ONCC 争乱と人物からの日本史

戦いで世の中が変わり歴史も変わる。新発見があり、沢山の物語を生み出す。原因や人物もひも解き、新しい歴史を学びます。

関ヶ原の戦い <続き>

2021-11-28 11:49:27 | 日記

日時:令和3年11月26日(金)9:45~11:50

会場:茨木市立男女共生センターローズWAM 501,502研修室

テーマ:関ヶ原の戦い 石田三成/徳川家康 <続き>      講師:中村 武生 先生

    「関ヶ原」は必然だったのか?⇒・家康は秀吉の死を待つ狸親父ではない。家康は秀吉から信頼されていた。

                     江戸への転封→遠ざけられたのではなく、北の備え。

                     豊臣家との縁組(自身と旭姫、秀頼と千姫他)

                   ・秀次切腹事件で関白の権威ダウン⇒権威再構築必要、大老ら秀頼へ誓詞

                     ・家康は秀頼に敬意を払い、秀頼を守り、豊臣後期体制を維持した。

                     関ヶ原の戦いから14年間も豊臣家を滅ぼすようなことはしていない。

 

 〇豊臣後期体制  大坂城拡張工事:秀吉死後の秀頼の所在地(伏見か大坂)、武家の首都(大名屋敷も所在)を伏見から大坂にかえた。

          秀吉遺言状は弱気な文章(内乱を危惧):①秀頼は大坂、前田利家を惣廻御肝煎(「御もり」)と二奉行(交替)が大坂に、

                             ②伏見は家康(秀頼は孫婿)、惣様御留守居に、三奉行が伏見城留守居

          豊臣政権末期の職制:五大老・五奉行体制

          御置目(=御掟)違反(大名間の私的婚姻)発覚:「五大老」「五奉行」家康へ詰問→和睦(五奉行は戦わず家康へ詫び状)

          七将の石田三成襲撃事件(豊臣家の家老間の争い):家康邸でなく伏見城内へ逃げ込む。三成引退し、佐和山へ。

          家康の公儀独占:前田利家死去、四大老帰国、家康参内→豊臣公儀のトップ(誰が秀頼を守るのか)に、

                  ねね京都新城へ、家康大坂城に

 〇越後上杉景勝討伐  家康出陣(「直江状」の原本は未発見)。留守中に毛利輝元大坂城に。

            「内府ちかいの条々」弾劾状13ヶ条。三奉行(秀頼代理人)名で家康討伐の檄文

                ⇒家康は謀反人として糾弾され、窮地に追い込まれた。(家康多数の書状を発給)

            伏見城攻撃(大将は小早川秀秋)、福島正則ら小山を発ち西上

        

                      (出典:LisBo 人をあるく 徳川家康と関ヶ原の戦い)

 〇家康勢勝利  毛利元就大坂城退去、家康大坂入城、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊六条河原で死刑、梟首。

         太閤様御置目(国政基本方針)の五大老筆頭だが、事実上豊臣政権に変わる覇者に

         二条城で秀頼を引見

           「秀頼が成人すれば天下を返すと約束したが、関ヶ原で白紙になった」

           「秀吉の恩は忘れがたいので豊臣家は大事にする」

                                            (記:杉谷茂治)                         



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