【緊急警告:コード106−コード254】
コード106とその〈三位一体コード〉である統合コード254と対向コードの286が、現在、超最強力活性化しています。
【コード紹介&コード解説】
●コード106
ソーラーコード106「古代の写本を頼りに、オカルト好きな考古学者が呪いのかかった古いマンダラを注意深く覗き込みながら、その調査解読を試みている」
♢コードの現象化形態:考古学に関すること。パビルス。古代(または歴史的)文書に関する発見や解読などに関するニュース。古代(または歴史的)経文に関するニュース。過去の文豪などの大作家や大作曲家や大絵画家などに関する新たな発見やエピソードに関するニュース。および、以上に関する吉凶(良いものと悪いもの)とその大きなニュース。
ソーラーコード254「人類の作り上げた歴史上の偉大な建造物(金字塔、墓、モニュメント、銅像、彫像、記念像、その世界の第一人者や世界的偉人やレジェンドの死)として世界中に広く知られている、ギザの大ピラミッドとスフィンクス」
♢コードの現象化形態:精神世界や宗教。王。ピラミッド。エジプト。歴史的建造物。名跡。遺跡。史跡。およびそれらのある観光地。世界に広く知られている有名ブランド。モニュメント。記念碑。慰霊碑。金字塔。金字塔のような人。伝説の人。その世界の大家。および、以上に関する吉凶とそのニュース。
―2017年9月10日16時58分 予言
この予言の「2日後」、コードが予告した通り「歴史的文書に関する大発見」のニュースが。
<明智光秀>密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ(毎日新聞)2017年9月12日
本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀(さいか)衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治(つちはし・しげはる)に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】
藤田教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈したという。
鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。
書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。
京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆(とも)の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。
書状の手書きの写しは東京大史料編纂(へんさん)所に残っていたが、原本は縦11.4センチ、横56.8センチで、細かな折り目がついていた。畳んで書状を入れる包み紙も一緒にあったことから、使者が極秘に運んだ密書とみられる。
本能寺の変の動機では、2014年に岡山県で見つかった石谷(いしがい)家文書などから、光秀と懇意で信長と敵対関係になった四国の戦国大名、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の窮地を救うために起こした「四国説」も浮上している。
光秀は京に上る前の信長と義昭を取り持ち当初は双方の家臣だったとされる。藤田教授は「義昭との関係を復活させた光秀が、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力に奉じられた義昭の帰洛を待って幕府を再興させる政権構想を持っていたのでは」と話す。
光秀は書状の日付の翌日、備中高松城(岡山市)から引き返した羽柴(豊臣)秀吉に山崎の戦いで敗れ、逃げる際に命を落とした。
◇発見された書状の現代語訳
◆本文
仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。
一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。
一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。
