ONCC 争乱と人物からの日本史

戦いで世の中が変わり歴史も変わる。新発見があり、沢山の物語を生み出す。原因や人物もひも解き、新しい歴史を学びます。

関ヶ原の戦い、大坂冬の陣

2021-12-04 16:21:57 | 日記

日時:令和3年12月3日(金)9:45~11:45

会場:茨木市立男女共生センターローズWAM 501,502研修室

テーマ:関ヶ原の戦い<続き>、大坂冬の陣 家康/秀頼      講師:中村 武生 先生

 

①関ケ原の戦い

 〇関ケ原の戦い前夜  家康上杉景勝討伐に出陣。留守中に毛利輝元大坂城に。

             「内府ちかいの条々」弾劾状13ヶ条。三奉行(秀頼代理人)名で家康討伐の檄文

                 ⇒家康は謀反人として糾弾され、窮地に追い込まれた。(家康多数の書状を発給)

            伏見城攻撃(大将は小早川秀秋)、福島正則ら小山を発ち西上        <以上前回参照>

            家康小山を発ち江戸着、岐阜落城、織田秀信(三法師)降伏。

            北政所は京都新城の破壊を開始。⇒中立の証明(武装解除)、戦火が禁裏に及ばないための配慮。

            大津開城⇒茶々と北政所の連携(初=高次妻、竜子=秀吉側室)、京極高次は高野山へ

 〇関ヶ原の戦い  小早川秀秋の裏切り:松尾山は本格城郭(輝元か秀頼が入城予定ヵ)、三成らからは関白を約束されていた。

                    裏切りは開戦と同時、問鉄砲は虚構。

          戦場で自刃したのは大谷吉継のみ、島津義弘、三成らは逃亡⇒三成、行長ら捕縛され六条河原で死刑、梟首

          茶々と秀頼が家臣の対立を解決できなかったのが原因

  

                       (出典:日本史通覧)

②大坂冬の陣

 〇豊臣・徳川二重公儀  関ヶ原の戦いの戦勝で、家康が政治の主導権を獲得 

              徳川公儀:将軍職(征夷大将軍)を基軸として天下を掌握

              豊臣公儀:関白職を基軸として将軍と対等な立場で政治的支配

                          ⇒形式論過ぎる、実態にそぐわない。

 〇秀頼の領地没収   家康は筆頭家老=代理人として政治活動(公儀)、公儀が徳川家康に。

            公儀直轄地が秀吉から家康に移った。残った摂津・河内・和泉65万石は豊臣領地。

            家康:豊臣氏に臣従を迫る一方で、千姫を秀頼に、北政所優遇など豊臣氏優遇の態度

              ⇒豊臣家は徳川支配下の一大名として存続するか(秀吉子飼いの宿老片桐且元) 

               実力を持って対抗するか(過去の栄光を恃んで反発的な秀頼生母淀君)

 〇東山大仏鐘銘問題  大仏建立は国家安泰のための一大事業、豊臣・徳川の共同作業

            「国家安康」:当時は通称(内府)を使用、諱(家康)の使用は礼を失する。

                          ※大坂では「秀頼」と使われていた。西の常識と東の常識の違い

            徳川方の秀頼移封、募集牢人放逐示唆に対し、且元は淀君江戸移住提案を構想

            家康の巧妙な淀君侍女(大蔵卿局)操縦策により、且元失脚、大野治長らにより開戦決定。

 

<今日のひと言>(抜粋)

  ■ とても興味深いお話だった。これまで自分がおぼろげながら知っていた歴史はほとんどが「二次史料」によるものだとわかった。

  ■ 冬の陣の起きた理由と片桐且元の関係がわかってよかった。

  ■ 秀頼を守る(豊臣家の)1番の家老をめぐる戦い…人の間のややこしさがわかりました。

  ■ 関ヶ原だけで1年間(10回位)講義してもらったら面白いと思います。

  ■ 関ヶ原の戦いとその前後における複雑な人間関係について、史料に基く新たな知識を得た。

  ■ 今まで知っていた歴史がどんどん塗り変わっていくのが少し淋しいですが、頭を切り替えて、楽しみたいと思っています。

  ■ 今までに知っていたことが事実とは異なっていたとは新鮮な驚きでした。(ex.ねねと茶々の対立なし、国家安康 etc. )

                                             (記:杉谷茂治)

 



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