Blog ©ヒナ ─半径5メートルの毎日から見渡す世界

ラテンアメリカでの日々(1999〜)、さいたま市(2014〜北浦和:2021〜緑区)での日記を書いています。

大学の研究室によくあるロケーションマップ

2021年09月05日 | 2005年からの過去のブログ(旧名:「グァテマラから」)

 いま、国籍を変える準備をしているので、母親の遺品を整理していたら、こんな紙をみつけたので懐かしくてアップしました。

 2003年の暮れの写真だと思います。

 この先どうやったら赤貧を抜けられるか解らなくなるまで、ラ米で7年間調査していたがために全財産残り3万円になって8月に帰国。

 ナカタは自分の研究室で三ヶ月ほど暮らしていました。

 11月に、いわばフリーの研究者として3年間の内定をもらえたので、後輩から借金しても返せるので、

 「やっと自分の『巣』がもてる」と、近所の家賃1万6千円の部屋を借りました。

 嬉しかったです。

 関西には「SHOP99」という、「ダイソー」「Can Do」みたいなのがあったのですが、

 パンツからシャツからファイルから何から何までSHOP99だったので、

 後輩から「ナカタさん、相変わらずキュッキュしてますね」とイジられたものです。

 

 さて、この「むつみ荘」より古いが綺麗な木造アパート。

 戦前の薬工場の社員寮でして、「築──年」としか表記されないものの造りはたいそう頑丈で。床が抜ける心配はありません。これは重要です。

 ナカタの大学には、もう学生だかなんだかわからないくらいの就職できてない研究者が掃いて捨てるほどいました。

 本棚に書籍が間違っても収まらずに、床にギッチギチに敷き詰めだしたのが数年前。

 標高が50センチくらい高くなった、という部屋も全然珍しくありませんでした。

 だから、それはそれは「人生詰んだ」3D感迫りくる熟した研究者がたくさん、家屋崩壊の心配の無いここに住んでいました。現存しているのかは解りません。

 でも大家さんはとってもおしゃべり好きな、「ハドソン夫人」みたいな人で。

 ハイエンドのジャガー乗りながら毎日掃除をしにきていました。

 新入居者がきたり、誰かが出て行くとなる毎に、下宿生15人くらいを全員、高給中華屋とかイタリアンに連れて行ってくれました。

 毎年年末には、大家さんの家に呼ばれました。

 まずはその年に、欧米のオークションで新たに獲得したオルゴールコレクションの新作に一通り感動しなければなりません。

 あと、家賃一年分くらいのティーカップでお紅茶を頂き、ハドソン夫人のお手製のクッキーの説明を聞きます。

 そのあとには、家賃一ヶ月分くらいの焼き肉コースに招待していただいてました。

 でも、ハドソン夫人が下宿を掃除している時には誰も大学に行こうと部屋を出ることはありません。

 挨拶をすれば、小一時間くらい続きます。間に合いません。

 でもひとりが捕まると、続いて何人かが必ず即座に部屋を出ます。夏なんかクーラーがないので、誰もが早く下宿を出て涼しい研究室に行きたいのです。

 後続者たちは、軽い挨拶で済みます。一人目が生け贄となります。

 もう時効だと思いますが、仕方がなく家に持って帰っていたとある生き物が見当たらないと、総出で探索をしたこともありました。

 月並みな言い方ですが、みんな貧乏だけど楽しかったです。

 

 すぐ傍に「哲学の道」が流れていて、春になれば桜が疎水をトンネルで包み。

 ワンサカきた観光客が、この木造古アパート込みで画角に入れたいらしく。

 さらにそこから匂い立つほど熟した博士課程オーバー7年目とかが本を抱えて出てくると、待ってましたとばかりに撮られることにも慣れました。

 

 そのような仲間入りをやっとできるのだと残念がっていた頃の写真です。

 研究室を郵便物の送り先住所にしていたくらいですから、

 尋ね人はまずこの研究室にやってきて、ナカタがいなかったら後輩は(尋ね人もまた大先輩であるからして)困るわけで、

 ロケーションマップを作られてしまいました。

 やっと部屋が持てたので、くやしいからそのロケーションマップに自分の巣があることを猛アピールしたわけです。

 

 「ここ」とはその研究室のこと。

 「そこ」とは、他大学に異動になった教官の空き部屋。いつもそこのソファーで寝ていました。

 学内LANですので、国内最速のインターネット使い放題。

 光熱費無し。

 職場まで徒歩三秒という便の良さです。

 「乗り換え案内」アプリなどない時代でしたが、不便は感じませんでした。

 このロケーションマップの、「そこ」「ここ」に画鋲が打たれていなかったら、だいたい「あそこ」にいました。

 生協食堂で飯食ってるか、体育館のシャワーに入りに行ってました。

 洗濯は先述の准教授の空き部屋に干していました。

 そのうち、その「むつみ荘」在住の同僚の何人かが、「そこ」では24時間ナカタがエアコンを付けているので、「無料の乾燥機状態だ」ということで、「むつみ荘以下」に備え付けの洗濯機を無料で使ったあと、ここに干しに来るようになりました。

 45歳の友人(男性独身)が、自分のパンツを干した周りをグルっとタオルを吊して隠していた意味がいまでも分かりません。一人暮らしのOLじゃあるまいし。

 この友人は、わたしが「むつみ荘」に暮らしはじめたものの、初任給以降はほぼほぼ中米にいて空いていたので、(彼の部屋は戦前は納屋だったので天井が低いがゆえに家賃が1万3千円とハドソン夫人がまけてくれていたのだが凄く暗い)自分の部屋ではなく、ナカタの空き部屋が「日差しも入るのにもったいない」と住んでました。

 そんな彼が、神戸三宮は異人館のある、それはそれは都内でいうところの代官山みたいなところにある私立女子大の先生になった時、「これで貧乏ともおさらばだ」と「まずは引越し」したのは、2007年にグァテマラに移民して空室になったナカタの部屋でした。あまりにも赤貧時代が長かったので、それ以上の贅沢が想像できなかったようです。

 あろうことかそんな彼が、勤め帰りに研究室に立ち寄って、ジャケット姿で人生初めて「差し入れ」をされるではなくした時の、あの元町で買ってきてくれた肉饅の味は、いまでも忘れられません。

 だって彼は、下積み時代、ある大学の期限付きの講師に採用されかかったのですが、血液検査で「栄養が足りてません」と引っかかってしまい、

 「だから採用されたら飯が食えるから栄養もつくのだ。だからまず雇え」、とブチ切れたそうです。

 棋譜を読まれながら目隠しをして将棋を指すくらい、普段は物静かなのですが。

 もちろん先だっての棋聖戦第2局での藤井七段の1着は、ネットで炎上する前に彼からメールされてました。

 名門高校将棋部の主将だったのですが、アマ二段です。

 

 明けても暮れても文章を書いていたこの懐かしい三ヶ月の成果は、結局日の目を見ることなく。

 それをいままとめて発表しようと原稿を書いているのですが、

 やはり突破の難しい箇所が多すぎて、

 そのたんびに、現実逃避して蜘蛛の写真を撮ったりこのブログ日記を書いています。

 

 😀

 

おおよそこんなところです。プライバシーの観点から、もちろんズラしています。©Google Map 


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