雨ニモマケズ 風ニモマケズ

かがんでみたり、背伸びしてみたり。

九月二十七日、マンダレーにて。

2007-10-09 00:46:12 | ミャンマー
ミャンマーではいつもインターネット屋さんでミクシィを更新したり、メールを書いていました。

いつも自分の部屋のパソコンで事前に日記を書き、そのデータをインターネット屋さんに持っていきます。

9月27日の夜も、日記を書きました。
翌日、ミクシィを更新するためです。

が、28日の昼前から国全体でネットが出来なくなったので、その日から更新も出来ませんでした。

以下は、更新したくても出来なかったあの日、日記に書こうと思っていた文です。

 




ご心配をおかけしてます。
日本で珍しく、ミャンマーのニュースが連日流れているようで、ミャンマーがどのような状態なのか、日本をはじめとする世界の人々に知ってもらえるいい機会だと嬉しく思います。


今回のデモは、石油高騰から全ての日用品雑貨・食料等の価格値上げに対する抗議運動から始まりました。抗議といっても、それはとても平和的なものであり、政府のやり方を直接批判するようなものではありませんでした。


8月中旬から全国で小規模な抗議行動がありましたが、822日、ヤンゴンでは、1988年に民主化運動の中心になった(当時は学生)人々が町を 練り歩きました。プラカードを持ったり、叫んだりするものではありませんでした。しかし、数十名が検挙され、数名は刑務所に入れられました。

95日、地方では、僧侶が中心となり、御経を読み、町を練り歩きました。
それに対して、政府が僧侶を縄を使い、街灯に縛りつけ、殴り、そして僧侶の死傷者が出ました。
それから、僧侶・市民が立ち上がりました。
政府に対して、僧侶への謝罪、検挙者の釈放、石油価格の引き下げ、そしてアウンサン・スーチー氏の出馬権を求め、その回答期限を917日にしましたが、その日に回答が得られなかったため、全国的なデモへと発展しました。

 

 

 

1718日くらいは、マンダレーでも大きな混乱は見られず、町の端の方で、数時間、僧侶が御経を読み上げました。托鉢(僧侶が食事の喜捨を受け ること)するためのボオルのような丸い入れ物を逆さにして持って歩いていました。これは、僧侶の最高の抗議行動であり、政府関係からの、つまり公的な寄付 は一切受け付けないという姿勢です。


その後はまさに日に日に人数が増え、全国規模でデモが行われています。
926日からは、21時以降早朝5時以前は外出禁止令が出ました。そして、5人以上のグループでの行動も禁止されています。それは、危険だから ではなく、その時間に外出する者に対しては、反政府犯とみなし容赦なく発砲するのだと、昼間に宣伝カーのようなもので知らされました。


僧侶は、仏陀の教えから、正午以降は食事をとることが許されません。
そのため、食事をとったあとの13時から16時くらいまでに、僧侶が町を歩きます。それを警戒し、政府は今、正午を中心に僧院の前にバリケードを 張り、外に出られないようにしています。鎖を使って、町へと出ようとする数千人の僧侶の行列を止めようとしています。消防車も出て、僧侶に水をかけます。
そして、空に向かって威嚇射撃をします。
これが、世界でも有数の仏教国の政府がすることなのかと、身震いするほどです。

 

 


26日、学校へ行く途中に、数千人の僧侶の練り歩きと遭遇しました。
僧侶の袈裟が道を染め、道の中心に赤い河ができたようです。その周りを、国民が手をつなぎ守りながら歩いています。
僧侶を前にした周囲の市民は、「座れ座れ。頭を下げろ。」とみんなで言い合い、亜熱帯の陽射しで熱くなったコンクリートの地面に膝をつけ座ります。そして手を合わせ、額を地につけます。
当初は御経を読むだけだった僧侶たちは、今は政府への直接批判する言葉を口にしています。
「地獄に落ちろ」と。
それに対して市民は、歓声をあげ、拍手で迎え送ります。
雨季の終わりかけとはいえ、正午過ぎは一番暑い時間であり、その中を2、3時間歩き回ることは、大変なことです。
ですから、多くの市民は、お坊さんに水や果物を差し出します。
以前は、誰もそんなこともしませんでした。水を差し出すことはおろか、立ち止まって見るだけでも、それを軍に見られると、「民主化運動に加担した者」として刑務所に入れられる恐れがあるからです。
しかし、今は違います。
僧侶に影響され、市民も立ち上がり始めているのです。


