I.イリイチ著『シャドウワーク』(1982年・岩波書店)
報告者:大森美紀彦
Ⅰ、ブレイクスルー(石積氏)の問題提起を受けて
現在の日本はあらゆる点でおかしくなっているー社会の階級化(貧富の差、勝ち組・負け組の発生)、社会福祉費の低減(年金の改悪・社会保険の負担増)、食糧危機(牛・鳥・魚の食糧としての危機)、環境の悪化(交通渋滞、地球温暖化)、社会の殺伐さの増大(小学生を襲う、児童虐待、自殺者の増加)、病気の蔓延(エイズ、性病、花粉、ハウスシック)、雇用の悪化(フリーターの増加、リストラ、自殺者、サービス残業)、政治的自由の圧迫(言論統制、職場管理)、戦争体制への進行(有事法制、イラク派遣、憲法9条改正)、政党の堕落(学歴詐称、秘書給与)、公務員の汚職(県警の着服・最近一人収賄で知人逮捕!)、企業のモラルハザード(不良商品の増加)等々―である。
こうした状況に囲まれ今時代を突破する思想が求められている。それはファシズム化を避けながら緊急に求められるべき人類の指針でもある。これまでこうした問題意識で例えばギデンスを読む中で社会民主主義の可能性などを論じてきた。こうした流れの中で今回私の大好きなI.イリイチについて報告させていただき彼の思想が石積氏の言うブレイクスルーの思想たるやいなやを検討したいと思う。
そういった意味で従来の報告の仕方をちょっと変え今回は各章を読みながら私が何を考えたかを記述したものを中心に報告することにした。ただ、その前にやはり各章の簡単な要約を行い、そして彼の使う難解な概念を私なりに解説しておきたい。
Ⅱ、各章の短い要約とイリイチの主要概念
序 …労働の貨幣化とシャドウワーク(賃金の得られない労働)の2領域化は近代に 人間の自立・自存(サブシステンス)を破壊するものとして出現した。そうし た社会を超える手がかりがバナキュラー(その地の暮らしに根ざした固有の) 生活であり、コンビビアル(お互いに生き生きとした)な共同性である。商品 ・サービス・共有地(希少性のある利用価値)の商品化の過剰を阻止しなけれ ばならない。
1 平和とは人間の生き方
「平和とは輸出できるものではない」…平和の輸出は必ず戦争になる。 平和は パックエコノミカとして意味されるようになり平和は開発=発展と結び付けられ てきた。それは民衆の平和を次のような手段―①自分で生活を維持することを奪 い②共用地を奪い③男性と女性の協動生活を奪うーことによって破壊してきた。 こうして労働は中性化し、賃金労働化され、まずそこに男があてがわれ、女はシ ャドウワークに従事させられるようになった。
2 公的選択の三つの次元
公的選択の三つの次元として、従来のX軸(資本主義的―社会主義的)、Y軸(ソフトーハード)に加えてZ軸(商品への従属―生活の自立自存)を設定する。Z軸を加えればソフトな手段(風車等)でも商品として売られるのならばマイナスの価値になる。開発―人々を商品の購買者として商品に従属させていくーに対して様々な抵抗の動きがある。
西洋世界では外部世界のものたちは助けられる必要があるという考え方を育てた。現在植民地の解放・開発はそうした西洋の考え方の現代的段階である。それは専門家によるおびただしい世話の押し付けである。
産業労働の発達は支払われる労働(賃労働)と支払われない労働(シャドワーク )との分裂の過程である。
3 ヴァナキュラーな価値
ここではネブリハの国語形成活動について主に論じられる。コロンブスの時代、スペインではネブリハによって国語が作られようとしていた。ネブリハは言語を人工的に作り出すこと、これを国語として共通語にすれば国家統治に大きな力を発揮することに気がつき女王に進言した。異教徒を洗礼ではなく言語によって取り入れることが出来る。そしてその担い手は教師である。地域的な自由な言語は国家に対して反逆を意味する。民衆の気ままな読書熱を冷ますために標準化された言語が必要である。それは国家の柱石と考えられた。「母なる」教会がこうした機能のヒントを与えた。ダンテに言わせれば文法にしたがって学び話さなければならない言葉などは死んだ言葉であったが…。
4 人間生活の自立と自存にしかけられた戦争
近代教育学の創始者コメニウスは「教えられずに学ぶものは人間というより動物に似ている」とした。
