わたしは人生ここまでを振り返れば、つくづく引っ越しが好きである。一カ所に定住したのは社会人になって以降は最大で四年だ。だいたい一、二年くらいで暮らしの拠点を変えている。
二〇代は中途半端な都会、京都市左京区で、そして三〇代はほぼ中米グァテマラかメヒコで暮らした。
でもって、四〇代のおよそ半分はクソ都心の五反田駅前に住んで白金高輪に通い、残りをマァこれも(良い意味でゴチャゴチャして楽しい)北浦和駅前で暮らした。
五反田や北品川、戸越や吉祥寺といった、(新宿や渋谷のように)人疲れはしないが“花の都大東京”裏路地を探索して楽しめる年齢のギリで十分満喫したので、そろそろ疲れたと、滋賀県の八日市(現・東近江)や東京福生、そして今は埼玉スタジアムすぐ傍だが、周りは造園林しかないさいたま市緑区に暮らしている。
五歳までは甲子園のすぐ傍で育ち、「六甲おろし」を脊髄の髄液まで染み込まされたわけだが、小・中学校の京都府長岡京市を生きた「原風景」は、今のここはそのままである。発情期の野良猫たちが寝させてくれない春の夜。鶯に起こされる朝。やがて一面菜の花の河川敷を散歩しはじめ、紫陽花の色を数えて歩く。先週には蜩が早くも夕暮れを演出するなか、夜道にカタツムリを踏んづけてしまって凹む。
今春からこんな生活を始めて知ったのはGoogle Lensだ。雑に撮っても何の動物か、花か、虫か、この毛虫はキケンか、このけったいな蜘蛛はどの国の原産か、すぐにわかる。
このGoogle Lensは、調子に乗りすぎてはいけない。必死こいて獲得した景品が、予想価格の半値で通販で買えることを知ってしまったり、駐輪場の隣の折り畳み自転車が、「こんないいギアとか細部の造してたらいいなぁ」とおもったら自分が「価格.COM」で買った一万円のヤツにほぼソックリながら、野口英世をあと数枚足しただけの値段だと知ってしまったり。
建物撮ったら場所は解るし、方程式を撮れば解いてくれるし。数年以内には大学生が、出されたレポート課題を撮るだけで、模範解答が解るようになるのだろうか。
とまれ、こうしたことは偏に、インターネットという無限の空間に、世界中にあふれかえる飛び交った画像を、Googleのモンスター検索エンジンがスキャンし、類似のものを探して提示しているだけに過ぎない。つまりは画像ありきなのである。
ということで、いま探しているアプリがある。音声は、そうはいかないのだろうか。
わたしたちの日常は、いろいろな音にも包まれている。でも音声というものは、画像のように時間軸に垂直な記録ではないから、いくら検索エンジンが優れていようが、論理的に時間はかかる。
でも、例えばスーパーで買い物している時や、ラウンジで誰かを待っている時。「あ、この曲なんだっけ」なんていう時でも、少しそれをマイクで拾わせれば、曲名が解ったりはしないだろうか。
それは著作権がどうのこうのというのならば、わたしはそういうヤツらに一度問いたい批判的質問はある。それは要望があれば、また別の機会にしよう。映画『イル・ポスティーノ』のマリオ・ルオッポロなら絶対に言うだろう反論である。
著作権がどうのこうのは別にしても、こうした音声検索アプリは、十分に開発意義はある。例えば鶏や虫の声で、それら生き物の生息する地域や季節が解れば。(今ではもう絶滅寸前だが)ちょっと癖の強い電車のモーター音をSiriに聞かせれば、「それはVVVFというコンバーターを積んだ駆動車で、ドイツのシーメンス社が、どうせモーター音が発生するなら楽しめるように音階を付けようとしたのです」、と。人によっては、かつて「会社の新人時代、毎日満員の京急で、通勤してたなぁ」とかつての人生の日々を懐かしく思い出させてくれるだろう。
しかし、である。
人は「想い出に残った記憶」というものが、見た景色や聞いた音であると前提にしがちである。だがじつは、実家の匂い、夏の林の匂い、むかし遊んでいた近所の神社の線香の匂い、あるいは、言葉もわからず友達もいなかった留学先での食べ物の味、爆撃されて避難し、長い歳月を経て再び訪れた自宅の庭先にまだ成っていたオリーブの実を囓った時の味、病気による長い意識障害のなか、束の間だけ完全に覚醒させてくれたレモンの味。
こうしたニンゲンのドラマは、スマホの技術革新では無理かと思う。
この革サンダルを探しています。Google Lensでも見つかりません。一五年くらい前に京都の四条河原町の小さなブティックで買いました。全然高級ブランドではないです。でも底も革で歩くと「カランカラン」と鳴って風情あるし、至ってシンプル。オール革なので、(底は何回か貼り替えてますが)ここまでシンプルなのは依然としてみつからず。情報あれば、是非ご連絡ください。諭吉二枚くらいまでなら買います。