今回は、21歳のシンガーソングライター中村中(ナカムラアタル)について取り上げます。たまたまNHKの「Songs」という番組に出ていてはじめて知りました。外見も歌声も女性そのものですが、性同一性障害で戸籍上は男性。「性同一性障害」の問題についても考えてほしいのですが、なによりこういう障害をもってメジャーデビューし、そのまま自身の経験を歌にするという点が際だっています。中学3年で路上ライブを始め、高校も中退して音楽活動を続けてきたそうです。そのヒット曲「友達の詩」は15歳の時にはじめて作った楽曲。同じバンド仲間のひとりに片思いをし、その気持ちを伝えられないまま解散してしまった実体験に基づいた詩だそうです。
「友達の詩」
作詩:中村中 作曲:中村中
触れるまでもなく先の事が
見えてしまうなんて
そんなつまらない恋を
随分続けて来たね
胸の痛み 直さないで
別の傷で隠すけど
簡単にばれてしまう
どこからか流れてしまう
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいでいい
寄り掛からなけりゃ
側に居れたの?
気にしていなければ
離れたけれど今更…
無理だと気付く
<中略>
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来
忘れた頃に もう一度会えたら
仲良くしてね
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいでいい
友達くらいが丁度 いい
(歌詞の全文は、こちら。PV動画はこちら。)
たんなる片思いの失恋の歌ではない、複雑な想いがからまった詩になっているのは同一性障害が背景になっているからです。性同一性障害は現在では精神疾患のひとつとして正式な治療対象として認知されてはいますが、それでも一種の性倒錯であるとかゲイと同一に見なされてしまう風潮があります。(「ゲイ=同性愛者」がいけないということではありません。)
そもそも思春期には男性性・女性性をめぐる性同一性の葛藤が一般的に見られる現象です。女性なのに「ボク」とか「オレ」と言って男性言葉を使ってみたり、ボーイッシュな服装を好んだりする現象にも現れます。同じことが男性の場合は表面化しにくいのは、「女っぽい」というだけでイジメの対象になるからかもしれません。
ここでいう男性性・女性性(男らしさ・女らしさ)というのは生物学的な性(セクシュアリティ)ではなくて、社会的・文化的な性(ジェンダー)の受容の問題です。
それに対して、精神疾患としての性同一性障害には、社会的文化的要素だけでなく、生物学的な性別への違和感が大きな要因になっています。自己の性自認(心理的な性別意識)と身体的な性別とが一致せず、反対の性(もしくは中性?)に一体感をもつ場合を言います。
さて、こうした背景をおさえて設問に答えてください。
(設問1)「友達くらいが丁度 いい」という最後のフレーズにはどのような「想い」がこめられていると思うか。
(設問2)「同性同士の恋愛」「異性との友情」は(正常なものとして)成り立つと考えるか。また、この場合、「恋愛」と「友情」はどうちがうのか。
(設問3)「性同一性障害者」と「ゲイ(同性愛者)」あるいは「異性装者(女装趣味・男装趣味)」とどうちがうのか。
「友達の詩」
作詩:中村中 作曲:中村中
触れるまでもなく先の事が
見えてしまうなんて
そんなつまらない恋を
随分続けて来たね
胸の痛み 直さないで
別の傷で隠すけど
簡単にばれてしまう
どこからか流れてしまう
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいでいい
寄り掛からなけりゃ
側に居れたの?
気にしていなければ
離れたけれど今更…
無理だと気付く
<中略>
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来
忘れた頃に もう一度会えたら
仲良くしてね
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人が見えていれば上出来
手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいでいい
友達くらいが丁度 いい
(歌詞の全文は、こちら。PV動画はこちら。)
たんなる片思いの失恋の歌ではない、複雑な想いがからまった詩になっているのは同一性障害が背景になっているからです。性同一性障害は現在では精神疾患のひとつとして正式な治療対象として認知されてはいますが、それでも一種の性倒錯であるとかゲイと同一に見なされてしまう風潮があります。(「ゲイ=同性愛者」がいけないということではありません。)
そもそも思春期には男性性・女性性をめぐる性同一性の葛藤が一般的に見られる現象です。女性なのに「ボク」とか「オレ」と言って男性言葉を使ってみたり、ボーイッシュな服装を好んだりする現象にも現れます。同じことが男性の場合は表面化しにくいのは、「女っぽい」というだけでイジメの対象になるからかもしれません。
ここでいう男性性・女性性(男らしさ・女らしさ)というのは生物学的な性(セクシュアリティ)ではなくて、社会的・文化的な性(ジェンダー)の受容の問題です。
それに対して、精神疾患としての性同一性障害には、社会的文化的要素だけでなく、生物学的な性別への違和感が大きな要因になっています。自己の性自認(心理的な性別意識)と身体的な性別とが一致せず、反対の性(もしくは中性?)に一体感をもつ場合を言います。
さて、こうした背景をおさえて設問に答えてください。
(設問1)「友達くらいが丁度 いい」という最後のフレーズにはどのような「想い」がこめられていると思うか。
(設問2)「同性同士の恋愛」「異性との友情」は(正常なものとして)成り立つと考えるか。また、この場合、「恋愛」と「友情」はどうちがうのか。
(設問3)「性同一性障害者」と「ゲイ(同性愛者)」あるいは「異性装者(女装趣味・男装趣味)」とどうちがうのか。