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孫正義②

2017-07-26 16:58:17 | お話
🍀孫正義🍀②


孫正義という人物を語るとき、彼の生い立ちから振り返るのは、

これまでの孫正義伝では定番となっている。

むしろ出自の部分に焦点を当てたものも多い。

本書は経営者としての孫正義の実像に迫ることを目的としたため、

これまで、あえて孫の生い立ちには言及してこなかった。

もちろん孫正義という人物を知る上で、この部分は外せない。


在日韓国人としてバラック小屋に生まれた男の苦難や挫折、葛藤、反骨心、そしてそこから這い上がってやるという強烈な意志。

間違いなく、それらは事業家としての孫正義の根底に流れるスピリットを形作る原点となっている。

ただし、在日韓国人としての出自や無番地での悲惨な暮らしといった部分にだけに目を奪われすぎると、

この類いまれな経営者の本質を見誤るというのが筆者の考えだ。


では、何が事業家、孫正義の原点となったのか。

筆者なりにまとめてみたい。


孫正義は、1957年8月11日、父・三憲、母・玉子の次男として生まれた。

孫の父方の祖父、孫鍾慶は故郷の韓国大邱から日本に出稼ぎに来ていた。

一度は大邱に戻るが仕事がなく、戦後すぐに日本に戻った。

密航だったという。

孫一家が住み着いたのが国鉄鳥栖駅のすぐ近く。

線路の脇にあり本来は国鉄が所有している土地だか、

住む場所に困ったら朝鮮人たちがバラック小屋を建てて、肩を寄せ合い暮らすようになっていた。

正義の生まれ育ったのもこの土地だった。

集落の真ん中に幅5間(9メートル)の道路があるから、鳥栖市5間道路無番地。

不法占拠のため番地がないから無番地とされた。

今では再開発されて跡形も残っていないが、

正義が生まれた頃は、5間道路も舗装されておらず、大雨が降るとすぐに冠水してしまっていたという。

この無番地のトタン屋根の下で、孫一家は豚を飼って生計の足しにしていた。

強烈な匂いが立ち込めていたことは想像に難くない。

そして一家は、ここでは「孫」ではない。

日本名の「安本」と名乗っていた。


孫は鎌谷らがまとめた、あの30年ビジョンの発表会を、

この頃の生活を振り返る話で締めくくっている。

スクリーンには1人の老女の写真が映し出された。

李元照。

14歳で日本に渡って、すぐに孫鐘慶と結婚した、孫の祖母だ。

トタン屋根のバラック小屋で豚の世話をしていたのが、この祖母だった。

毎日リヤカーをひ引いて駅前の食堂を回る。

客が食べ残した残飯をもらって回り、豚のエサにするためだった。

正義に「散歩に行くぞ」と言ってそのリヤカーに乗せる。

正義はその当時のことを発表会で振り返った。

「滑るんですよ、ぬるぬるして。

何か腐ったようなにおいがして、

雨上がりのでこぼこ道だと、水たまりでぬるっと滑って。

落ちたら死ぬなと思いながら

『しっかりつかまっとけ』

って言ってリヤカーを引っ張るおばあちゃんについていっているわけです」

孫は大好きだったおばあちゃんのことが嫌いになった時期があったと告白する。

在日韓国人としての出自を意識するようになったからだった。

「なぜ嫌いになったかと言うと、

おばあちゃん イコール キムチ。

キムチ イコール 韓国なんです。

生きていくのにつらいことが、やっぱりあるんですよね。

息を潜めるように、隠れるように日本名で生きているわけです。

なおさらそれがコンプレックスになっていました」

その孫一家を支える大黒柱となったのが父・三憲だった。

三憲は中学校を出るとすぐに働き始めた。

孫正義というあまり類例を見ない経営者の根っこの部分を作ったのは、

在日韓国人という出自からくるコンプレックスや、反発性もさることながら、

この父親の存在が1番大きいだろう。

まさに孫一家の起業家スリットを体現したような人物だったという。

息子の正義はこう言う。

「僕は今でも最も尊敬するのはオヤジですね。

オヤジはまったくのゼロからというよりマイナスからのスタートだった。

色々な困難がある中で、それを乗り越える情念と執念ね。

そして常に、自分の頭でアイデアを生み出していくんですよ」


中学校出た三憲が始めたのは、密造酒造りだった。

何度も警察に踏み込まれたが、

全く気に留める様子もなく密造を繰り返していたという。

焼酎の密造酒をトタン屋根の自宅で造り、それを売り歩く。

最初は近所のおっちゃんやおばちゃんに売るだけだったが、それではタカが知れている。

そこで考えたのが「売れる仕組みの発明」だった。


自転車で行く先々に頼み込んで一升瓶の密造酒を置いてもらう。

そこで売れたぶんのうちの幾分かを支払うという方法だ。

これが口コミで広がっていった。

孫一家の四男・泰蔵は

自著『孫家の遺伝子』の中で、

この当時の三憲は毎日、家に帰ると鏡の前で、笑顔の練習をしていたと振り返っている。

「やっぱり商売人に笑顔は大事だからね」

というのが、その理由だった。

焼酎売りで儲けたカネで三憲はパチンコ店とサラ金を始める。

これが成功して孫一家は裕福な暮らしを手に入れた。

正義が小学校低学年の頃だ。

三憲はパチンコブームが下火となった際には、

店に釣り堀を併設し、

「赤コイを釣ったら10,000円」

など、奇抜なアイデアで乗り切った。

一家は無番地を出て、一時は北九州に引っ越し、

正義が中学生になると福岡市城南区に転居している。

この頃には、もう生活に困ることはない。


ただ、孫に

「事業家としての父から学んだことは何か」

と聞いたとき、

孫が挙げたのは三憲が一家を支えるために塗炭の苦しみを味わった頃や、その奇抜なアイデアではなく、

成功したこの頃の親父の姿だった。


「オヤジがいつも嘆いていたのは、

俺はゼニカネのために今の目先の商売をしているけど、

それは本来の姿じゃないということでしたね。

カネのために働くのは価値のあることではないと常々言っていた。

酒を飲んだときに、まだ小学生か中学生くらいの僕にそう言って聞かせるんですよ。

俺はまだ男子の本懐を遂げられていないって。

いいか正義、お前が大人になったら、そんな目先のゼニカネのために人生を費やすんじゃないぞ、

お前なら必ずできるからなって、そう言うんですよ」

「そのことは僕の事業家としての根底のところにありますよね。

自分が大人になって事業家になった時には、

そういうものを、はるかに超越するものを目指しさなきゃならんと」


(つづく)

(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)