一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。
◆追伸=書状では冒頭にあり
なお、必ず(将軍の)ご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。詳細は上意(将軍)からご命じになられるということです。委細につきましては(私からは)申し上げられません。
訳・藤田教授
【ことば】本能寺の変
天正10(1582)年6月2日、京都の本能寺に宿泊中の織田信長が謀反した明智光秀に襲われ自害した。信長は羽柴秀吉の毛利攻め救援で出陣する途中だった。秀吉は急きょ引き返し、京都・大阪府境で起きた山崎の戦いで光秀を破った。光秀の動機は信長の隙(すき)に乗じ天下を狙った「単独謀反説」や「怨恨(えんこん)説」など諸説ある。
本能寺の変後、光秀の直筆手紙 紀州の武将宛て(朝日新聞デジタル)2017年9月12日
明智光秀が本能寺の変で織田信長を討った後、紀州の武将に送ったとみられる手紙の原本が見つかった。三重大の藤田達生教授(日本近世史)が11日、発表した。写しの存在は知られていたが、光秀自筆とみられる筆致などから、当時の心境にも迫る史料となりそうだ。
原本は、岐阜県の美濃加茂市民ミュージアム所蔵の書状(縦11・5センチ、横56・7センチ)で、藤田教授の調査により、光秀の筆跡や花押(サイン)が確認でき、約2センチ幅の細かな折り目などの様式から密書の特徴が認められた。コンパクトにたたみ込まれて大切に運ばれたとみられる。藤田教授は、筆跡や内容などから、光秀が天正10(1582)年6月2日に起きた本能寺の変の10日後の同12日に紀州の武将、土橋重治に宛てて書いた直筆の手紙である可能性が高いと結論づけた。
土橋は紀州の「反信長」のリーダー格とされ、手紙には、信長によって追放された室町幕府最後の将軍、足利義昭の入京を承知したとする内容が記されている。光秀は、義昭と連携していた土橋に対して「(将軍の)入京をお受けしました」と述べていた。文中に義昭の名前は出てこないが、「上意」「御入洛(じゅらく)」という貴人にしか使わない言葉が出てくることから、藤田教授は「信長亡き後、こうした表現がなされる対象は義昭のほかに考えられない」と推測した。
藤田教授は「本物を20年来捜してきた。研究が確実に一歩進む」(出典:時事通信)
「本能寺」後の光秀書状原本=幕府再興目的示す? ―三重大(時事通信)2017年9月12日
織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変の10日後、光秀が記した書状の原本を三重大の藤田達生教授(日本近世史)らが発見した。
藤田教授によると、光秀が室町時代最後の将軍足利義昭による幕府再興を目指していたことを示す内容とされ、写しは残されていたものの原本がなくなっていた。同教授は「本物を20年来捜してきた。見つかったことで研究が確実に一歩進む」と話している。
見つかったのは、光秀が天正10(1582)年6月12日、現在の和歌山市周辺を拠点にした武将土橋重治に宛てた密書の原本。信長により京都から追放されていた義昭の上洛に向け、その指示を受けた重治と協力するという内容が書かれている。
原本の大きさは縦11センチ、横56センチ。写しでは分からなかった約2センチ幅で折りたたんだ跡などが確認された。藤田教授は「小さい書状をさらに細かく折りたたんでおり、使者が極秘資料として運んだことが分かる」と分析している。
東京大学史料編さん所が明治22(1889)年に書状の写しを作成した後、原本は行方が分からなくなっていた。岐阜県美濃加茂市の収集家森俊郎さん(51)が2014年に京都府の古書店から購入後、美濃加茂市民ミュージアムに寄贈。藤田教授らが調査し、筆跡や花押、内容などから原本と判断した。
そして、さらにコード106予告の「過去の文豪などの大作家に関する新たな発見」ですが、こちらもその予告通りに「日本近代詩の父」と称される大詩人で作家で随筆家でもある萩原朔太郎の直筆書簡発見のニュースが、明智光秀直筆の手紙発見と同じ12日に報じられました。
朔太郎の直筆書簡 発見 前橋文学館 著作の出版者に 白秋への寄贈依頼(東京新聞)2017年9月12日
