pianist平川勝朗ページ

ピアニスト平川勝朗に関する情報です。
スケジュール、チェックしてねー。

暇にまかせて

2013-08-09 | 日々雑感
今は、このブログにはライブスケジュールしかのせてませんが、
以前はその他にライブに関係ないことなど、気まぐれに書いてのせてました。
いろいろ思うところあってやめちゃったんですが、
また書きたくなったので別室を設けて書き始めました。
いつまで続くかわかりませんが、
よかったらどうぞ、こちらです。

John Taylorを見にいった

2012-11-16 | 日々雑感
John Taylor(p) Tore Brunborg(ts)
Thomas Stronen(dr)によるユニットmeadow
のコンサートを長野県の茅野市にある茅野市民館
ということころに聴きに行った。

このユニット、出してるアルバム「Blissful Ignorance」の
アルバム収録曲はほとんどサックスのトーレの曲。
で、メンバーの表記順はほとんどジョンテイラーが一番。
で、ライブを見たら、MCはパーカッションのトーマスだった。
さて、誰がリーダーでしょう?ってかんじだけど、
誰がリーダーか、ってことはこのバンドの場合、
あまり関係なかったと思う。
曲の方向性を示す役割は
ほとんど3人が同じ割合で受け持ってたようなかんじ。
楽曲の構成も、一応テーマがあってアドリブパートがあって、
という普通のものだと思うけど、あれ、今ソロやってるのだれ?
と首をかしげたくなるシーンがたくさんある。
サックスのトーレは自分のソロなのか、他のメンバーのオブリなのか
よくわかんないプレイ。まあ、これはいい意味で、と解釈したい。

ホールは300人収容の横に長いというか、平べったい
扇型のような小ホール。
でも、天井はかなり高めで、客席の壁とか
ステージの作り方とか、専門的なことは
わからないけど、かなり音響について
こだわりを持ったような設計になっていたんだと思う。
で、実際の音だけど、最初ステージ見た時
PAが3楽器とも一切セットされてなくて、
アコースティックの清冽な心地よいサウンドを期待したのだが・・

ホールの鳴り自体はけっして悪いものではなかったと思うが、
パーカッションのセットに金属性打楽器がたくさんあって、
それ自体はすごく魅力的な音だったけど、
ピアノの響きと殺しあう場面がすごく多かった。
いや、実際のところ殺されてたのはほぼピアノだった。
ピアノだけの演奏のときですら、音がやや小さめだな、
って感じるくらいだったので、これは正直アンサンブルとして
かなりいけてなかったような気がする。
でも、寄せ集めセッションじゃあるまいし、
いつもはこんなじゃないんじゃないかな、って推測する。
PAを使わなかったことがアダになったのだろうか・・
原因はわからないけど、とにかくかなり残念だった。
(サックスに関してはほぼ問題なかったと思うけど)

まあそういうのがあったので、
プレイヤーそれぞれのクオリティはもちろん素晴らしかったけど
(当たり前だ!)
バンドサウンドという点では、うーんちょっと・・
ってのが正直な感想。ピアノの低音部が
はっきり聴きとれず、リズムがぼやけてしまってて
ベースレスにしてる意味がいまいちわかんない、
ってかんじだった。(たぶん音響がよければこんなふうには
感じなかったと思う)

あと話は前後するが、このバンドがやる前に
オープニングアクトと称して
巻上公一さんのグループが
即興演奏を15分程度行ったのだが、
これが予想に反して(めっちゃ失礼!!)
めちゃくちゃよかった。
巻上氏はテルミンとボイスと口琴とトランペットを駆使して
即興で不思議なサウンドを奏で、それにパーカッションと
ギターの弓弾き(!!)が加わり
なんとも形容しがたい、でも魅力的なサウンドを
繰り広げた。正直もっともっと聴きたかったです。




酩酊忌

2012-07-26 | 日々雑感
太宰治の命日を桜桃忌といって
この日(6月19日)は今でも
大勢の太宰ファンの方がお墓参りに来たり、
偲ぶ会みたいのをやったりしてるらしい。
命日に「桜桃忌」なんていう名前がついてる、
というのをはじめて知った時は、うわあ、いいなあ、
って馬鹿みたいに素直に感動してしまった記憶がある。
命日に特別な呼び名がある、ということと、桜桃忌というネーミングが
かっこいいなあ、って思ったのと、両方。
桜桃は、もちろん太宰の作品から取ってるわけだけど。

