ガリバー①
🔹羽鳥、今日は尊敬する村上先生とお会いできて大変光栄です。
昨年には先生の『スイッチ・オンの生き方』(致知出版)を読んでとても感動したので、早速幹部社員たちに「読みなさい」と言って配らせてもらいました。
🔸村上、ありがとうございます。
🔹羽鳥、遺伝子にスイッチのオンオフがあるという先生のお話を初めて知ったのは数年前になりますが、
考えてみたら自分が36歳のときに、あれがまさにスイッチがオンになった瞬間だったなときう体験がありましてね。
以来、よく社員に向けて、
人間の遺伝子にはスイッチがあって、それをオンにしないのはもったいない、
遺伝子のスイッチをオンにするような生き方をしなさい、
という話を先生のご許可もなく勝手にさせていただいていました。
🔸村上、結構ですよ。
🔹羽鳥、ありがとうございます。
やっぱり間違いなくスイッチってありますよね。
僕の場合、「カチ」なんてもんじゃなくて、いまでもよく覚えていますけど、「ガッキーン」ってスイッチが入りました。
🔸村上、それはどんな時でしたか。
🔹羽鳥、40年前のことになりますが、当時は義理の兄と鳥羽総業という重機会社を経営していましてね。
東北地方ではトップクラスの会社として利益も出して伸びていたのですが、
人に騙(だま)されて、手形詐欺に遭ったことから倒産してしまったんですよ。
すぐに債権者が押し寄せてきたため、本当に何もかもなくなりました。
義理の兄は海外に夜逃げしてしまったので、自分が家族親族合わせて11人を食わしていかなくちゃいけない。
しかも残された3億円の負債も全部自分が払わなくちゃいけないという状況にまで追い込まれました。
🔸村上、大変な逆境ですね。
🔹羽鳥、とにかく明日からどうやって食べていくかということになって、
それなら自分は車が好きだから中古車販売を始めようと思いましてね。
姉さんから借りた2万円で、ディーラーさんからスクラップ同然の車を二台購入して、綺麗に磨いて売ろうと。
そこからのスタートでした。
ただ、会社を倒産させたことが恥ずかしくて、営業マンなのに人と会うことができない。
同級生に電話をしても、倒産させた人間と親しくしたくなかったのでしょう。
「あっ、ごめん、いま忙しいから」
のひと言で切られてしまう。
その年の10月には「東京マイカー」という会社をつくったものの、
そんな調子だから2ヶ月経っても1台も売れなかったので、
おふくろの生命保険を解約してもらって、それで生活をしていました。
そんな時に、会社の敷地にチンピラ風の男がやってきて、
「ここに東京マイカーってあるけど、羽鳥がやってたんだよな」
って聞いてきた。
「はい、そうです」
と答えたら、おそらく自分が羽鳥の惣領だと分らなかったと思うんですけど、
「あの羽鳥の奴ら、夜逃げしたんだってな」
って言われたんです。
その瞬間、ぶわーって全身鳥肌が立ちましてね。
チンピラ風の人間に奴ら呼ばわりされたもんだから、
何かで脳天をガキーンと殴られた感じだったんですよ。
🔸村上、その時に羽鳥さんの遺伝子が出長になった。
🔹羽鳥、人間というのは、変わる時はほんとに瞬間で変わるもんですね。
それまで人によく思われたいとか、恥ずかしいとか思う弱い人間だったのが、一瞬にして逞(たくま)しくなった(笑)。
こうなったら、とことん借金を返して立ち直ってやる、っていう気持ちにスパンと変わった瞬間から車が売れ始めた。
これはおそらく日本記録どころか世界記録だと思うんですが、
事務員もいない中たった1人で、1年間で600台以上売りました。
🔸村上、それはすごいな。
🔹羽鳥、あのガキーンと切り替わった瞬間、自分の人格から何から本当に全部が変わりました。
でも、もしあのひと言がなかったら、きっと自分はダメ人間のまま終わっていたでしょう。
そう思うにつけ、その方は天使だったんです、自分にとって。
🔸村上、羽鳥さんは早くから商売をやろうと決めていたのですか。
🔹羽鳥、それが商売人に学問は要らないというのが父親の考え方で、
自分が中学生の頃から、高校はいかなくていい、商売を教えてやると言われていました。
