シューマッハカレッジ留学記

英国トトネスにあるシューマッハカレッジ。その在りし日々とイギリスのオーガニックな暮らしを記録した留学記です。

シューマッハカレッジ留学記について

2022-12-18 | シューマッハカレッジ留学記について



イギリスのロンドンから西に300キロほどの所にある、
古代からケルトの文化が色濃く残るデボン州。

その真ん中あたりにトトネスという街があります。
その街は、人口が5千人しかないのに、
そこには4つの大学があり、
二つの財団がさまざまな活動を行っている、
イギリスの中でも特別な雰囲気の漂う街です。

1998年、私はその街にある、
エコロジカル社会の実現のために設立された、
大学院大学であるシューマッハカレッジの、
「ホリスティックサイエンス」修士コースに留学しました。

私がなぜシューマッハカレッジに行くことになったかは、
それは偶然に偶然が重なったものでしたが、
シューマッハカレッジでの体験は、
それまでの10年間に匹敵、
いや、それ以上に色濃く、
様々な発見に満ちたものでした。

そのときのことを、
関心のある方とシェアするために、
ブログの形で公開することにしました。

この文章は、2003年に、
マクロビオティックの西日本の拠点である、
正食協会の月刊誌「むすび」に、
1年間にわたって連載された12話を、
そのオリジナル原稿をもとに、
加筆、修正をしたものです。

留学記の部分は、
一話につき一カテゴリーとして分けています。
お読みになるときは、
右のカテゴリーから、
ご興味あるテーマを選んでください。

1990年代から2000年代にかけて、
シューマッハカレッジにはサスティナビリティに関する
世界的な学者、活動家、思想家が教えに集まり、
世界中から学生が来ていました。
サステナビリティに関して世界のセンター的な役割を果たしていたと言っても過言ではありません。
当時、学生だった人たちの多くが、
いま世界のサスティナビリティを牽引するリーダーとして活躍しています。

留学から四半世紀がたち、
シューマッハカレッジで教えられる内容も教授陣も大きく変わりました。
以前には、日本語でシューマッハカレッジを紹介するページはここでしかありませんでしたが、
今は、私の後に留学した方々がいろいろなところでその経験を紹介してくれていますし、
また、FACEBOOKのコミュニティーも立ち上がりました。
最新情報は、ぜひ、そちらを参考にしていただければと思います。

ブログオーナー


1.不思議の街 トトネス

2022-12-18 | 1.不思議の街トトネス



偶然のきっかけ

8月の末、成田発のイギリス・ヒースロー空港行きの飛行機は、天候にも恵まれて順調に目的地へ向かって飛行していた。観光や語学留学に行くのであろう10代後半から20代半ばくらいの若い人達で機内は満席であった。周囲とは少し年齢差はあるものの、やはり私もイギリスの南西部デヴォン州トトネスという小さな街にある大学院に留学するためにその飛行機に乗っていた。

ある日、インターネットで何の気なしにその大学院のホームページにアクセスしたところ、思わぬニュースが目に飛び込んできた。
「今年9月より世界最初の“ホリスティック・サイエンス”の大学院コースを開講予定。講師には、ブライアン・グッドウィン、ジェームズ・ラブロック、フリチョフ・カプラ、ステファン・ハーディング…を予定。生徒募集。定員6名。」
不思議なことに、このコースには何としてでも行かなければならないと感じた私は、すぐに準備作業にとりかかった。すぐにエッセイを書き上げるなど必要書類を準備して送り、その後、教授らからの電話面接などを受けた結果、無事に合格通知が手元に届いた。慌しく身辺整理をして、ともかくイギリス行きの飛行機に飛び乗ったのであった。

イギリス長屋風テラスハウスへ

ロンドンからトトネスまでは特急列車で2時間半。車窓からは美しい田園風景を見ることができる。なだらかな丘陵に石積みで囲いがしてある牧場や農場が続く。また、線路沿いには運河が並行して走っているところがあり、実にかわいらしい船で観光客が運河めぐりを楽しめるようになっている。

ロンドンから2時間くらいでセント・デービスという駅に到着する。この駅は、今人気絶頂のハリーポッターの著者がかつて住んでいて、ここのカフェでハリーポッターを書き始めたことでも知られるエクセター市の玄関口である。

セント・デービスの駅を過ぎて30分もするとトトネスの駅に到着した。ロンドンに着いたときに、ガイドブックで「駅近くの丘の中腹にあるテラスハウス、ベジタリアン朝食が可能」と書いてあった宿に予約を入れておいた。テラスハウスとは、間口が狭く奥に深い家が横につらなっているイギリス風長屋を意味する。この国の典型的なスタイルと言ってもよいだろう。その宿は駅から数百メートル離れたところに建っていた。玄関を入ってすぐの階段を上がり、その突き当たりが私の泊まる部屋であった。シングルベッドと小さなテーブルしかなく、部屋にスーツケースを入れると立つ場所さえないほど狭かった。窓からは、道を挟んだ向こう側に真白に塗られた建物が見え、その壁には赤い葉のツタが這っていた。その屋根の向こうには青く澄み渡った空に白い雲が流れて行くのが見える。鉄で出来た黒枠の開き扉がちょうど額縁になり、何だかとても美しかったのが印象的であった。

