昨日久しぶりにウェディングの仕事をやった。
(といってるあいだに日付が変わり、おとといになってしまった)
ウェディングの仕事というと、たいていは披露宴のBGMを演奏することが多いが、
昨日は人前式(挙式)での演奏。
披露宴のときより、いろいろ気を使うことが多くて、ちょっと緊張したが、
おおむねうまくいった(と思う)。
(といって披露宴の時に気を抜いているわけではないですよ、念のため)
初めてご一緒したレイコさんのバイオリンもすばらしかったし。
こういう仕事、
自分は向いてるな、と思う。
誰かのために演奏する、というのが
やっぱりやってて張り合いがある、っていうか。
ほんとは普通のライブだってそうあるべきなんだけど、
そのへん、なかなか難しい問題ですね。
まあもちろん、これは演奏者側の考えであって、
聴き手がどう思ってるか、ってのは、とりあえず
おいといて、ってことなんだけど。
なんのために音楽をやるか、ってのは
なかなか哲学的な、深い問題です。
音楽自体の魅力、という問題と、音楽をやる、ということの問題、
つまり、受信と発信の違いみたいなことだけど、
これやっぱ違うなあ、って思う。
いや、本当は違わないといいたいとこですけどね。
でも、僕ら凡人が音楽を発信する、ということは、
やっぱり、そういう理想論だけでは解決しない、
まあ、だからこそ、世の中全般のあり様の不思議さ、不可解さに、
より、接近した問題だ、といえるかもしれないけどね。
文は人なり、って言葉があるけど、
音楽は人なり、って言葉はないよね。
いやでも、
ほんとに、文は人なり、っていえるのかどうか。
人としてすごく問題をかかえていても、
多くの人を魅了する文章を書ける人って、
たしかに、存在してるしね。
音楽に関しては、そんな例
いくらでもあげられる。
そこのところ、非常に難しい問題ではあるけど、
今のところの個人的な見解としては、
天才の作品と、凡人の作品とは
区別して考えるべき、というところか。
あんまり凡人、凡人て、いうのも
いかがなものか、という気もするけど、
天才、と呼ばれる人が確かに存在するのなら、
同時に凡人だって存在する、という理屈になるんだから
これはしょうがないと思う。
だから、自分たちを卑下する意味で使ってるわけではない、
ってことは強調しておきたい。
でも、凡人の作る作品でも、人の心を動かすことは
可能だと思う。
僕だって、今まで音楽を聴いて感動した経験が、
すべて、いわゆる天才といわれる人によるもの、というわけではないと思う。
では、凡人の作る作品でも、人の心をうつことがあるのはなぜか、っていうと、
それは多分、その作品が、自分以外の誰かにたいして、強い気持ちで
語りかけようとする姿勢があるからじゃないかな、って思う。
結局、芸術っていうのはある種のコミュニケーションだと思うから、
送り手が何か外に向かって発信しよう、という姿勢を持っていたら、
それに何かしら心を動かされる受け手っていうのは、少なからず存在するんだと思う。
なんだかちょっと酔っ払ってきてしまいましたが、
それなりのスタンスみたいなもの、自覚してないとだめだよな、
なんて、ちょっと思ったものですから。
軸がしっかりしてれば、いろいろあってもぶれずに
いけるはずだなあ、と。
(といってるあいだに日付が変わり、おとといになってしまった)
ウェディングの仕事というと、たいていは披露宴のBGMを演奏することが多いが、
昨日は人前式(挙式)での演奏。
披露宴のときより、いろいろ気を使うことが多くて、ちょっと緊張したが、
おおむねうまくいった(と思う)。
(といって披露宴の時に気を抜いているわけではないですよ、念のため)
初めてご一緒したレイコさんのバイオリンもすばらしかったし。
こういう仕事、
自分は向いてるな、と思う。
誰かのために演奏する、というのが
やっぱりやってて張り合いがある、っていうか。
ほんとは普通のライブだってそうあるべきなんだけど、
そのへん、なかなか難しい問題ですね。
まあもちろん、これは演奏者側の考えであって、
聴き手がどう思ってるか、ってのは、とりあえず
おいといて、ってことなんだけど。
なんのために音楽をやるか、ってのは
なかなか哲学的な、深い問題です。
音楽自体の魅力、という問題と、音楽をやる、ということの問題、
つまり、受信と発信の違いみたいなことだけど、
これやっぱ違うなあ、って思う。
いや、本当は違わないといいたいとこですけどね。
でも、僕ら凡人が音楽を発信する、ということは、
やっぱり、そういう理想論だけでは解決しない、
まあ、だからこそ、世の中全般のあり様の不思議さ、不可解さに、
より、接近した問題だ、といえるかもしれないけどね。
文は人なり、って言葉があるけど、
音楽は人なり、って言葉はないよね。
いやでも、
ほんとに、文は人なり、っていえるのかどうか。
人としてすごく問題をかかえていても、
多くの人を魅了する文章を書ける人って、
たしかに、存在してるしね。
音楽に関しては、そんな例
いくらでもあげられる。
そこのところ、非常に難しい問題ではあるけど、
今のところの個人的な見解としては、
天才の作品と、凡人の作品とは
区別して考えるべき、というところか。
あんまり凡人、凡人て、いうのも
いかがなものか、という気もするけど、
天才、と呼ばれる人が確かに存在するのなら、
同時に凡人だって存在する、という理屈になるんだから
これはしょうがないと思う。
だから、自分たちを卑下する意味で使ってるわけではない、
ってことは強調しておきたい。
でも、凡人の作る作品でも、人の心を動かすことは
可能だと思う。
僕だって、今まで音楽を聴いて感動した経験が、
すべて、いわゆる天才といわれる人によるもの、というわけではないと思う。
では、凡人の作る作品でも、人の心をうつことがあるのはなぜか、っていうと、
それは多分、その作品が、自分以外の誰かにたいして、強い気持ちで
語りかけようとする姿勢があるからじゃないかな、って思う。
結局、芸術っていうのはある種のコミュニケーションだと思うから、
送り手が何か外に向かって発信しよう、という姿勢を持っていたら、
それに何かしら心を動かされる受け手っていうのは、少なからず存在するんだと思う。
なんだかちょっと酔っ払ってきてしまいましたが、
それなりのスタンスみたいなもの、自覚してないとだめだよな、
なんて、ちょっと思ったものですから。
軸がしっかりしてれば、いろいろあってもぶれずに
いけるはずだなあ、と。