自分もずっとそのつもりでほとんど勉強せずにいたのですか、
2つ上の姉が、
「お願いだから高校だけは卒業してほしい。弟が中卒だと恥ずかしくてお嫁に行けない」
って涙ながらに訴えるものだから、
受験をして高校だけは行くことにしたんです。
もっともいざ勉強してみると面白くなってきたものだから、
一応大学受験もしたら受かったんですよ。
ただ、下宿先まで決まったところで父親が止めに入ってきた。
本気でおまえに商売のコツを教えるから、実地で勉強しろと。
🔸村上、どうされたのですか。
🔹羽鳥、さすがに渋りました。そしたら父親が、おまえ1人が大学に行っても大したことはできない。
それよりも商売とはこういうものだという核の部分を教えるから、
あとは会社をつくった時に大学を卒業した優秀な人たちに力を貸してもらいなさいと言われました。
🔸村上、それはもう大正解ですね。
🔹羽鳥、えー。なるほど、そういう手もあったのかと。
結局、そのひと言で大学に行くのをやめました。
🔸村上、もう30年くらい前の話ですが、ソニーを創業した井深大さんと対談したことがあるんですよ。
その時に私が
「町工場だったソニーが、どうして世界のソニーになれたのですか」
と聞いたら、
自分は何も知らなかったから、これだけのことができた、
とおっしゃっていました。
なまじ知っていたら、怖くて手が出せないけど、
知識がなければ先入観を持たずに挑戦できるということでしょう。
しかし、ここまでお話を伺ってて思うのは、羽鳥さんは非常に素直な方だということです。
お父さんのお話を素直に聞かれた。
私はそのことが1番よかったんじゃないかと思いますね。
ただ、そうなると最初の会社を潰した原因は何だったのですか。
🔹羽鳥、義理の兄が優秀で頭もよかったものですから、彼に経営を任せきりにして自分は現場しか見ていなかったんです。
だから彼が誤った方向に行っちゃった時も全く気づかずに、
そのままポンと倒産してしまいました。
先ほど自分がスイッチオンになった話をしましたが、
実は同じ時期に、ある言葉との出逢いもありましたね。
お袋とお寺さんへお参りに行った時に、
「他人がどう思うかではない。
自分がどう生きたかだ」
というカレンダーの標語がふと目に飛び込んできました。
要は他人にどう思われるかよりも、
死ぬ間際に、悔いのない人生だったと思えることが最も大事であると。
この言葉に感動しました。
もし「自分がどう生きるかだ」と言う表現だったら、きっと何も感じなかったと思うんですよ。
🔸村上、過去形の表現だったから羽鳥さんの心に響いたと。
🔹羽鳥、ええ。宇宙の何億年という時間軸からしたら、80年とか100年という人間の寿命なんか、ちょっとの時間でしかない。
だったら、死ぬ5秒前に、
「素晴らしい人生だった」
と言って死にたいなと。
そのためには、人に迷惑をかけたり騙したりしなければ、
人に笑われたくないとか、人によく思われようなんてことを考える必要は全くないんだと気づくことができました。
おかげで心が軽くなって、人生がすごく楽になりましたね。
🔸村上、羽鳥さんに昔から、そういった言葉を受け止める感性があったのですね。
ちなみに禅を西洋に広めた鈴木大拙という偉い学者さんが、死ぬ間際に
「先生、何か言い遺すことはありますか?」
と聞かれたら、
「何もない。ありがとう」
とだけ言ったらしいですよ。
🔹羽鳥、うちのお袋は91歳で亡くなったのですが、
とにかく我欲がなくて人が喜ぶために全部お金を使って奉仕していたので、一銭も貯金なんてしていませんでした。
いったい、お袋はそんな人生をどう思っているのか聞きたくて、
亡くなる前に、
「どんな人生だった?」
って尋ねたんですよ。
そうしたら、ベッドで横になりながら両手で丸をつくって、
「最高だった」
と言って笑うと、
その5分後に、亡くなりました。
🔸村上、見事ですね。
🔹羽鳥、ええ、自分も最後はお袋のような最期を遂げたいなという気持ちですね。
(「致知」3月号、村上和雄さん羽鳥兼市さん対談より)