簡単に手に入るオーガニック食品

宿の朝食はさして凝ったものではなかったが、焼いたトマトにグルテンで出来たベジタリアンソーセージ、全粒粉のパンにシリアルであった。宿のおばさんに聞くと、「ベジタリアンのための食材やオーガニック食材は、簡単に街の自然食品店で手に入るよ」との答えだった。

さっそく、宿を出て坂道を上がって行くと、両側は石造りの家が並ぶ古い通りがしばらく続き、道が少し右にカーブしたところの右手に、まるで丘の上に冠をかぶせたような石造りのトトネス城の入口が見える。そこを通りすぎると、すぐにやや太い通りにつきあたる。それがトトネスのメインストリートであった。聞いていたとおり、ビクトリア時代の古い構えをそのまま生かした美しい店が軒を連ねている。それぞれの店はとても個性的で、食材、ケーキ、キャンディー、パン、カード、クラフト、アート、食器、本、アンティーク雑貨や家具、レストラン、カフェ、フィッシュアンドチップスなどの洒落た店が多い。日本からヨーロッパに行くと、結構何でも洒落て見えてしまうものだが、それを差し引いたとしても、かなり見ごたえの有る街である。

トトネス観光インフォメーションセンターHPより http://www.totnesinformation.co.uk/index.htm

驚いたことに、人口5千人に満たない小さな街であるにもかかわらず、充実した自然食品店が500メートルのメインストリートに面して3軒もあった。また、街の中心に有る広場では毎週金曜日に市場が立ち、そこでも地元のオーガニックの野菜を買うことができる。さらに、ボックススキームと言われる有機野菜の宅配、天然水の宅配業者が複数存在し、オーガニックの食材を買うには全く困らない。さらに車で10分ほど行くならば、イギリス最大のオーガニック農場があり、そこにも大きな自然食品店がある。

シュタイナー、アート、スピリチュアル、エコロジーに溢れる街

メインストリートのほぼ中央あたりに、ひときわ目を引く小さな美しい建物がある。なんとここは精神世界、各種の代替医療、エコロジー関連の専門書店であった。日本語に翻訳されていない様々な本がここには沢山あり、その店のたたずまいとともに、私のお気に入りの1軒となった。トトネスにはこの他にもう1軒の精神世界専門の書店があり、また、シュタイナー関連グッズや書物を集めたショップも存在する。トトネス郊外には、いわゆるシュタイナー学校やシュタイナーコミュニティーもあり、近隣にはシュタイナーが提唱したバイオダイナミック農法を実践している農家が点在している。

トトネスには、中古の服や雑貨を扱うリサイクルショップが目立つ。だが、ただのリサイクルショップではない。大抵の店は、エイズ撲滅、恵まれない子供達の支援などを行うボランティア団体が運営しており、店の売上金はその援助資金に充てられるのである。従って、店もボランティアの人達で運営されており、服や日用雑貨を売りに行く側も、どの支援をするかで店を選ぶ。このような店が街のあちらこちらにあるのだからすごい。

ダーティントンホール財団の存在

トトネスの街はイギリスの中でもかなり特異な街と言っても過言ではない。ではどうしてこの街がこのようにユニークな存在になったのかは、少し歴史を遡って説明しなければならない。

トトネスは古くは要塞都市として始まり、中世から16世紀にかけては商業都市として栄えた街だったそうである。だが18世紀から19世紀にかけては、他の街が発展していった影で、徐々にトトネスは沈滞していったらしい。転機は1925年に訪れた。ニューヨークのホイットニー美術館で有名なホイットニー家の娘ドロシー夫人が、トトネスの街の郊外に広大な敷地を買い取り、ダーティントンホール財団を設立した。

この財団は、芸術と思想、園芸などの分野を中心に研究や教育活動をしており、後に芸術大学、美術館、クラフトセンター、クラフトショップ、オーガニックレストラン、有機農園、経済・社会研究所、そして私が留学したエコロジー研究と教育とを行うシューマッハカレッジを設立した。現在、ここでは様々なセミナーが開かれ、一部のプログラムはイギリス国営放送(BBC)にも提供されている。また、7月から8月にかけては毎年「ダーティントン国際音楽祭」が開催され、世界中からプロの音楽家と音楽を学ぶ学生達が集まる。そして音楽祭の期間中は毎晩のように様々なコンサートが開かれるのである。

素敵なオーガニックワイナリーを持つシャーパン財団

一方、1980年代には、別の人によって仏教と哲学の研究を中心としたシャーパン財団が設立された。ここもやはり広大な敷地をもち、その中には仏教とその世界観を教えるシャーパン大学のほか、広いオーガニック農場と、自給自足の共同生活を体験するためのバーンという名の共同宿舎がある。大学の校舎はダート川を見下ろす美しい丘の上に建っており、そこは、本当に思わず息を呑むような、いつまでもそこに立っていたいような美しい光景に包まれている。この建物自体も実に美しくデザインされており、中の螺旋階段などは見事な曲線を描いて作られている。かつてここはダーティントン財団のドロシー夫人の妹が、別荘として建てたものだそうである。シャーパン財団にはもう一つ特筆すべきことがある。それはヨーロッパのワインコンクールで金賞を受賞したワイナリーとチーズ工房を所有していることである。ワインはトトネスの街の中にある酒屋さんでも買うことができるが、ダーティントンホール財団の中に有るオーガニックレストランでも飲むことができる。後日、ソムリエの資格を持ち、コンクールでも受賞歴の有る私の弟も試飲に行ったが、なかなか出来の良いワインだそうである。

