ひだまりから 10分のところに ある 四国88番のお寺
大窪寺の境内の隅っこに、とても美しい 仏像!?がある
ただ、美しい
綺麗だなぁ・・と 見入ってしまう
いいもんだ・・。
ここ何年かで なんとなく 山を降りていこうと 思うようになった・・。
色んな事柄 時の先に 何かを求め 悪くなってみたり、クリアを求めてみたり
客観的に捉えることを 楽しむようになったり・・・
いい 悪いを ないもんだ、をテーマにしてみたり
色々 と心が 動くのを 確かめながらも どこかで 山の上には 超える世界があるんじゃないかなんて
自然とともに 生きることはやはり 心地よく あたかも 自分という存在が 調和 しているような
錯覚を楽しませてくれる。
頂ぱなしの 人生。
その先の峠に 美しき世界があろうとも
頂上に
見たことのない世界が 景色が広がっていようとも
今 ここの場所にたち 過去からの連なりのなかに
今という最高の瞬間がある もうこれ以上登ろうとは 思わない。
頂上に悟りという 旗が立つのならば・・・
見ることは まったく わくわくしない。
今まで登ってきながら 拾ってきたものは 今この瞬間に ゆっくり 置こう
今までいただいてきた 無数のありがとうは
一歩ずつ 降りながら 種を蒔くことで 大地に 還していこう
悟りというものが どこか手の届かぬ頂に求めたりするならば
ただの 今 今日のこの瞬間を、 自分というただの存在を、
空からでもなく 空を見上げてでも、なく
この場所に立っている
実感をはっきりと、感じるだけで十分だ。
そして また 半歩くだり
実感を 楽しみ。
石を投げ 戻ってくる石を 楽しみながら
たまに
投げた石にぶつかって 投げた事を思い出す。
投げた石に気がつき ひょいと、かわせたら
さらに
色々投げてみながら
種をおろしながら 一休み
道中出会う 人と種を交換したり 石の投げ方を 教わったり 教えたり
よけ方のコツを話し合うことを お茶の おやつとともに
楽しむ。
石をとても上手に投げれる人に出会い その寸分狂わず投げた石が、投げたことを忘れ、その人自身に命中し
石が飛んでくることに 怒りを現したり 嘆いていたりするならば
その 類まれなる 肩を褒めよう。
美しき光の玉が飛んできて 飛んできた空に祈る人に出会い
再び 光の玉が降ってくる事を願い そこで待ち神を仰ぐその人の手に 次に降ってくるであろう
光の玉が 握られていることを そっと観察しよう。
石も振ってきて ぶつかれば不快
投げた事を思い出し受け止め磨けば光の玉になる。
光の玉もずっともち続けたら石ころになる その場で大地に還すか 再び投げてみたら 道中より
楽しめそうだ。
いつか 自分がのぼり 降りた山を
離れてみてみる時こそ
山が見えるんだろうか
小さくとも
自分で歩いた山だからこそ
嬉しいだろうなぁ・・・。
さぁ どんな石
投げたっけか・・・
半歩ずつ
種おろしながら
おりてゆこう。