🔹羽鳥、今日は尊敬する村上先生とお会いできて大変光栄です。
昨年には先生の『スイッチ・オンの生き方』(致知出版)を読んでとても感動したので、早速幹部社員たちに「読みなさい」と言って配らせてもらいました。
🔸村上、ありがとうございます。
🔹羽鳥、遺伝子にスイッチのオンオフがあるという先生のお話を初めて知ったのは数年前になりますが、
考えてみたら自分が36歳のときに、あれがまさにスイッチがオンになった瞬間だったなときう体験がありましてね。
以来、よく社員に向けて、
人間の遺伝子にはスイッチがあって、それをオンにしないのはもったいない、
遺伝子のスイッチをオンにするような生き方をしなさい、
という話を先生のご許可もなく勝手にさせていただいていました。
🔸村上、結構ですよ。
🔹羽鳥、ありがとうございます。
やっぱり間違いなくスイッチってありますよね。
僕の場合、「カチ」なんてもんじゃなくて、いまでもよく覚えていますけど、「ガッキーン」ってスイッチが入りました。
🔸村上、それはどんな時でしたか。
🔹羽鳥、40年前のことになりますが、当時は義理の兄と鳥羽総業という重機会社を経営していましてね。
東北地方ではトップクラスの会社として利益も出して伸びていたのですが、
人に騙(だま)されて、手形詐欺に遭ったことから倒産してしまったんですよ。
すぐに債権者が押し寄せてきたため、本当に何もかもなくなりました。
義理の兄は海外に夜逃げしてしまったので、自分が家族親族合わせて11人を食わしていかなくちゃいけない。
しかも残された3億円の負債も全部自分が払わなくちゃいけないという状況にまで追い込まれました。
🔸村上、大変な逆境ですね。
🔹羽鳥、とにかく明日からどうやって食べていくかということになって、
それなら自分は車が好きだから中古車販売を始めようと思いましてね。
姉さんから借りた2万円で、ディーラーさんからスクラップ同然の車を二台購入して、綺麗に磨いて売ろうと。
そこからのスタートでした。
ただ、会社を倒産させたことが恥ずかしくて、営業マンなのに人と会うことができない。
同級生に電話をしても、倒産させた人間と親しくしたくなかったのでしょう。
「あっ、ごめん、いま忙しいから」
のひと言で切られてしまう。
その年の10月には「東京マイカー」という会社をつくったものの、
そんな調子だから2ヶ月経っても1台も売れなかったので、
おふくろの生命保険を解約してもらって、それで生活をしていました。
そんな時に、会社の敷地にチンピラ風の男がやってきて、
「ここに東京マイカーってあるけど、羽鳥がやってたんだよな」
って聞いてきた。
「はい、そうです」
と答えたら、おそらく自分が羽鳥の惣領だと分らなかったと思うんですけど、
「あの羽鳥の奴ら、夜逃げしたんだってな」
って言われたんです。
その瞬間、ぶわーって全身鳥肌が立ちましてね。
チンピラ風の人間に奴ら呼ばわりされたもんだから、
何かで脳天をガキーンと殴られた感じだったんですよ。
🔸村上、その時に羽鳥さんの遺伝子が出長になった。
🔹羽鳥、人間というのは、変わる時はほんとに瞬間で変わるもんですね。
それまで人によく思われたいとか、恥ずかしいとか思う弱い人間だったのが、一瞬にして逞(たくま)しくなった(笑)。
こうなったら、とことん借金を返して立ち直ってやる、っていう気持ちにスパンと変わった瞬間から車が売れ始めた。
これはおそらく日本記録どころか世界記録だと思うんですが、
事務員もいない中たった1人で、1年間で600台以上売りました。
🔸村上、それはすごいな。
🔹羽鳥、あのガキーンと切り替わった瞬間、自分の人格から何から本当に全部が変わりました。
でも、もしあのひと言がなかったら、きっと自分はダメ人間のまま終わっていたでしょう。
そう思うにつけ、その方は天使だったんです、自分にとって。
🔸村上、羽鳥さんは早くから商売をやろうと決めていたのですか。
🔹羽鳥、それが商売人に学問は要らないというのが父親の考え方で、
自分が中学生の頃から、高校はいかなくていい、商売を教えてやると言われていました。
