goo blog サービス終了のお知らせ 

癒(IYASHI)

徒然なるままに令和時代のニュースなどの種を拾い癒し求めて綴ります      

〇【ヤッタ―14歳4段で28蓮勝の才能】・・・・負けなし将棋史上の最年少プロ棋士誕生⇔どんな頭してるんだ!

2017年06月21日 17時23分39秒 | ドキュメンタリー

  

将棋の史上最年少プロ棋士、藤井聡太四段(14)が21日、大阪・関西将棋会館で王将戦1次予選に臨み、澤田真吾六段(25)に勝利。自らの持つデビューからの公式戦連勝記録を28に伸ばし、30年前に神谷広志八段(56)が打ち立てた最多記録に並ぶ偉業を達成した。

 王将戦は8大タイトル戦の1つ。先手は藤井で、戦型は藤井が得意とする角換わりとなった。相手の澤田は今月2日の棋王戦予選(20連勝目)で苦しめられた若手の強豪だが、99手で持ち時間を23分残して勝利。毎回“勝負飯”にも注目が集まるが、この日の藤井の昼食は、「ごま味噌とじうどん」だった。

 日本将棋連盟の広報担当によると、会館に詰めかけた報道陣は25社80人。15日の名人戦順位戦C級2組、瀬川晶司五段(47)戦で、連勝記録を26とした際の約70人を上回り、1981年の会館完成以来、最多記録を更新した。

 歴代最多連勝は、1986―87年度に神谷五段(当時)が記録した28連勝。次戦は26日の竜王戦決勝トーナメントで増田康宏四段(19)で、史上最多29連勝をかけて対局する。(日刊スポーツ引用)

          勝負メシは「胡麻味噌とじうどん」  

これが中学生かと驚くばかりである。
30分前に盤の前に座り、指す準備を整えている対局姿勢、マイクを向けられると将棋用語を使い中学生と思われない難しい用語を使い、しっかりした口調で対応する姿はすっかり棋士道の形となって居る。

学生服を着て長時間正座している姿を見ると日本棋士の形は出来上がっている、将棋をする為に生まれて来たのだろうか・・・


28人の先輩を1局も落とさないと言う、神がかりの将棋史に金字塔を立てた羨ましい将棋の名人の大戦に、将棋に縁のない者まで期待を膨らまし対戦結果を待った事など最近無かったような様な気がする。


学校の受験を受けながらと言う急行軍の合間に挑戦するという厳しい対戦に1局ぐらいは指し間違いが有ると思うのだが一つも落とさないというから不思議ささ
え覚える。

対局は未だ未だ続く。これからのプロ棋士としどんな形で将棋界を引っ張っぱって行くのだろうか、どんな人生を送るのかと考えると楽しみさしか思いつかない。これからの日本の将棋界での活躍を期待するのみである


◯【釜山慰安婦像撤去】・・・・・ 韓国ようやく「マズイ」と気付いた?日本の対抗措置に動揺と反発…

2017年02月21日 12時04分02秒 | ドキュメンタリー

 

慰安婦問題をめぐる日韓合意の精神に反し、昨年12月末、韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦像が新たに設置された。

これに対し日本政府がとった措置に、韓国側が戸惑っている。「極めて異例の強硬措置」(韓国紙)と受け止めており、「まさか」と驚いている感じだ。日本の韓国への怒りが「本気」であることに気付き、韓国政府などには狼狽(ろうばい)の様子がうかがえる一方で、自国の国益も考えないような日本への反発は続いている。

やはり当たった1年前の悪い予感

 釜山の慰安婦像は、日韓両政府が慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」を確認した合意から1年となった昨年12月28日、地元の市民団体によって釜山の大通り沿いの歩道に設置された。だが、地元の釜山市東区が設置を許可せず、いったんは撤去された。

 区には抗議の電話やメールが殺到し、区側はこれに屈し、わずか2日後に設置を許可。30日午後、像は再び設置された。翌31日、大みそかの夜には、日本総領事館の前で像の除幕式が派手に行われた。「

釜山市民の勝利だ!」「日本の心からの謝罪と賠償を最後まで要求する!」など飛び交う怒声。歩道はすし詰め状態で、群衆が占拠した大通りは車線規制され、明らかに交通に支障が出ていた。(wev)


               韓国に緩い日本政府


◯【2016_荒れた?沖縄の成人式#1 [毎度警官ともみくちゃ。]・・・・・けじめをつけろ!