「母語」という用語ができる11世紀まではバナキュラーな(地域に根差した) 言語が多数共存していた。ルターの頃に「母語」は学校で本を読むために教える 言語を意味するようになった。人々はそれを学ぶためにお金を払わされるように なり,言語は市場に出回り今や国民総生産(GNP)を構成する市場的価値の最 大二部門の一つとなった。教育のせいで話し方に鈍感になった学生たち。ネブリ ハの出現まで日常の言語はバナキュラーで生き生きとしたものだったのに…。
5 生き生きとした共生を求めて
「民衆のためのサイエンス」(R&D(リサーチとデブロプメント)政府・大学・企業・軍隊・財団等によるもの)と「民衆によるサイエンス」を区別する必要がある。「民衆によるサイエンス」を考える上で12世紀の思想家ユーグと出会った。彼にとってサイエンスとは人間の弱さへの救済の試みであって、自然を統御し、支配し、征服して、それをにせの楽園に変えてしまうことではない。そこでのサイエンスはフィロゾフィアであり、コンビビアリティ(生き生きとした共生)の探求であった。逆に自然を征服しようとしたのがベーコンであった。
6 シャドウ・ワーク
産業社会特有の支払われない労働がシャドウワークである。それは生活の自立自存の活動ではない。シャドウワークの量は人の差別を測る上で就職の不平等よりもはるかによい尺度である。「レジャー」「セルフヘルプ」「サービス」などの言葉はこのシャドーワークの遠回しの表現である。
「賃労働」は中世には惨めさの代名詞であった。中世において社会はすべての人 にその居場所を供していた。「賃労働」はそうした居場所を失った落伍者・追放 者がやる行為であった。賃金で生計をたてるということは生活の自立自存が出来 ていない人であった。しかし、現代ではすべての人がこの「賃労働」に向かわさ れ、男たちは労働者階級へ、女はそれを支えるシャドウワークの担い手として分 極化されていった。前近代の社会においては家=生産と消費の場であったが、産 業社会化に伴い「賃労働」とシャドウワークに分離し、今ではシャドウワークが 一般化しさえするようになった。即ち階級化による一部の生産者と大多数の消費 者との分離である。
Ⅲ、イリイチを読んで考えたことーここからエッセイ風に…(『15のエッセイ』)
1 歯医者にて(賃労働のレベルで)
…最近、久しぶりに歯医者にかかった。その時「オヤッ」と思ったことがあった。初診で「歯ブラシ指導」なるものを受けた。私はこれはてっきりサービスだと思ったのだが、後で医者が「大森さんは歯ブラシ指導をしたから加えといて…」と会計係に言っていて分ったのだが、これも保険点数にカウントされるのだ。いかにも好意でやっているような「歯ブラシ指導」が…。イリイチのいう近代における「賃労働」の発展というのは、人間の営みをすべてお金に換算するということだと思う。そして支払われない領域(シャドウワーク)をそれは拡大しながら発展してきた。これは例えて言えば「鼠講」のようなもので、先に賃労働を獲得した者はシャドウワーカーを従えながら儲けて行く。国家について言えば先進国はたえず開発を繰り返し、後進国をシャドーワーカーにして自国の富を増す。発展途上国はいちはやく賃労働の側につくために近代化を行い、より遅れている国をシャドーワーカーにして「離床」しようとする。
2 合理化の現場(賃労働のレベルで)
…近年、公務員の世界でも「合理化」が進行している。私の勤務する小学校でも「義務教育国庫負担法」の改正によって学校事務職員の給料が市区町村の「一般財源」化されるに伴い事務職員定数が区市町村の財政的見地から削減される可能性が高まってきた。学校において今まで数々の合理化がなされてきた。例えば昔学校には警備員がいた。それが財政難を理由に機械警備化がなされ、今はほとんど学校に警備員はいない。「警備員など睡眠時間もちゃんととれて隔日勤務、暇をもてあましてるいい仕事だ」などとまわりから言われ、いつのまにかいなくなった。今、事務職員に対する見方もそんなところがある。考えてみれば、警備も事務も学校におけるシャドーワーカーなのかもしれない。「機械事務」で証明書や給料明細を機械が発行すれば人間など不要ということだ。
3 定年という職務解任