もちろん、この二つの財団だけで現在のトトネスが発展したわけではないが、これらが主なきっかけとなって、芸術、仏教的世界観、社会正義、精神世界、ニューエイジ、哲学、有機農業などに関心の高い人々が徐々に集まって来る街となり、現在のトトネスの独特な雰囲気が形成されたのだそうである。

偶然を日常にする不思議な場所

さて、明日はいよいよシューマッハカレッジに行き、これから一年あまりに亘る大学院生活が始まる。一体どのような展開になるのか予想のつかない不安もあるが、兎に角ここまできたら、何らかの成果が出るように頑張るしかない。そう思いながら宿の狭いベッドにもぐりこんだ。

トトネスに長く住む人の話では、トトネスという街は実に不思議な街なのだそうだ。誰にも、極めて偶然としか思えないような出来事が、ごく日常にしばしば起こるのである。私の場合もそうだった。最初はびっくりしたものの、だんだんとそれが当たり前になって驚かなくなってくる。これから、その様な話も含めて、トトネスでの生活やシューマッハカレッジで体験した様々なことを、たっぷりと皆さんにご紹介しようと思う。

2.イギリス・ベジタリアン事情

2022-12-18 | 2.イギリス・ベジタリアン事情



いざシューマッハカレッジへ

 トトネスの宿の小さな部屋で目覚めると、その日の空はどこまでも爽やかに晴れ上がっていた。9月に入ったばかりであるのに、朝は長袖のシャツだけでは肌寒い。トトネスの小さな宿屋で数日を過ごした私は、大学院の寮が今日から開くので、そちらへと移動することにしていた。学校はトトネスの街から北に向かって車で10分程度の所にある。
 古い街並みの北端あたりにトトネス駅があり、そこを通りすぎると、左手に広い芝生の庭をもつ警察署がある。建物は白く塗られた普通の民家風で、POLICEという看板がなければ警察とはわからない。道は私立学校の芝生の広いグランドを突っ切るかたちで抜けて行く。グラウンドの向こうには、アーサー王物語を彷彿させるような幻想的な川面をもつダート川がながれている。広葉樹の茂った林の中をしばらく走ったあと、にわかに視界は開け、なだらかな丘陵に牧場や畑が連なる田園風景が目に飛び込んでくる。長い歴史を感じさる石造りのセントメリー教会の角を右折し、300メートルほど入ったところにシューマッハカレッジはあった。

部屋にはいつも新鮮な花を

 芝生の広い庭には巨大なナッツの大木と高くそびえる松の大木が、まるでご神木のように立っており、その奥に、古い屋敷を改造した二階建ての校舎があった。大学と言っても日本の大学のように大きなビルが立ち並ぶ光景とは全く違う。校舎には蔦がはり、長年の風雨に耐えたその壁面は、建てられてからずいぶん時がたっていることを伺がわせる。なんだか現世を越えた何かと繋がっているような、どこかそんな気持ちを抱かせさえする。



 学校の正門前に着き、車からスーツケースを降ろしていると、オレンジ色のワイシャツを着た一人の背の高い初老の紳士が手伝ってくれた。続いて校舎から何人かの大学スタッフが挨拶に出てきて、お互いに自己紹介をした。寮の部屋は大学の玄関の正面に位置した6畳くらいの個室で、部屋には机とベッド、そして洗面施設がついている。部屋で荷物をほどいていると、先ほどの初老の紳士が再び現れ、近くのダーティントン有機農園で栽培しているという花をいけた小さな花瓶を持ってきてくれた。シューマッハカレッジでは、使用している部屋には、いつも新鮮な花を飾るのが習慣なのだそうだ。そのころ私は、これまで生きてきた世界とは何か違う世界に足を踏み入れたことを、心の奥のどこかで感じていた。

「ゲーテの科学論」から授業がスタート!

 最初に出迎えてくれたオレンジ色のワイシャツの紳士こそ、私がこれから一年あまりに亘ってお世話になるブライアン・グッドウィン教授であった。大学院コースの教授兼統括責任者を勤めておられる。
 大学院初日は、グッドウィン教授の挨拶の後、早速授業が始まった。開講を記念するオープニングレクチャーは、ヘンリー・ボートフト博士による1週間の集中講義であった。ヘンリー・ボートフト博士はあの量子力学の大家であるデビット・ボームの研究室の出身者であり、イギリスにおいてゲーテの科学論研究の第一人者でもある。欧米でもゲーテの科学論への関心は時と共に高まっており、そのためか、授業には生徒のほかにも、他の先生、学校関係者も参加していた。しかしながら、渡英後すぐの私にとって、いきなりの哲学の授業はかなり厳しいものだった。従って、授業開始のその日から、学校が終われば、殆どの時間は辞書を片手に文献と格闘する、ハードな日々が始まった。

