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山岡鉄舟・談判

2016-03-31 08:51:55 | お話
🌸🌸山岡鉄舟・談判🌸🌸


剣・禅・書の達人として知られる山岡鉄舟は、

勝海舟、高橋泥舟とともに、「幕末の三舟(さんしゅう)」と呼ばれ、
傾いた徳川家を支え続けました。

彼が歴史上、重要な役割を果たすのは、戊辰戦争の真っただ中、官軍となった新政府軍の江戸城総攻が目前に迫った慶応4年(1868年)3月のことです。

「江戸の町と市民を戦火から守るために、
なんとしても勝海舟と西郷隆盛の会談を実現しなければならない」

鉄舟は、決死の覚悟で、官軍でごった返す東海道を、西へ西へとひた走りました。

駿府(現在の静岡県静岡市)に滞在している西郷隆盛に会うためです。

西郷に会って、前将軍・徳川慶喜の恭順の意を受け入れてもらい、

江戸城総攻撃をやめるように説得するのです。

彼の手には、勝海舟から預かった手紙が、固く握りしめられていました。

鉄舟は、途中、幾度となく官軍に呼びとめられましたが、

益満休之助という薩摩藩士を同行させ、

ある時は薩摩藩の名を語り、

またある時は、

「朝敵・徳川慶喜家来、山岡徹太郎(鉄舟)、大総督府へまかり通る」

と大音声で多乗ることで官軍の虚を衝き、官軍陣営を突破していきました。

ところが、益満が体調不良になり、途中で別れ1人となった鉄舟は、

駿府にたどり着く直前に、思わぬ大ピンチに襲われます。

官軍の兵が鉄舟を怪しんで発砲し、追いかけてきたのです。

江戸の運命は、鉄舟にかかっています。

ここで捕まっては、江戸が火の海になるのは必定。

それだけはどうしても防がねばなりません…。

追い詰められた鉄舟咄嗟に逃げ込んだのは、一軒の茶屋でした。

「徳川慶喜の名代で、駿府の大総督府を訪ねる者だが、官軍兵に追われている。

大事を成し遂げるためだ、是非とも匿ってほしい」

主人に土下座し、懇願する鉄舟。

鉄舟の気迫が、茶屋の主人に伝わったのでしょう。

主人は、鉄舟を秘密の通路から海に逃がしました。

この茶屋は網元も兼ねていたので、鉄舟は、そのまま船に乗って窮地を脱出。

このとき、案内役を買って出たのが、

あの侠客として有名な「清水次郎長」だったと言われています。

彼は、この命懸けの駿府行きについて、

後年、親交の深かった禅僧の中原南天棒(なんてんぼう)に何度も語ったそうです。

「命を捨てたほどさっぱりしたことはない。

維新のころ、幕府と朝廷の間に立ち、西郷に談判に行った時ほど、きれいなことはなかった。

からだの底から水で洗ったような気持ちがした。

もとより、身命(しんみょう)を放抛捨(ほうしゃ)して(=放り捨てること)かかった。

"身を捨てて浮かぶ瀬ぞあり"を実験した」

鉄舟は、剣の達人でありながら、1度も人を斬ったことがなく、

ついに「心のほかに刀無し」という境地に至り、

無刀(むとう)流の開祖となるのですが、

まるで芸術品のように磨き上げられたその人間力は、

このときの経験に裏打ちされたものだったのでしょう。

何かに導かれるように、駿府までたどり着いた鉄舟でしたが、

東征(とうせい)大総督府(だいそうとくふ)下参謀(しもさんぼう)として、東征軍の指揮を一手にとる西郷の前では、

門前払いされる可能性がありました。

けれども、鉄舟から勝海舟の手紙を渡された西郷は、鉄舟の前に姿を現したのです。

一世一代の大勝負、交渉は鉄舟が口火を切りました。

「西郷先生、私の主人・徳川慶喜は恭順の意を込め謹慎しております。

先生は戦いを望まれ、

是も非もなく人を殺そうとなされるのですか。

まず戦う事が正しいかどうか明らかにすべきでしょう」