で、今日7月26日は僕は勝手に
酩酊忌、と呼ぶことにしている。
このおっさんが死んだ、って新聞で知った時は
ほんとにショックだった。
もう何年前になるのか。
まだひとり者だった当時は
半ば本気で、こういう破滅的な人生にあこがれていた。
代表作「今夜すべてのバーで」は
一体何回読み返しただろう。

というわけで、
今日はこのおっさんの命日
酩酊忌と勝手に命名。


読む角度、とか

2012-06-10 | 日々雑感

ちょっと前、
どういう心境だったのかよく思い出せないけど、
ふと、村上春樹のダンスダンスダンスが読みたくなって
というか、正確に言うと、最初のいるかホテルに行くくだりだけ
どんなんだっけ、ていうかんじでちょっと確認しようと思って
(この小説は実際のところもう3回以上は読んでると思う)
最初のページを開いたところが、
結局もう少し、もう少し、という感じでページが先に進んで、
結局最後まで読んでしまった。

この小説は何回読んでも実に不思議な小説である。
すごくポップですごく暗い。
たぶん、ある意味村上春樹という人の個性が
良くも悪くも一番にじみ出ている作品なんじゃないかな
と思う。
なんとなく「良くも悪くも」と書いてしまったけど
まあ、良くも、のところはいいとして
悪くも、というのはどういう意味か。
なんでしょうか、その人の個性が全面に出た作品が
全ていい作品といえるかどうか、はちょっと微妙なんじゃないか、
なんとなく、そのへんで引っ掛かりを感じることがあるので
そういう言い方になってしまったんだけど。
まあ、それは本題ではないので適当に置いといて。

といいながら、そのこととすごく関連すると思うけど、
この作品、アンチムラカミの人にとっては
批判するテキストとしては
一番取り上げやすい作品なんじゃないだろうか、って思う。

よくある批判意見として、
舞台となる土地の臭いがしないとか、
会話に体臭を感じないとか、身体性の欠如とか、日本語がおかしい、とか、
まあなんかとにかくいろいろありますよね。
そりゃまさに
このダンスダンスダンスがもうその典型なんだろうな、
って感じは確かにする。
最初読んだ時はそんな批判意見もあまりしらなかったので
そういうとこぜんぜん引っ掛からなかったんだけど、
そういう意見があることを知った後で読んでみると、
あ、なるほど、ここがそうだな、
とか、こういう表現とかうざいんだろうな、とか
いろいろ感じるところがあったにはあった。

で、思ったんだけど、
本には、読む角度というものがあって、
違う角度で読むことによって、全然違う世界が
立ち現われてくるもんなんじゃないのかな、と。
それが極端な場合は、ある角度で読んだら「嫌い」
だったのに、別の角度で読んだら「好き」になるとかね。
(そういえば詩人の大岡信さんも、昔なんかの番組で
絵画には、見る、見方というものがある、みたいなこと、言ってたと思うしね。)


村上氏と河合隼雄さんの対談本を僕は大好きで
何度も読んでるけど、その中で「物語」という
ものについてなんども繰り返し語っている。
これについて書くと膨大になってしまうのでここでは書かないけど
早い話、例えば古いおとぎ話に出てくるおじいさんとか
おばあさんとか、悪魔とかに、
体臭とか、身体性とか、細かい性格描写とか、
内面の告白みたいなことがあるのか、もしくは必要なのか、
って話じゃないかと思う。
(と、言いつつ僕はムラカミ作品には独特の身体性の切り取り方があって、
それは深い部分ですごく共感できるところだって思ってるんだけど)
ムラカミワールドは一見リアルな日常が舞台になっているので
(実在の音楽とか小説とか料理とかがこまごまと出てくるしね)
つい、等身大で感情移入したい、って思ってしまうけど、
基本ベースは、やっぱりこれはおとぎ話なんだと思う。
だから、そう思ってこの小説読むと、
けっこう細かいことが気にならなくなってすらすら
読み進めると思う。
1Q84なんか、ほんとまじめに読んだら腹立ってくるようなもんでしょ。
(うーん、なんか誤解されそう・・・)


