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Nicomachusの園 Ⅲ

2007年度総合倫理の課題とコメント

第十三回 中村中「友達の詩」について

2007-11-08 23:22:03 | Weblog
今回は、21歳のシンガーソングライター中村中(ナカムラアタル)について取り上げます。たまたまNHKの「Songs」という番組に出ていてはじめて知りました。外見も歌声も女性そのものですが、性同一性障害で戸籍上は男性。「性同一性障害」の問題についても考えてほしいのですが、なによりこういう障害をもってメジャーデビューし、そのまま自身の経験を歌にするという点が際だっています。中学3年で路上ライブを始め、高校も中退して音楽活動を続けてきたそうです。そのヒット曲「友達の詩」は15歳の時にはじめて作った楽曲。同じバンド仲間のひとりに片思いをし、その気持ちを伝えられないまま解散してしまった実体験に基づいた詩だそうです。



「友達の詩」

作詩:中村中 作曲:中村中

触れるまでもなく先の事が
見えてしまうなんて
そんなつまらない恋を
随分続けて来たね

胸の痛み 直さないで
別の傷で隠すけど
簡単にばれてしまう
どこからか流れてしまう

手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいでいい

寄り掛からなけりゃ
側に居れたの?
気にしていなければ
離れたけれど今更…
無理だと気付く

<中略>

手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来

忘れた頃に もう一度会えたら
仲良くしてね

手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいでいい

友達くらいが丁度 いい

(歌詞の全文は、こちら。PV動画はこちら。)

たんなる片思いの失恋の歌ではない、複雑な想いがからまった詩になっているのは同一性障害が背景になっているからです。性同一性障害は現在では精神疾患のひとつとして正式な治療対象として認知されてはいますが、それでも一種の性倒錯であるとかゲイと同一に見なされてしまう風潮があります。(「ゲイ=同性愛者」がいけないということではありません。)

そもそも思春期には男性性・女性性をめぐる性同一性の葛藤が一般的に見られる現象です。女性なのに「ボク」とか「オレ」と言って男性言葉を使ってみたり、ボーイッシュな服装を好んだりする現象にも現れます。同じことが男性の場合は表面化しにくいのは、「女っぽい」というだけでイジメの対象になるからかもしれません。

ここでいう男性性・女性性(男らしさ・女らしさ)というのは生物学的な性(セクシュアリティ)ではなくて、社会的・文化的な性(ジェンダー)の受容の問題です。
それに対して、精神疾患としての性同一性障害には、社会的文化的要素だけでなく、生物学的な性別への違和感が大きな要因になっています。自己の性自認(心理的な性別意識)と身体的な性別とが一致せず、反対の性(もしくは中性?)に一体感をもつ場合を言います。

さて、こうした背景をおさえて設問に答えてください。

(設問1)「友達くらいが丁度 いい」という最後のフレーズにはどのような「想い」がこめられていると思うか。

(設問2)「同性同士の恋愛」「異性との友情」は(正常なものとして)成り立つと考えるか。また、この場合、「恋愛」と「友情」はどうちがうのか。

(設問3)「性同一性障害者」と「ゲイ(同性愛者)」あるいは「異性装者(女装趣味・男装趣味)」とどうちがうのか。

Mr.Children「Sign」から「しるし」についての解説

2007-11-01 10:52:25 | Weblog
先週は中間考査、今週は「開校記念日」でお休みです。二週間も間があいてしまうので前回の問題の解説だけを載せておきます。第十三回の問題は来週です。



 Mr.Childrenの「Sign」が主題歌に使われたTVドラマ「オレンジデイズ」は、柴咲コウが演じる聴覚障害になった天才バイオリニストと同じ大学で福祉心理学を専攻する学生(妻夫木聡)を中心にした、恋愛と友情の物語である。ここで歌のタイトルが「Sign(サイン)」であることとドラマの主人公の女性が聴覚障害者であることは無関係ではないと思う。

 前々回で取り上げた、中森明菜の歌う「瑠璃色の地球」をバックにしたKDDIのCMが、(これは偶然であるが)やはり聴覚障害者の女性がストーリーの中心になっていた。KKDIのCMは、携帯メールが聴覚障害者とのコミュニケーションを回復するツールになるという筋立てであった。聴覚障害では音声による情報が必然的に欠落する。そのために欠落した情報を補うために相手の表情やしぐさやくちびるの動きから相手の心理を読み取ろうとする。健常者にとってはほとんど意識されないことが、聴覚障害者にとっては重要な「サイン」となっているのである。そのためにかえって相手の気持ちを取り違えたり、誤解が生じたりすることもある。かえってシンプルな携帯メールが真意をストレートに伝えることができたりすることもある。(これがKDDIのCMのコンセプトだと思う)