…「当初、女性を男性に対立させて職務解任にした診断の手続きによって、やがてすべての人がさまざまなやり方で職務解任となってきている事実を、おそらく歴史家は見てとることができるだろう」(221頁)という記述を読んで、上記の事務職員の「職務解任」と同時に定年退職ということが思い浮かんだ。定年の悲喜劇がこのシーズンに新聞等に載る。「毎日が日曜日の夫の虚脱感」「毎日ごろごろいられる濡れ落ち葉のやっかな夫」「定年離婚」等々。老後に十分な退職金がもらえて年金も保証されていればまだしも、それも危うくなってきている。「賃労働」の世界からまず女性が結婚・妊娠等ではじきだされ、定年で夫がはじき出される。シャドウワークの世界
で呆然とする夫定年後の老夫婦。まだまだ二人とも働けれるけどもう社会は賃金を払ってくれない。ボランティアならどうぞというところ。結局壮年期の男だけが働き安い社会を作った。これこそ現代の階級構造と言える。明日は我が身…。
4 「教育点数」化教育
…現在小学校では「週案の提出」「自己申告書の徹底記載」等、教員を日常的に子細に評価する網の目がはりめぐらされようとしてている。つまり、教育を「賃労働」化するというものだ。そして教育は「保険点数」化される。学校に残るのは「教育点数」(「保険点数」)によって合理化された教育だけかもしれない。板書は何点、子どもと接する10分は何点、保護者との面接何点、通信簿記述何点…等々。
イリイチは現代の制度化・産業化の典型として医療・交通・学校を取りあげている。交通は「保険点数化」しやすく距離×時間単価で運賃が出てきた。労働も運転手の運転時間等で合理化しやすかった。次に「保険点数化」されたのは医療である。現在はこれは詳細に定められていて、その事務は通信教育でも講座が開かれている。「保険点数化」という意味で、残されていた分野が学校に他ならない。
学校における合理化は「保険点数化」できるものは極力していき、残されたシャドウワークを切り捨てていこうというものである。まず警備が機械化された。人間の警備員は時として子どもの遊び相手にもなった。教員という出が限られている人間集団(学芸大とか)の中で異質な大人として子どもに与える良い影響もあった。次に給食の調理員が民間委託になった。民間委託とは給食の調理以外はやらないということである。つまりシャドウワークの子どもの間接的教育はそこでは予定されていない。次に栄養士のアルバイト化である。そして次に事務のアルバイト化、センター化である。ここにある問題も同上である。つまり「保険点数化」し賃金労働として認められないものは切り捨てて行くということである。
ところでイリイチはシャドウワークの領域に人間の自立自存があるわけではないと言っている。こうしたシャドウワークの切り捨てを阻止することがコンビビアルな社会の復権になるとは言っていない。「プラグを抜く」と言っているのである。それは商品とサービスが肥大化した社会の仕組みをかえていこうという指摘である。医療においては薬漬けから脱すること、交通においては自転車の速度に戻ること、そして学校においては学校を壊すのではなく学校から身を引き自由に学ぶことを始めよと言っている。自由に学ぶ…それはまず学歴信仰をなくすことから始めるべきである。そしてカリキュラム信仰をなくすことー毎日教科書の過程にそって椅子に縛り付けられても教育効果はあがらないということの認識、そして教材信仰(教材をそろえれば効果があがる)等々…。
5、学校におけるマネイジメント
…古き良き時代が終わって、学校も経営の視点が必要だということになってきた。石原都知事がやっている都立大学改革も4つの大学を統廃合して経営を健全化しようという趣旨である。教育を保険点数のようにはかり賃金に見合わない教授はお払い箱ということだ。博士論文指導何点、一流企業就職学生一人何点、面接何点、採点何点、試験問題作成何点、講義10分あたり何点等々のように合理化していき、ペイに見合わない人はクビにしてくのが、一番かもしれない。
学校とは実社会と比べるとその総体がシャドウワークなのかもしれない。つまり労働力を準備する機関という意味である(会社に対して家庭)。つまりそもそも保険点数化に向いていない職場である。事務局の方が保険点数化に向いているから、ここから合理化が進む。教員集団はこの防衛に入る。そういう問題は都立大学の再編によく出ている。
6 平和を語る時の政治学の用語
…「平和のための戦い」「ファシズムへ抵抗のための戦略」とか、平和の実現のための言葉に政治学が反映されるが、論理矛盾(平和―戦い)になっているし、軍隊用語