前橋市出身の詩人、萩原朔太郎(一八八六~一九四二年)が自らの著作を出版した会社を経営する年下の俳人に宛てた直筆の書簡が、市立の前橋文学館の調査で発見された。朔太郎の全集に未収録の学術的に確認されていない封書。俳人に対し、尊敬する詩人の北原白秋へ著作の寄贈を依頼したり、著作の広告方法を助言したりし、朔太郎の生真面目な人柄が浮かぶ興味深い内容だ。(菅原洋)
書簡は昨夏、文学館が東京の古書店から購入し、筆跡や紙質などから真筆と判断した。その後に書簡の解読や分析を進めていた。
俳人は北海道出身の金児農夫雄(かねこのぶお)。金児は新潮社に勤務後、俳句中心の出版社「素人(そじん)社」を経営していた。
書簡は、朔太郎が素人社から詩論集「詩論と感想」を出した一九二八(昭和三)年の消印があるが、日付は不鮮明で読み取れない。当時東京に住んでいた朔太郎がペンで原稿用紙につづり、東京の金児に出した。
当時の朔太郎は四十代前半で、文壇での地位を既に確立していた時期。書簡の前半では「第一書房の長谷川氏と、近代風景(雑誌名)の北原(白秋)氏とを忘れましたから、至急同封名刺(付きで)御寄贈願ひます」と依頼している。
続いて、「北原氏の分は小生直接持参しやうと思つて病気になり」と記し、白秋に気配りする様子がうかがえる。
後半では著作の広告について「貴社(素人社)の雑誌だけでは読者の範囲が狭いでせう」などと記し、約八歳年下の金児に著作の宣伝方法などをこまごまと指示している。
文学館の津島千絵学芸員によると、朔太郎は金児の出版社から著作を出す約五年半前、金児らの作品が載る雑誌に作品に対する意見を掲載。その中で「まだ物になつて居ない」などと厳しく批評し、金児もそれに反論していたという。
その後に他に二人の書簡は確認できず、朔太郎が意見の対立した金児の出版社から著作を出すに至る経緯は分かっていない。
津島学芸員は「その後、二人の間に何らかの交流があったのではないか。朔太郎は文学者として、自分より若い人に情熱を持って生真面目に向き合う一面があったのでは」とみている。
見つかった書簡は今後、展示公開を検討する。
そしてこれは極めつけでしょう。コード106「古代の写本を頼りに、考古学者が古いマンダラを注意深く覗き込みながら、その調査解読を試みている」予告の「古代の写本に関する大発見」。このコードワード《古代の写本》《調査解読》そのままの現象化が、私の予言から「6日後」の16日、AFPによって報じられました。古代インド最古の数学書『バクシャーリー写本』の調査から判明した大発見です。
最古の「ゼロ」文字、3~4世紀のインド書物に 英大学が特定(AFP)2017年9月16日
3~4世紀のインドの書物に記された黒い点が、数字の「0(ゼロ)」の最古の使用例であることを、英オックスフォード大学のチームが特定した。
この書物は、1881年に現パキスタン国内に位置する村で発掘されたカバノキの樹皮の巻物で、発見場所の村の名前にちなみ「バクシャーリー写本」と呼ばれている。
1902年からオックスフォード大学のボドリアン図書館で保管されてきた。
バクシャーリー写本は、すでにインド最古の数学書であるとされていたものの、その年代についてはこれまでさまざまな意見が飛び交っていた。しかし同図書館の科学者チームが放射性炭素年代測定したところ、制作時期がこれまで考えられていたよりも約500年さかのぼる3~4世紀であることが判明した。
ゼロの最古の使用例はこれまで、インド・グワリオルの寺院の壁に残る9世紀の碑銘だとされていた。ゼロを意味する文字はマヤやバビロニアといった古代文明でも使用されていたが、現在使われている「0」記号の起源は古代インドで使用されていた点記号だった。
そして、99%の絶対的現象化力を持つコード予告通り、歴史上の大絵画家についての「世紀の大発見」も続いて来ました。
雪舟の水墨画を84年ぶりに発見(ロイター)2017年9月19日
https://jp.reuters.com/article/idJP2017091901001939
室町時代の水墨画家、雪舟が描き、所在不明になっていた水墨画が84年ぶりに見つかったと、山口県立美術館が19日、東京都内で発表した。専門家は、雪舟の代表作への道筋を示す重要な作品と位置付けている。
