goo blog サービス終了のお知らせ 

比較日本研究

比較日本研究会の活動報告。日本の政治・思想の研究。日本の政治・社会状況に対し平和の視座から発言。社会の逆回転に歯止めを。

比較日本研究会 月例研究会2005年2月

2005-02-28 10:14:54 | 月例研究会
比較日本研究会 月例研究会2005年2月

                          報告:メイフラワー

取り上げる本『メディアが市民の敵になる』山口 正紀著 現代人文社
        参考文献:『ニュースの虚構、メディアの真実』同著。
             『無責任なマスメディア』山口正紀、浅野健一編著


○本書を取り上げた狙いと討議概要:
 権力、とくに犯罪を管轄する警察、検察自体の組織ぐるみの犯罪が明らかになった。にもかかわらず警察はばれてもそれを否定し、ごまかし、知らん顔を決め込む。やがて検察も組織ぐるみで公金を詐欺・横領したと内部告発がされるが、その直前に内部告発者を別件逮捕拘禁して逆襲して、いまもって事実を認めない。法務省もそれをバックアップする。そして裁判所がさらに追認する。この国に正義などもう望めない。
 権力が自分の犯罪を隠蔽する一方で、権力に批判的な言辞に対しては別件逮捕、過剰逮捕、あらゆる不法権力行使もいとわず、それを既成事実化する強権が次々に繰り出され、訴訟に持ち込んでも上級審になればほとんどが権力側主張を追認するだけの儀式になろうとしていないか。
 法治国家はその基盤が既に腐食しきっているかの様相である。
 さらに、その陰では権力を監視する立場にあるはずの報道機関が実は権力と一体化して機能放棄を自ら昂進させている現実もある。
 本書は読売新聞記者である著者が『週刊金曜日』に連載し、報道について時々刻々、その権力犯罪とそれに荷担する報道の実像を告発してきたもの。そのなかから、例会では以下に課題を絞って報告、討議したい。
①権力犯罪の検証とそれにかかわる報道について、
②拉致問題報道と北朝鮮報道の〈一色化〉と〈タブー化〉について、
③読売新聞が著者を「記者職」からはずし、報道機関の変節を進めた問題について、
④現在進行形の、自民党・極右グループによるNHKへの政治介入とその事実を隠蔽することに汲々とするNHKの言論自主統制について、
⑤北海道警裏金疑惑、愛媛県警裏金疑惑について、告発報道を続けて事実解明に取り組んでいる地方紙の報道キャンペーンの意味について、

報告を終えて:残念ながらこの日、参加者の多くは課題書を読んでこなかった印象が強い。選定書が不適当であったのかもしれず、また、報告内容に不満を持たれたのかもしれない。いずれにしても、碌に課題書と報告についてつっこんだ質疑も議論も得られなかった。

比較日本研究会 平成16年12月例会

2005-01-09 11:58:17 | 月例研究会
【開催日】 16年12月30日(木)
【【報告者】 いちご白書
【テキスト】「言論統制」佐藤卓己 中公新書 2004.08

平成16年最後の研究会となった今回は、「言論統制」佐藤卓己 中公新書をテキストとして開催された。
本書は言論界で「小ヒムラー」として怖れられた陸軍軍人 情報局情報官 鈴木庫三少佐の伝記研究である。

【ポイント】 
1.言論統制と鈴木庫三
言論統制は歴史的事実として存在した。著者は事実としての言論統制を否定している訳ではない。
ただ、鈴木が活躍した時代は左翼弾圧と自由主義者弾圧の端境期にあったことを歴史的な事実として指摘している。そして弾圧者「小ヒムラ-」鈴木像は作家ら文化人が贖罪意識から戦後に捏造したものであることを実証研究において明らかにしている。
さらに「近代の超克」竹内好他 の中で「そもそも、戦争に反対する自由主義勢力なるものが存在したのであろうか。」と指摘しておりこの点については深堀が必要。


2.鈴木庫三と出版社との対立
本文の要約を繰り返すことになるが、鈴木庫三と出版社との対立は出版業にとって生命線である紙をめぐる実質的な利害の衝突(講談社問題と朝日新聞社問題)。もう一つは、あるべき生活態度をめぐる価値観、つまりハピトゥスをめぐる対立(岩波書店問題と実業之日本社問題)であり、主戦勢力と反戦勢力の戦いではないことを著者は実証的に明らかにした。
対立点は決して戦争協力を巡ってではなく、陸海軍の対立に乗じた対立であり、紙の配分を巡っての対立であった。
戦後になって出版社側が鈴木庫三を「小ヒムラー」として糾弾し、鈴木を「悪者」に仕立て上げることによって、自らを「反戦」として免罪するという構図が大変良く浮かび上がっている。

【コメント】
1.民主化装置としての軍隊組織
本書P89にて著者は丸山真男の「軍隊は社会的な階級差からくる不満を緩和する役割を果たした。」点を引用している。丸山をして「擬似デモクラティックな要素が存在した。」と言わしめたように、軍隊組織を民主的な要素有りと評することは、戦後民主主義の風潮の中で大きなタブーであり、わざわざ、「擬似デモクラティック」と称している点に戦後の軍隊研究のタブーが存在すると考える。この他、第1章の冒頭では松本清張を引用。(P50)「ここ(軍隊)にくれば、社会的な地位も貧富も年齢の差も全く帳消しである。みんなが同じレベルだ。」という部分を引いてきている。松本清張のストレートな感慨として自分が勤務している新聞社よりも軍隊の方が民主的であると感じている。軍隊組織は民主的かどうかについては、極めて限定的な議論であり改めてキチットした議論が必要と思うが、著者は「戦後民主主義」が軍隊に関する客観的な研究を放棄し、事実を直視してこなかった点について鋭い批判の目を向けているように感じられた。「昔は良かった。」「軍隊は良かった。」風の安直な感慨ではなく、今こそ客観的でまじめな軍隊研究が求められるのではと感じた。

