ONCC 争乱と人物からの日本史

戦いで世の中が変わり歴史も変わる。新発見があり、沢山の物語を生み出す。原因や人物もひも解き、新しい歴史を学びます。

桜田門外の変<続き>

2022-01-16 14:40:14 | 日記

日時:令和4年1月14日(金)9:45~11:45

会場:茨木市福祉文化会館 303号室

テーマ:桜田門外の変 井伊直弼<続き>、薩長の攘夷戦争     講師:中村 武生 先生

   

1、将軍継嗣と通商条約  ・安政3年7月 総領事ハリス(米)着任、4年10月家定に謁見、大統領の親書上呈

              老中首座堀田正睦に締結を求める⇐水戸斉昭らから強い反対(華夷秩序)             

              【将軍家定後継問題ー徳川慶福(紀州藩、家斉の孫)と一橋慶喜】

             ・安政5年2月堀田正睦勅許求めて上洛(反対派説得手段)

              孝明天皇が勅許拒否、諸大名との合意を求める(幕府の派閥争いと誤解)

             ・井伊直弼大老に就任→堀田の考えを継承、諸大名との合意に努めるも実現できず

              【将軍継嗣は直弼の独断で徳川慶福に(家茂)】

             ・清国のアロー戦争敗戦、北京条約締結(不平等条約)に直弼動揺

              ハリスは日本の国益を守る米との条約を先行し、それを元に欧州から日本を守るべきと偽善的に提案

               ➡6月日米通商条約締結、7~9月蘭・露・英・仏と通商条約調印

2、安政の大獄      ・6月老中堀田正睦上洛し、孝明天皇に報告、天皇激昂、落胆。譲位の意向(のち撤回)

               公儀内では外交関係構築は既定路線、公家には理解されず

               大名家臣(華夷秩序の観念)・知識層(後期水戸学・国学)も自民族優越主義(井伊直弼も)

             ・違勅調印非難の水戸斉昭、一橋慶喜、徳川慶恕らを処罰(隠居・謹慎)

             ・「戊午の密勅」ー8月朝廷が将軍臣下の水戸藩に攘夷の勅状を下す、「列藩」にも写し届く。

               ➡公儀分裂、「朝廷」と「幕府」・「藩」、安政の大獄が本格化

             ・10月老中間部詮勝、京都所司代酒井忠義が参内、条約調印の経過説明。

              勅諚趣旨の諸大名との合意、「一時の御計策」で調印、武備整備の後「鎖国」に戻すと強調

              水戸への密勅降下は斉昭の陰謀、公家にも加担者がいると陳弁              

             ・12月家茂に将軍宣下、天皇「心中氷解」「鎖国復帰猶予」の勅諚

                  ➡天皇の条件付き承認は外国に知られては問題のため公表できず、国内混乱の基に

3、桜田門外の変     ・安政6年1月 左大臣・右大臣ら「四公」が辞官落飾、

              2月山内容堂隠居、井伊は天子に「戊午の密勅」返納要請

             ・公家、大名、旗本、公家家臣、大名家臣、処分浪士ら百数十名が処分対象

              水戸家臣安島帯刀切腹(8月)、梅田雲浜獄死(9月)、頼三樹三郎・橋本佐内・吉田松陰死刑(10月)など

             ・12月天子の「戊午の密勅」返納沙汰をうけ、井伊は水戸家に勅書返還要求、水戸家内分裂→井伊暗殺決意

             ・安政7年3月3日 水戸浪士、薩摩浪士18名江戸城内桜田門外に井伊を襲撃・暗殺

                   ➡分裂した公儀回復のため「公武一和」の象徴として皇女降嫁を要請

                    天子一旦却下するも、「10年以内の蛮夷拒絶の実行」で許諾

<今日のひと言>(抜粋)

  ■ とても複雑な時代だったということがわかりました。幕末のこともう少しゆっくり話をきいてみたいと思いました。興味深い時代です。

  ■ 嚙み砕いた講義で解かり易くて良く理解できました。でももっとゆっくりと講義をお聞きしたいです。

  ■ 井伊直弼は条約を「結ばされた」のであり、それ程悪い人物でないことがわかった。歴史はよく読まないといけないですね。

  ■ 華夷秩序という言葉から幕末の事件を見ると、現在私達の考えとまるで違って見えて来ました。禁裏と公儀の話も新鮮でしたし、

   そもそも幕府という言葉は、当時はなかったことが理解できました。先生によって歴史の見方がいかに大切かを知り、とても新鮮な授業でした。

  ■ 糸がからんだ歴史を解明して下さり感謝とその誠にややこしいと感じます。去る11月に奄美大島で西郷家を見ましたが、関連がわかりました。

  ■ 日本の開港貿易に与たり諸高官の努力の事がよくわかった。

  ■ 今日は雪がチラチラ舞っている。安政7年3月3日井伊直弼が非業の死を遂げた日も雪だった。

   あの日晴れていたらどうなっていたか(歴史にモシは許されないが…)。いずれにしても、歴史の曲り角に直面した直弼の苦哀の一面が、

   本日の中村先生の講義である程度理解できた気がする。

  ■ 桜田門外の変をいろいろな角度から解説していただき、とても勉強になり楽しかったです。

                                                          (記:杉谷茂治)