ベジタリアン料理教室のショートコースも

 授業が始まって暫くたった9月下旬に、シューマッハカレッジで定期的に開講される短期コースが始まった。今回のテーマは「The Zen of Cooking」。難解なテーマの多いシューマッハカレッジでは珍しく、主にアメリカ西海岸のカリフォルニア風ベジタリアン料理を教えるコースである。アメリカのサンフランシスコにある禅センター・Tassajaraなどで禅とベジタリアン料理を教え、いくつものベジタリアン料理の本も書いているエド・ブラウンさんが講師を担当した。Tassajaraというとサンフランシスコにある有名なベジタリアンレストラン「グリーンズ・レストラン」の母体でもあり、ブラウンさん自身、若い頃にグリーンズ・レストランで数年間働いていた経験を持っている。かなり恰幅の良い先生で、達磨さんのような風貌の持ち主である。
 授業で作られた料理を、大学院コースの私達も毎日お相伴に預かったのだが、蕎麦や豆腐といった日本の食材を上手に西洋風の料理に用いたり、玄米の思いもよらない使い方をしていたりと、どれも見事な料理に仕上がっていた。料理は広義の意味での「アート」であることを思い起こさせてくれる。まだ慣れない異国の地で、少々疲れ気味になっていた私にとって、The Zen of Cookingの料理は、私をお腹から和ませてくれた。

イギリスで増えるベジタリアン

 イギリスは狂牛病発祥の国という全く不名誉なレッテルを貼られ、さらにその後に口蹄疫の感染が広がったことから、それ以来、イギリス国民の肉に対する信頼は地に落ちてしまった。売られている肉の多くはアイルランド産など海外から輸入されているものが多い。
 そのような背景も有り、2001年の3月に新聞紙サンデータイムスによって行われたアンケート調査では全人口の12%の人が肉食を止めたという結果が出た。同時期に他のメディアや機関が行った調査でも、平均すると大体9%程度の人が「私はベジタリアンである」と述べていたとのことである。調査時期が口蹄疫事件の直後ということもあり、その数値については少々割り引いて考えなければならないが、実際、イギリスにおいてはベジタリアンは珍しくはなく、私の実感としても10人~15人に1人くらいはベジタリアンと考えて差し支えないだろう。トトネス周辺ではその比率はもっと高いものと思われる。きちんとしたレストランでは、大抵のところがメニューにベジタリアン向けの献立を用意されていた。


トトネス郊外にあるオーガニック農場

 ベジタリアンになる理由は種々様々であり、健康のことを考えてベジタリアンになった人、動物愛護の立場から肉を食べない人、宗教的理由の人、生理的に肉を食べることのできない人、環境保護のことを考えて環境負荷の大きい肉類を避ける人、などまさに十人十色である。

マクロビオティック桜沢氏の弟子との出会い

 「The Zen of Cooking」の参加者の中で、トトネスに住み、長く菜食を続けておられるお二人と出会うことができた。一人はマクロビオティックを実践しているWさんと、もう一人は敬虔な仏教徒である建築家Jさんである。
 Wさんは、パリの大学で博士号を得た後、暫くパリで働いていたのち、桜沢如一氏とマクロビオティックに出会い、主にフランスにおいてマクロビオティックの普及活動に活躍された方である。その後アメリカの西海岸に渡り、マクロビオティックを実践する共同体の一員として自給自足のライフスタイルを実践されていた。「むすび」の前身「コンパ21」や「正食」でもしばしば登場されていたクリマック吉見さんとも親しかったそうである。Wさんは若い頃から精神世界の方面にも造詣が深く、60年代にはイギリス北部にある共同体フィンドホーンも訪れたことがあるそうで、本で紹介されているような大きくて立派な野菜が、当時は本当に採れていたと話しておられた。
 昨今、マクロビオティックというと食事法、病気治しの手段として知られる傾向が強いが、Wさんのような桜沢如一氏に直接教えられた世代の方々とお会いすると、マクロビオティックとは本来は哲学であり自然観であることを再認識させてくれる。できるだけ身近で採れる作物を食し、質素で清々しいライフスタイルを実践され、宇宙と調和した生き方を、食事の面のみならず、生活の仕方や行動の中でもしておられる。
 日本では知る人の少ない「マクロビオティック」という言葉も、イギリスにおいては市民権を得た言葉となっている。あのオックスフォード大辞典にも、「マクロビオティック」は掲載され解説がなされている。桜沢さんをはじめ、彼と共に海外で普及活動をされた方々のご努力とその成果には、本当に頭の下がる思いである。

仏教哲学を学んだビーガンのJさん

 一方Jさんは、「ビーガン」といわれる一切の動物性蛋白質を食べない主義の方である。トトネスにある仏教系の大学院で仏教哲学を学び、そのままトトネスに定住された。Jさんは、建築家らしい素敵な家に住んでおられ、お宅の窓からは、遠くに美しい曲線を描いてたたずむダートムーアの丘陵を見渡すことができる。料理の腕もすばらしく、定期的に自宅で開かれるミニコンサートつきのパーティーでは、野菜、きのこ、ナッツ、豆、などを実に上手に使い、スープからメインディッシュ、デザートまで全てを自分で作られていた。そのパーティー料理は、ベジタリアンでない人でも舌鼓を打つほどで、いつも大好評であった。
 WさんもJさんも、私がトトネスに滞在している間を通じて、何度も食事に招いてくださった。そして、食べ物の話や、トトネスでの生活のこと、学校のこと、イギリスと日本の文化のこと、そして哲学や精神世界に関する話などを、おいしいベジタリアン料理を囲みながら楽しんだ。そこにはいつも、平和で、ゆっくりとした時間が流れていた。私はシューマッハカレッジへの留学期間中、その前の10年間に比してあまりあるくらい様々なことを学んだが、中でもこのお二人との出会いは、その思い出に豊かな色彩を加えてくれた。