2017年01月10日 17時52分46秒 | ドキュメンタリー

2016_荒れた?沖縄の成人式#1 [毎度警官ともみくちゃ。]

大衆心理が働いて行なっている事であり、警察はチョットの事でも、見ているだけでなく逮捕するなり指導を徹底する事が、彼らの将来に大いに役立つ時が来るはずだ。

徹底的な警備をし中断しなければ来年も同じ行動が継続されるに違いない・・


自分の子供が成人式を迎えた年代を迎え、同じ行動をしている姿を見た時、「いかに子供じみた行動」をしていたものだと思うような行動が出来ないものだろうか。

一人では出来ない。大衆心理で子供のような馬鹿げた行動の、お祭り気分の自制が出来る年令である事を察しる事が出来ないものか・・・


★【G高橋監督1年目の変遷:シーズン・セ2位】・・・・・原監督引退後即監督⇔良い事にするか!

2016年10月14日 17時47分36秒 | ドキュメンタリー
    
昨年、原前監督の退任により3年契約で巨人の指揮を執ることが決まった高橋由伸監督の1年目のシーズンが終わった。3月25日のホームでのヤクルト戦で勝利。2リーグ制以降、50年水原茂監督、81年藤田元司監督に次いで、35年ぶり3人目の初陣白星となった。しかしシーズンは中心選手のケガや不振などで戦力が整わない中で戦い、優勝に届かずリーグ2位。クライマックスシリーズでは第1ステージでDeNAに敗れた。
 由伸監督の初年度は2位。最下位になった当時より悲観する必要はないが、来季はファンが感じた悔しさを晴らし、広島、DeNAとの差を埋めるための戦いを見せる必要がある。

 高橋監督の場合はいきなり選手から監督になった難しさもあったはず。それでは巨人の歴代監督は1年目でどのような成績を収めてきたのか。ここで見てみたい。
1年目に日本一を達成した川上哲治監督

○1950年水原茂監督・3位(82勝54敗4分) 優勝チーム・松竹(98勝35敗4分)

 巨人の第7代監督。セ・パ2リーグ制度が始まった年だった。当時の4番は川上哲治。8球団による戦いで82勝も挙げたが、リーグ3位。松竹ロビンス(後に大洋ホエールズに吸収合併され消滅球団に)がセ・リーグの初代優勝チームとなった。しかし、水原監督はチームを立て直し、1951年から1953年までリーグ3連覇・日本一に導いた。

○1961年川上哲治監督・日本一(71勝53敗6分)

 1957年に現役を引退した首位打者5度、ベストナイン10度の「打撃の神様」が就任した。前任の水原茂監督から交代。王貞治、長嶋茂雄らが中心となり、1年目から優勝し、6年ぶりの日本一を成し遂げる。65年から9年連続日本一(通称V9)を達成した名将である。スモールベースボールの礎ともいえる「ドジャース戦法」を取り入れたり、強いチーム作りをした。

○1975年長嶋茂雄監督・6位(47勝76敗7分) 優勝・広島(72勝47敗11分)

 就任1年目は球団史上初の最下位に転落した。39歳で引退し、即監督に就任したが、自身の抜けた「4番サード」の穴がなかなか埋められず、4月中に6位になり、早々と優勝争いから遠のいた。

○藤田元司監督、原辰徳監督も1年目で日本一に

○1981年藤田元司監督・日本一(73勝48敗9分)

 前年に長嶋監督が辞任し、王貞治も引退。V9時代にエースとして活躍した藤田元司氏が就任した。絶大な人気を誇った長嶋氏の後の監督だったため風当たりは強かったが、投手中心の手堅い野球で1年目から日本一になった。

○1984年王貞治監督・3位(67勝54敗9分) 優勝・広島(75勝45敗10分)

 藤田政権下では助監督を務めたが、序盤から苦しみ1年目はリーグ3位。西本が15勝、江川は15勝。中畑が31本塁打を放つなど気を吐いたが、なかなか波に乗れないシーズンだった。8月以降に10連勝したが広島には追いつけなかった。

○2002年原辰徳監督・日本一(86勝52敗2分)

 前年までの長嶋政権下ではヘッドコーチを務めた英才教育を受けた。上原浩治が17勝、桑田真澄12勝。クローザーに河原純一を起用し、28セーブ。日本でのプレー最終年になった松井秀喜外野手が50本塁打を記録し、日本一となった。日本シリーズも西武との戦いは4連勝と圧勝。2006年の2次政権は好調な滑り出しで5月まで首位を走っていたが、4位に終わった。