孫正義①

2017-07-25 14:00:26 | お話
🍀孫正義🍀①


それがどこにあり、どんな様子かは書かない。

他ならぬ孫正義との約束だからだ。

そこは孫の個人所有のため、存在そのものが公開されていない。

ただ、我々一般人の想像を絶するような異空間とだけ表現しておく。

その場所を知るごく1部のソフトバンク幹部の間では「別荘」とか「迎賓館」などと呼ばれている。

その場所で、筆者は2時間ほどワインを飲みながら孫の話を聞く機会があった。

「ここにジャーナリストを入れるのは初めてだからな」

とは、孫自身が言っていたことだ。

この日、孫は少し風邪気味ながら、いつも以上に冗舌だった。

最後に孫が「見せたいものがある」と言って桐か何か上品な木箱から、取り出したのが、1枚の書だった。


慶応3年(1867年)、旧暦で10月13日、

京都・二条城にのぼる土佐藩参政の後藤象二郎に宛てた、坂本龍馬したためた書簡だ。

本物に万が一のことがあった場合に備えて、寸分違わず複製されたものだという。

この日は、まさに日本の歴史が動いた瞬間だった。

第15代将軍・徳川慶喜が雄藩の重臣を二条城に集め、

土佐藩を建白していた大政奉還を諮ることになっていた。

翌日に慶喜が朝廷に大政奉還を奏上することになるが、

この時点では、まだ決していない。

龍馬は、土佐藩を代表してこの会合に出席する後藤に、1枚の書簡を送りつけた。

その書面を孫が取り出して、じっと見つめだした。

「これを見ろよ。

これが決死の覚悟というものなんだ。

私利私欲じゃない。

天下国家のために命をなげうつ覚悟なんだよ。

これを見るとね、俺はなんてちっぽけなんだと思わされるんだよ。

これは初めて見た時、俺はもう涙が出て打ち震えたよ」

そう言う孫の目に涙がにじんでいる。

確かに、書簡にしたためられていたのは龍馬の決死の覚悟だ。

後藤に対して、もとより死ぬ覚悟ができているだろうから、

もし後藤が二条城から下城しない時には大政奉還が失敗したと見なし、

海援隊を率いて自ら慶喜の隊列に斬り込むと言う。

その際は

「地下ニ御面会いたし候」

と書いている。

地下とはつまり、あの世のこと。

万が一、大政奉還に失敗するようなことがあったら、

その時は、互いに死んであの世で再開しようという意味だ。


孫は趣味が少ない人物だが、

幕末に活躍した志士を中心に、彼らが残した書を収集している。

その中でも特に大事にしているが、龍馬が後藤に宛てたこの一枚の書簡だ。

自分はなんのために事業家として旗揚げしたのか。

その原点に立ち返る時、孫は龍馬が残した文字を見入るのだという。


孫が坂本龍馬に心酔していることはこれまでに何度か触れた。

社長室がある本社26階には龍馬の等身大の写真が掲げられている。

ここに竹刀と木刀が置かれている。

この木刀には逸話がある。

30年ビジョンを作成するリーダーとなった鎌谷賢之は1時期、孫に付きっきりで行動をともにすることになった。

この頃、ある人物から孫へのプレゼントは何がいいかを相談された鎌谷が

「龍馬の木刀のレプリカを贈ると感すると思いますよ」

と答え、実際に贈答されたものだ。

鎌谷の提案には理由があった。

2010年11月15日、鎌谷は孫に同行して高知県に出張した。

11月15日は旧暦で龍馬の命日とされている。

大政奉還から1ヶ月後に、京都の近江屋で中岡慎太郎といるところを刺客に襲われた。

この日、孫は鎌谷を伴い高知県護国神社を訪れた。

この神社にはゆうま龍馬が若い頃に使っていたとされる木刀がある。

