比較日本研究

比較日本研究会の活動報告。日本の政治・思想の研究。日本の政治・社会状況に対し平和の視座から発言。社会の逆回転に歯止めを。

比較日本研究会 平成16年12月例会

2005-01-09 11:58:17 | 月例研究会
【開催日】 16年12月30日(木)
【【報告者】 いちご白書
【テキスト】「言論統制」佐藤卓己 中公新書 2004.08

平成16年最後の研究会となった今回は、「言論統制」佐藤卓己 中公新書をテキストとして開催された。
本書は言論界で「小ヒムラー」として怖れられた陸軍軍人 情報局情報官 鈴木庫三少佐の伝記研究である。

【ポイント】 
1.言論統制と鈴木庫三
言論統制は歴史的事実として存在した。著者は事実としての言論統制を否定している訳ではない。
ただ、鈴木が活躍した時代は左翼弾圧と自由主義者弾圧の端境期にあったことを歴史的な事実として指摘している。そして弾圧者「小ヒムラ-」鈴木像は作家ら文化人が贖罪意識から戦後に捏造したものであることを実証研究において明らかにしている。
さらに「近代の超克」竹内好他 の中で「そもそも、戦争に反対する自由主義勢力なるものが存在したのであろうか。」と指摘しておりこの点については深堀が必要。


2.鈴木庫三と出版社との対立
本文の要約を繰り返すことになるが、鈴木庫三と出版社との対立は出版業にとって生命線である紙をめぐる実質的な利害の衝突(講談社問題と朝日新聞社問題)。もう一つは、あるべき生活態度をめぐる価値観、つまりハピトゥスをめぐる対立(岩波書店問題と実業之日本社問題)であり、主戦勢力と反戦勢力の戦いではないことを著者は実証的に明らかにした。
対立点は決して戦争協力を巡ってではなく、陸海軍の対立に乗じた対立であり、紙の配分を巡っての対立であった。
戦後になって出版社側が鈴木庫三を「小ヒムラー」として糾弾し、鈴木を「悪者」に仕立て上げることによって、自らを「反戦」として免罪するという構図が大変良く浮かび上がっている。

【コメント】
1.民主化装置としての軍隊組織
本書P89にて著者は丸山真男の「軍隊は社会的な階級差からくる不満を緩和する役割を果たした。」点を引用している。丸山をして「擬似デモクラティックな要素が存在した。」と言わしめたように、軍隊組織を民主的な要素有りと評することは、戦後民主主義の風潮の中で大きなタブーであり、わざわざ、「擬似デモクラティック」と称している点に戦後の軍隊研究のタブーが存在すると考える。この他、第1章の冒頭では松本清張を引用。(P50)「ここ(軍隊)にくれば、社会的な地位も貧富も年齢の差も全く帳消しである。みんなが同じレベルだ。」という部分を引いてきている。松本清張のストレートな感慨として自分が勤務している新聞社よりも軍隊の方が民主的であると感じている。軍隊組織は民主的かどうかについては、極めて限定的な議論であり改めてキチットした議論が必要と思うが、著者は「戦後民主主義」が軍隊に関する客観的な研究を放棄し、事実を直視してこなかった点について鋭い批判の目を向けているように感じられた。「昔は良かった。」「軍隊は良かった。」風の安直な感慨ではなく、今こそ客観的でまじめな軍隊研究が求められるのではと感じた。

2.社会主義者 鈴木庫三??
著者は鈴木庫三に対して社会主義者としてのレッテル貼りをしているわけではないが、社会主義的な傾向を随所に指摘している。著者のいう社会主義とはマルクス主義における社会主義で、陸軍の教育将校であった鈴木庫三に社会主義的傾向を見出すことが、発見でもありこの研究の売りにもなっている。しかしながら、「国家社会主義」に共通する側面も多く存在し、マルクス主義との腑分けをますます困難にしている面もあるだろう。この戦前、戦中の「国家社会主義」は戦後には「官僚支配」に引き継がれて連続していくものであり、とりわけ鈴木だけが傑出していたというわけではなく、当時の時代的な制約の中で規定されていたとも言えるのである。ただ、著者やわれわれ自身がある意味共感をもって鈴木庫三の日記なり生い立ちを読むことが出来るとすれば、自らの生い立ちを背負った弱者へのまなざしであったと思う。現在の日本の知識人には一般論として「弱者に対する視点」が欠落しているように思えてならない。

3.軍隊・戦争システムはいかにして否定しうるか??
軍隊や戦争を前提としたシステムの中では、いささか鈴木庫三の言説は合理的であり、違和感なく受け入れられるだろう。日清戦争の年に生まれ、日露戦争の年に10歳にして軍人を志す。そして第一次世界大戦期に成人として過ごした一軍人の発想の根底には、明治以来の「富国強兵」があり、社会そのものを国防の目的に沿うように作り変えていく必要がある。これが、「軍隊」をもつ「普通の国」の姿なのである。これに対して戦後民主主義のなかで「警察予備隊」「自衛隊」といった再軍備への動きとは裏腹に精神世界においては「軍隊」も「戦争」もタブーとなった。この過程において、「軍隊」も「戦争」もきちっとした議論や検証もなされることなく葬り去られたのである。
しかしながら、教育などあらゆる社会の仕組みを「国防国家」に向けて作り変える水面下の動きは現実問題として進んでいるといわざるを得ない。これに対抗しうるのは、「絶対的平和論」であり「国家悪」の認識ではなかろうか。と考える。「普通の国」を目指す以上は一国の防衛は軍事力だけで達成できるものでなく、教育や経済も含む軍事化が必要となる。鈴木庫三が目指す「国防国家」論は遠い過去の思想と言い切れるだろうか。「普通の国」の回路を断ち切ることこそが、「国防国家」と訣別する道ではなかろうか。