見つかったのは、軸装された約30センチ四方の団扇形の作品で、藍や緑などで彩色を施した「倣夏珪山水図」。水辺に岩や木々が、奥には、なだらかな山脈が描かれている。
同美術館によると、雪舟が中国の名画家に倣って描いた「倣古図シリーズ」のうちの1点で、南宋(12~13世紀)の著名な画家夏珪の様式を模した。
雪舟、幻の水墨画=うちわ型「倣夏珪山水図」(時事通信)2017年9月19日
https://www.jiji.com/jc/article?k=2017091901026&g=soc
山口県立美術館(山口市)は19日、室町時代の水墨画家、雪舟作「倣夏珪(ほうかけい)山水図」の存在が確認されたと発表した。中国南宋期の画家・夏珪の作品にならい、春夏秋冬を描いたうちの「秋」に当たる作とみられる。明治学院大の山下裕二教授は「構図や力強い筆致に雪舟のオリジナリティーが感じられ、重要文化財級の作品」と話している。
縦約30.1センチ、横約30.8センチのうちわ型で、山や水面には緑や青で薄く彩色もほどこしている。中国の古典画を手本に、少なくとも12点描かれ、他に6点の現存が確認されている「倣古(ほうこ)図」シリーズの1点。雪舟60歳前後の作品と考えられ、絵の依頼主に見せる見本帳に使った可能性があるという。
1933年、当時の所有者が売りに出した記録が残り、一部で存在が知られながら、長らく所在不明だった。昨年になって所有者側が山下教授ら複数の研究者に鑑識を依頼。その結果を受け、同美術館に寄託した。
雪舟の幻の作品 84年ぶりに確認 山口県立美術館(NHKニュース)2017年9月19日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170919/k10011148101000.html
室町時代に独自の水墨画のスタイルを確立した雪舟が描き、昭和8年に行われた入札を最後に所在がわからなくなっていた「幻の作品」を84年ぶりに確認したと山口県立美術館が発表しました。国宝に指定されている「四季山水図」とよく似た作風の山水図で、専門家は「真筆で間違いなく、非常に重要な発見だ」としています。
「倣夏珪山水図」(ほうかけい・さんすいず)と呼ばれるこの作品は、縦横およそ30センチのうちわのような形の枠の中に、中国の南宋の時代の画家、夏珪の作風を基にした山水図が描かれています。
手前にはひときわ濃い色の岩が力強い筆遣いで描かれ、その後ろに枝を伸ばした木々や水辺に浮かぶ小舟などが表現されています。昭和8年に行われた入札の目録に記されたのを最後に所在がわからなくなり、「幻の作品」とされていましたが、この作品を個人のコレクターが所蔵していて、調査の結果、雪舟の真筆と判断したと、雪舟の研究を進めている山口県立美術館が発表しました。
室町時代の画家、雪舟は、独自の水墨画のスタイルを確立したことで知られ、「山水長巻」の別名で知られる「四季山水図」や「天橋立図」など、6つの作品が国宝に指定されています。
今回の作品が描かれた時期はわかっていませんが、「四季山水図」と岩や木の枝などの表現がよく似ているということです。
調査に当たった明治学院大学の山下裕二教授は「雪舟の真筆に間違いないと見た瞬間に確信した。夏珪のスタイルを完全に自分の中に取り込んでオリジナリティーを出している。山水画においてこれほど自分のスタイルを確立した人はほかになく、四季山水図を研究するうえでも非常に重要な発見だ」と話しています。
「倣夏珪山水図」は山口県立美術館に寄託され、来月31日から公開されます。
「倣夏珪山水図」の特徴
今回見つかった「倣夏珪山水図」は、雪舟より200年以上前に活躍した中国・南宋の画家、夏珪(かけい)の画風を模した山水図です。左端に雪舟の署名があるほか、枠の外側の右下には「夏圭」と記されています。
山口県立美術館によりますと雪舟が活躍した室町時代後期には夏珪を模した作品が流行し、さまざまな画風を描き分けていた雪舟にとっても重要なテーマになっていたということです。
描かれているのは秋の情景で、黄色に薄く色づいた水辺のあしの上には葉を落とした木々が枝を伸ばし、「酒旗」(しゅき)と呼ばれる酒屋を示す旗が揺れています。手前の岩は絵の重心となるように濃い色で塗られ、雪舟特有の陰影を際立たせた描写や大胆で勢いのある筆遣いが見られます。また、人が岩の間の小道を歩く姿や向かい合って語り合う姿を描くのも雪舟が山水画でよく用いた手法です。