自分もずっとそのつもりでほとんど勉強せずにいたのですか、
2つ上の姉が、
「お願いだから高校だけは卒業してほしい。弟が中卒だと恥ずかしくてお嫁に行けない」
って涙ながらに訴えるものだから、
受験をして高校だけは行くことにしたんです。
もっともいざ勉強してみると面白くなってきたものだから、
一応大学受験もしたら受かったんですよ。
ただ、下宿先まで決まったところで父親が止めに入ってきた。
本気でおまえに商売のコツを教えるから、実地で勉強しろと。
🔸村上、どうされたのですか。
🔹羽鳥、さすがに渋りました。そしたら父親が、おまえ1人が大学に行っても大したことはできない。
それよりも商売とはこういうものだという核の部分を教えるから、
あとは会社をつくった時に大学を卒業した優秀な人たちに力を貸してもらいなさいと言われました。
🔸村上、それはもう大正解ですね。
🔹羽鳥、えー。なるほど、そういう手もあったのかと。
結局、そのひと言で大学に行くのをやめました。
🔸村上、もう30年くらい前の話ですが、ソニーを創業した井深大さんと対談したことがあるんですよ。
その時に私が
「町工場だったソニーが、どうして世界のソニーになれたのですか」
と聞いたら、
自分は何も知らなかったから、これだけのことができた、
とおっしゃっていました。
なまじ知っていたら、怖くて手が出せないけど、
知識がなければ先入観を持たずに挑戦できるということでしょう。
しかし、ここまでお話を伺ってて思うのは、羽鳥さんは非常に素直な方だということです。
お父さんのお話を素直に聞かれた。
私はそのことが1番よかったんじゃないかと思いますね。
ただ、そうなると最初の会社を潰した原因は何だったのですか。
🔹羽鳥、義理の兄が優秀で頭もよかったものですから、彼に経営を任せきりにして自分は現場しか見ていなかったんです。
だから彼が誤った方向に行っちゃった時も全く気づかずに、
そのままポンと倒産してしまいました。
先ほど自分がスイッチオンになった話をしましたが、
実は同じ時期に、ある言葉との出逢いもありましたね。
お袋とお寺さんへお参りに行った時に、
「他人がどう思うかではない。
自分がどう生きたかだ」
というカレンダーの標語がふと目に飛び込んできました。
要は他人にどう思われるかよりも、
死ぬ間際に、悔いのない人生だったと思えることが最も大事であると。
この言葉に感動しました。
もし「自分がどう生きるかだ」と言う表現だったら、きっと何も感じなかったと思うんですよ。
🔸村上、過去形の表現だったから羽鳥さんの心に響いたと。
🔹羽鳥、ええ。宇宙の何億年という時間軸からしたら、80年とか100年という人間の寿命なんか、ちょっとの時間でしかない。
だったら、死ぬ5秒前に、
「素晴らしい人生だった」
と言って死にたいなと。
そのためには、人に迷惑をかけたり騙したりしなければ、
人に笑われたくないとか、人によく思われようなんてことを考える必要は全くないんだと気づくことができました。
おかげで心が軽くなって、人生がすごく楽になりましたね。
🔸村上、羽鳥さんに昔から、そういった言葉を受け止める感性があったのですね。
ちなみに禅を西洋に広めた鈴木大拙という偉い学者さんが、死ぬ間際に
「先生、何か言い遺すことはありますか?」
と聞かれたら、
「何もない。ありがとう」
とだけ言ったらしいですよ。
🔹羽鳥、うちのお袋は91歳で亡くなったのですが、
とにかく我欲がなくて人が喜ぶために全部お金を使って奉仕していたので、一銭も貯金なんてしていませんでした。
いったい、お袋はそんな人生をどう思っているのか聞きたくて、
亡くなる前に、
「どんな人生だった?」
って尋ねたんですよ。
そうしたら、ベッドで横になりながら両手で丸をつくって、
「最高だった」
と言って笑うと、
その5分後に、亡くなりました。
🔸村上、見事ですね。
🔹羽鳥、ええ、自分も最後はお袋のような最期を遂げたいなという気持ちですね。
(「致知」3月号、村上和雄さん羽鳥兼市さん対談より)