3.トトネスのオーガニックライフ

2022-12-18 | 3.トトネスのオーガニックライフ




学校の寮から街のマンションへ

 大学院生活も1ヶ月がすぎ、イギリスの習慣に慣れ始めたころ、仕事の都合で一緒に渡英できなかった妻がようやく来ることとなった.大学の寮は一人用の個室しかないことから、さっそくトトネスの街に世帯向けの貸し物件を探しに行くこととなった。
 最近は日本でも外国人ビジネスマン向けに家具付きの貸マンションがあるが、イギリスでは「ファニッシュド」といわれる家具からタオルなどの備品まで揃っていて、着るものさえ持っていけばすぐに生活できる貸アパートが多い。とても便利なシステムではある。しかしその代わりに、契約時にはフォーク一本、布巾一枚まで記載された何枚もの備品リストが渡され、部屋を出るときにはその数や汚れ具合まで詳細にチェックされる。

 イギリスの不動産屋さんも日本の不動産屋と同じように、店の前に写真入のいろいろな物件の札がかかっている。だが、トトネスの街はどちらかというと、リゾート的な傾向も強い場所なので、実は賃貸物件というのがなかなかないのだ。街の目抜き通りであるハイストリートの何軒かの不動産屋さんに聞いてみたが、にべもなく「賃貸はないね」とのことだった。
 今日はもうあきらめようと引き返し始めたとき、ふと目の前に一軒の不動産屋があった。外から見ると中の事務所には誰もいない。だが、これを最後と思い、お店の中に入っていった。
 「ハロー」と声をかけると、奥からめがねをかけた男の方が出てきた。

 私の事情を話したところ、その男の人は、
 「もしかしたら、大屋さんがOKしてくれるかもしれないから電話をかけてあげようと」言って、すぐに受話器をとった。
 「シューマッハカレッジの大学院に学びに来ている、ジャパニーズ・ジェントルマンが部屋を探しているのですが・・・」

 彼は受話器を置くと、大丈夫そうだから、すぐにここに行きなさいと、住所と大家さんの名前を書いた紙を渡してくれた。

 後でこの不動産屋のご主人との繋がりがわかって驚いた。なんと先にご紹介したJさんの友人で、かつ、妻がのちにお世話になったHさんの日本語教室仲間だったのだ。さらに、部屋を貸してくれた大家さんは、その娘さんが、この地域では知られたヒーリングダンスの先生で、ダーティントンやシューマッハカレッジのようなオルターナティブな世界に関心の深い方だったのだ。だから、見知らぬ私のような日本人にも、快く素敵な部屋を貸してくれたのだと思う。本当に感謝である。

 運良く空いていたマンションの一室は、まさに理想的な物件だった。トトネスを流れるダート川沿いの公園、ブティック、アンティックショップ、カフェなどに囲まれた一角にあり、トトネスでもひときわ目を引くチャペル風の洒落た建物であった。「ファニッシュド」の部屋は、バス・トイレ、台所、洗濯機まできれいに完備された、学生夫婦が生活するには勿体無いくらいの申し分のないものであった。



代替医療の薬まで揃う、充実の自然食品店

 すぐに私達のトトネスの街での生活が始まった。部屋から歩いて百メートルほどのところに「グリーンライフ」というトトネスで一番大きな自然食品店があった。ベジタリアンやオーガニック食品を求める人の多いトトネスにおいて、この店はいつもお客さんで賑わっていた。嬉しかったことには、日本の基本的な食材のほとんどがここで手に入った。しかも全て無農薬有機食品である。醤油、みりん、酢、味噌、昆布、わかめ、干ししいたけ、蕎麦、うどん、玄米などはもちろん、豆腐、玄米せんべい、あられ、各種インスタントラーメン、わさびまで売っている。イギリスの片田舎にもかかわらず、日本にいた時よりも容易にオーガニックの日本の食材が手に入るのには驚いた。
 グリーンライフでは、ホメオパシー、アユールベーダ、漢方といった代替医療の薬も豊富に売っていて、一方の壁一面がそういった薬の棚になっている。ホメオパシーはヴェレーダ社製の30~40種類のレメディー(薬)が一通り取り揃えられており、1瓶あたり300円から500円程度で売られている。店の中には、どのレメディーを選べば良いのかを調べられるパンフレットや本、また、症状からレメディーを検索できるパソコンが設置されていたりと、普通の人でもごく日常的にレメディーを選び、服用できるようになっている。また、店員のなかにもある程度の処方ができる人もいて、お客さんの相談に応じている光景もよく目にした。

伝統の知恵”フンザアンズ”

 西洋のベジタリアン料理では様々な豆を使うことが多い。そのせいか自然食品店で売っている豆の種類もとても豊富である。また、ドライフルーツ、ハーブティーなどの種類も多い。これらの多くは日本では手に入らず、今では残念に思うものも多いが、中でもドライフルーツの一種の「フンザアンズ」は最も記憶に残る食材の一つである。
 私がフンザアンズを初めて食べたのは、先月号にも登場したフランスでマクロビオティックの普及につとめたWさんのお宅に食事に呼ばれた時のことであった。乾燥したフンザアンズを少量の水とともに火にかけると、程なく柔らかくなり自然な甘いシロップが染み出してくる。これを豆乳クリームとともに頂くだけの極めてシンプルなデザートである。しかし、その味わいはと言うと、そのアンズができるまでに授かった様々な自然の恵みが、一気に口の中で再現されるかのように豊かで深い味わいであった。