2.社会主義者 鈴木庫三??
著者は鈴木庫三に対して社会主義者としてのレッテル貼りをしているわけではないが、社会主義的な傾向を随所に指摘している。著者のいう社会主義とはマルクス主義における社会主義で、陸軍の教育将校であった鈴木庫三に社会主義的傾向を見出すことが、発見でもありこの研究の売りにもなっている。しかしながら、「国家社会主義」に共通する側面も多く存在し、マルクス主義との腑分けをますます困難にしている面もあるだろう。この戦前、戦中の「国家社会主義」は戦後には「官僚支配」に引き継がれて連続していくものであり、とりわけ鈴木だけが傑出していたというわけではなく、当時の時代的な制約の中で規定されていたとも言えるのである。ただ、著者やわれわれ自身がある意味共感をもって鈴木庫三の日記なり生い立ちを読むことが出来るとすれば、自らの生い立ちを背負った弱者へのまなざしであったと思う。現在の日本の知識人には一般論として「弱者に対する視点」が欠落しているように思えてならない。

3.軍隊・戦争システムはいかにして否定しうるか??
軍隊や戦争を前提としたシステムの中では、いささか鈴木庫三の言説は合理的であり、違和感なく受け入れられるだろう。日清戦争の年に生まれ、日露戦争の年に10歳にして軍人を志す。そして第一次世界大戦期に成人として過ごした一軍人の発想の根底には、明治以来の「富国強兵」があり、社会そのものを国防の目的に沿うように作り変えていく必要がある。これが、「軍隊」をもつ「普通の国」の姿なのである。これに対して戦後民主主義のなかで「警察予備隊」「自衛隊」といった再軍備への動きとは裏腹に精神世界においては「軍隊」も「戦争」もタブーとなった。この過程において、「軍隊」も「戦争」もきちっとした議論や検証もなされることなく葬り去られたのである。
しかしながら、教育などあらゆる社会の仕組みを「国防国家」に向けて作り変える水面下の動きは現実問題として進んでいるといわざるを得ない。これに対抗しうるのは、「絶対的平和論」であり「国家悪」の認識ではなかろうか。と考える。「普通の国」を目指す以上は一国の防衛は軍事力だけで達成できるものでなく、教育や経済も含む軍事化が必要となる。鈴木庫三が目指す「国防国家」論は遠い過去の思想と言い切れるだろうか。「普通の国」の回路を断ち切ることこそが、「国防国家」と訣別する道ではなかろうか。


第210回 月例研究会報告 2

2005-01-08 18:03:14 | 月例研究会
つづき

Ⅳ、討論―ではどうしていけばいいのか。



1、「プラグを抜く」
「プラグを抜く」とはどういうことか。『人類の希望』(44頁)でイリイチは「自転車社会に共鳴するが、帰省するとき新幹線を使ってしまう」という質問者に「私も成田経由で日本に来た(笑い)」と答え、大切なのは「それぞれが、自分のやり方でプラグを抜いていく、消費や産業的道具から自分を切り離して行く(unplugging)ことだと思います」と答えている。私は大学時代、一生運転免許を取らないと誓って貫き通してきた。最近、イリイチに褒められそうなのは「テレビをやめたこと」。テレビは消費社会の諸悪の土台を形成している。テレビさえ切れば、買わずに済む商品は飛躍的に増える。「政治的洗脳」から逃れられる。イリイチは『脱学校の社会』(これは誤訳で本当は『非学校化社会』だと思う)で世に知られるようになったが、「学校を壊してしまえ」とか「徒歩の生活に戻れ」とか「医者にかかるな」などと主張しているのではない。人々を序列化し、社会を統制化し、人間がもって生まれた自然の治癒力をそぐものを商品として盲目的に購入するのをやめよと言っているのである。 イリイチはホープとユートピアを分け、ホープは自分自身が持つもの、ユートピアは他人が提示するものとしている。自分が目指すところ(ホープ)に向かって一つのことを継続してやっていくーそれがイリイチの「unplugging」だと思う。

2、「単身者主義」と「家庭拠点主義」について
イリイチによれば、近代の賃労働制の進行にしたがって、賃労働(支払われる労働)とシャドーワーク(支払われない労働)が分離していき、後者は前者を二重の意味―一つはそれなしには賃労働が成立しないという意味、もう一つは後者が賃労働で作られた商品(教育・医療・車輌)を消費するという意味―で維持するに不可欠なものであるという。こうした捉え方を考えるにつけ、頭のなかでよみがえってくる議論は神島先生の「単身者主義」の議論である。神島先生によると日本の近代において賃金体系は「単身者主義」的に定まったという。つまり、企業は人一人分(単身出稼ぎ労働者本位)の賃金をはらえば良く(ヨーロッパでは家族を前提に賃金が支払われたとする)、これによって「会社主義」ができあがった。日本の近代の高度成長を支えたのは、本来市民生活を豊かにすべき経済活動が企業の成長にもっぱら注ぎこまれたからという分析である。神島先生は「単身者主義」は日本が先進国で欧米に輸出されているという見方をもっていたが、イリイチの視点は神島先生と違い日本と欧米の相違点に着目するのではなく、共通点に着目したものと考える。つまり、日本も欧米も近代産業社会化に伴い賃労働とシャドウワークが分離していったが、欧米の場合は日本のように家族の崩壊はなかった。日本の場合はそこで家族が社会単位として崩壊してしまったのである。こう考えると「家庭拠点主義」は二重の意味で近代をこえる可能性を持たないか。すなわち、分裂した賃労働とシャドウワークを止揚する可能性と崩壊したコミュニティの再生である。イリイチの言葉によると「人間の自立と自存」の復権、コンビィビィアリティの復権、共生社会の創造である。イリイチは現在の問題を解決する具体的な社会単位については語らなかったようである。そこに家族という単位は考えられていなかったようである。近代を超える社会単位として家族をあげることを私は再び試みたい。