それを触らせてもらえることになっていた。

長さ134センチ、重さ780グラム。

樫の木で作られた木刀は、本来なら手袋を着けて握らなければならないのだが、

目を閉じて感極まった孫はおもむろに手袋を外して、素手で握りしめ、

その場で涙を流しながら、素振りを始めてしまった。

これには鎌谷など居合わせた関係者もあっけにとられたという。


孫が龍馬に心酔したきっかけは、15歳の時に読んだ

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』

だった。

ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』を読んでいたころ、

家庭教師から

「そんな暗い本じゃなくて、もっと男らしい本を読め」

と言われて勧められたのが、この『竜馬がゆく』だったの。


この本を、孫はこれまでの人生で何度も読み直している。

創業直後に慢性肝炎を発症して余命5年と告げられた時もそうだった。


孫のお気に入りは脱藩のシーンだ。

他家に嫁いでいた姉・乙女のもとに、作中の竜馬は脱藩することを伝えに行く。

乙女は竜馬を止めることなく大罪とされた脱藩を後押しする。

竜馬が自分の脱藩で嫁ぎ先にも迷惑をかけることを危惧すると、

乙女は、それなら離縁する、とまで言い切った。

以下は一部を『竜馬がゆく』から引用する。


乙女は竜馬に語りかける。

「男なら、いったん決心したことは、とやかくいわずに、やりとげるものです」

竜馬の脱藩のために夫・岡上新輔と離縁するとまで言う乙女。

戸惑う竜馬に、乙女が追い打ちをかける。

「竜馬、お黙りなさい。

坂本竜馬という一個の男子を救国のために送り出すのは、

それを育てた乙女の義務でしょう」

その竜馬は脱藩の日、先祖とされる明智左馬助の霊が祀られる才谷山にのぼって、

ほこらの中に入り、心ゆくまで酒を飲んだ。

「のう、明智左馬助さまよう。

人の命はみじかいわい。

わしに、なんぞ大仕事をさせてくれんかネヤ」

着流し姿にひょうたん1つ。

胴巻きに路銀のために借用した金十両を忍ばせる。

腰間にはお栄姉さんが自らの命と引き換えに竜馬に贈った名刀・陸奥守 吉行。

それだけを身につけた竜馬が夜陰に紛れて、まだ雪の残る土佐の山中を駆ける。

ただ、己の胸に宿った志を果たすために。


その姿に、若き孫正義は、しびれた。

故郷や家族を捨てて自らの信念を貫く坂本龍馬の生き方に、心を打たれた孫の人生が、

1冊の本との出会いで変わった。

「この時点で何を成したいかまでは見えていなかった。

ただ、人生を燃えたぎらせたいという思いだけは、強烈に芽生えてしまったのです」

少年時代の孫には教師になるという夢があったが、

この時から

「未来の人々から、

あいつがいてくれてよかったと言われるような、

何か、でかいことをしたい」

と考えるようになったと言う。


孫家に大事件が起きたのは、ちょうどその時期だった。

一家の大黒柱である父・三憲が洗面器いっぱいに吐血して倒れたのだ。

孫は4人兄弟の次男だか、1つ上の兄は高校中退して家計を支えるために働き始めた。

だが、孫はこう考えた。

「なんとしても、這い上がらなきゃいけないと思いました。

どうやって這い上がるか。

事業家になろう。

その時に、 腹をくく送った」


(つづく)

(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)