作品は紙の染みが目立たず状態もよく、岩の青みがかった色や木の緑色も鮮やかに残されています。
この作品は中国の有名画家の画風を模した「倣古図(ほうこず)シリーズ」の中の1枚で、江戸時代前期に狩野派の絵師が模写した12点が残されていることから、雪舟が少なくとも12点を描いていたことがわかります。このうち現存する6点はいずれも国の重要文化財に指定され、今回7点目が見つかったことになります。シリーズのうち夏珪を模した山水図は季節ごとに4枚が描かれ、今回見つかった「秋」と、個人が所蔵する「春」と「冬」はありますが、「夏」は所在が分かっていません。
真筆と判断した根拠は
山口県立美術館によりますと、この作品は4人の専門家が調査に関わり、全員が「真筆に間違いない」と判断したということです。
このうちの1人、明治学院大学の山下裕二教授はその理由の1つとして、うちわのような形をした枠の上の部分を描き直していることを挙げています。「雪舟」の署名も舟の字が大きくバランスが悪いとして、「こういうちょっと情けないところが部分的に見えるのも、オリジナルであることを保証する材料だと思う」と指摘しています。
また、江戸時代前期の狩野派の絵師による忠実な模写が残されていることや、昭和8年に行われた入札の目録の写真と表具に至るまで一致していたことも、傍証になるとしています。
山下教授は「絵そのものも、力強い岩の描き方やことさらに黒くしていることなど、雪舟の筆の癖と一致している。これほどまでに研究者が一致して間違いないと判断を下す作品は珍しい」と話しています。
専門家「世紀の発見」
19日の記者会見で、国内外の水墨画の歴史に詳しい学習院大学の島尾新教授は「雪舟の真筆はなかなか出てこないうえ、みずみずしく鮮やかな色には本当に驚き、感動しました。
『世紀の発見』と言ってもいいのではないか」と話していました。
また、40年近く雪舟を研究している明治学院大学の山下裕二教授は「オリジナルの中国の画風をそっくりまねた物ではなく、雪舟風になっている。中国の画家のスタイルを取り込んですべて自分のものにしたという雪舟の主張が感じられる」などと作品の特徴について説明しました。
一方、作品を来月から公開する山口県立美術館の荏開津通彦学芸員は「
確実に雪舟とわかる作品が新しく出てくることは100年に1回ぐらいのことで、普通にはないことなのでびっくりした。できるだけ多くのお客さんに見ていただきたいので工夫を凝らして展示したい」と意気込んでいました。
雪舟とは 人と作品
雪舟はおよそ600年前の室町時代に現在の岡山県総社市で生まれ、子どもの頃に修行した寺には、涙でねずみの絵を描き才能を見いだされたという逸話が残っています。
その後、京都市の相国寺で修行し、35歳のころに当時、繁栄を誇っていた西国随一の守護大名、大内氏の本拠地の山口に移り住みました。そして、50歳を前に中国にわたって絵を学び、帰国後、この経験を生かして、さまざまな太さや濃さの線で輪郭を描き岩などを重ねて空間に奥行きを生み出す独自の水墨画のスタイルを確立し、山口を主な拠点に活躍しました。
「山水長巻」の別名で知られる全長16メートルの絵巻、「四季山水図」や、「天橋立図」「慧可断臂図」(えかだんぴず)など、日本画では最も多い6点が国宝に指定されています。
9月10日の私のコード106予言が、10日も経たない内に、ことごとく的中、誰の目にも明らかなスケールと内容で現象化しました。
このように世界に起きる全ての事象はコードによってプログラムされています。人は誰も4次元のアカシックコードとは無関係に生きられないのです。宇宙コードが運命を紡ぎ、コードが世界を作り、コードが人を操り動かすのです。そのコードが素晴らしいものであれば、それでも全く問題はないでしょう。ですが、問題なのは、そのコードの大部分、およそ95%が「悪のコード」と「災いと不幸のコード」、そして、恐るべき「サタンコード」で占められていることです…。
「呪いの水晶ドクロには近づくな」
私たちは、そのアカシックの大いなる呪いを払い浄めて、新しい生命力と生命知を獲得しなければなりません。そのための「力」の源泉が、5次元より上の神聖界を治められる《天空の鷹ホルス神》であり、そのための「知」の源泉が、4次元に支配された3次元の人間の悲しき運命を永遠の呪縛から解き放って真理と幸福に導くアクエリアンエイジの新生命宇宙哲学《ホロゾフィー》と奇跡のコード解読法《コードロジー》なのです。
