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hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

佐藤初女、いのちの言葉

2016-08-08 13:34:36 | 基本的な考え方
〜佐藤初女、いのちの言葉〜


・一緒に食事をするというのは、いのちのわかちあいです。

・何ごとも心がなくては。

・面倒くさい、は嫌いです、丁寧に。

・口先より行動が大事です。

・乱暴に皮を剥かれたり切られたりしたら、野菜も痛いでしょう?
野菜もいのちですからね。

・薬なんかじゃなくて食べもので身体を治す、て思ったんです。

・約束して、実行しないくらい辛いことはないわね。

・土でしょうね、美のもとは。

・奉仕のない人生は虚しい。

・妥協すると苦しみがのこる。

・何かをいってくださいではなくて、自分がその中で何かを掴まないと、掴めないんだよね。
答えはその人の中にあります。

・私にはお金はなくても、汲めどもつきることのない心ならある。

・食事を作ることは楽しいことですから、私は作ってあげたい。

・女のする仕事は下のことに思われるからね。
でも私は自信あるからね。

・今、この時を生きる。
自分の考えに忠実に添って生活していく。

・黙って見守る、暖かく見守る、当たり前のようにそこにいる、ということが大事なんですね。


以上

科学技術はまだ未熟

2016-07-23 21:01:48 | 基本的な考え方
🌸科学技術は、まだ未熟🌸


私たちは、ここ200〜300年、人類を幸福にするものとして、

神に代わって科学、特にその社会的成果としての技術に、

信頼と大きな期待を寄せて歩んできたと言っても過言ではない。

にもかかわらず、その結果は、

主体であるはずの人間が、巨大な科学技術の前におびえつつ

非人間的なストレスに満ちた生活をせざるをえない状況を現出してしまった、と言わざるを得ない。


このような社会状況を前にして、科学技術は未だ幼い段階にあるということを、

社会全体が認識しなければならないのではないだろうか。

つまり、教育を始めとする社会活動のありようを、

知的科学情報の蓄積のみならず、

自然や人間に対する深い共感性や、美に対する芸術的感覚などを

重視したものに変容して行かねばならないと考えている。

そして、自然の保護や温かい人間関係の醸成を目指し、

多様性を重視した自然共生的な人間活動を目指す必要がある。

森林、自然の中で成長し時を過ごすことで醸成されるこのような自然への強い共感性や、

美に対する芸術的感性は、21世紀の科学技術の中心である医学の人間化をすすめる原動力になるものと期待される。


そこでは、人間の意味を十分に味わえるという意味で、クオリティー・オブ・ライフ(quality of life:QOL)あるいは、

自然と人間の双方に長期に安定した共生を約束するグローバル・アメニティー(global amenity)が重要な社会概念になるだろうと考えている。

そしてこのように、真の意味で高度な科学技術を目指すことで、

人々は安心と幸福感に満ちた人生を約束されるのではないかと考えた。


その後、健康の質そのものに対するWHOの新しい考えも健康の再定義として提示された。

健康とは、身体的、精神的、社会的な質を持つと同時に、spiritual(スピリチャル)な、well-being(ウェルビーイング)の、dynamic(ダイナミック)な状態であるとして、

健康の持つspirituality(スピリチュアリティー)が、

人間の尊厳の確保や、クオリティーオブライフ:QOLを重視するために本質的なものである

とする健康再定義議題が、1998年1月のWHO執行理事会において審議され、

「総会で討議すべきである」と決定されている。

しかし、結果的には総会議決事項とならず、

時間をかけて議論すべきであるとする意見が強く、spirituality(スピリチュアリティー)を重視する方向で、現在のWHOの健康の質の議論は進行している。

これら一連の健康再定義に向けた議論も、

自然環境の持つ人間の深い精神世界に対する癒し効果の解明が、

21世紀において重要な健康課題である、

とする動きを軌を一にするものと考えられる。

いま、森林医学研究への期待は、歴史的にもきわめて大きい、といわねばならない。


(「森林医学」より)

命の重み

2016-07-19 12:31:16 | 基本的な考え方
💓💓命の重み💓💓


「他人に迷惑をかけてはいけない」

「年をとったら、子供の世話にならない」

こういうと、自立したかっこいい大人に聞こえるかもしれません。

でも、僕はそう思いません。

「迷惑」という言葉のイメージが悪いので、そう思うのかもしれませんが、

人は持ちつ持たれつ、関わり合いながらしか生きられないというのが世の常。

迷惑をかけまいとしすぎて、他者に助けを求めることさえできない、そんな生き方は悲しすぎませんか?