長老の知恵が、化学肥料を禁止に

 フンザアンズとはパキスタンの最北端にある、険しい山に囲まれたフンザ渓谷の特産物である。フンザは、高度に自然と調和した社会をもち、殆ど病気らしい病気も見られないほど秩序だった生活様式をしていたことで世界的に知られる地域である。フンザの生活、文化については日本でもかつて本になって紹介されたことがあることから、ご存知の方も多いかもしれない。かつてフンザに滞在したイギリス人医師の報告によると、フンザでは菜食が中心であり、お祭りの時にヤギの肉を少し食べるだけなのだそうである。山の斜面を利用した畑では、農薬や化学肥料を使うことなく、伝統的な農法に沿って野菜、穀物、そしてアンズを主に作っている。アンズは夏場によく乾燥させ、長く厳しい冬場の貴重な保存食となっている。
 かつてフンザでも化学肥料や農薬のセールスマンから、農作物が良く出来るようになるからと化学肥料と農薬を進められ、使った時期があったらしい。しかし、村の長老達はすぐにそれらが生態系を壊すことに気づき、すぐに使用を止めたという記録がある。また、フンザでは乳幼児の死亡率が低く、兄弟姉妹の年齢差を広く取ることによって、上の子供の世話によって妊娠や乳幼児の世話に支障が出ないようにしているらしい。このようにフンザでは、長い年月の間に、現地の自然環境に最も適した生活様式を確立し、健康で、自然と極めて調和した社会を維持しているのである。フンザアンズは、美味しいだけでなく、それを生産しているフンザ自体も、私達にとって学ぶことは多そうである。

大手スーパーより地元の有機野菜が安い!

 トトネスで無農薬有機野菜を買うにはいくつもの手段がある。最も手っ取り早いのはグリーンライフをはじめとする3軒の自然食品店の店頭で買うことである。また、野菜の種類の選択はできないものの最も新鮮で旬の良い野菜が入手できるのはボックススキームといわれる無農薬有機野菜の宅配サービスを利用することであった。生産農家が近いことからトトネス郊外で朝とれた野菜が、夕方には食卓に上がる。他にも、農家が何軒か集まって共同で設立した販売組織があり、そこでも購入希望者に対して宅配をしてくれた。また週に一度ではあるが、トトネスの街の広場で開かれる市でも、もちろん無農薬有機野菜が販売されている。


ダート川からトトネスの街を見る。奥の道を上がっていくと約1Kmにわたって古い町並みの目抜き通りがある。

 日本で無農薬有機野菜を買うと大抵の場合は、一般のスーパーで買うよりもかなり高い買い物になってしまうケースが多い。イギリスにおいても、食費がかかることはある程度覚悟をしていた。しかし、ある日思いもよらない現実に気づいてしまった。なんとトトネスでは、大手スーパーの野菜より、無農薬有機野菜の方が安いか同じくらいなのである。トトネス周辺では無農薬有機栽培を行っている農家が多数ある。従って、無農薬有機野菜の流通量も多く、適正な価格形成ができている上に、しかも直接に農家から入荷されるため、中間マージンと輸送コストがかかっていないことから、大手スーパーの野菜より安く販売できてしまうのである。
 トトネスのように地元で生産したものを地元で消費することは、農家、消費者の両者にとってもお互いに経済的メリットが大きい。また、お互いが見える関係にあることによって、生産者にとっては消費者の声を直接聞くことができたり、消費者にとっては生産過程が見える安心感に加え、今まで無関心だった農業生産への関心が高まるなど副次的効果も極めて大きいのである。

グローバル化から「地産地消」へ

 過去2000年の間、私達の先祖は、住んでいる地域で取れるもので生活をしていた。しかし、経済圏の拡大と交通機関の発達によって、日用品や食物の交易は村から周辺地域へ、周辺地域からより広範囲な国家へと広がっていった。そして、特に20世紀後半には、急速にグローバル化が加速し、ほうれん草や玉ねぎといったごく日常的な作物でさえ、隣の畑で作れるにもかかわらず、はるばる飛行機で何千キロも空輸される様になってしまった。しかし、一昨年の世界貿易センタービルの崩壊を契機に、日本でもにわかにグローバリゼーションの問題への関心が高まってきた。その問題の本質は、生産者と消費者の接点が失われたことにより、相互の無関心と無責任が広まってしまったことに依ると思う。
 今、イギリスや日本に限らず、世界の至る所で生産者と消費者が再び近づき、お互いにむすびつく動きが活発になってきている。世界的には、まだ暫くはグローバル経済は拡大するだろうが、その一方で、今度はこのようなごく身近な地域を舞台にした協調的かつ互恵的な経済が着実に育っていくであろう。これは過去数千年続いてきた社会の進化が、新たな成長段階に入ったとも見て取れる。トトネスは、まさにその先陣を切っている街の一つであることは確かである。