「呪いの水晶ドクロに近づく者は、聖なる呪文と聖なる剣によって己を武装せよ」
1000年前のバイキング時代の剣、フィンランドで発見(AFP)2017年9月28日
http://www.afpbb.com/articles/-/3144629?cx_part=to_list#cxrecs_s
フィンランド南部の墓地遺跡で、約1000年前のバイキング時代の剣が発見された。フィンランド放送協会が27日伝えた。首都ヘルシンキの国立博物館で来年、一般向けに展示される予定だ。
発見についてはフィンランド国家考古学委員会が26日に発表した。YLEの報道によると剣は今年春、ヘルシンキの北約100キロにあるロッピヤリビ湖付近で、男性が金属探知機を使って見つけた。保存状態は良好だという。
歴史的埋蔵物の探索が趣味というこの男性は、墓地遺跡の土から剣の刃が突き出しているのを見つけたという。剣のそばからナイフや円形のブローチ、骨製のくしも発見された。
この種の発見はスカンジナビア地域では珍しいが、初めてではない。ノルウェーでも今月5日、首都オスロの北約270キロに位置するオップラン県の山間部で、850~950年にさかのぼるバイキング時代の剣を発見したと地元考古学者らが発表している。(c)AFP
そして、コード106のエナジーは、さらに加速的に巨大化。超世界的スケールの現象化を生み出しました。世界的文豪として知られる、あのマルセル・プルーストの知られざる秘密についての驚くべき発見です。
AFPBB News @afpbbcom 9月29日
【世界的文豪が…まさかのステマ】
フランスの文豪プルーストが、長編小説「失われた時を求めて」の第1篇を褒めそやす書評を自ら編集し、新聞に掲載してもらうため金銭を支払っていたことが、直筆の複数の手紙から明らかになった。
https://twitter.com/afpbbcom/status/913698113960972288
文豪プルースト、自画自賛の書評掲載を金銭で依頼していた 手紙発見(AFP)2017年9月29日
http://www.afpbb.com/articles/-/3144846
フランスの文豪マルセル・プルーストが、長編小説「失われた時を求めて」の第1編「スワン家のほうへ」を褒めそやす書評を自ら編集し、新聞に掲載してもらうため金銭を支払っていたことが、直筆の複数の手紙から明らかになった。
プルーストは、出版社の編集者に送った書評をタイプライターで清書するよう依頼。そうすればプルースト自身の手で書評を書いたという痕跡が消え、金銭の授受からも距離を置けるなどと記していた。
プルーストが書評の紙面掲載を主導的に画策し、出版社グラッセの担当編集者ルイ・ブランに「金は全額返す」と約束した手紙の存在は、非常に貴重な「スワン家のほうへ」の初版本とともに明るみに出た。この初版本は来月、フランス・パリで競売大手サザビーズが主催するオークションに出品される。
裕福だったプルーストは、日刊紙「フィガロ」の1面に「スワン家のほうへ」を高く評価した書評を掲載してもらうため、当時の金額で300フランを支払っていた。これは現在の価値に換算すると約1000ユーロ(約13万円)に相当する。また、友人が同作を褒めちぎった長めの書評の要約版を日刊紙ジュルナル・デ・デバの1面に載せるため、さらに660フランを支払っていた。
2つの書評は、プルーストの長年の友人で著名な画家だったジャック・エミールブランシュが記した「スワン家のほうへ」を称賛する書評をさらに都合よく編集したものだった。
書評では「スワン家のほうへ」について「眠気を催すような駄作の山を吹き飛ばすような佳品」と高く評価。著者を英国の文豪チャールズ・ディケンズになぞらえつつ、「ムッシュー・プルーストのものの見方、感じ方は全く独創的」「本書はキュービスト(立体派)の第4次元に近いものを表現している」などと評している。
初版本はオークションで40万~60万ユーロ(約5300万~8000万円)で落札されると見込まれている。(c)AFP/Fiachra GIBBONS