 しかし、メールという意思伝達手段の方が文字情報だけに依存しているのだから直接の会話より情報量は少ない。若者のメールに絵文字が使われるようになったのも、気持ちを伝える手段としては文字だけではシンプルすぎる欠点を補うためであろう。

 さて、ソシュールという言語学者は、「言語」を「シーニュ」(記号、サイン)とよび、それは「シニフィアン」(意味するもの:「海」という文字、「umi」という音声表現)と「シニフィエ」(意味されるもの:「海」という言葉の意味)とが不可分に結びついたものだと言っている。

 じつはこの「シニフィアン」は「音声」が重要な役割をはたしている。たとえば日本語でも「はし」はアクセントの位置によって意味内容がちがうように「音声」によって意味が区別されることが多い。(たしかに日常的にも文字の前に音声による会話が中心になる)

「Sign」の歌詞には直接、聴覚障害にふれる表現はない。障害があろうとなかろうと、相手の気持ちを推し量ったり、真意を読み取ろうとするのは日常的な行動である。それが愛する相手のことなら、まるで聴覚障害者になったように自分に向けられるすべてのサインを全力で読み取らねばならない。たとえば、片目を閉じてウィンクする、小さくほほえみかける行為は、「愛している」のサインであるとどうして判断できるのか。

 ソシュールは、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)との間の結びつきは恣意性でしかないという。(つまり偶然のことだというのだ。「愛している」という言葉、「ハートマーク3つ」を重ねても、そのシニフィアンが「愛している」というシニフィエを保証するものではないのだ。)

 もう一曲の「しるし」の歌詞に、「「半信半疑=傷つかない為の予防線」を 今、微妙なニュアンスで君は示そうとしている」というフレーズがある。これを信頼している相手に「裏切られて傷つくことを恐れる」からだという解釈はすこし思いこみすぎだろう。それ以前の段階で、「愛している」か「愛していない」かは言葉に出さなくても色に出てしまう。つまり「シニフィアン」だ。だからそれを(つまり「シニフィエ」を)さとられないように心にもない態度をとったりする。「愛している」気持ちは伝えたい。しかし、その気持ちを相手に受けとめてもらえないかもしれない。だから、この「微妙なニュアンス」で示そうとする態度こそがほんとうの「想い」なのだ。

これは何かの「サイン」とはちがう。「意味するもの」と「意味されるもの」との関係はゆらいでいる。この「意味」のゆらぎこそ、愛の「しるし」ということではないか。

泣いたり笑ったり 不安定な想いだけど
それが君と僕のしるし

「しるし」というのも、それ自体、記号的なものである。「しるし」の曲がTVドラマ「十四歳の母」の主題歌であることから、この「しるし」とは生まれてくる「こども」を暗示しているという解釈もできる。しかし、「しるし」は記号的なものを示しているといっても、「サイン」(記号)そのものとはちがう。「しるし」(=シンボル)という意味なら、本来記号的でない事物に記号的な意味を与えるものである。しかし、この歌の世界では「しるし」は具体的な事物ではなくて、「泣いたり笑ったり」というゆれ動く「想い」だけが、「愛」という事実を証明しているということなのだと思う。

第十二回 Mr.Children「Sign」から「しるし」について

2007-10-19 00:16:44 | Weblog
何度も取り上げているMr.Childrenですが、今年度は最初です。(たぶん最後かも)Mr.Childrenの曲はタイアップ曲が多く、CMやドラマの主題歌として使われていて、今回の表題の二曲ともTVドラマの主題歌になったものです。「Sign」は2004年、 TBS系ドラマ「オレンジデイズ」の主題歌。「しるし」は昨年、日本テレビ系ドラマ「14才の母」の主題歌として話題になったものです。この二曲ともタイトルも似ていますし、音楽的にも似通っている気がします。このところ櫻井和寿のテーマが「愛」ですから、歌詞の内容もそうです。