私は、地面に膝をつけ、地面の熱を感じながら、鳥肌が立ちました。
今、この国の僧侶と国民は自分たちで自分たちの国を良くしようと、立ち上がっているのです。
それでも、相手は数十年政権を握ってきた軍隊です。催涙爆弾と消防車、マシンガンも持っています。
このデモ行動が始まってから、十数人の死者が出ているのです。27日にはとうとう外国人の死者も出ました。日本人の報道関係者も亡くなったそうです。
誰でも、死に対して恐れがあります。
でも、銃声が聞こえる中、僧侶たちは歩き続けているのです。

 

 

 

私の日本語学校は、休校になりました。
夜の最後の授業は19時までですから、登下校中に何かあったら困りますし、学生の親も外出しないように、子どもたちに言っていますから。
それでも、まだ間違って学校にくる学生はいるかもしれないし、事態が落ち着きを見せたときにはまた再開しますから、私とスタッフは毎日学校へ行っています。


もともと105日の飛行機で帰国予定だったため、成田行きチケットを予約してありました。
来週には、ヤンゴンへ向かわなくてはいけません。
ヤンゴンでは、マンダレーよりもずっと加熱していて、日中の外出もままならないようです。
ヤンゴンでの滞在を極力短くして、なんとか帰国しようと思います。


私はこの国が本当に好きですから、この大きな変動の時にこの場に立ち、この目で見て、感じられることに対して、よかったと思っています。
これ以上の死者が出ないように、ミャンマーの経済もこれ以上停滞しないよう、そして今まで以上の平安がこの国に訪れることを切に願います。


余談ですが、926日は、私の誕生日でした。
誕生日を迎える人がみんなに御馳走するという習慣がミャンマーにありますから、夜はいつも接している学生をいいレストランに招待していたのですが、中止することに。夜、出歩くことは命を落とすことになりますから。
残念には思いましたが、きっと何年経ってもこの誕生日は忘れることはできないでしょう。それは、この二年半、ミャンマーと接し、愛してきた私にとっては光栄なことです。

この軍政が今までどのようなことをしてきたのか、そして今何をしているのか、その中で国民はどれだけの圧迫を強いられてきたのか、一時でも構いませんから、是非目を向けてみてください。
今までインターネットを規制していた政府も抑えられないのでしょう、どの国のニュースでも写真や抗議行動の内容、政府の対応の仕方が報道されています。


私はとても元気です。
みなさんもお体に気をつけて


ミャンマーから命からがら・・・

2007-10-06 21:12:36 | ミャンマー
というのは、うそです。

が、ご心配おかけしました。


9月上旬のお坊さんの抗議デモから、全国的な民主化を求めるデモにエスカレートし、9月26日には夜間外出禁止令、27日にはヤンゴンで日本人が殺され、28日にはインターネット回線を切られ、ミャンマーではメールもネットもできなくなってしまいました

そのため、町中のインターネットショップはもちろん無期休業、お酒をだす店も20時には閉まってしまう日々

21時以降に外出したら、容赦なく発砲しますよ~」

と、昼間に宣伝カーで宣伝していました。
「夜に外出したら危ないですよ?」ではなく、「夜に外出したら、(民主化に賛成する)政治犯として撃ち殺しますよ」と、町中で言いまわっているのですから、恐ろしい世界ですね。


私が滞在していたマンダレーは第二の都市です。
一番ひどい時には、何千人単位のデモが四、五日続きましたが、現在は静かにおさまり、町を警備していた軍隊も撤退しました。

銃声が聞こえる中、ひるむことなく歩き続ける僧侶たちには感動しました。

私は日本に帰って来てしまったけど、これからもまだまだミャンマーの動向には注目したいと思っています