○2004年堀内恒夫監督・3位(71勝64敗3分) 優勝=中日(79勝56敗3分)

 原監督の後を受け、ヘッドコーチや投手コーチを歴任してきた200勝投手の堀内恒夫氏が就任。元近鉄の主砲・ローズ外野手やダイエー(現ソフトバンク)の小久保裕紀内野手、ヤクルトのペタジーニらを獲得。阿部慎之助捕手や高橋由伸外野手、清原和博内野手、江藤智内野手ら大砲揃いでシーズン新記録となる259本塁打を記録したが、投手陣で目立った活躍は上原くらい。

○1981年藤田元司監督・日本一(73勝48敗9分)

 前年に長嶋監督が辞任し、王貞治も引退。V9時代にエースとして活躍した藤田元司氏が就任した。絶大な人気を誇った長嶋氏の後の監督だったため風当たりは強かったが、投手中心の手堅い野球で1年目から日本一になった。1次政権は81年1位、82年2位、83年が1位だった。1989年から2次政権となったが、その1年目も日本一になっている。

○1984年王貞治監督・3位(67勝54敗9分) 優勝・広島(75勝45敗10分)

 藤田政権下では助監督を務めたが、序盤から苦しみ1年目はリーグ3位。西本が15勝、江川は15勝。中畑が31本塁打を放つなど気を吐いたが。88年まで指揮し、優勝は1987年の一度だけだったが、篠塚、原、クロマティ、中畑、吉村禎章ら強力打線を作った。その後、ホークスやWBC日本代表でも指揮を執り、チームを頂点に導いている名将。

○2002年原辰徳監督・日本一(86勝52敗2分)

 前年までの長嶋政権下ではヘッドコーチを務めた英才教育を受けた。上原浩治が17勝、桑田真澄12勝。クローザーに河原純一を起用し、28セーブ。日本でのプレー最終年になった松井秀喜外野手が50本塁打を記録し、日本一となった。日本シリーズも西武との戦いは4連勝と圧勝。2006年の2次政権は好調な滑り出しで5月まで首位を走っていたが、4位に終わった。

○2004年堀内恒夫監督・3位(71勝64敗3分) 優勝=中日(79勝56敗3分)

 原監督の後を受け、ヘッドコーチや投手コーチを歴任してきた200勝投手の堀内恒夫氏が就任。元近鉄の主砲・ローズ外野手やダイエー(現ソフトバンク)の小久保裕紀内野手、ヤクルトのペタジーニらを獲得。阿部慎之助捕手や高橋由伸外野手、清原和博内野手、江藤智内野手ら大砲揃いでシーズン新記録となる259本塁打を記録したが、投手陣で目立った活躍は上原くらい。

フルカウント編集部●文 text by Full-Count抜粋

最下位になった当時より悲観しないが、来季はファンが感じた悔しさを晴らし監督らしさを期待するのみである・・・


★【目指せエベレスト:19歳女子大生の挑戦】・・・・当初から最年少登頂記録を知って居ての行動?

2016年07月21日 19時45分32秒 | ドキュメンタリー

目指せエベレスト…19歳女子大生の挑戦
                                                                            yutyuveクリック
東京都港区に住む早大生の南谷真鈴まりんさん(19)がエベレスト(8848メートル)に登頂したと家族に連絡が入っていたことが24日、わかった。

 ヒマラヤ地域に関する研究や情報収集などをしている「日本ヒマラヤ協会」(福島市)によると、これまでのエベレスト登頂の国内最年少記録は20歳で、19歳の南谷さんが記録を更新したことになる。

 真鈴さんの父・清隆さん(48)によると、23日に携帯電話のショートメッセージで「朝5時、世界の頂上、エベレスト山頂に到達」という内容の英文が届いたという。真鈴さんは高校3年生だった2014年12月、読売新聞の取材に対し、「2年後の春、19歳で世界最高峰の頂に立ちたい」と話していた。

 真鈴さんのものとみられるフェイスブックによると、「5月23日ネパール時間午前5時に世界の頂上 エベレスト山頂に立つことが出来ました」「なんだか自分でも信じられません」「天候に恵まれ本当にラッキーでした」と書き込まれている。( 読売新聞)

最年少でエベレストに19歳内に登頂したいと言って居た事が本当に登ったという一報にさぞ父親も驚いた事だろう。最年少の記録が19歳と知って大学生活中に厳しい訓練を重ねた結果だろう事が想像される。天候に恵まれたとは言え登頂に見事成功した少女にエールを送りたい・・・ただ、資金はどうしたかが気になる