3、「ブレークスルー」とイリイチの思想
さて、石積氏の言う現代の状況を「ブレークスルー」するものとしてイリイチの思想を提示することはできるのか。
イリイチは「人間の自立・自存」と言っている。現代の日本は社会の仕組みが「宣伝―消費」構造になっている。つまり、教育であれ、医療であれ、移動であれ、通信であれ、娯楽であれ、政治であれ……すべて商品化され国民はこれの一片面的消費者にすぎなくなっているのである。我々は英語を身につけようとすると「ノバ」や「ジオス」に行くように条件づけられている。何かを身につけようとすると新聞の広告欄を見ると分かるように各種の通信教育・専門学校に事欠かない。学校制度は言うまでもなく猫も杓子もとりあえず大学まで行けば何か得られるのではないかと幻想をしている。ちょっと体の具合が悪くなると病院に行き、検査漬けである。血圧やコレステロール等に異常が認められると袋一杯の薬を持たされ病院を後にする。死にそうになると今度は葬儀屋のパンフレットが舞い込み商品としての棺桶が提示される。移動もそうである。毎日曜日には中古車センターの大量のチラシが入り、車の買い替えを促される。旅行も商品化されパック旅行の花盛り、近所のタバコ屋に行くのにも車を出す始末。パソコン関係器材は毎日のようにモデルチェンジ、一月もすると買い換えなくては行けないような気になるような機能改良のコマーシャル。職場にどこにでもいるパソコンおたくはパソコン雑誌と毎日にらみ合い、新しい機種を買わんとあくせくする。
そして、いよいよ政治である。我々はテレビ・ラジオ・新聞・雑誌等々で毎日のように小泉政権の政策を支持するように意識操作されている。当初イラク派遣には反対の世論が強かったが、大本営発表みたいな一方的な報道にかかったら一たまりもなく世論は派遣賛成になってしまう。古賀議員の学歴詐称・佐藤議員の秘書給与問題―民主党の数々の政治スキャンダルは政権交代の勢いをしぼませたが、これもネガティブキャンペーンの一環、毎日の小泉政権の政策報道は自民党の選挙活動とも言えるから選挙の勝ち目も薄い。その合間に有事法制が着々と準備され、ビラをポストに入れただけで逮捕という段階まで来てしまった。「自民党政治」という商品を買わされ、洗脳がすっかり済んでいる消費者は自民党がなくなれば給料ももらえないと錯覚して支持をしていく…。
こうやって書いていけばきりがないが、どうしたらいいのだろうか。イリイチから学ぶことはあるのであろうか。まず生活の拠点を定めることであるとイリイチは言っているような気がする。「自立・自存」「バナキュラー」「コンビィビィアリティ」等の概念はすべてこのことに関わってくる。そして次々にシャワーのようにやってくる商品(政治・通信・教育・医療・交通)の洪水を水際でストップする。イリイチの言葉で言えば「プラグを抜く」ということになる。まずテレビのスイッチを切る。自分で自分の体をコントロールする。教科書ではなく自分で原文をあたる、安易に学校に頼らない姿勢を作る、車をやめて街や野を歩いてみる、実際に政治の現場に行ってみる、……そうすることがまず第一歩だ。それは最初の主体の姿勢に関わる。次にやってくる課題は巨大産業化したこうした宣伝―消費構造をどうやって壊して行くかだ。戦争はその巨大構造のごく一部でしか過ぎない。巨大構造はエネルギーを必要としている。そのためのイラクだ。そうした構造を見極め、自らの生活を石油から離陸させていく必要がある。それから、こうした認識を他者に伝えるコミュニケーション手段を考えなくてはならない。インターネットが官憲の網にかかろうとしている。しかし、ありとあらゆる手段を使ってコミュニケーション手段を確保していかなければならない。携帯電話も通信会社のコントロールにあってしまう。「圏外表示」による一方的コントロールはもう行われているし、有事の際にはもちろん一方的な情報網になるだろう。しかし、そうした中で我々はコミュニケーション手段を確保していき、巨大構造を壊していかなければならない。
イリイチの思想はまず自らの足場を固定するという意味でもっとも意味があるかもしれない。それはデモのやり方も教えないし、政党の作り方も教えない。しかし、その自らの足場を確定するということがこの宣伝―消費の巨大構造を壊して行くもっとも有効でもっとも早道なのであるとイリイチは言っているのではないだろうか。
ところで、イリイチの思想は実際の政治改革に生かすことはできないのだろうか。単に「足場を固定する」だけの思想なのであろうか。そこで田中康夫の出番である。

4、田中康夫は「プラグを抜こう」としていないか…
田中康夫は現在の政治状況の中で、一人他と違った政治家のように見える。彼のやっていることを見ていると、イリイチを読んでいないかもしれないが、イリイチの目指した方向と同じ方向を向いているように思われる。「脱ダム宣言」はまさに開発に対するアンチであるし、長野県を「信州」と改め地場産業を豊かにしようという政策、官僚的政治を改め民の声を聞く政治を行おうとしている点、彼は確実に「プラグを抜こう」としている。『何となくクリスタル』で彼はブランド指向という商品購入の最先端を走った。そして彼は流行を追い、絶え間なく商品を購買する実体験の中から現在の経済構造の「秘密」に触れたのではないだろうか。つまり、イリイチの言う産業化社会―商品が肥大化し、人が自立・自存を失った社会であることを知ったのである。
そうした文脈で私は田中が朝日新聞でフランス・ブレシー村長のイブ・デュテイユ氏との対談を思い出す(2003年10月30日)。私が田中のセンスに感心したのは次のくだりである。