 

                   

 


赤穂事件<続き>、桜田門外の変

2021-12-18 21:20:06 | 日記

日時:令和3年12月17日(金)9:45~11:45

会場:茨木市立男女共生センターローズWAM 501,502研修室

テーマ:赤穂事件<続き>、桜田門外の変 井伊直弼      講師:中村 武生 先生

 

 1、赤穂事件<赤穂浪士の見た洛中・洛外>

        〇瑞光院(山科区安朱堂ノ後町)  元は上京区堀川頭今宮御旅所下ル瑞光院前町に所在(昭和37年に移転)

                       赤穂浅野家の菩提寺、浅野内匠頭の墓や義士の遺髪塔がある

                       内蔵助が寺の維持費を寄進、生前に討入り後の供養塔建立を依頼

         

                                            (出典:伊藤久右衛門「京都通」)

     

        〇上洛・在京する赤穂浪士  赤穂を追われた浪士は洛中に住んでいた

                 吉田忠左衛門=烏丸通椹木上ル町 綿屋善右衛門宅、原惣右衛門=小川通錦小路上ル 等

                 浅野長矩の京屋敷があり、公家との情報収集他に使用(京都留守居役:小野寺十内)

                 小野寺十内の妻 丹 が在京浪士の世話をしていた

                     ※十内は細川家お預け中に丹と和歌のやり取りをしている

                     ※「丹は十内の死後、自害し夫の後を追った」はウソ

       

 2、桜田門外の変  〇幕末期の日本外交 いわゆる鎖国は無かった 長崎通詞が蘭語の訳語として使用した

                     「鎖国」とは ①幕府の貿易統制 四つの窓口で五つの外国・異民族と交易 

                              対馬藩(宗氏)⇔ 朝鮮、長崎 ⇔ 中国(明・清)とオランダ

                              薩摩藩(島津氏)⇔ 琉球王国、松前藩(松前氏)⇔ 蝦夷地(アイヌ)

                            ②日本人の海外渡航禁止

                      ・使節の江戸までの行列は幕府の威信を示す機会、「朝貢」と「冊封」

                       日本が東アジアの宗主国=中華、他民族・国家は夷狄 ⇒ 「華夷」秩序

                             ※「華夷秩序」が幕末までの日本人の一般常識

           〇ロシアの通商要求 ラクスマン(露)来航 1792年漂流民大黒屋光太夫を伴い根室に来航

                               幕府翌年通商拒絶し、長崎入港許可証を交付

                     レザノフ(露)来航  1804年長崎入港許可証にて長崎に来航、通商要求

                               幕府「鎖国」の祖法を理由に拒絶、許可証を取上

                               報復として樺太や択捉島を攻撃、ロシアが攻めてくるとの噂が広がる

                                ➡ 京都所司代が天皇に状況説明(このことが幕末混乱の遠因)

           〇日米和親条約  ペリー(米)来航  1853年浦賀に来航、米大統領の国書受理、翌年日米和親条約締結

                            <内容>①伊豆下田、蝦夷箱館を開港(正確には寄港を許可)

                                ②燃料、食料、水の供給、③難破船と乗組員の救助

                                ④両国が必要とすれば領事の駐在許可

                            ※天皇以下内裏は「嘉納」(了承)、問題視せず

                            「華夷」秩序は維持できているため、「鎖国」は維持されているとの認識

                                ➡和親条約は「開国」とは言えない。修好通商条約との違い

                       (出典:日本史通覧)

                                                             (記:杉谷茂治)

                             

 

          

 

                  


大坂の陣<続き>、赤穂事件

2021-12-11 14:47:46 | 日記

日時:令和3年12月10日(金)9:45~11:45

会場:茨木市立男女共生センターローズWAM 501,502研修室

テーマ:大坂冬の陣・夏の陣<続き>、赤穂事件 大石内蔵助/吉良義央      講師:中村 武生 先生

        

      秀頼<少年期>                 秀頼<青年期>  (出典:歴史~とはずがたり~)

 1、大坂の陣  〇冬の陣の原因:茶々・秀頼の家臣統制力欠如 <前回参照>

             暗殺計画を知らず、且元へ登城督促⇒且元(家康の付家老的存在)は安全のため隠居⇒秀忠出兵

               