「Sign」

届いてくれるといいな
君の分かんないところで 僕も今奏でてるよ
育たないで萎れてた新芽みたいな音符(おもい)を
二つ重ねて鳴らすハーモニー

「ありがとう」と「ごめんね」を繰り返して僕ら
人恋しさを積み木みたいに乗せてゆく

ありふれた時間が愛しく思えたら
それは“愛の仕業”と 小さく笑った
君が見せる仕草 僕に向けられてるサイン
もう 何ひとつ見落とさない
そんなことを考えている

<中略>

似てるけどどこか違う だけど同じ匂い
身体でも心でもなく愛している

僅かだって明かりが心に灯るなら
大切にしなきゃ と僕らは誓った
めぐり逢った すべてのものから送られるサイン
もう 何ひとつ見逃さない
そうやって暮らしてゆこう

緑道の木漏れ日が君に当たって揺れる
時間の美しさと残酷さを知る

残された時間が僕らにはあるから
大切にしなきゃと 小さく笑った
君が見せる仕草 僕を強くさせるサイン
もう 何ひとつ見落とさない
そうやって暮らしてゆこう
そんなことを考えている。

(歌詞の全文はこちら。PV動画はこちら


「しるし」

最初からこうなることが決まっていたみたいに
違うテンポで刻む鼓動を互いが聞いてる
どんな言葉を選んでも どこか嘘っぽいんだ
左脳に書いた手紙 ぐちゃぐちゃに丸めて捨てる

心の声は君に届くのかな?
沈黙の歌に乗って...

ダーリンダーリン いろんな角度から君を見てきた
そのどれもが素晴しくて 僕は愛を思い知るんだ
「半信半疑=傷つかない為の予防線」を
今、微妙なニュアンスで君は示そうとしている

<中略>

ダーリンダーリン いろんな顔を持つ君を知ってるよ
何をして過ごしていたって 思いだして苦しくなるんだ
カレンダーに記入したいくつもの記念日より
小刻みに 鮮明に 僕の記憶を埋めつくす

泣いたり笑ったり 不安定な想いだけど
それが君と僕のしるし

ダーリンダーリン いろんな角度から君を見てきた
共に生きれない日が来たって どうせ愛してしまうと思うんだ
ダーリンダーリン Oh My darling
狂おしく 鮮明に 僕の記憶を埋めつくす
ダーリンダーリン


(歌詞の全文はこちら。PV動画はこちら

櫻井はドラマの台本を読んで歌詞を考えているようですが、ふたつの曲は曲だけでなく歌詞にも共通するものがあります。ドラマの内容は楽曲作りの要素にはなっても、歌のテーマはかわらないような気がしてきます。さて、前置きは少ないですが、設問を考えてください。

(設問1)タイトルの「Sign」と「しるし」に共通するものがあるとすればどういうところか。また、ちがいはどこにあるのか。

(設問2)「僕に向けられてるサイン」「何ひとつ見落とさない」、「すべてのものから送られるサイン」「何ひとつ見逃さない」というのは、どういう思いを表したものか。

(設問3)「「半信半疑=傷つかない為の予防線」を今、微妙なニュアンスで君は示そうとしている」とはどういう意味か。

馬場俊英「スタートライン」と人生の再チャレンジについての解説

2007-10-18 10:57:06 | Weblog
予想通りというか、予想外というか、馬場俊英についての評価が割れた。たしかにこの種の励ましソング的なものが一定の人々に受けいられるというのもわかる気がするし、一方で、自分とその周辺の人々の人生をストレートに歌うという路線がややもすると「イタイ」話にとられなくもない。まして高校生のようにまだ若い世代には挫折とか再チャレンジとかというのは実感がともなわないことだからちょっと抵抗を感じるというのもわかる。馬場と同じ世代やそれよりも上の世代であっても、こういう「チャンスは何度でも」というようなストレートでイージーな言い方には抵抗を感じてしまうかもしれない。

それでも馬場俊英はおそらく意図せずに無意識的にこういう歌の主題を選び取った。自らの身の上や哀歓をストレートに歌に乗せて表現することで、聴衆から返ってくる手応えのようなものを感じ取ることができたからだろう。

関西系のFMラジオで評判となった「人生という名の列車」は次のような歌詞ではじまる。

人生という名の列車が走る
時代という名のいくつもの街を行く
ヒロシは負け組で タカシは勝ち組
優子は負け犬で 直美は捨て犬さ
ああ 雨の日も嵐も曇りもあるけれど
ああ ふぞろいの僕らはとにかく旅をした
とある病院の分娩室に 始発のベルが鳴り響き
列車が動き出した あれは 昭和四十二年