田中「ブレシー村の給食のやり方を聞いて感心した。子どもたちがバスに乗って給 食センターまで食べに通うことで、会話の機会が増える。他の学校の子供との交流 の場になる。食を作る人とのじかの触れ合いも生まれる。ところが日本では逆に、 センターから学校に配達する。だれが作ったのか、その顔を見えない食を子どもは 残すーー。」
田中「自然の恵みに触ったり、においをかいだり。そういう原体験をつむことが教 育では絶対必要なんだ。」
田中「公共や民間の何たるかがきちんと議論されぬまま、公共といえば「役所のす ること」として扱われてきた。フランスでは公共とはもっと自立した市民による緩 やかな共同形態ととらえているのではないか。」
田中「はじめに住民のあるがままの暮らしがあり、それに合わせて形を作るのが共 同体の町づくりだ」
田中「結局、世の中を真に変えるのは、一対一の対話を通じたことばの力だけだ」

これらの発言から私は田中に現在の他の政治家と違う哲学を感じるのである。それは現代産業化社会の構造を表層部で改革するのではなく根源的に問うていこうとする哲学である。
田中康夫は奇抜な行動の人と見られている。ところがイリイチの「思想メガネ」で彼の行動を見てみると、彼が考えていることが透けて見える気がする。彼の数々のスタンドプレーの背後には現代の消費社会・官僚社会・統制社会の「プラグ」を抜こうという意図があるように私には思えてならないのである。
イリイチの思想を体現している政治家が既に日本には存在している。しかし、まだ一人、菅さんも小沢さんもこうした視点から見ると失格である。田中康夫のやり方に大いに期待したいという言葉で本日のレポートを閉じたい。

*主な質問
①イリイチと神島先生の議論は家庭拠点主義をめぐってどう異なるのか(西田)。
大森解答…前近代から近代産業社会に移行するに従って家庭が生産+消費の場から消費だけの場になって、労働が賃労働化し外に出ていきそれを男が担って行くという議論は神島先生の議論と同様のものである。そうした認識はイリイチと神島と同じであるがそれを超える展望として神島には「家庭拠点主義」があるが、イリイチは家庭という具体的変革単位などを提示していない。
②イリイチはシャドーワークを否定的にとらえているのか(西田)。
大森解答…否定的に捉えているのは、賃労働とシャドーワークが分離してきた近代の労働のあり方。シャドーワークだけ否定しているのではない。
③イリイチの方向で行けば全世界が鎖国すればいいことになるのでは。ODAの努力などは否定されるのか(石積)。
大森解答…イリイチは例えば商品としての病院の治療を問題にしているが、医者にかかるななどと言っていない。それと同様に対外的な援助などやめてしまえなどと言わないだろう。「プラグを抜け」とはそうした認識に基づいて主体の問題として出来ることがあればそれを地道にやっていこうという提案だと思う。
*主な議論(1)…エッセイから
①歯ブラシ指導の問題は面白かった(エッセイ1)。
②学校の警備員の仕事を通じてのシャドーワークの説明は良く分かった(エッセイ2)。同じ警備でも機械がやるとまさに機械的で進入者など即逮捕だが、アベックがを語るために学校に偲びこんだ場合など説諭という方法もある。「説諭」などは人間の警備員によるシャドーワークだ。
 ③「保険点数」で賃労働を説明したのは面白かった(エッセイ4・5)。
 ④平和を語る時の政治学の用語は貧困である。「支配元理」に基づいているから形容矛盾(「平和のための戦い」等)が出てくる(エッセイ6)。
⑤方言や天気予報の話は面白かった(エッセイ9、エッセイ10)。
⑥憲法9条の問題で…イリイチは平和は輸出できない、それは必ず経済的進出とセットになっていると言っているが、理念は輸出出来るのではないか。
⑦日本的経営を再評価する本が出てきているが、日本の経済成長は日本的経営のせいではなく、日本人のワーカホリックや軍事費を押さえたことなどによっている。また日本的経営は一部の大企業の特徴だったのではないか。
*主な議論(2)…「討論ーではどうしていけばいいのか」の中で
①神島先生によると日本の近代において賃金体系は「単身者主義」的に定まり、ヨーロッパにおいては家族単位で賃金が支払われたというレジュメの記述に質問がなされた。大森があとで神島先生の具体的発言を調べると答えたが、『日本人の結婚観』(筑摩叢書)29頁に「小家族を社会の一単位と認め、これがりっぱに社会的機能をはたすにたる費用を保証しようということになれば、もちろんこれよりも高くつくでしょう。ですから、単身者本位に賃金体系をくむことができたから、チープレーバーがなりたちえたわけです」とあるように神島先生は日本の賃金体系の「異常性」を常に論じていたようです。
②平和の輸出の問題で、ブータンの実例が石積氏から示され面白い議論になった。ブータンは事実上の鎖国状態のなかGNPをGNH(グロース・ナショナル・ハピネス)と読み替え、まさにイリイチ的に世界の大国の開発の波を拒んで生きているのだという。
③日本的経営の問題でオランダの事例を石積さんが提示してくれった…オランダは自由がもっとも認められている国で、仕事と私生活が截然と分ける生き方が認められている。年功序列ももっともない国だという。そうしたオランダが国の経済を立ち直らせたのは日本のこれからの経営を考える上で示唆的である。
④田中康夫のやっていることの意味をイリイチで解いたのは面白かった…田中康夫が特異な政治家であることは認めているが、そのやっていることの意味は今まで分からなかった。イリイチで解けば「脱ダム宣言」や数々の官僚的政治の改革・信州という地域に根差した政治など彼のやっていることが明らかになるだ
ろう。(2004.4.11)
















