写真は春のときかな、今週 二度 この大楠のところへ行きました。
一度目は、夜 一人で。
今日はヒロヨの両親とお昼に三人で。
夜 一人 大楠を前に 一時間程、ぼーと した、暗く、よく見えない事で、
面白いくらいに よく見える、ただの自分。
空っぽが無限に広がっていく
普段の日常、色々楽しみながら まるで色々な映画を 観ているような日々。
そこに自分も登場していたり、カラスのように、楽しんでみたり・・。
日常の中に 色々な 要素を試していく。
こうして 大きな 長老の楠の前に来ると、大、おじいちゃんの前にいるようで・・・
以前は色々 試したり、してみたり、確かめてみたり。
気を整えてみたり、行為にしていたけれど、
今はただ、ベンチに座り、おいしい煙草を 一服つける。
長老を前に、とても心地が良い。
今日は ひろよの父親が とても気持がよさそうな、姿に
またまた シンプルになっていく、
気が廻っていくというよりは 気が常に巡っている事だけに レンズが合う感じだ。
ふと、声が聞こえる
山に入りなさい。
大楠という、長老 生きるがシンプルに存在する。
常に色々装いながら・・、生きるを楽しみ、日々の生活に行為として
その世界を描いていくわけだけど、
その声は 楠木からであり、ただの自分の根からの、はっきりとした声となり。
五感をとうし、五感を超え 実感として入ってくる。
今、この瞬間に、過去も 未来も全てが重なり、溶けあっていく。
言葉が、うまく出てこないけれど、
時間も 順番もない ただの今に、全てが溶けあっていく感じ。
ありがとうと、その無限の広がりに言葉が出る。
山に入り、少しずつ、はじめて行こう。
楽しみです。
どうやら、取り除いていくことには、まず 良く観ることで、
見方や、概念は 、楽しみから 無限の広がりを
感じづらくなるようだ・・。
半々歩ずつくらいかな・・。