             早期に和睦:動員に対するメリット(領地)少ない、厭戦気分蔓延や大坂方への寝返りを危惧

         〇和睦の条件:①三ノ丸・総構破却、二ノ丸石垣・濠は豊臣方で破壊・埋立 ⇒ 大坂城の軍事的価値喪失

                ②人質は織田有楽・大野治長から呈出

                ③秀頼・淀君・大坂籠城将士(募集牢人)の身分保証

          

                                                   (出典:ウキペディア)

         〇夏の陣の原因:徳川方による総構、三ノ丸、二ノ丸破却、城濠埋立 ⇒ 豊臣の抗議も無視される

                 豊臣側、大野治房・牢人らの主戦派が主流。所領不足のため牢人の処遇に窮する

                 家康に加増要求するも、逆に大和か伊勢へ秀頼の移封か牢人解雇を迫られる

                 ➡秀頼・淀君の政治力不足(牢人を整理できなかったor牢人が城から出ていかない、脅され開戦を迫られた)

           

         〇元和偃武:夏の陣の終結で、断続的に続いた戦乱が終了し、幕末まで大規模な軍事衝突がみられなかった。

               〇=平和が続き世情が安定し、生活・学術・文化レベルが向上した。

               ✕=戦いがなく、軍事力が停滞。海外の脅威を感じず、国防体制ができてない。⇒幕末に露呈

  2、赤穂事件 〇赤穂事件の影響:「武士の鑑」との評価、以降の影響は甚大

                   ex.「襲撃の日は縁起が良い日」

                       吉田松陰:出発日を重視し、手形の発行を待たず脱藩、東北視察に出発した日

                       高杉晋作:幕府恭順の藩の保守派排斥のため挙兵した日

         〇寺坂吉右衛門の行動:吉田忠左衛門の家来・足軽、討入り後大名4家預けの時には浪士46人。

、                   ・瑶泉院(浅野長矩の妻)へ報告のためとの大石の密命説 と

                    ・討入り直後に逐電した(忠左衛門の発言)説

         〇内蔵助居住地:宇治郡西野山村(現山科区西野山)、当時のヒーロー=同時代史料の残存率高い

                 同村郷士の内蔵助身元保証の文書、萱野三平書翰、岩屋寺境内大石内蔵助石碑銘

                      ⇒内蔵助居住地は名所に。京都訪問時には宇治にも寄る(渋沢栄一も)

           

                                         岩屋寺の隠棲跡の石碑(出典:京都ツウ読本)

                                                        (記:杉谷茂治)

                       


関ヶ原の戦い、大坂冬の陣

2021-12-04 16:21:57 | 日記

日時:令和3年12月3日(金)9:45~11:45

会場:茨木市立男女共生センターローズWAM 501,502研修室

テーマ:関ヶ原の戦い<続き>、大坂冬の陣 家康/秀頼      講師:中村 武生 先生

 

①関ケ原の戦い

 〇関ケ原の戦い前夜  家康上杉景勝討伐に出陣。留守中に毛利輝元大坂城に。

             「内府ちかいの条々」弾劾状13ヶ条。三奉行(秀頼代理人)名で家康討伐の檄文

                 ⇒家康は謀反人として糾弾され、窮地に追い込まれた。(家康多数の書状を発給)

            伏見城攻撃(大将は小早川秀秋)、福島正則ら小山を発ち西上        <以上前回参照>

            家康小山を発ち江戸着、岐阜落城、織田秀信(三法師)降伏。

            北政所は京都新城の破壊を開始。⇒中立の証明(武装解除)、戦火が禁裏に及ばないための配慮。

            大津開城⇒茶々と北政所の連携(初=高次妻、竜子=秀吉側室)、京極高次は高野山へ

 〇関ヶ原の戦い  小早川秀秋の裏切り:松尾山は本格城郭(輝元か秀頼が入城予定ヵ)、三成らからは関白を約束されていた。

                    裏切りは開戦と同時、問鉄砲は虚構。

          戦場で自刃したのは大谷吉継のみ、島津義弘、三成らは逃亡⇒三成、行長ら捕縛され六条河原で死刑、梟首

          茶々と秀頼が家臣の対立を解決できなかったのが原因

  

                       (出典:日本史通覧)

②大坂冬の陣

 〇豊臣・徳川二重公儀  関ヶ原の戦いの戦勝で、家康が政治の主導権を獲得 

              徳川公儀:将軍職(征夷大将軍)を基軸として天下を掌握

              豊臣公儀:関白職を基軸として将軍と対等な立場で政治的支配

                          ⇒形式論過ぎる、実態にそぐわない。

 〇秀頼の領地没収   家康は筆頭家老=代理人として政治活動(公儀)、公儀が徳川家康に。

            公儀直轄地が秀吉から家康に移った。残った摂津・河内・和泉65万石は豊臣領地。

            家康:豊臣氏に臣従を迫る一方で、千姫を秀頼に、北政所優遇など豊臣氏優遇の態度

              ⇒豊臣家は徳川支配下の一大名として存続するか(秀吉子飼いの宿老片桐且元) 