第210回 月例研究会報告 1

2005-01-08 17:59:04 | 月例研究会
I.イリイチ著『シャドウワーク』(1982年・岩波書店)
                                   報告者:大森美紀彦


Ⅰ、ブレイクスルー(石積氏)の問題提起を受けて
  現在の日本はあらゆる点でおかしくなっているー社会の階級化(貧富の差、勝ち組・負け組の発生)、社会福祉費の低減(年金の改悪・社会保険の負担増)、食糧危機(牛・鳥・魚の食糧としての危機)、環境の悪化(交通渋滞、地球温暖化)、社会の殺伐さの増大(小学生を襲う、児童虐待、自殺者の増加)、病気の蔓延(エイズ、性病、花粉、ハウスシック)、雇用の悪化(フリーターの増加、リストラ、自殺者、サービス残業)、政治的自由の圧迫(言論統制、職場管理)、戦争体制への進行(有事法制、イラク派遣、憲法9条改正)、政党の堕落(学歴詐称、秘書給与)、公務員の汚職(県警の着服・最近一人収賄で知人逮捕!)、企業のモラルハザード(不良商品の増加)等々―である。
  こうした状況に囲まれ今時代を突破する思想が求められている。それはファシズム化を避けながら緊急に求められるべき人類の指針でもある。これまでこうした問題意識で例えばギデンスを読む中で社会民主主義の可能性などを論じてきた。こうした流れの中で今回私の大好きなI.イリイチについて報告させていただき彼の思想が石積氏の言うブレイクスルーの思想たるやいなやを検討したいと思う。
そういった意味で従来の報告の仕方をちょっと変え今回は各章を読みながら私が何を考えたかを記述したものを中心に報告することにした。ただ、その前にやはり各章の簡単な要約を行い、そして彼の使う難解な概念を私なりに解説しておきたい。

Ⅱ、各章の短い要約とイリイチの主要概念

 序 …労働の貨幣化とシャドウワーク(賃金の得られない労働)の2領域化は近代に 人間の自立・自存(サブシステンス)を破壊するものとして出現した。そうし た社会を超える手がかりがバナキュラー(その地の暮らしに根ざした固有の) 生活であり、コンビビアル(お互いに生き生きとした)な共同性である。商品 ・サービス・共有地(希少性のある利用価値)の商品化の過剰を阻止しなけれ ばならない。

1 平和とは人間の生き方
「平和とは輸出できるものではない」…平和の輸出は必ず戦争になる。 平和は パックエコノミカとして意味されるようになり平和は開発=発展と結び付けられ てきた。それは民衆の平和を次のような手段―①自分で生活を維持することを奪 い②共用地を奪い③男性と女性の協動生活を奪うーことによって破壊してきた。 こうして労働は中性化し、賃金労働化され、まずそこに男があてがわれ、女はシ ャドウワークに従事させられるようになった。

2 公的選択の三つの次元
  公的選択の三つの次元として、従来のX軸(資本主義的―社会主義的)、Y軸(ソフトーハード)に加えてZ軸(商品への従属―生活の自立自存)を設定する。Z軸を加えればソフトな手段(風車等)でも商品として売られるのならばマイナスの価値になる。開発―人々を商品の購買者として商品に従属させていくーに対して様々な抵抗の動きがある。
  西洋世界では外部世界のものたちは助けられる必要があるという考え方を育てた。現在植民地の解放・開発はそうした西洋の考え方の現代的段階である。それは専門家によるおびただしい世話の押し付けである。  
産業労働の発達は支払われる労働(賃労働)と支払われない労働(シャドワーク )との分裂の過程である。

3 ヴァナキュラーな価値
  ここではネブリハの国語形成活動について主に論じられる。コロンブスの時代、スペインではネブリハによって国語が作られようとしていた。ネブリハは言語を人工的に作り出すこと、これを国語として共通語にすれば国家統治に大きな力を発揮することに気がつき女王に進言した。異教徒を洗礼ではなく言語によって取り入れることが出来る。そしてその担い手は教師である。地域的な自由な言語は国家に対して反逆を意味する。民衆の気ままな読書熱を冷ますために標準化された言語が必要である。それは国家の柱石と考えられた。「母なる」教会がこうした機能のヒントを与えた。ダンテに言わせれば文法にしたがって学び話さなければならない言葉などは死んだ言葉であったが…。

4 人間生活の自立と自存にしかけられた戦争
  近代教育学の創始者コメニウスは「教えられずに学ぶものは人間というより動物に似ている」とした。
「母語」という用語ができる11世紀まではバナキュラーな(地域に根差した) 言語が多数共存していた。ルターの頃に「母語」は学校で本を読むために教える 言語を意味するようになった。人々はそれを学ぶためにお金を払わされるように なり,言語は市場に出回り今や国民総生産(GNP)を構成する市場的価値の最 大二部門の一つとなった。教育のせいで話し方に鈍感になった学生たち。ネブリ ハの出現まで日常の言語はバナキュラーで生き生きとしたものだったのに…。

