「見る目」
先週、講演で山形県の酒田市を訪れた。
酒田市ってどんなとこだろうと、行く前にネットで調べていたら、
「庄内刺し子」という言葉に目が留まった。
以前取材した放送作家の永六輔さんが、
「いつも私は『刺し子』の半纏を着ています」
と言っていたのを思い出した。
「刺し子」というのは伝統的な縫製の手法である。
縫製といっても「縫う」のではない。
「縫う」というのは針を横に進めていくが、
「刺し子」は刺繍のように針を90度に刺していく。
今、「刺し子」は糸も布もカラフルな色の手芸品として市販されているが、
元々は貧しい農家の暮らしの知恵から生まれたものだった。
農作業のときに着る薄い藍木綿の野良着に別の木綿の布を重ねて補強した。
重ね方も、夏のものは風が通るように、冬のものは保温の効果が上がるように工夫されていた。
その歴史は飛鳥時代にまで遡り、山形県の「庄内刺し子」は、青森県の「こぎん刺し」「菱刺し」と並んで、「日本三大刺し子」だという。
さて、話は飛ぶ。
1933年(昭和8年)、ドイツでヒトラーが政権を握るやいなや、ユダヤ系の優れた科学者や芸術家は国外に亡命した。
行き先は主にアメリカだったが、建築家ブルーノ・タウトは日本に亡命した。
当時、建築業界でタウトの直知らぬものはいなかった。
その世界的な建築家を業界関係者は歓迎したが、
やがて日本とドイツが接近するようになると、
ドイツ人のタウトは日本政府にとって好ましくない存在になった。
そこで建築家の仲間はタウトを群馬県高崎市の達磨寺境内にある「洗心亭」にかくまった。
日本滞在中、タウトは古い建造物を見て回った。
最も彼を感動させたものは京都にある「桂離宮」だった。
「泣きたくなるほど美しい」
というタウトの言葉が残っている。
それまで桂離宮は、国内では文化財として保存されてはいたが、「古いお屋敷」くらいの認識だった。
ところが、それが優れた建築技法と職人の芸術的な美的感性で造られていることをタウトは見抜いた。
そのことを本に書き、欧米に紹介したことで、桂離宮は世界的に冠たる建築物になった。
そのタウトが、桂離宮と同じくらい感動したのが東北地方の「刺し子」だった。
農村を歩きながらタウトは驚いた。
農婦たちが農作業するときに着ている野良着が、芸術品に近いものだと彼は感じたのである。
「これだけのものを作るとすればデザイナーがデザインし、職人が仕立てるものだが、
農家の主婦たちが自分の着る物を当たり前のように自分で作っていて、
しかも縫い目の細かいところにまで美的感性が見てとれる。
なんて美しいんだ」と。
後に、東北の「刺し子」は、民俗学者・田中忠三郎によって見い出され、1966年に国の重要有形民俗文化財に指定される。
しかし、その30年以上も前に、「刺し子」の芸術性は1人の外国人によって発見されていたのだ。
永六輔さんは言う。
「農業は米を作る。野菜を作る。
それだけではない。
その周辺にある竹で編んだ籠、ざる、薄板で作った桶。
野良着だってそう。
全部自分たちで作っていた。
その一つ一つに熟練された技術と美的感性があった。
鍬や鋤や鎌だって野鍛治職人の技があった。
農業はそういうものと共に代々受け継がれ、この国の食料を支えてきた」
「見る目」という日本語独特の言葉がある。
「見る目がある」「見る目がない」という使い方をする。
「物事の真偽、優劣を見極める眼力・眼識」という意味である。
我々が学び続けていかなければならないのは、
この「見る目」を養うためだ。
できるだけ本物に触れたほうがいいというのも、そのためだ。
「見る目」がなければ、大切なものの周辺にある環境や文化や精神を見落としてしまう。
(「みやざき中央新聞」社説 水谷さんより)