なんか極論というか暴論だと思うけど、
人が「好みじゃない」なんていうときは、たいがいは、
水族館に行って、きりんさんがいないよお、って
言ってるようなもんなんじゃないか、
って気がするんですよね。
もちろん、自分にもその傾向があるってことを認めるのに
やぶさかではないでございますけどね。
魚なんか興味がないなんていわずに、
一度、そういう思い込み全部はずして
虚心坦懐にさかなワールドにはまってみよう、
って思えると、いろいろ新しい世界発見できて
老化防止にも役立つんちゃうかな、って思うんだけど。
(まあ、あんまり大きな結論にするのはちょっと・・笑)

こんな話音楽にあえてつなげるまでもないですよね。
なんでも一緒でしょ。

というわけで、最近は
ボリス ヴィアン「うたかたの日々」光文社古典新訳バージョンと
Kafka classics in comicsっていう変な本、並行読書中・・・




ビョークの思想

2012-05-21 | 日々雑感
7月に超久しぶりに自分のトリオでライブをやろうと思ってて
今、いろいろ選曲をしているところです。

まったくの思いつきだけど、
ビョークのHyperballadできないかな
と思って、とりあえずそのまま譜面にして
メロディの譜割がかなり自由なかんじなので
歌詞を覚えちゃった方がいいかな、と思って
ネットで探して、訳も探して読んでみたんだけど
ちょっと鳥肌たちました。
なんてすごい歌詞なんでしょうか。
かいつまんで書くと

私たちは山のてっぺんに住んでいて
私は毎朝みんなが起きる前に
崖っぷちからいろんなものを投げて
それを観察することを日課にしてる
それが私だったら、岩にたたきつけられた時どんな感じだろう
とか、想像する
で、ここであなたと安全に暮らせていることに幸せを感じる

っていう感じ。

これから受け取れるメッセージはいろいろあるとは思うけど
やっぱり核のメッセージは人間という存在の脆さみたいなことでしょうかね。
僕はそう思ったです。

昔なんかのインタビューで
ビョークが自身のルーツみたいなことを語っていたの
なんとなく覚えてるんだけど
この人、アイスランド出身で
アイスランドって、まあぶっちゃけ人の住めるようなところではなく
火山の噴火とか地震とかしょっちゅうで、あと寒いなんてもんじゃない
くらい寒いし
何かの具合で人の命なんか、簡単に吹き飛んじゃう、消滅しちゃう、
みたいなことを常に意識させられる、という環境で
だから自然に対して謙虚じゃなきゃ
みたいなこと、言ってたと思うんだけど
そういう思想が、この曲にはもろ反映してるのかなあ、なんて。

もちろん自然というのは美しいものだし、
あと、人間が生きていくために必要なものも提供してくれるし
すばらしいものなんだけど、同時にすごく強暴な面もあって
そういう両面性みたいなものがこの人の曲にすごく色濃く表れてる
って感じがするといったらいいすぎかな。

まあ、あんまりそういうことに立ち入りすぎると
演奏するのがだんだんいやになってくるので
適当なところで置いといてと。









Robert Glasper考

2012-05-04 | 日々雑感
最近すっかりRobert Glasperにはまっている。
ちょっと前から注目されてたニューヨークの若手ピアニスト。
1978年生まれだから今33,4歳くらいかな。
はまっているといいながらCDは買ってないんですけど
某動画サイトにすごくたくさん映像と音源がアップされているので
暇さえあればそれを見ている。
個人的にはこんなに一人のピアニストを集中して聴いたのは
けっこう久しぶり。(まあ何年か周期で、そういうことが起こるんですが)

この人の特長をいくつか思いつくままあげてみると、
まずは、すごく高度なこと(ハーモニー、リズムがかなり複雑)
をやってるのに、聴いてて難しいっていう印象がなく、
いい意味ですごくポップであるということ。
この人はヒップホップとのコラボみたいなこと
(正確にいうとこの人の場合コラボっていうのとはちょっと違うと思うが)
もたくさんやってるので、
そっちの作品がポップなのはいうまでもないが、
ピアノトリオでやってるのも、すごくとっつきやすいのが多い。
「複雑な内容」と「ポップさ」ってそうそう両立するもんじゃない、
って思うんだけど。(ある意味ESTにもつながるところがあるかと思うけど、
やってる内容はたぶんもっとややこしい)