のような言葉で平和を語るのもどうかと思う。これは政治学がおかしいから。こういった意味でも「政治元理表」の意味が出てくる。「政治元理表」を使えば平和を「まつろう・しらす」「サンティ」「二人関係」「連合参加」などで表現できる。「平和のための戦い」も表現し直すことができる。例えば「平和のための連合参加」などと…。
7 速度の問題
…イリイチはいくつかのショッキングな分かりやすい発言を行っている。
―「25キロの一定速度を維持したとすると、世界中のどの地点でも16日半あれ ば到達できます。世界の大半の地域で25キロのスピード制限が守られれば、9日以 内に世界の5分の4の人々に出会えるのです。」(『人類の希望』53頁)
未開社会では、起きている時間の5%より多くを費やす社会など一つもない、そして時間当たり4・5キロメートルくらい歩く。逆に近代社会は起きている時間の22%を輸送に費やしていない社会はなく、現代人は一時間あたり平均5~6・5キロメートル位移動できる。―「つまり私たちは、移動に際して、起きている時間の5%を費やす代わりに22%を費やす社会を作り上げ、1時間当たり25%だけ、より速くなり、5%だけ長い距離をカバーできるようになったのに過ぎないのです(笑い)」(『人類の希望』55頁)等々イリイチの数字はショッキングなものが多い。自分も
4月で職場の異動があり、それまでの往復通勤時間4時間を2時間半に短縮することがでできたが、今まではおきている16時間の何と25%を通勤に費やしていたのである。
8 時速25キロの世界
…私の3月までの職場への通勤距離は電車で37キロ、直線距離で30キロである。イリイチは社会の制限速度を時速25キロにしようという希望を述べている。自転車の速度だという。私は二時間弱かけて職場まで通勤していたが、もし職場まで自動車が通らず思いっきり自転車を走らせることができたなら、多分約一時間で着いたと思う。イリイチは「逆生産性」という言葉で語っているが、自動車と道路(遠回りの)という「逆生産性」の強いものを作ったおかげで自転車で一時間で職場へいけなくなっているのである。風の通らないコンクリートのビルを作ったおかげで冷暖房をガンガンつけなくてはいけないのと同じように…。
9 小泉改革とは何だったのか
…「構造改革なくして成長なし」の掛け声でここ数年行われている小泉改革とは何なのであろうか。イリイチの「自助」という言葉がキーワードである。この言葉を聞く
ようになったのは少子化による年金の危機が叫ばれるようになったころである。将来年金がどうなるかわからない、だから個人年金で補わなければならないという話だった。政治的にはサッチャーやレーガンが出てきて市場経済を中心にした小さな政府論を唱えだしたころである。
小泉の構造改革とは①財政改革であり②行政改革であった。前者は赤字財政の改善であり後者は官庁の統廃合や外郭団体の削減であったろう。郵政民営化・道路公団の改革がこれに含まれる。こうした「民間でできるものは民間に」の掛け声のもと市場中心の改革が目論まれてきたのである。イリイチの視点からこうした改革を見ると、小泉「市場中心主義」改革とは商品とサービスの生産者―享受者構造を変えるものではなく、その構造の上に乗って弱者を切り捨てる(「職務解任」する)ものとなる。それは「プラグを抜く」地平からはほど遠い。
10 方言
…イリイチのネブリハが国語を作った話で考えた。日本では明治以後これが行われた。標準語を定めて方言を撲滅した。島根の友人は田舎の看護婦募集で「地元の言葉が分かる人」という要件があるのを教えてくれた。じいさんばあさんの看護に方言を使えないと行き届いた看護が出来ないのだという。しかし、こうしたことも次第になくなっていくだろう。NHK語ともいうべき国語が完全に方言を駆逐する日がくるだろう。言語が統一されるということは文化も統一されるということである。同じ作物でも地方地方で呼び名が違い形や味も違ったが、今でも全国統一の名前でパック詰めで売られる。作物を例にとったが人間の生活用式=文化も画一化していく。それは思考の画一化でもある。そしてさらに今、進んでいるのはコンピューター語の席捲である。最近のこの世界の言葉にはもうついていけない。これは穿った見方だが、これはビルゲイツ語によるアメリカ文化帝国主義の全世界支配のたくらみではないだろうか。我々は世界標準語としての米語を強制され、さらにメイドインUSAのコンピューター語を使わされる。しかし、様々な文化の共存の方が遥かに楽しい世界を作れるのではないだろうか。日本も世界も。
