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般若心経の解説29、"心無罣礙

2016-05-11 16:22:21 | 般若心経
🍀般若心経の解説🍀29


🌸🌸「心無罣礙(しんむけいげ)」🌸🌸


「心に罣礙(けいげ)無し」

「罣礙」という言葉は、あまり聞き慣れない言葉でしょう。

仏教語の1つで、
「さまたげ」とか「こだわり」という意味を持ちます。🍀

ですから、「心無罣礙」とは

「心にこだわりがないこと☀️」という意味に解してよいでしょう。🎵

私たちは誰しも、こだわりのない、素直な心💓でありたいと願いますが、

生身の人間ですから、

時として、おこったり、どなったり、ねたんだりします。😵

イライラ⚡️していますと、

電車の中でちょっと足を踏まれただけでカッとします。

ささいなことをいわれて、つい強い口調でいいかえしもします。✊

同僚が自分より美しかったり、いいものを持っていたり、

とくに男性ならば同期に入社した者が自分よりスイスイ昇進していくのを見て、

ねたみ心を生ずるものです。😵


「マイペース」の生き方はなかなかむずかしく、

私たちは他人との比較の中で、生活しているのが常です。🌸

他の国に比べますと、わが国は確かに衣食住にわたって、より豊かになったといえましょう。☀️

しかし、その反面、激しい競争社会になっていることも事実です。😵

「彼女には負けたくない」

「彼にだけは勝ちたい」

などという強い「こだわり」をもちつつ生きています。🌊☁️

心にこだわりやわだかまりがあると、
人間関係をそこなうこともあります。😄

そして、心の荒れ空しさを感ずることもあるでしょう。🎵

仏教詩人の坂村真民(さかむらしんみん)さんの

「サラリサラリ」と題する次の詩🌸を紹介しましょう。

すべて

サラリサラリとゆこう

水が流れて行くように

木の葉が落ちてゆくように

こだわりなく

一切をまかせて

サラリサラリと

生きて行こう

「サラリサラリ」の心の運び方が「心無罣礙」の風光といえましょう。😄☀️


(「あなただけの般若心経」より)


東日本震災復興の現状3

2016-05-11 16:19:38 | 日記
🌊東日本震災復興🌸の現状3


S会頭はあの日、どのように過ごされたんですか。

私も当時は会社の中にいました。

揺れが収まるまでは建物の外に出ちゃいけないってよく言うじゃないですか。

ただ、うちの本社は国の登録有形文化財になっていて、非常に古いので潰れるかもしれない(笑)。

だから、揺れたらすぐに外に出て、揺れが収まると同時に中に入って、津波でやられないように物を高いところに上げる。

これが鉄則なんです。

あの日も同じようにしました。

で、いつもは海を見に行って潮の引き方で津波の有無を判断するんですけど、今回だけはさすがにしませんでした。

すぐに、でかいのが来そうだ。

ところが、うちの親父はのこのこ海を見に行っちゃった(笑)。

私より上の年代の人たちは、昭和35年のチリ大地震の津波より大きいのが来るはずがないと言う思い込みがあるんですよね。

ええ。

大した事ないと言い張って、会社の裏にある自宅に残ろうとしたから、私は無理やり連れ出して逃げたんです。

標高20メートル位の高台にうちの酒蔵があって、普段から地震があったらそこに集まることになっていましたので、

外に出ていた妻も含めて、16名全員の安否をそこで確認できました。

しばらく待機しようかと思ったら、そこへ警察官が来たんですよ。

「もっと上に逃げなさい」って。

あそこになんで警察官がいたのかよくわからないんですけど、タイミングですよね。

それで車で安波山のほうへ逃げて、そのまま車の中で一夜を凌ぎました。

翌日になって下りていくと、酒蔵の寸前まで瓦礫が迫っていて、隣の瓶詰め工場は津波でやられていました。

それでK社長と同じように社員を一回家に帰したんです。

でも震災翌日、すぐ仕事を再開されたんでしょう?

はい。

帰れない人が2人いたので、3人で酒蔵に寝泊まりすることにしました。

タンクに仕込んであった約1,500リットルの"もろみ"は幸い生きていましてね。

ただ、温度管理をする冷却機が稼働しない。

だから、全く手は下せないんですよね。

情けないかな、ただ見守ることしかできませんでした。

通常だと3月下旬頃に搾る予定だったんですけど、温度の制御ができないからどんどん発酵が進んでしまうんですよ。

16日17日になると、もうあと2 3日で搾らなきゃ、もろみがだめになってしまうって話になりましてね。

そこから必死になって発電機を探し回っていたら、ちょうど貸してくれる施設が見つかった。

ただ、2トンある発電機を運ぶトラックがない。

それもたまたま運んでくれる人が現れて、
酒蔵まで持ってきたわいいんですけど、

今度は通電させなければならない。

これも、ある方がろくに道具もない中で配線してくれました。

そして、最後は燃料。

1本のタンクを搾りきるのに二日間かかるんですけど、2本ありましたので、四日間焚き続けるだけの軽油が必要だったんです。

当時ガソリンや軽油を手に入れるのは至難の業でしたよね。

だから一時は諦めようかと思いましたけど、

知り合いのガソリンスタンドの経営者がメールをくれたんです。

「軽油を何とか手配するから搾れ。

これは私的な関係でやるんじゃない。

気仙沼の産業を絶やさないためだ」

と。

もう涙が出てきましたね。

ただ、時期が時期だっただけに葛藤もあったんですよ。

この軽油があればどれくらいの車が走れるのか、
この発電機があればどれくらいの人が暖を取れるのかって。

だから、本当にやっていいのかなと思いながら、近所にご挨拶に行きました。

そうしたら、

「遠慮しないでやれ」

って全員が言ってくれたんですよ。

だから、運良くいろんな応援者が現れて、
それがどんどん繋がって我々の背中を押してくれた。

やらなきゃいけないって覚悟が定まった瞬間でした。

それで3月20日に搾ることを決意し、
22日と24日に無事1本ずつ搾り終わったんです。

そして24日に、事業再開を宣言しました。

なんか目に見えない大きな力に動かされてるって感覚があるんだよね。

ありますね。


(つづく)