自分の出生からはじまり、時代ごとの風俗やエピソードを織り込んだ回想録風の歌だ。過去の自分の人生を懐古的に物語っていく長い一曲である。こういう歌に自分を重ねて、つぼにはまる人はいると思う。しかし、これはJ-POPの路線とは明らかにちがう。どちらかというとJ-POP以前のフォークやフォークロックとよばれた音楽に近い。こういう音楽を聴いて育った世代にはどこか懐かしさを感じるはずである。

反対に、J-POPを聴いて育った世代には違和感をぬぐえないだろう。こんな身の上話的な人生模様をそぎ落として、どこにもない都会的で洗練された架空の日常を歌った音楽がJ-POPだからである。そういう意味で、ちょうどJ-POPという音楽ジャンルが確立する時期に馬場がメジャーデビューして、時代のトレンドをつかみそこねたといえるかもしれない。

皮肉なことにいまやその馬場が時代のトレンドとなろうとしている。たしかに馬場の音楽性が支持されたからかどうかは疑問だ。その音楽に特別なインパクトも目新しさもあるわけではない。しかし、それでも馬場の歌にひきつけられる人々がいるのである。馬場がブレークしたのはたんに「再チャレンジの星」として中高年に支持されただけではないであろう。格差社会といわれ、貧富の差がひろがり、リストラや生活苦が社会問題化している時代である。もはやJ-POPの音楽世界にあきたらなくなった人々が馬場の音楽と出会い、これを支持したといえなくもない。もしかしたら馬場のブレークは、J-POPという時代の音楽が転換期にさしかかっていることを暗示しているのかもしれない。

夏川りみ「涙そうそう」から中森明菜「瑠璃色の地球」についての解説

2007-10-11 10:45:33 | Weblog
最初のオリンパスのCMに使われているブルーハーツの「情熱の薔薇」は軽快なアップテンポで躍動感を感じさせる曲のイメージだ。歌詞の深い意味はともかく曲のテンポやリズムから使われているのだろうと推測される。しかし、軽快なテンポや明るいイメージの音楽は無数にあるわけだし、オリジナルソングでも制作できたはずである同じ浅田真央を起用したオリンパスのCMでもブルーハーツが使われているのだから、ブルーハーツの曲を流すことに意味があるのだと考えるべきだろう。つまり、このCMのねらいはブルーハーツを知っている世代をターゲットにしているということだ。
いまや30代~40代になったブルーハーツ世代が親として自分の子どもを「浅田真央」に重ねてデジカメで写真を撮りたい、そう思わせることがこのCMの真のねらいだと思う。若い頃聴いたブルーハーツの曲が流れる。それがCMへの認知度を高める。制作者の意図はそこにある。

「涙そうそう」はBEGINが作った曲に森山良子が亡き兄を想う歌詞をつけて歌ったものだそうだ。森山の持ち歌であったものを夏川がカバーして大ヒットした。

古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ
晴れ渡る日も 雨の日も
浮かぶあの笑顔想い出遠くあせても
おもかげ探して よみがえる日は
涙そうそう

ふつうのポップスとちがい、沖縄調のサウンドがミックスしてどこか懐かしくこころにしみる曲である。このだれもが知っている曲を日本郵政会社は民営化スタートキャンペーンのCMに使った。

郵政民営化の問題は政治的に世論を二分するような騒動を繰りひろげて成立した。民営化に伴うさまざまな問題は十分に国民に知らされたようには思えない。だから、民営化によっていままでの郵政事業がどのようになるのか不安も大きかったと言える。民営化によっていままでの郵便局のサービスが低下するのではないかとか、過疎地の郵便局が廃止になり、住民が不便を強いられるのではないかなど。さまざまな不安や疑問が民営化が近づくにつれて大きくなっていったのも事実であろう。

そうした国民の不安を解消することをねらいとしたのが、今回の「ひとりを愛せる日本へ」というキャッチコピーを採用したキャンペーンだったのだと思う。
つまり、このCMはこうした背景をもったメッセージ広告だということである。
小泉政権の構造改革によって日本の地方は疲弊し、過疎化や少子化が進行した。その構造改革の象徴的な政策が「郵政民営化」だった。民営化はさらに疲弊した地方を危機に追いやるのではないかという住民の不安に答えようというのがこのCMの制作者の意図であろう。