5 生き生きとした共生を求めて
  「民衆のためのサイエンス」(R&D(リサーチとデブロプメント)政府・大学・企業・軍隊・財団等によるもの)と「民衆によるサイエンス」を区別する必要がある。「民衆によるサイエンス」を考える上で12世紀の思想家ユーグと出会った。彼にとってサイエンスとは人間の弱さへの救済の試みであって、自然を統御し、支配し、征服して、それをにせの楽園に変えてしまうことではない。そこでのサイエンスはフィロゾフィアであり、コンビビアリティ(生き生きとした共生)の探求であった。逆に自然を征服しようとしたのがベーコンであった。
6 シャドウ・ワーク
  産業社会特有の支払われない労働がシャドウワークである。それは生活の自立自存の活動ではない。シャドウワークの量は人の差別を測る上で就職の不平等よりもはるかによい尺度である。「レジャー」「セルフヘルプ」「サービス」などの言葉はこのシャドーワークの遠回しの表現である。
「賃労働」は中世には惨めさの代名詞であった。中世において社会はすべての人 にその居場所を供していた。「賃労働」はそうした居場所を失った落伍者・追放 者がやる行為であった。賃金で生計をたてるということは生活の自立自存が出来 ていない人であった。しかし、現代ではすべての人がこの「賃労働」に向かわさ れ、男たちは労働者階級へ、女はそれを支えるシャドウワークの担い手として分 極化されていった。前近代の社会においては家=生産と消費の場であったが、産 業社会化に伴い「賃労働」とシャドウワークに分離し、今ではシャドウワークが 一般化しさえするようになった。即ち階級化による一部の生産者と大多数の消費 者との分離である。

Ⅲ、イリイチを読んで考えたことーここからエッセイ風に…(『15のエッセイ』)

1 歯医者にて(賃労働のレベルで)
…最近、久しぶりに歯医者にかかった。その時「オヤッ」と思ったことがあった。初診で「歯ブラシ指導」なるものを受けた。私はこれはてっきりサービスだと思ったのだが、後で医者が「大森さんは歯ブラシ指導をしたから加えといて…」と会計係に言っていて分ったのだが、これも保険点数にカウントされるのだ。いかにも好意でやっているような「歯ブラシ指導」が…。イリイチのいう近代における「賃労働」の発展というのは、人間の営みをすべてお金に換算するということだと思う。そして支払われない領域(シャドウワーク)をそれは拡大しながら発展してきた。これは例えて言えば「鼠講」のようなもので、先に賃労働を獲得した者はシャドウワーカーを従えながら儲けて行く。国家について言えば先進国はたえず開発を繰り返し、後進国をシャドーワーカーにして自国の富を増す。発展途上国はいちはやく賃労働の側につくために近代化を行い、より遅れている国をシャドーワーカーにして「離床」しようとする。

2 合理化の現場(賃労働のレベルで)
…近年、公務員の世界でも「合理化」が進行している。私の勤務する小学校でも「義務教育国庫負担法」の改正によって学校事務職員の給料が市区町村の「一般財源」化されるに伴い事務職員定数が区市町村の財政的見地から削減される可能性が高まってきた。学校において今まで数々の合理化がなされてきた。例えば昔学校には警備員がいた。それが財政難を理由に機械警備化がなされ、今はほとんど学校に警備員はいない。「警備員など睡眠時間もちゃんととれて隔日勤務、暇をもてあましてるいい仕事だ」などとまわりから言われ、いつのまにかいなくなった。今、事務職員に対する見方もそんなところがある。考えてみれば、警備も事務も学校におけるシャドーワーカーなのかもしれない。「機械事務」で証明書や給料明細を機械が発行すれば人間など不要ということだ。

3 定年という職務解任
…「当初、女性を男性に対立させて職務解任にした診断の手続きによって、やがてすべての人がさまざまなやり方で職務解任となってきている事実を、おそらく歴史家は見てとることができるだろう」(221頁)という記述を読んで、上記の事務職員の「職務解任」と同時に定年退職ということが思い浮かんだ。定年の悲喜劇がこのシーズンに新聞等に載る。「毎日が日曜日の夫の虚脱感」「毎日ごろごろいられる濡れ落ち葉のやっかな夫」「定年離婚」等々。老後に十分な退職金がもらえて年金も保証されていればまだしも、それも危うくなってきている。「賃労働」の世界からまず女性が結婚・妊娠等ではじきだされ、定年で夫がはじき出される。シャドウワークの世界
で呆然とする夫定年後の老夫婦。まだまだ二人とも働けれるけどもう社会は賃金を払ってくれない。ボランティアならどうぞというところ。結局壮年期の男だけが働き安い社会を作った。これこそ現代の階級構造と言える。明日は我が身…。