ピアノトリオのフォーマット限定で話を進めていくと、
この人のやる曲、結構リズムパターンのスパンが長いのが多くて
ミディアム以上の曲でもあんまり気ぜわしく感じない。
(Maiden voyageやってるのなんか、1サイクル12拍分あるかな、
これ、やるのけっこう大変だと思うんだけど)
で、グラスパーは長いスパンの中で、ゆったりと
十分にスペースを取りながら、どちらかというと短めのフレイズを
余裕をもってつむいでいくかんじ。
タッチがすごくやわらかいこともゆったり感の理由になってるかも。
フレイジングはたまにメルドー節みたいのがちらつくことがあり、
まあ、これは研究してるんでしょうねえ。
(そういえば、メルドーもいつのまにか若手という言葉が似合わなくなって
きてるね。)

ソロの内容についていうと、この人、たまにフレイズ
(即興で出てきたのか用意があったのかはわからないけど)
を延々ループさせて遊んでるみたいなところがあって、
それがいかにもドラムのソロのバッキングというかんじではなく、
アドリブの一部にとけこんでいるようなかんじで、すごくかっこいい。
全体の構成が手が込んでいてどうなってるのかよくわからないんだけど、
とにかく流れが自然なので、全然抵抗なく受け入れられる。
そういう構成も含めて、この人の書く曲とかアレンジが、
すごくセンスがいいんだと思う。
あと蛇足・・・ではないです、意外とこれ重要。
MCが饒舌!
何言ってるか残念ながらわからないし、
冗談が受けてるのかどうか、そのへんもよくわからないけど、
なんかとにかく、ジャズの堅苦しさみたいのをうまく回避して
とっつきやすいムードを演出してるなあ、っていう感じがする。
この人演奏技量、音楽性もさることながら
総合的なプロデュース能力がすごく高いんだろうな、という気がする。
(CD制作でもそういうのが出てると思う)
そして、そういうのが演奏内容もステージングも含めて、
ライブで観客を楽しませる、
というところに結びついているような気がする。

これはまあ聴いただけの印象で
きちっと譜面に起こして分析してないので、
かなり荒い感想だとは思うけど、とにかく
まあなんというか、はやい話が聴きあきがしないのだ。
(ちょっとめんどくさくなっている)


で、
7月に、自分のトリオのライブをやる予定ですが、
自分しきり、というライブを久しくやってないので、
どうしようかな、と今からけっこう悩んでいます。
が、グラスパートリオの演奏はかなりいろんなことを示唆してくれてますので、
なんか、ほんのエッセンスのかけらでもいいから参考にしたいな、
という思いがあり、
そういうのも含めて、彼の音楽をいろいろ聴いてるわけです。
で、みんな高槻で盛り上がってるなか
一人でこんなこと書いてられる、というのは
一つも出れなかったからです。

みんないいな・・・

(最近フェイスブックに投稿するようになって、話す内容に必要な予備情報がどのくらいいるのか、という感覚がちょっとおかしくなってしまって、こまってしまってわんわんわわん。)












店の名前

2012-03-02 | 日々雑感
なんとなく、

もし自分がジャズの店をやるとしたら、
店の名前、なんてつけるかなあ、なんてぼんやり考えてみた。
で、いろんなお店の名前を思い出してたら、曲のタイトルつけてるところがすごく多い
ってことに気がついた。ちょっと思い出せるだけでも、
Alfie
Body and Soul
Candy
Blue moon
Just in time
Hello Dolly・・・

まだまだありそうだ。

お気に入りの曲だったのか、なんとなくゴロがいいからなのか、
まあそれぞれに考えるところがあったんだろうな、と思う。

で、ふと思い出したんだけど、ジャズの店ではないけど、
昔名古屋にいたころ何度か行ったことがある喫茶店、
「海を見ていた午後」(通称海午後)
言うまでもないが、店内ではいつもユーミンが流れていた。
雰囲気も割とよくて、デートにも持ってこいだったんじゃないかな。
(自分はデートでは行ってないけど)