4.遺伝子組み換え技術の波紋

2022-12-18 | 4.遺伝子組み換え技術の波紋



待ちこがれた春の訪れを告げる可憐な花

イギリスは緯度が高いところにあるだけに、冬場は朝は8時ごろにようやく明るくなり始め、夕方4時には真っ暗になる。しかも、数日おきに西の方から低気圧が次々と通り過ぎて行くことから、一週間のうち半分は雨の日となる。従って、イギリスでは冬場に“うつ”に悩まされる人も少なくないらしく、社会的問題にもなっている。しかし、このイギリス独特の、暗く、雨の多い冬も峠を超えると、まず最初に、庭や道端には小さな可憐なスノードロップ(マツユキソウ)の花が至る所に咲きはじめる。高さは15センチくらいのほっそりした容姿で、花は白百合を2センチくらいに小さくしたような形をしており、それが鈴なり咲く姿は、本当に可憐としか言い様がない。スノードロップが初めて咲いた日、私が通っていたシューマッハカレッジのスタッフも口々に花が咲いたことをうれしそうに話していた。どうやら彼らにとって、スノードロップは春の訪れを告げる、日本でいうと梅や桜のような花のようだった。スノードロップが最盛期を迎えたあとは、今度は20センチから30センチくらいある水仙の大きな株が野原や林の中など至る所に現れ、黄や白の花を一斉に咲かせてくれる。そのあとはもう春本番。様々な草木が次々と咲きみだれ、木々の枝は美しい新緑に染まる。生命の息吹が鮮やかな色で彩られるイギリスの春は、変化に富み、美しく本当に楽しみいっぱいの季節である。

悲しげな表情をした初老の科学者

そんな冬の峠をすぎかけたある日の夕方、私の指導担当であるグッドウィン教授から突然電話がかかった。電話の内容は次のようなことだった。スコットランドで遺伝子組換え作物の研究をしていた科学者に連絡をとったところ、シューマッハカレッジで是非話しをしたいとのことから、私にも出席するようにとのことだった。

冷たい雨が降る夕方だった。大学の講堂には、丁度その時に開講していた「農業・生命科学の安全性と民主主義」と題した短期コースの参加者の他、大学関係者など30名ほどが集まっていた。その中には、チベットのラダッカ地方の自然環境と伝統文化の多様性を維持するのための活動で世界的に知られ、もう一つのノーベル平和賞ともいわれるライト・ライブリフッド賞を受賞したヘレナ・ノーバーグ・ホッジさんの顔も見えた。スコットランドから来たという初老の科学者は、ほとんど笑うことも無く、見るからに落ち込んだ、悲しげな表情をしていた。東欧の出身らしく、彼の話し言葉にはかなりの訛があった。

遺伝子操作ジャガイモでネズミに健康障害が

彼は、つい数ヶ月前まで、ローウェットという研究所で研究員として働いていた。そこで彼は、遺伝子組換え作物の研究のため、スノードロップの根に存在するレクチンという毒素を作り出す遺伝子をジャガイモに組込み、それをネズミに食べさせる実験をしていた。この実験ではネズミを3つのグループに分け、①普通の生シャガイモ、②普通の生ジャガイモにレクチンを混ぜたもの、③スノードロップのレクチンを生み出す遺伝子を組込んだ生ジャガイモ、をそれぞれ食べさせた。その結果、③の遺伝子組換えジャガイモを食べ続けたネズミだけに健康障害や免疫機能の低下が現れたのである。②のグループの結果では、レクチンを食べさせたネズミは健康障害を起こすことはなかったことから、それを考え合わせると、遺伝子組換えジャガイモが、単にレクチンを生み出すだけではなく、何か別の変化をとげ、それがネズミに健康障害を引き起こしている可能性が判ったのである。ヨーロッパでは遺伝子組換え作物のことをフランケンシュタイン作物というが、まさにそれが確認されたのである。この研究は、一旦、マスコミにも注目された。しかし、すぐに政府やバイオ企業と関係の深いローウェット研究所の幹部たちは、実験の詳細データの一切をこの科学者から取り上げたあと、この実験には不備が多いと一方的に発表し、この科学者を研究所から解雇してしまったのである。彼がシューマッハカレッジに来たのはその直後であった。彼が見るからに悲嘆に暮れていたのも無理はない。その科学者の名前はプシュタイ博士と言った。

翌日、グッドウィン教授と私は、ヘレナさんを交えて私の研究論文について話し合うために学校の一室に集まっていた。だが、グッドウィン教授とホッジさんは、私の研究のことなどそっちのけで、昨日のプシュタイ博士の一件について数時間に亘って議論した。そして最後に、研究所がプシュタイ博士に行った行為は極めて不当なものと考えられることから、プシュタイ博士の科学者としての尊厳を回復し、世間にこの事実を広く知ってもらうために、出きるだけのことをしようとの結論に至った。私の面前で決まったこの二人のささやかな誓いが、この後、イギリス中を論争の渦に巻き込むことになった。

ささやかな反旗が、大きな反響を!