以前、沖縄のある老人ホームに呼ばれて講演をしたことがあります。

介護士の方から「人間力」の話をしてほしいと言われ、

いざ行ったものの、そこにいる人たちは平均85歳くらい。

講演会という現場には慣れていて百戦錬磨の僕も、さすがに何を話せばいいか、固まってしまいました。

そこで、沖縄の年寄りがよく口にする言葉、「ぬちどぅ(命ころ)宝ってどんな意味かわかりますか?」というと、

冒頭から、お年寄り全員がムッとしたんです。

「俺たちゃ80、90の老人だぞ。

いまさら、命こそ宝って言ったって、なんになるんだ?

こんな命、尊いわけないだろ!」

そこから白熱の議論が始まりました。

「いいえ。それではいけない。命は尊いという気持ちを失ってはいけない」

「あんた、そういうけど、こんな長生きしている俺たちを憐れんでるんだろう!」

「長生きが憐れ?、そんなこというなんて絶対にゆるさない」

僕はお年寄り達とケンカを始めました。

すると、お年寄りも負けずに、こう怒鳴りました。

「あんたな、毎日オムツを替えてもらって、

お風呂も自分で入れない、ご飯も食べさせてもらう、

人の世話にならないと生きていけない。

家族に邪魔もの扱いされてよ〜。

家族は一ヶ月に1〜2回会いにくればいいほうで、

こんな肩身の狭い思いで長生きをする苦しみがわかるか!」

僕はいい返しました。

「そんな考え方や態度が、若者に悪い影響与えるんだよ。

世話してください、オムツ替えて下さい、

おしっこしたから変えてくださいと、なんで元気に頼めないのか?

生きていることが見つめてあるか?」

「そんなこといっても、みじめはみじめなんだ!

こんな老人ホームで寂しい思いをして生きていて、幸せどうかもわからんさぁ〜」

あまりにもしつこいで、僕は最後にこういいました。

「年寄りはですね。黙って長生きしなさい。

命にいちゃもんつけるな!、自然の摂理がその心臓、呼吸を止める日まで、

死にたいとか、生きたいとか注文つけずに、

ただ感謝して生きとけばいい。

まずこれがわからないと、人間として道理に反している。

そして、あなた方、年寄りの面倒を見ることをイヤがる人にほど、頼み事をしなさい。

年寄りっていうのは、生きているだけで人が集まってくる。

きょうだいやいとこのつきあいが少なくても、

おじいちゃん、おばあちゃんが生きていると、それだけで親戚同士が顔を合わせる機会が増えるわけさ。

家族が集うチャンスが生まれるわけさ。

だから、介護を受けようとベッドに寝たきりだろうと、

年寄りが生きているだけで若者に貢献できている。

いいか、渡すから自分を厄介ものだと思わずに、

仕事中の息子に電話をして、
『今すぐ死にそうだ、老人ホームにこい』といって呼び出せ。

そして駆けつけてきたら、『コーラ買ってきて♡』といえ。

こんな年寄り厄介だろう。

そうやって振り回してでも、子供や孫達に仕事を増やせ。

そして図々しく生きなさい。

それを教えるのが年寄りの仕事だ!

そうしなければ、ただの金食い虫だよ」

そういうと、歩けずに車椅子で運ばれているおじいちゃん、おばあちゃんたちが、みんなスタンディングオベーションになって、

泣きながら、

「にいさん、上等話、ありがとう。

あんた、明日もきなさい。

あんたがいいたいことはわかった。

だから、長生きするさ」

といってくれました。

帰り際、一人ひとりに、

「あんたは長生きするよね」

と確認して、全員が

「生きしますよ!」

といってくれたんです。

「迷惑をかけるな」という教えを信じると、

「人と関わらない努力」

をするようになってしまいます。

迷惑はかけるもの。

迷惑をかけられたときは、迷惑と思わない心を持つことが、とても大事です。

だって、

僕たちの命の大本は、
すべて同じ神様のエネルギー。

あなたの命は僕の命であり、
僕の命は誰かの命。

全部つながっているんですから。


(「あなたのなかのやんちゃな神さまとつきあう法」金城幸政さんより)