本田宗一郎から学んだもの

2017-07-24 15:39:09 | お話
🌸本田宗一郎から学んだもの🌸


余談になるが、孫にとってホンダは思い入れの強い企業でもある。

アシモの動きを見て思わず

「本田宗一郎さんも喜びますよ」

と感想を漏らしたのもたまたまではない。

今ではカリスマ経営者として名をとどろかせる孫だか、

本田宗一郎は経営者として憧れの存在だった。

孫は今でも

「日本の経営者で1番好きなのは本田宗一郎さん」

と話す。


話は孫が創業まもなくして患った慢性肝炎から復帰した頃に戻る。

かかりつけの歯科医に宗一郎も通っていると聞いた孫は、主治医に頼み込んだ。

「本田宗一郎さんに会わせてください」。

そこで主治医は一計を案じてくれた。

宗一郎のポイントのすぐ後を孫にしてくれると言う。


その日はちょうど宗一郎の誕生日だった。

孫は治療を終えた宗一郎を、ケーキを手に持って持ち構えた。

「今考えると歯医者でケーキというのも笑えるよね」

と孫は振り返る。

宗一郎はこの突然の来訪者を快く受け入れた。


「君は、何の仕事やってるんだ」。

孫が米国の大学を卒業してから帰国し、ソフトウェアの流通業を始めたことを手短に説明すると、

コンピュータ産業の将来について、宗一郎にいつもの口調で熱っぽく語りかけた。

「そうか! 面白いな!」

孫の話に聞き入る宗一郎。

話の内容そのものより熱心に語りかけてくるこの青年実業家そのものに興味を持ったのかもしれない。

宗一郎は

「夏になった、おらっちの家で
鮎釣りパーティーやるから、君も来るか」

と誘った。


もちろん孫は

「行きます」

と即答した。


1980年代後半のこの頃、宗一郎はホンダの経営から身を退いて、既に10年以上が経っている。

鍛冶屋のせがれとして生まれた宗一郎は、15歳で東京の自動車修理店ででっち奉公に出ている。

それ以来、徹底して現場で技術を学びホンダを世界的な自動車メーカーにまで育て上げた。

その宗一郎が得意としたのは機械の技術であり、

バルブをピストンと燃焼室の上に置くオーバヘッドバルブエンジンを開発した40代までは、

まさしく天才エンジニアの名に恥じない発明を次々と世に送り出していた。

ところが、目に見えない電気やITは大の苦手分野だった。

ホンダで四輪車参入の立役者となり、

F1初勝利にも導いた伝説のエンジニアである中村良夫は、

著書『ひとりぼっちの風雲児』で、

「エンジニアとしての能力の限界、従って自信のなさは、痛切に感じ取っていらっしゃるように見えた」

と振り返り、

「本田宗一郎さんにとっては、それはひとつの悲劇だったように思う」

とまで指摘している。

若き孫が目を輝かせて語るコンピュータは、宗一郎が「能力の限界」を感じさせられる苦手なテクノロジーの象徴だったはずだ。

それでも宗一郎は孫の言葉に熱心に耳を傾けた。


それから半年ほどがなった頃、本当に鮎釣りパーティーへの誘いが来た。

宗一郎は東京・西落合の自宅の庭に故郷を流れる天竜川を模した小川を造っており、

そこで年に1度開く鮎釣りパーティーは、財界の大物が一堂に会するサロンのような場として知られていた。

その小川が流れる庭に無名の青年実業家である孫が現れた。

宗一郎は孫の顔見るなり近づいてきた。

「おお! あの時の君か!」

再開の言葉もそこそこに、宗一郎は再び孫の言葉に耳を傾けた。

「君はコンピューターでやってるって言ってたけど、そもそもパソコンてなんだ?」

「コンピューターにはCPUというものがありまして…」

「じゃぁ、そのCPUってのはなんだ?」

「コンピューターの心臓で、クルマでいえばエンジンです」

「なるほど。じゃぁ、そのコンピュータってやつが進化したら、どうなるんだ」

孫は、この時のやり取りを今でも鮮明に覚えていると言う。

「もう目をランランと輝かせて、本当に真剣に聞いてくるんだよ。