沖縄の竹富島や四万十川、十勝平野や能登半島といった日本の美しい自然を背景にそこで働くひとびとやこどもたち、おばあの笑い顔などがシーンとして描かれる。その中のふるい木造の郵便局というシチュエーションは、そのままどこか懐かしいかつてのよき時代の日本の風景だ。こういう象徴的な日本の風景に重ねて、どこか郷愁を誘う「涙そうそう」の歌が流れる。まるでひとびとの不安や憂いを洗い流すような癒しのメロディである。しかし、こうした美しい風景の陰には、耕作者のいない荒れ果てた田畑やシャッター街と化した地方都市の荒涼とした光景が広がっている。


晴れ渡る日も 雨の日も
浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても
さみしくて 恋しくて 君への想い
涙そうそう
会いたくて 会いたくて 君への想い
涙そうそう

このノスタルジックな歌詞とメロディーは、CM制作者の意図とは別に、もう喪われてしまった田舎の光景への鎮魂歌にも聞こえてくる。CMは日常の光の部分を切り取っているが、その陰の負の部分もいやおうなく映し出してしまうものだ。


次のauのCMは「携帯メール」が人と人のこころをつなぐというコンセプトで、ろうあ者の女性を主人公にしたドラマ仕立てのCMである。このストーリーと「瑠璃色の地球」の歌詞がうまくつながっている。

泣き顔が微笑みに変わる
瞬間の涙を
世界中の人達に
そっと分けてあげたい
争って傷つけ合ったり
人は弱いものさ
だけど愛する力も
きっとあるはず

(作詞:松本隆 作曲:平井夏美)

この曲は小中学校の合唱曲としてもよく取り上げられる。このこころにしみる名曲は実は松田聖子の持ち歌であったのだが、松田聖子のハイトーンですこし甘ったるい声ではこの物語のシーンとはギャップがある。中森のカバーを使ったのはそのせいだと思う。どこかうら悲しくてうっすらと明るみがさしてくる曲のイメージがこのCMのコンセプトにぴったりとはまっている。曲のイメージが強すぎてもCMのメッセージが伝わらなくなる。その微妙なバランスをうまくとったCMになっていると思う。

最後の日産のCMに使われたCCRの曲「雨を見たかい」であるが、この晴れた日に降る雨がベトナム戦争で米軍が投下する爆弾(ナパーム弾)のことであることはよく知られている。もちろんCMとは何の関係もないし、むしろ晴れの日の雨=天気雨のような誤解をよぶような使われ方さえされているものだ。原曲の訳はこんなものである。



「雨を見たかい」 (クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)

   
Someone told me long ago
ずっと昔に
誰かが話してくれた

There's a calm before the storm,
嵐のまえには静けさがあると

I know!
知ってる!

It's been comin' for sometime.
そういうことはまえにもあったさ

When it's over so they say
それがすんだときにな、と彼らは言う

It'll rain on a sunny day,
晴れた日に雨が降ってくるのさと

I know!
知ってるさ!

Shining down like water!
光ながら
水みたいになって落ちてくるんだ

I wanna know,
おれは知りたいんだ

Have you ever seen the rain?
あんたら、その雨を見たことがあるのかい?

I wanna know,
おれは知りたい

Have you ever seen the rain
Comin' down on a sunny day?
あんたたちは、
晴れた日に降ってくるその雨を
見たことがあるのかい?

Yesterday and days before
きのうも、そして、おとといも

Sun is cold and rain is hot,
太陽は冷たく、雨は熱く激しい

I know!
知ってるぜ!

Been that way for all my time.
おれの一生はずっとそんなだ

Till forever on it goes
それが永遠にずっとつづいてくんだ

Through the circle fast and slow,
環の中を早くなったり遅くなったりしてな

I know!
知ってるぜ!

It can't stop I wonder!
どういうわけか
そいつは止まりゃしないのさ!

I wanna know,
おれは知りたいんだ

Have you ever seen the rain?
あんたら、その雨を見たことがあるのかい?

I wanna know,
おれは知りたい

Have you ever seen the rain
Comin' down on a sunny day?
あんたたちは
晴れた日に降ってくるその雨を
見たことがあるのかい?