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懐かしい東京生活(昭和39年~43年)

2021年07月20日 16時23分33秒 | 鹿児島発
      懐かしい東京生活 

初めての東京
昭和39年4月から、中央大学法学部に入学して東京生活が始まりました。
鹿児島市から蒸気機関車に乗って、24時間かけて東京に行きました。
東京の都市の巨大さに目を見張りました。
初めての1人暮らしで不安がありましたが、花の都東京で生活できるのだという期待もありました。

寮生活 
文京区目白にある「和敬塾」に入寮がきまり、寮生活が始まりました。
「和敬塾」は、前川製作所社長の前川喜作が、自分の教育理念を大学生に教えるために私財をなげうって岩崎財閥の跡地に設立した寮でした。
地方から東京の4年生大学に入学した男子だけの寮です。
寮では、毎月1回程度の著名人を招いての講演会が開催されて、寮生を啓蒙しました。
前川喜作の理念に基づくものでした。
それ以外は、自由で寮生との交流が楽しかったです。
大学の学友より、和敬塾での交友関係が現在も続いています。
かの有名な村上春樹がこの寮で一時期生活していたことがありました。
寮ではESSに属して、近くの外人宣教師から英語を習ったりしました。

和敬塾の周りの環境は素晴らしく、隣が野間講談社の社長宅、近くに田中角栄の目白御殿、カトリック関口教会聖マリア大聖堂、日本女子大などがありました。

 和敬塾入り口


 


 聖マリア大聖堂



中央大学 
大学はお茶の水にあり、明治大学、日本大学などがあり学生街でした。
近くにはロシア正教のニコライ堂があり、電車通りには神田神保町の古本屋街がありました。
当時は、路面電車が都内を走っていて、和敬塾から大学までは路面電車で通勤しました。
通勤の途中には、後楽園球場、靖国神社などがありました。

大学では、座禅クラブの「五葉会」に入会して、昼休みに45分間(線香1本が燃える時間)座禅を組んで精神修養をしていました。

一番残念なことは、司法試験を目指したのですが、遊び怠けで4年間勉強を怠りました。
卒業も落第ギリギリで卒業した次第です。
学費を苦労して出してくれた親に対しては、今も申し訳ない気持ちです。

 ニコライ堂



鹿児島なまり 
東京で生活してまず驚いたのが、東京の女の子が「あのさー」とかの東京弁を滑らかに話すのを耳にして、田舎者の私は少々コンプレックスを抱きました。
在京4年経過して、デパートのエレベーターに乗った際、自分も東京暮らしが4年になり、東京弁が喋れると思って「〇〇さー」と友人に気取って話をしていたところ、エレベーターでたまたま居合わせた人が、「あなた鹿児島ですね!」と言いました。
そうですね!
長年親しんだ鹿児島弁が東京弁になる筈はないですね。
 ※鹿児島弁のイントネーションの語尾は下がりますが、逆に東京弁は上がる
  のです。
もっと、自分の郷里の鹿児島弁に誇りを持たないといけないと反省しました。
その意味では、大阪人は立派ですね。
東京でも大阪弁を変えようとしません。
やっかみですが、江戸のべらんめー調は数は多くないでしょう。
多くの東京人は、地方から上京した人たちの寄せ集めですから!

   YouTube動画より
 
     東京
      マイペース
       懐かしい歌です

     YouTube で見るをクリックして下さい





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