓枠に 肘をつき
部屋のなかを 見守っている

目の中で
綾取りを繰り返す 姉妹

縁者たちにかこまれて
お婆さんはうわごとを言う
「うたたねしながら 死にたいわ」

その瞬間(とき)、星が流れた


1ページ目にこれだけ載っていて、
あ、きれいだな、って思ってページをめくったら、

白紙だった。

その白紙が、「星が流れた」イメージの余韻をかえってすてきに演出してくれたようで、
なんだか、ふと笑いが出てしまった。

白紙に感動した秋の午後、
というカンジで、
その本、こないだ頂いたフェルメールの絵の図書カードで買いました。

もういいころかと思ってかみさんを迎えにいくが、
いまだ、せっせせっせと階段のぼりに励んでおり、
妊婦もらくじゃねえな、と考えた。

この辺はあちこちにハナミズキの植木がしてあって、
この季節は真っ赤にそまった葉っぱが、とてもきれいです。
(ぶっちゃけ、先週くらいのほうが、もうちょっときれいだったな)