               実力を持って対抗するか(過去の栄光を恃んで反発的な秀頼生母淀君)

 〇東山大仏鐘銘問題  大仏建立は国家安泰のための一大事業、豊臣・徳川の共同作業

            「国家安康」:当時は通称(内府)を使用、諱(家康)の使用は礼を失する。

                          ※大坂では「秀頼」と使われていた。西の常識と東の常識の違い

            徳川方の秀頼移封、募集牢人放逐示唆に対し、且元は淀君江戸移住提案を構想

            家康の巧妙な淀君侍女(大蔵卿局)操縦策により、且元失脚、大野治長らにより開戦決定。

 

<今日のひと言>(抜粋)

  ■ とても興味深いお話だった。これまで自分がおぼろげながら知っていた歴史はほとんどが「二次史料」によるものだとわかった。

  ■ 冬の陣の起きた理由と片桐且元の関係がわかってよかった。

  ■ 秀頼を守る(豊臣家の)1番の家老をめぐる戦い…人の間のややこしさがわかりました。

  ■ 関ヶ原だけで1年間(10回位)講義してもらったら面白いと思います。

  ■ 関ヶ原の戦いとその前後における複雑な人間関係について、史料に基く新たな知識を得た。

  ■ 今まで知っていた歴史がどんどん塗り変わっていくのが少し淋しいですが、頭を切り替えて、楽しみたいと思っています。

  ■ 今までに知っていたことが事実とは異なっていたとは新鮮な驚きでした。(ex.ねねと茶々の対立なし、国家安康 etc. )

                                             (記:杉谷茂治)

 


関ヶ原の戦い <続き>

2021-11-28 11:49:27 | 日記

日時:令和3年11月26日(金)9:45~11:50

会場:茨木市立男女共生センターローズWAM 501,502研修室

テーマ:関ヶ原の戦い 石田三成/徳川家康 <続き>      講師:中村 武生 先生

    「関ヶ原」は必然だったのか?⇒・家康は秀吉の死を待つ狸親父ではない。家康は秀吉から信頼されていた。

                     江戸への転封→遠ざけられたのではなく、北の備え。

                     豊臣家との縁組(自身と旭姫、秀頼と千姫他)

                   ・秀次切腹事件で関白の権威ダウン⇒権威再構築必要、大老ら秀頼へ誓詞

                     ・家康は秀頼に敬意を払い、秀頼を守り、豊臣後期体制を維持した。

                     関ヶ原の戦いから14年間も豊臣家を滅ぼすようなことはしていない。

 

 〇豊臣後期体制  大坂城拡張工事:秀吉死後の秀頼の所在地(伏見か大坂)、武家の首都(大名屋敷も所在)を伏見から大坂にかえた。

          秀吉遺言状は弱気な文章(内乱を危惧):①秀頼は大坂、前田利家を惣廻御肝煎(「御もり」)と二奉行(交替)が大坂に、

                             ②伏見は家康(秀頼は孫婿)、惣様御留守居に、三奉行が伏見城留守居

          豊臣政権末期の職制:五大老・五奉行体制

          御置目(=御掟)違反(大名間の私的婚姻)発覚:「五大老」「五奉行」家康へ詰問→和睦(五奉行は戦わず家康へ詫び状)

          七将の石田三成襲撃事件(豊臣家の家老間の争い):家康邸でなく伏見城内へ逃げ込む。三成引退し、佐和山へ。

          家康の公儀独占:前田利家死去、四大老帰国、家康参内→豊臣公儀のトップ(誰が秀頼を守るのか)に、

                  ねね京都新城へ、家康大坂城に

 〇越後上杉景勝討伐  家康出陣(「直江状」の原本は未発見)。留守中に毛利輝元大坂城に。

            「内府ちかいの条々」弾劾状13ヶ条。三奉行(秀頼代理人)名で家康討伐の檄文

                ⇒家康は謀反人として糾弾され、窮地に追い込まれた。(家康多数の書状を発給)

            伏見城攻撃(大将は小早川秀秋)、福島正則ら小山を発ち西上

        

                      (出典:LisBo 人をあるく 徳川家康と関ヶ原の戦い)

 〇家康勢勝利  毛利元就大坂城退去、家康大坂入城、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊六条河原で死刑、梟首。

         太閤様御置目(国政基本方針)の五大老筆頭だが、事実上豊臣政権に変わる覇者に

         二条城で秀頼を引見

           「秀頼が成人すれば天下を返すと約束したが、関ヶ原で白紙になった」

           「秀吉の恩は忘れがたいので豊臣家は大事にする」

                                            (記:杉谷茂治)