それから10日ほど経ったある日、テレビを見ていた妻が大声で私を呼んだ。イギリスの国営放送であるBBCのニュース番組で、何とグッドウィン教授がロンドン名所の一つのウェストミンスター寺院の時計台をバックに、記者達からインタビューを受けているではないか!その場所は、イギリスの国会議員などがインタビューを受ける定番の場所である。その日、グッドウィン教授は、知り合いの国際的に活躍する科学者らとともに、20人の連名でマスコミに意見発表したのである。グッドウィン教授らはプシュタイ博士の名誉回復を求めただけなのだが、マスコミはむしろ、あたかも遺伝子組換え作物の危険性が多く、それを国際的科学者によって支持されたと言わんばかりの報道を行い、この日から一週間あまりにわたって、ニュースのたびに遺伝子組換え作物のことがスキャンダラスに取り上げられた。しかし、そのおかげで、イギリス国内では一般の人でも遺伝子組換え作物への関心が急速に高まり、大手スーパーチェーンの中には遺伝子組換え作物を一切扱わないと宣言したところも出てくる程であった。そして、遺伝子組換えを、どちらかというと容認する方向で進んでいたブレヤー首相や政府関係者も、かなり苦しい立場でのコメントを述べざるを得なくなってしまった。これにより、プシュタイ博士の科学者としての名誉は無事に回復し、その後、彼は世界中から講演を依頼されるようになったほか、彼の研究も不当に封印されることなく、その後に出版された多くの本や雑誌に紹介され、広く世界中に知られることとなった。

ユニークな反対運動

時は過ぎ、7月の半ばの暑い日のことだった。イギリス全土から遺伝子組換え作物に反対する人々が、各地からバスをチャーターして、イギリス中部にあった遺伝子組換え作物の実験農場に集まり、一斉に収穫前の作物を刈り取るといった事件が起こった。シューマッハカレッジからも、その時に短期コースに来ていた人達を中心にした十数人が、その日の朝早く、チャーターされたバスに乗ってこの反対運動に参加した。皆が白衣を着て科学者の格好をして刈り取りを行うといった、欧米らしいデモンストレーションも兼ねた反対運動だった。これも、ニュース番組や雑誌に取り上げられ、広く国民に対して遺伝子組換え作物が問題であることを強く印象付ける結果となった。

実はグッドウィン教授と、彼の妹分でもあり、やはりシューマッハカレッジの講師もつとめる分子生物学者のメイワン・ホー教授とは、遺伝子組換え技術の危険性について警告を発し続けている、この分野では世界的に知られた人たちである。では、なぜ二人は遺伝子組換えが深刻な危険性をはらんでいると考えるのだろうか。折角だから、少しばかり簡単にまとめておこう。

なぜ、遺伝子組み換えが深刻な危険性をはらんでいるのか

近年、私達は、害虫に対して強くされた遺伝子組換え作物が、実は関係ない他の虫まで殺してしまっていることなどの報道をよく耳にする。遺伝子組換え作物が、意図した目的以外に連鎖的に他の生物へ悪影響を及ぼしているのである。私達が住むこの地球上では、全ての生き物がお互いに繋がりあい、持ちつ持たれつしながら生活を共にしている。それは地球誕生から36億年あまりの長い年月をかけて進化して作り上げられた、極めて緻密でかつ壮大な生命の網の目“The Web of Life”なのである。しかし、遺伝子組換え作物は、その網の目を変更しようとしているのである。全てが繋がっている自然界においては、無用心な網の目一つの変更が、必ずドミノ倒しのように他に影響してくるのである。

遺伝子組換え作物については、長所をあげるよりも、短所の方が圧倒的に多い。厳密に言うと長所などないといっても過言ではない。遺伝子というものは、そもそも生き物の種類の壁を越えてはお互いに影響しないようにできている。しかし、それを人工的に可能にしたのが遺伝子組換え技術なのである。遺伝子組換えを推進する科学者達は、「大丈夫」「安全である」と言っていたにもかかわらず、その舌が乾かないうちに、私達のごく身近なところで、「遺伝子汚染」が確認され、いまも広まりつつあるのだ。

問われる科学者の倫理観

遺伝子組換えの話しになると、本当に悪夢を見ている思いがするのは私だけではないはずである。まだまだ沢山、遺伝子組換えの問題点はある。もっと詳しく知りたい方には、メイワン・ホー教授が2000年に出版した「Genetic Engineering」(邦訳「遺伝子を操作する」小沢元彦氏訳、三交社)を是非お奨めしたい。



この本の中で教授は、豊富なデータを分析した上で、遺伝子組換え技術が自然界の遺伝子の暴走を招く危険性を秘め、核問題と同じくらい大変な状況であることを明らかにしている。かつてレイチェル・カーソンの「沈黙の春」が環境破壊を世に知らしめ、シーア・コルボーンらの「奪われし未来」が環境ホルモンの危険性を明らかにしたと同じように、この本は遺伝子操作が引き起こす「遺伝子汚染」への警告の書として、現代にとって極めて重要な本の一つであることは間違いないだろう。

グッドウィン教授やメイワン・ホー教授は、遺伝子組換えの問題の根底には、科学者の物の考え方や倫理観の問題が、根深く横たわっていると指摘している。この本質的な問題が解決しない限り、新たな技術が開発されるたびに、また同じようなことが繰り返されるのは誰の目にも明らかである。今、両教授をはじめとする一部の科学者は、これまで世界を席巻し、私達の物の見方さえをも洗脳しつづけてきた現代の科学のあり方に代わる、新しい科学のあり方を提唱している。このことは、これからの私達の子供の世代の教育にも密接に関わることから、いずれまた分かり易くご紹介したいと思う。


トトネスからシャーパン財団へぬける道にて。あの大木たちは、遺伝子組み換えをどのように思っているのだろうか?