まるで真剣による勝負を挑むかのように、
迷いも計算もなく、無心で堂々とぶつかってきた鉄舟に、

西郷は誠実さを感じ、心を打たれました。

かつて西郷を大鐘に見立てたのは、坂本龍馬です。

「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」

この龍馬の西郷評は、人間通の勝海舟を唸らせましたが、

相手がここまで誠実に向かってくる以上、

こちらも駆け引きを捨て、誠実に対応するというのが、西郷の流儀です。

「拙者が官軍の参謀として出向いて参ったのは、

もちろん人を殺すためでもなければ、
国家を騒乱に導くためでもござらん。

ただ朝廷に背く不逞の輩を鎮定するためでござる」

「ならば、お尋ねします。

主人・徳川慶喜は、もっぱら恭順謹慎し、朝廷の御沙汰をお待ち申しております。

生死いずれなりとも朝廷の御命令に従う所存ですございます。

それなのに何の必要があって、このような大軍を進発なさるのですか」

西郷は、旧幕府方の一部が甲州(現在の山梨県)で官軍に抵抗して戦端を開いたという報告があることから、慶喜の恭順は信用できないと批判しました。

それに対し、鉄舟は、確かに家臣の中には主人の意に反して反乱を起こす者がいるが、

それは断じて慶喜の関知するところではない、

慶喜の嘘偽りのない心を伝えるために自分が危険を冒してここまでやって来たのだと伝えました。

ここまで冷静に道理を説いた上で、最後に鉄舟は、自分の覚悟のほどを西郷に示したのです。

「私は主人慶喜に代わって、慶喜の本心を言上しました。

西郷先生がもしこの慶喜の心をお受けくださらぬなら、致し方ございません。

私は死ぬだけです。

そうなると、いかに徳川家が衰えたりとはいえ、

旗本八幡騎の中で決死の士はただ鉄太郎一人のみではござらん。

そうなれば一徳川のみでなく、日本国の将来はどうなりましょうか」

自分の身の危険も顧みず、日本の将来を思い、やむにやまれぬ思いでここまでやって来た鉄舟の言葉は、西郷の胸を貫きました。

意を決した西郷は、

江戸城総攻撃を中止するための条件として、七カ条を提示します。

西郷の出した条件は、江戸城の明け渡し、軍艦や武器の引き渡しなど、徳川家臣の鉄舟から見てももっともな内容でしたが、

しかし、その中の1条に対して、鉄舟は難色を示しました。

その1条とは、「慶喜を肥前(岡山)藩へあずける」というものでした。

備前藩は、徳川家と敵対関係にあり、
そこに慶喜をあずけるのは危険であり、
承服しかねるというのが、鉄舟の言い分です。

それに対し、西郷も、この七カ条はいずれも朝命(朝廷から命じられたこと)であるとして、譲りません。

2人は目を逸らさずに睨み合い、緊迫した時間が流れます。

それでも鉄舟は屈しませんでした。

そして、ついに西郷に、

「もし西郷先生が、私と同じ立場にあったら、
どのようにご返事なさいますか?

忠誠を誓った主君・島津公を、

黙って差し出すとおっしゃるのでしょうか?」

と問いただしたのです。

鉄舟の胆力に、とうとう西郷の方が折れて、この1条を変えることを承知しました。

この初対面の印象は、西郷の心によほど鮮やかに残ったのでしょう。

後に、西郷は、

「金もいらぬ、名誉もいらない、命もいらぬ人は始末に困るが、

そのような人でなければ、天下の偉業は成し遂げられない」

と、鉄舟を大絶賛しています。

鉄舟の命懸けの行動から数日ののち、

江戸城で西郷隆盛と勝海舟との会見が実現し、
江戸城無血開場という、日本史上最も高貴で最も美しいメロディーが奏でられました。

歴史の表舞台に残る名前は、西郷隆盛と勝海舟ですが、

江戸城無血開場は、山岡鉄舟の勇気と行動力があったからこそ実現したのです。


(つづく)