11 天気予報
…電車の中のサラリーマン「最近天気予報が全然あたらないな、今日は雨のはずなのにはれたよ、気象庁はなにやってるのかね」。この良く聞くセリフを聞いて考えた。我々はいつから自分で天気を判断しなくなったのだろうか。昔は空を見上げて雲の動きや夕焼けや月にかかるもやなどでちゃんと天気を予測していた。天気予報という商品を買わなくては気が済まなくなってきている。自分で天気を判断しようとしたその瞬間、その判断に急ブレーキがかかるのを感じる。自分で判断してはいけないのだ、ここでは新聞やテレビの予報を見なくてはいけないと感じてしまう。商品やサービスの顧客になることに慣らされた現代人の姿がここにもある。
12 イラク戦争
…平和の問題は「開発」の問題だとイリイチは言っている。そのように見ればイラク戦争=石油の利権確保と見えてくる。日本の海外派兵は国際貢献と言いかえられているが、イリイチは平和は輸出できないと言っている。「平和と民主主義をかの地に」…イラク開戦から耳にタコができる程聞いている言葉である。イラクの地にはその土壌に適した「平和」と「政治のやり方」がある。そこにアメリカ産の「平和」「民主主義」の種をまいてもそれが実を結ばないとしても当然である。「政治元理表」で考えれば、こんな愚策は出てこないのにと思う。
13「風俗」
…性の売買は人類の歴史にとって古い。「売春はもっとも早くから成立した商売」であるという。「援交(産業)」「出会い系(産業)」「浮気(産業)」が花盛りである。性が商品としてこのように大量にそして公に売られるのは日本しかないのではないだろうか。商品化された性の購買者は労働の成果(賃金)を今度は性産業に搾取される。日本の労働者はまるでタコ部屋に住まわされているようなものだ。疲れはてた肉体と精紳を居酒屋や性風俗で商品を買うことによって癒す。しかしその癒しは幻想にすぎない。そこでは労働の果実が奪われ新たなストレスを生み、肉体には疲労だけが残る。商品化されない性に唯一の活路がある。
14 日本的経営
…日本的経営―「終身雇用」「年功序列」「護送船団方式」「企業別組合」とは何だったのであろうか。それは日本においては規制緩和、グローバルスタンダードの掛け声の前に排斥されていった。現在は市場論理が経済の優先となり、競争原理には「自助」が設定されており勝ち組・負け組の負け組は自己責任が課せられ、毎日電車が「人身事故」によってストップする有り様である。イリイチの枠組みで解釈すれば、日本的経営とは賃金労働とシャドウワークが比較的未分離の状態であった日本の経営の特徴であったのではないだろうか。欧米ほど日本では賃金労働とシャドウワークの分離が進んでいなかった。つまり、ベテランの賃金化されないような労働(若い人たちに対する教育、職場内の様々なすきまをうめる仕事等々)、家族主義的な付き合い、グローバルスタンダードよりも会社の事情優先、排他的な労働市場等々―のシャドウワークを切り捨ててこなかったのが日本的経営ではなかったか。それが賃労働の視点から合理化されたのがグローバルスタンダードによる日本的経営の改革ではなかったろうか。もちろんこうした日本的経営が経営のあるべき姿であるなどと言っているのではない。それも賃金化とシャドウワークの2領域化の止揚できない過渡期的形態であったろう。最近『虚妄の成果主義』(高橋伸夫)という本が出たが、「日本的経営」を見直していて示唆的である。
15 小学校封鎖
…池田小学校の宅間守被告の児童虐殺以来、小学校では監視カメラ、さすまた常備、職員の不審者対応訓練、来校者のバッジ着用、門の常時閉鎖等をやっている。学校教育を地域の人々や文化から隔絶して行う上でこれほどいいきっかけはなかった。「学校信仰」「管理教育」「国民教育」を目論む人々にとってはこうした状況は歓迎されるべきものではないか。隔離教育をやればこうしたことは徹底されるからである。学校はますます社会から隔離され、その中で子供たちは「教育」という「商品」を鵜のみにして買う「消費者」として育てられる。子どもの頃私は、「糞尿汲み取り業者」の仕事や左官の壁塗りなどが好きでずっと見ていた。職人さん達のお昼の風景や上下関係を見るのも楽しかった。子どもが大人の仕事を知るのはそういう場面ではないだろうか。社会から隔離されてなかった私は学校や路地で教室では学べないことをたくさん学んでいたような気がする。