4 「教育点数」化教育
…現在小学校では「週案の提出」「自己申告書の徹底記載」等、教員を日常的に子細に評価する網の目がはりめぐらされようとしてている。つまり、教育を「賃労働」化するというものだ。そして教育は「保険点数」化される。学校に残るのは「教育点数」(「保険点数」)によって合理化された教育だけかもしれない。板書は何点、子どもと接する10分は何点、保護者との面接何点、通信簿記述何点…等々。
イリイチは現代の制度化・産業化の典型として医療・交通・学校を取りあげている。交通は「保険点数化」しやすく距離×時間単価で運賃が出てきた。労働も運転手の運転時間等で合理化しやすかった。次に「保険点数化」されたのは医療である。現在はこれは詳細に定められていて、その事務は通信教育でも講座が開かれている。「保険点数化」という意味で、残されていた分野が学校に他ならない。
学校における合理化は「保険点数化」できるものは極力していき、残されたシャドウワークを切り捨てていこうというものである。まず警備が機械化された。人間の警備員は時として子どもの遊び相手にもなった。教員という出が限られている人間集団(学芸大とか)の中で異質な大人として子どもに与える良い影響もあった。次に給食の調理員が民間委託になった。民間委託とは給食の調理以外はやらないということである。つまりシャドウワークの子どもの間接的教育はそこでは予定されていない。次に栄養士のアルバイト化である。そして次に事務のアルバイト化、センター化である。ここにある問題も同上である。つまり「保険点数化」し賃金労働として認められないものは切り捨てて行くということである。
ところでイリイチはシャドウワークの領域に人間の自立自存があるわけではないと言っている。こうしたシャドウワークの切り捨てを阻止することがコンビビアルな社会の復権になるとは言っていない。「プラグを抜く」と言っているのである。それは商品とサービスが肥大化した社会の仕組みをかえていこうという指摘である。医療においては薬漬けから脱すること、交通においては自転車の速度に戻ること、そして学校においては学校を壊すのではなく学校から身を引き自由に学ぶことを始めよと言っている。自由に学ぶ…それはまず学歴信仰をなくすことから始めるべきである。そしてカリキュラム信仰をなくすことー毎日教科書の過程にそって椅子に縛り付けられても教育効果はあがらないということの認識、そして教材信仰(教材をそろえれば効果があがる)等々…。

5、学校におけるマネイジメント
…古き良き時代が終わって、学校も経営の視点が必要だということになってきた。石原都知事がやっている都立大学改革も4つの大学を統廃合して経営を健全化しようという趣旨である。教育を保険点数のようにはかり賃金に見合わない教授はお払い箱ということだ。博士論文指導何点、一流企業就職学生一人何点、面接何点、採点何点、試験問題作成何点、講義10分あたり何点等々のように合理化していき、ペイに見合わない人はクビにしてくのが、一番かもしれない。
学校とは実社会と比べるとその総体がシャドウワークなのかもしれない。つまり労働力を準備する機関という意味である(会社に対して家庭)。つまりそもそも保険点数化に向いていない職場である。事務局の方が保険点数化に向いているから、ここから合理化が進む。教員集団はこの防衛に入る。そういう問題は都立大学の再編によく出ている。

6 平和を語る時の政治学の用語
…「平和のための戦い」「ファシズムへ抵抗のための戦略」とか、平和の実現のための言葉に政治学が反映されるが、論理矛盾(平和―戦い)になっているし、軍隊用語
のような言葉で平和を語るのもどうかと思う。これは政治学がおかしいから。こういった意味でも「政治元理表」の意味が出てくる。「政治元理表」を使えば平和を「まつろう・しらす」「サンティ」「二人関係」「連合参加」などで表現できる。「平和のための戦い」も表現し直すことができる。例えば「平和のための連合参加」などと…。

7 速度の問題
…イリイチはいくつかのショッキングな分かりやすい発言を行っている。
―「25キロの一定速度を維持したとすると、世界中のどの地点でも16日半あれ ば到達できます。世界の大半の地域で25キロのスピード制限が守られれば、9日以 内に世界の5分の4の人々に出会えるのです。」(『人類の希望』53頁)
未開社会では、起きている時間の5%より多くを費やす社会など一つもない、そして時間当たり4・5キロメートルくらい歩く。逆に近代社会は起きている時間の22%を輸送に費やしていない社会はなく、現代人は一時間あたり平均5~6・5キロメートル位移動できる。―「つまり私たちは、移動に際して、起きている時間の5%を費やす代わりに22%を費やす社会を作り上げ、1時間当たり25%だけ、より速くなり、5%だけ長い距離をカバーできるようになったのに過ぎないのです(笑い)」(『人類の希望』55頁)等々イリイチの数字はショッキングなものが多い。自分も
4月で職場の異動があり、それまでの往復通勤時間4時間を2時間半に短縮することがでできたが、今まではおきている16時間の何と25%を通勤に費やしていたのである。

8 時速25キロの世界
…私の3月までの職場への通勤距離は電車で37キロ、直線距離で30キロである。イリイチは社会の制限速度を時速25キロにしようという希望を述べている。自転車の速度だという。私は二時間弱かけて職場まで通勤していたが、もし職場まで自動車が通らず思いっきり自転車を走らせることができたなら、多分約一時間で着いたと思う。イリイチは「逆生産性」という言葉で語っているが、自動車と道路(遠回りの)という「逆生産性」の強いものを作ったおかげで自転車で一時間で職場へいけなくなっているのである。風の通らないコンクリートのビルを作ったおかげで冷暖房をガンガンつけなくてはいけないのと同じように…。

9 小泉改革とは何だったのか
…「構造改革なくして成長なし」の掛け声でここ数年行われている小泉改革とは何なのであろうか。イリイチの「自助」という言葉がキーワードである。この言葉を聞く
ようになったのは少子化による年金の危機が叫ばれるようになったころである。将来年金がどうなるかわからない、だから個人年金で補わなければならないという話だった。政治的にはサッチャーやレーガンが出てきて市場経済を中心にした小さな政府論を唱えだしたころである。
小泉の構造改革とは①財政改革であり②行政改革であった。前者は赤字財政の改善であり後者は官庁の統廃合や外郭団体の削減であったろう。郵政民営化・道路公団の改革がこれに含まれる。こうした「民間でできるものは民間に」の掛け声のもと市場中心の改革が目論まれてきたのである。イリイチの視点からこうした改革を見ると、小泉「市場中心主義」改革とは商品とサービスの生産者―享受者構造を変えるものではなく、その構造の上に乗って弱者を切り捨てる(「職務解任」する)ものとなる。それは「プラグを抜く」地平からはほど遠い。