そして次々と本質的な質問が飛んでくるんだ。

庭には他にも大切なお客さんがいっぱいいるのに、

僕が話していていいのかなって思うくらいだったね」


孫はその時の感動をこう表現する。

「その時に思ったんだよ。

あぁ、ホンダが伸びた理由はこれだなあって。

それは、あの人の飽くなき興味や探究心や感動する心なんだよ。

だって、あんな姿を見せられたら誰だって

『このオヤジを喜ばせたい』

って思うじゃない。

あの情念がホンダのエンジニア連中を熱くさせたんだよ。

俺は本田宗一郎さんのあの姿に1番感動したね」

孫は「同志的結合」という言葉を大恩人の佐々木正から教わった。

リーダーとして志をともにする仲間をどう引き付けるか。

「賢いだけでは人は動かせない」

という将としての心構えは、

本田宗一郎との邂逅(かいこう)からも学んでいたのだ。


(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)

同志的結合

2017-07-23 11:59:00 | お話
🌸同志的結合🌸


立て続けに孫を襲った会社分裂の危機。

そこから孫正義は何を学んだのか。

それは孫が今も好んで使う言葉に集約されているかもしれない。

「同志的結合」

孫はよく「同志的結合は金銭的結合より強い」と語る。

同志的結合が300年王国を実現するための孫の基本戦略をなす群戦略のキーワードであることはすでに述べた。

この言葉を孫に授けた人物こそ、

孫の大恩人である佐々木正だった。

派閥抗争が誰の目にも明らかになっていた大森時代、

そしてソフトウイング事件で経験した「裏切り」。

なぜ、みんな俺のもとを去っていくんだ、、、。


普段は強気一辺倒の孫が胸に秘めていた悩みを、

この恩人にだけ打ち明けた。

佐々木は教え子を諭すように、こんなことを言って聞かせた。

「孫くんね、世の中にはいろいろな結合があるだろう」

「結合…ですか」

「そうだ。人と人をつなぐ結合だよ。

世の中には色々なつながりがあるんだろうけど、

同志的結合に勝る強い結合はないんだよ」


同志的結合ーーー。

それは志をともにするということだ。

佐々木の話を聞いた孫は猛烈に反省したと言う。

「欲に目がくらんだ裏切り者」

とののしった造反者を生んだ原因はリーダーである自分にもあるんじゃないか、と。

今になって、こう振り返る。

「志を十分に共有できなかったということですね。

去られた方も、十分な魅力や引力を持っていなかったということだと思うんですよ。

反省ですよ。

その反省を踏まえて、志を研ぎ澄ませて純粋なものにして

共有できる人たちを集めていかないといけない。

それか、僕が学んだことだな」


とはいえ、孫は何も「金銭的結合」を言下に否定しているわけでもない。

「社員には養うべき家族もいる。

志を共有するだけじゃダメなんです。

十分な見返りも提供できないようじゃ小さな経営に終わってしまう。

それじゃ、永続できる大事業にはならないと考えたんですよ」


かといって日本ソフトバンクは今のような大企業ではない。

まだまだ立ち上がったばかりの小さな会社だ。

社員たちに給料を大盤振る舞いすることはできない。

そこで孫が取り入れたのがストックオプションだった。

発案者は孫ではなく宮内だった。

1980年代後半のこの時代、シリコンバレーの一部企業で導入され始めたばかりだった、

この制度をいち早く取り入れて社員への還元と同志的結合を両立させようとしたのだった。

ソフトバンクが巨大企業となった今では、その形も規模も異なる。

十分か、と言われれば、まだまだ十分じゃないという意見もあるだろう。

だが、孫の中でこの時から一貫しているのが、

佐々木から教えられた「同志的結合」を頭の真ん中に置いて考えるということだ。


(「孫正義 300年王国への野望」杉本貴司さんより)