文学界の頂点に立つ文句なしの世界的文豪が、都合よく自作した自著の宣伝用書評文を金の力で編集者に掲載させていたという驚きの事実が、新たに発見された直筆の手紙から明らかになりました。
文豪プルーストとその作品「失われた時を求めて」の評価に関しては、以下を見ても明らかな通り、押しも押されぬ「現代文学の金字塔」として世界中に認知されています。
『失われた時を求めて』は、マルセル・プルーストによる長編小説。プルーストが半生をかけて執筆した畢生の大作で、1913年から1927年までかかって全7篇が刊行された(第5篇以降は作者の死後に刊行)。長さはフランス語の原文にして3,000ページ以上、日本語訳では400字詰め原稿用紙10,000枚にも及ぶ。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』と共に20世紀を代表する世界的な傑作小説とされ、後世の作家に多くの影響を与えている
−Wikipedia
プルーストの『失われた時を求めて』はぜひ読むべきだ。すばらしい小説だ。小説の命運を決定する最も重要な作品だろう。バルザックとプルーストはフランス文学のもっとも偉大な二人の小説家だと言える。
−フランソワ・トリュフォー
このような世界的文豪、比類なき大作家が、今でいうところの「ステマ」に余念なく励んでいたというのですから、それは中々の衝撃です。そして、そのような秘められた逸話を明るみに出したのは9月10日に私が予言したコード106の「文豪や画豪の隠された秘密」を見通す「水晶ドクロの目」の魔力に他なりません。
さらに、文学だけでなく絵画の方面でも・・・
イタリアのルネサンス期の芸術家を代表し「万能人 (uomo universale)」の異名を取る、あの歴史的大画家の世界中の誰もが知る超有名絵画について、プルーストの上のニュースと同日、今後大変な新発見となる可能性が高い調査結果が報じられました。
「裸のモナリザ」 ダビンチ作の可能性 仏ルーブル美術館が調査(AFP)2017年9月29日
http://www.afpbb.com/articles/-/3144797?cx_part=to_list#cxrecs_s
巨匠レオナルド・ダビンチの代表作「モナリザ」に酷似した裸婦画を仏パリのルーブル美術館が調査した結果、ダビンチ自身の手で描かれた可能性があることが分かった。調査に関わる専門家らが28日、AFPに明らかにした。
この裸婦画は、ダビンチのアトリエで制作されたとされる大判の木炭画「モナバンナ」。1862年からパリ近郊シャンティイにあるコンデ美術館のルネサンス芸術コレクションの一部として所蔵されている。
モナリザを所蔵するルーブル美術館の専門家チームは1か月にわたり、この絵画を調査。コンデ美術館のキュレーターらはその結果を受け、木炭画の「少なくとも一部」はダビンチが描いたと考えている。
その一人、マチュー・デルディク氏によると、木炭画は「ほぼ確実に、油絵の準備作業として描かれたもの」で、モナリザと深い関係があることは明らかだという。
同氏によれば、木炭画の両手や胴はモナリザとほぼ一致する。また、2枚の絵は大きさもほぼ同一で、裸婦の周囲に小さな穴が開けられていることから、カンバスに裸婦を転写した可能性もあるという。
ルーブル美術館の保存専門家、ブルノ・モタン氏は、木炭画の制作時期が15世紀と16世紀の境目前後で、1519年に死去したダビンチの存命期間と重なっていたことを確認。作品としての「質は非常に高い」と述べている。
一方で、ダビンチが描いたという最終判断を下すかどうかについて「まだ慎重でなければならない」と指摘。「絵の上側、頭の近くにある線影は右利きの人物によるものだ。ダビンチは左手で描いていた」としている。
調査の焦点は現在、木炭画が描かれたのが、1503年以降とされるモナリザの制作時期の前後どちらなのかに当てられている。裸のモナリザを描いた絵は世界に20点ほど残されているが、その大半で、制作時期の特定は難しいとの結論が出ている。(c)AFP/Fiachra GIBBONS
このモナリザをめぐる極めて興味深いニュースも、私が19日前に記したコード106がはっきりと文中で予告していた通りの現象化ですね。私が10日に行った予言から20日も経たない間に、これだけの数の歴史上の人物、文豪、画豪たちに関する「世紀の発見」がコード106の予告通りに相次ぎました。