なんか、そういうの自分のお店の名前にしたいって気持ちがはたらくの
わりとよくあるんだね。
その店名にびびっと反応してくれるお客さんに来てほしい、
って思いもあるのかもしれない。

小説のタイトルをつけた喫茶店とかも、行った記憶はないけど、
まあなんかいろいろありそう、って思って、ためしになんかありそうなやつ検索してみたら、かなりの確率でヒットした。
草枕、銀河鉄道、赤と黒、などなど。
肉の館羅生門ってのもありましたね。これはなかなかちょっと
すごすぎる。肉食系人種の巣窟みたいになってんのかな、
かなりこわい。
あと、なんの店かよくわかんなかったけど
北海道に細雪って店も。
これはなんかさびれたスナックみたいな感じだったら
雰囲気ありすぎでちょっと笑える。
カウンターのママの幸薄そうな感じとか、
酔っぱらって泣きが入ってるさえないサラリーマンの客が一人だけとか、
店内でかかってる古い演歌とかね。
情景が勝手にどんどん浮かんでくるね。
まあ、そんな妄想してる暇があったら、
もっとほかにやるべきことやれってかんじなんですけどね。

あ、そうそう、それで、
いつかもちょこっと書いたけど、(書いたっけ?)
一乗寺のカフェ「猫町」はもうちょっとあたたかくなったら攻めてみたい感じです。
萩原朔太郎的な生暖かい春の夜にでもね。








森の番人

2012-01-24 | 日々雑感
こないだ、
かみさんとこどもと近くの進々堂(パン屋さん)
で昼飯を食べに行った帰り、
スバルのフォレスターが路駐してあったのを見て、

フォレスターってなに?
って思って
ふとなんとなく、「森の番人」っていう言葉を連想した。
車の名前としてのフォレスターは、もっと違う日本語イメージがふさわしいと思うけど、
それはこの際どうでもいい。

森の番人っていいなあ、って
単純に思っただけなのだ。
この番人って言葉は妙に妖しいことばだ。
そもそもこんな日本語、もともとあったのだろうか。
そのへんの事情はよくわかんないけど。
なんか古い時代のヨーロッパの匂いがするね。
語感の感じからなにやらやばいにおいが立ち込めている気がする。
なんでだろうね。

番人って言葉で思い出すのは
やっぱりカフカ。あとフォークナーもそういうのあったっけ。
あと、村上春樹の世界の終り・・・だよね。
なんかね、こっちの世界とあっちの世界の境界にいる人のイメージなんですよね。
しかも、もくもくと、頑なに、自分に課せられた使命を遂行する
やや堅物っぽいイメージのキャラでね。
でもなにかのアイコンというか、
いろんな想像をかきたてられるよね。

そんなこんなが一どきに頭の中をかけめぐって
かみさんに
森の番人ってなりたいなあ
って言ってみたら
森の番人いうたらチャタレイ夫人の恋人やろ
いわれました。
チャタレイ夫人の恋人が森の番人なんですって。
そんなんしらんわ。
がっくりきました。

大体うちはいつもそんな感じの会話です。











猫だと思わなければ

2012-01-18 | 日々雑感



去年の5月にもらってきた猫は
そうとう大きくなった。
猫のいる生活空間というものが、
今では当たり前のこととなっている。

猫がうろついているのは、
うちの2階のキッチンと、
3階に通じる階段の最上段まで。
3階には何かと荒らされると困るものが放置されているので、
3階に上がりきったところに
ゲートを取り付けてあって、
猫はそれより先 つまり3階のフロアには入れないようになっている。

2階のキッチンと階段だけが
彼の世界のすべてだ、
と考えると、
ちょっとかわいそうかな、という気もしなくもない。


猫という動物は
思った以上にばかだ。
どんなに「これをやっちゃいけない」
って強く怒っても、
学習、というものを全くしない。
できない、というよりも
する気がない、
という方が 見てて近いような気がする。
最初のころはこれが結構腹立たしくもあった。


でも、これは人間の尺度からみた
「ばか」なのであって、
そういう見方はちょっと正しくないのかもしれない。

僕が昔犬を飼っていたせいかもしれないけど
無意識のうちに 哺乳動物はある一定の知能は持っていてしかるべし、
みたいな固定観念を持っていたのかもしれない。
しかし、当たり前といえば当たり前のことだが、
犬と猫は全く違う。
同じ哺乳類と呼ぶことに抵抗を感じるほど違う。