10 方言
…イリイチのネブリハが国語を作った話で考えた。日本では明治以後これが行われた。標準語を定めて方言を撲滅した。島根の友人は田舎の看護婦募集で「地元の言葉が分かる人」という要件があるのを教えてくれた。じいさんばあさんの看護に方言を使えないと行き届いた看護が出来ないのだという。しかし、こうしたことも次第になくなっていくだろう。NHK語ともいうべき国語が完全に方言を駆逐する日がくるだろう。言語が統一されるということは文化も統一されるということである。同じ作物でも地方地方で呼び名が違い形や味も違ったが、今でも全国統一の名前でパック詰めで売られる。作物を例にとったが人間の生活用式=文化も画一化していく。それは思考の画一化でもある。そしてさらに今、進んでいるのはコンピューター語の席捲である。最近のこの世界の言葉にはもうついていけない。これは穿った見方だが、これはビルゲイツ語によるアメリカ文化帝国主義の全世界支配のたくらみではないだろうか。我々は世界標準語としての米語を強制され、さらにメイドインUSAのコンピューター語を使わされる。しかし、様々な文化の共存の方が遥かに楽しい世界を作れるのではないだろうか。日本も世界も。

11 天気予報
…電車の中のサラリーマン「最近天気予報が全然あたらないな、今日は雨のはずなのにはれたよ、気象庁はなにやってるのかね」。この良く聞くセリフを聞いて考えた。我々はいつから自分で天気を判断しなくなったのだろうか。昔は空を見上げて雲の動きや夕焼けや月にかかるもやなどでちゃんと天気を予測していた。天気予報という商品を買わなくては気が済まなくなってきている。自分で天気を判断しようとしたその瞬間、その判断に急ブレーキがかかるのを感じる。自分で判断してはいけないのだ、ここでは新聞やテレビの予報を見なくてはいけないと感じてしまう。商品やサービスの顧客になることに慣らされた現代人の姿がここにもある。

12 イラク戦争
…平和の問題は「開発」の問題だとイリイチは言っている。そのように見ればイラク戦争=石油の利権確保と見えてくる。日本の海外派兵は国際貢献と言いかえられているが、イリイチは平和は輸出できないと言っている。「平和と民主主義をかの地に」…イラク開戦から耳にタコができる程聞いている言葉である。イラクの地にはその土壌に適した「平和」と「政治のやり方」がある。そこにアメリカ産の「平和」「民主主義」の種をまいてもそれが実を結ばないとしても当然である。「政治元理表」で考えれば、こんな愚策は出てこないのにと思う。

13「風俗」
…性の売買は人類の歴史にとって古い。「売春はもっとも早くから成立した商売」であるという。「援交(産業)」「出会い系(産業)」「浮気(産業)」が花盛りである。性が商品としてこのように大量にそして公に売られるのは日本しかないのではないだろうか。商品化された性の購買者は労働の成果(賃金)を今度は性産業に搾取される。日本の労働者はまるでタコ部屋に住まわされているようなものだ。疲れはてた肉体と精紳を居酒屋や性風俗で商品を買うことによって癒す。しかしその癒しは幻想にすぎない。そこでは労働の果実が奪われ新たなストレスを生み、肉体には疲労だけが残る。商品化されない性に唯一の活路がある。

14 日本的経営
…日本的経営―「終身雇用」「年功序列」「護送船団方式」「企業別組合」とは何だったのであろうか。それは日本においては規制緩和、グローバルスタンダードの掛け声の前に排斥されていった。現在は市場論理が経済の優先となり、競争原理には「自助」が設定されており勝ち組・負け組の負け組は自己責任が課せられ、毎日電車が「人身事故」によってストップする有り様である。イリイチの枠組みで解釈すれば、日本的経営とは賃金労働とシャドウワークが比較的未分離の状態であった日本の経営の特徴であったのではないだろうか。欧米ほど日本では賃金労働とシャドウワークの分離が進んでいなかった。つまり、ベテランの賃金化されないような労働(若い人たちに対する教育、職場内の様々なすきまをうめる仕事等々)、家族主義的な付き合い、グローバルスタンダードよりも会社の事情優先、排他的な労働市場等々―のシャドウワークを切り捨ててこなかったのが日本的経営ではなかったか。それが賃労働の視点から合理化されたのがグローバルスタンダードによる日本的経営の改革ではなかったろうか。もちろんこうした日本的経営が経営のあるべき姿であるなどと言っているのではない。それも賃金化とシャドウワークの2領域化の止揚できない過渡期的形態であったろう。最近『虚妄の成果主義』(高橋伸夫)という本が出たが、「日本的経営」を見直していて示唆的である。

15 小学校封鎖
…池田小学校の宅間守被告の児童虐殺以来、小学校では監視カメラ、さすまた常備、職員の不審者対応訓練、来校者のバッジ着用、門の常時閉鎖等をやっている。学校教育を地域の人々や文化から隔絶して行う上でこれほどいいきっかけはなかった。「学校信仰」「管理教育」「国民教育」を目論む人々にとってはこうした状況は歓迎されるべきものではないか。隔離教育をやればこうしたことは徹底されるからである。学校はますます社会から隔離され、その中で子供たちは「教育」という「商品」を鵜のみにして買う「消費者」として育てられる。子どもの頃私は、「糞尿汲み取り業者」の仕事や左官の壁塗りなどが好きでずっと見ていた。職人さん達のお昼の風景や上下関係を見るのも楽しかった。子どもが大人の仕事を知るのはそういう場面ではないだろうか。社会から隔離されてなかった私は学校や路地で教室では学べないことをたくさん学んでいたような気がする。