先週、講演で山形県の酒田市を訪れた。
酒田市ってどんなとこだろうと、行く前にネットで調べていたら、
「庄内刺し子」という言葉に目が留まった。
以前取材した放送作家の永六輔さんが、
「いつも私は『刺し子』の半纏を着ています」
と言っていたのを思い出した。
「刺し子」というのは伝統的な縫製の手法である。
縫製といっても「縫う」のではない。
「縫う」というのは針を横に進めていくが、
「刺し子」は刺繍のように針を90度に刺していく。
今、「刺し子」は糸も布もカラフルな色の手芸品として市販されているが、
元々は貧しい農家の暮らしの知恵から生まれたものだった。
農作業のときに着る薄い藍木綿の野良着に別の木綿の布を重ねて補強した。
重ね方も、夏のものは風が通るように、冬のものは保温の効果が上がるように工夫されていた。
その歴史は飛鳥時代にまで遡り、山形県の「庄内刺し子」は、青森県の「こぎん刺し」「菱刺し」と並んで、「日本三大刺し子」だという。
さて、話は飛ぶ。
1933年(昭和8年)、ドイツでヒトラーが政権を握るやいなや、ユダヤ系の優れた科学者や芸術家は国外に亡命した。
行き先は主にアメリカだったが、建築家ブルーノ・タウトは日本に亡命した。
当時、建築業界でタウトの直知らぬものはいなかった。
その世界的な建築家を業界関係者は歓迎したが、
やがて日本とドイツが接近するようになると、
ドイツ人のタウトは日本政府にとって好ましくない存在になった。
そこで建築家の仲間はタウトを群馬県高崎市の達磨寺境内にある「洗心亭」にかくまった。
日本滞在中、タウトは古い建造物を見て回った。
最も彼を感動させたものは京都にある「桂離宮」だった。
「泣きたくなるほど美しい」
というタウトの言葉が残っている。
それまで桂離宮は、国内では文化財として保存されてはいたが、「古いお屋敷」くらいの認識だった。
ところが、それが優れた建築技法と職人の芸術的な美的感性で造られていることをタウトは見抜いた。
そのことを本に書き、欧米に紹介したことで、桂離宮は世界的に冠たる建築物になった。
そのタウトが、桂離宮と同じくらい感動したのが東北地方の「刺し子」だった。
農村を歩きながらタウトは驚いた。
農婦たちが農作業するときに着ている野良着が、芸術品に近いものだと彼は感じたのである。
「これだけのものを作るとすればデザイナーがデザインし、職人が仕立てるものだが、
農家の主婦たちが自分の着る物を当たり前のように自分で作っていて、
しかも縫い目の細かいところにまで美的感性が見てとれる。
なんて美しいんだ」と。
後に、東北の「刺し子」は、民俗学者・田中忠三郎によって見い出され、1966年に国の重要有形民俗文化財に指定される。
しかし、その30年以上も前に、「刺し子」の芸術性は1人の外国人によって発見されていたのだ。
永六輔さんは言う。
「農業は米を作る。野菜を作る。
それだけではない。
その周辺にある竹で編んだ籠、ざる、薄板で作った桶。
野良着だってそう。
全部自分たちで作っていた。
その一つ一つに熟練された技術と美的感性があった。
鍬や鋤や鎌だって野鍛治職人の技があった。
農業はそういうものと共に代々受け継がれ、この国の食料を支えてきた」
「見る目」という日本語独特の言葉がある。
「見る目がある」「見る目がない」という使い方をする。
「物事の真偽、優劣を見極める眼力・眼識」という意味である。
我々が学び続けていかなければならないのは、
この「見る目」を養うためだ。
できるだけ本物に触れたほうがいいというのも、そのためだ。
「見る目」がなければ、大切なものの周辺にある環境や文化や精神を見落としてしまう。
(「みやざき中央新聞」社説 水谷さんより)