猫の行動パターンは ほんとうに不可解なことが多い。
完全に人間の理解可能な範囲を越えている。
そう、むしろ 一日水槽の中をゆらゆらきままに泳いでいる
魚に近いかもしれない。
魚も何を考えてるのかさっぱりわからないけど、
そういうものだ、と思うようにすれば特に違和感もない。

というわけで、 僕は最近、
うちの猫のことを 魚の一種だと思うことにしている。
そうすれば行動範囲だって
一般家庭で買われている熱帯魚よりも、
ぜんぜん広いものをあてがわれてるわけだから、
そんなに申し訳ないと思う必要もないし。
魚がいうことをきかないからといって
別に腹がたつわけじゃないから、
こいつにも腹を立てる必要がない。

それで、うちのキッチンと階段を
勝手気ままに遊泳しているのを
ただ鑑賞する。
これはなかなか楽しい時間だ。
自分も同じ水槽に入ってるのだから
これは熱帯魚を観賞するよりも
臨場感がある。
参加型鑑賞、みたいなね。



これはあかんな

2012-01-13 | 日々雑感
町田康の本はどれもこれも
文庫化するのが遅い。
宿屋めぐりが文庫化するのを待ち望んでいる
ということを去年書いたけど、
書いてて、
ああでもやっぱり久しぶりに町田節また読みたいなあ
と思い、
河原町のジュンク堂に行って

宿屋めぐりの単行本はやっぱり
ちょっと分厚過ぎて買うことをためらってしまって
いろいろ考えた挙句、まあいいや、ってんで
その横にあったどつぼ超然を買ってきて、
(それが去年の年末のこと)
で、さっきそれ、読み終えたけど、

だいたい、まあいいや、っていう
妥協した感がやや残ってしまった買い方をした
のはやっぱり、なんとなく直観的に「これ大丈夫だろうか」
っていう疑念がほんの少しだけあったからで

で、やっぱりその直観は間違ってなかった
ってことが読了後にわかってしまったわけで、

大体、町田康読んだ後に文章を書くと彼の文体に
影響を受けてしまって、変に回りくどくなって
なにが言いたいのかよくわかんなくなる、
ということがよくあるんだけど、
これは僕だけじゃなくて、みんなそうなるみたいだ。
だって、町田康の本のレビューって
けっこういろんな人がブログとかで書いてるけど、
そのレビューの文体が、みんなちょっとおかしいもんね。

それでもって単刀直入に言うと
この小説は☓でした。
なんかほとんどただの思考の垂れ流し、妄想のだだ漏れ。
この人の小説はまあ、わりとそういうところがあって、
多分構想とかあんまり考えず、即興的に書いてるフシが
あるなあ、ってのはあるんだけど、
それでも、それもこの人の天性のバランス感覚で
うまいこと読み手を飽きさせないテンポ感、起伏感でもって
最後まで読ませて、読了後、「おおっー」って
うならせるすごさがあるんですよね。いつもだと。

でも、今回はそういうのは、正直、なし。
なんとなく諸行無常の境地にいたるのに悪戦苦闘して
結局なんかよくわかんないままに無理やりエンディングみたいなかんじだし
途中のエピソードもとってつけたみたいの多いしね。
太宰がどうとかこうとかってのも出てきたけど、
まあ、主題的には漱石の草枕を意識した感じが強いのかな。
別に意識したってほどでもないんだろうけどね。
超然とか飄然とかいったら、まあやっぱそこでしょ。
超然とした生き方したいんだけど、すぐくだらない自意識に邪魔されて
全然超然としない自分に自分が振り回されて、、、みたいな。

うーん正直彼の傑作とおぼしき作品群にあるような
「キレ」が全然なかったのが残念だ。

本読んだ感想で否定的なことって
基本的には書かないようにしてるんだけど、
なんか書いちゃいましたね。
まあ、これもある意味ねじれたファン心理てやつでしょうね。
だって、ほんと僕は町田ファンですから。

という訳で、
くどいようだけど、
宿屋めぐり、はやく文庫化してくださいね。
できれば2冊に分けてね。
講談社さん。