芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

荷風と個人主義

2016年08月25日 | エッセイ
                                                                                             

 自民党の人たちは、憲法から「個人」を消して単に「人」としたいらしい。個性を持った個人ではない。犬猫牛馬のような種としての「人」である。日本国憲法に個人主義が入ったせいで、日本から社会的連帯が失われたので、新憲法では個人主義を排するのだそうである。
 個人主義は、彼らが言うような戦後にアメリカから持ち込まれた観念ではない。彼らが戻したい明治維新後に、西欧から持ち込まれた社会の基盤を成す近代思想の一つであろう。彼らは明治維新すら否定し、奈良時代の律令社会に戻らねばなるまい。
 また、個人主義という言葉はなかったものの、江戸時代の奇人変人、粋人の多くは、相当に個人主義的な人ばかりであった。つまり、わがまま勝手な人たち、他人の目をとんと気にもとめず、自分のやりたい放題という人たちである。松尾芭蕉も平賀源内も、山東京伝も、菅江真澄も、そうであったと思われる。
 勝海舟も個人主義的な人間であった。海舟は言った。「なあに、国だ国だと言う、その憂国の士ってえ連中が国を滅ぼすのさ」
 彼の元にやってきた坂本龍馬もかなり個人主義的だったように思える。龍馬に尊皇意識は薄かったであろう。攘夷思想もなかった。鎖国と攘夷は一体だ。尊皇攘夷を唱える連中を、幕藩体制や鎖国を破壊する道具と考えていたに違いない。彼は勤王派とも幕府方ともうまく付き合った稀代の策謀家である。龍馬の狙いは、尊王攘夷で倒幕を果たし、新政府を樹立して一気に開国させる。龍馬は海外と自由な交易をする商社を作りたかったのだ。
 福沢諭吉も徹底した個人主義に思える、片田舎の中津藩、その貧しい下級武士から出て、己の立身のための学問、蘭学を身に付けるため大坂に出た経緯と自己主張、さらに江戸に出て英語を身につけようとする猛烈な自己主張。維新後も官に身を置く気持ちはさらさらなかった。官などに縛りつけられてたまるか、ということだろう。
 安政六年生まれの坪内逍遥も、慶応三年生まれの夏目漱石も、個人主義者であった。

 明治十二年東京小石川に生まれた永井荷風(本名・壮吉)も、若くして徹底した個人主義者であった。荷風の自由で吝で好色で、個人主義的我儘は、戦前からかなり評判が悪く、批判を受け続けてきた。
 荷風の父・永井久一郎は、プリンストン大学、ボストン大学に留学経験もあるエリートで、高級官吏を経て、日本郵船に天下りして役員を務めた。山の手の裕福で気品のある家庭である。母親は邦楽や歌舞伎好きで、壮吉少年を連れて出入りしたため、これが青年となった荷風に強い影響を与えた。
 荷風は長男として父親の期待を集めたが、この父親を困らせることに熱意を持っていた。故意に一高を落第し吉原通いをした上、広津柳浪を訪い、その門弟となって小説家を目指しながら、すぐ飽きて清元を習い始め、その次に日本舞踊の稽古に通う。舞踊に飽きると尺八を習い始めた。さらに噺家の朝寝坊むらくに弟子入りし、朝寝坊夢之助の名をもらって高座にも上がった。
 次は福地桜痴に弟子入りし、歌舞伎座の座付作者見習いとなった。この頃からエミール・ゾラに傾倒し、勉強嫌いの荷風としては珍しく熱心に、フランス語を学んでいる。二十一歳のときである。
 翌年の明治三十四年、「やまと新聞」の記者となり、雑報を拾って歩いた。この自由気儘な道楽息子を、父の久一郎は何とかしたかった。正業・実業に就けと勧めたのである、それもアメリカで。荷風は喜んでその提案に乗った。
 日本郵船の船で渡米し、タコマやカラマズーで英語やフランス語を学び、ニューヨークとワシントンDCの日本大使館で下級官吏となり、さらに正金銀行に勤めたが、どうしてもフランスに渡りたい。彼は父のコネを借りようとした。そのとき彼は、街娼イデスと熱烈な恋に落ちていたのである。
 そんな荷風は、父の力でリヨンの正金銀行に移ることが可能となると、さっさと身を焦がすような恋を捨てた。こうして荷風は、当時のヨーロッパの金融の中心地、リヨンに渡った。
 しかしリヨンでの銀行勤めを八ヶ月で辞め、パリに移り住み、繁くオペラや演奏会に通った。彼のこの経験が、日本に西洋音楽の傾向や現状、注目の音楽と音楽家紹介をもたらすのである。シュトラウスやドビッシーを日本に紹介したのである。

 足掛け六年の外遊から帰国した荷風は、森鴎外から推挙され、慶應義塾大学文学科の教授となった。真面目な講義ぶりだったという。そして荷風は「三田文学」を創刊した。
 ところが明治四十二年に事件が起こった。荷風の「ふらんす物語」「歓楽」が発禁処分を受けたのである。荷風は初めて国家権力という強大な敵を身近に知った。
 明治四十三年、大逆事件が起こった。幸徳秋水とその妻・管野スガら十二名が死刑を宣せられた。
 荷風は文学者として何もできず、傍観するばかりであった。荷風は愕然とした。荷風にとって文学者とは、「なにものよりも強い自由な人格」のはずであった。日本の文学者、知識人もただ拱手傍観するばかりで、意気地がなく全く行動を起こさなかった。
 荷風は慶應大学出勤の朝、刑場に向かう秋水らを乗せた馬車と出会い、それを立ちすくんだまま見送ったのである。彼は自分も、日本の文学者、知識人も情けなく思った。
 大逆事件はフランスの「ドレフュス事件」そっくりである。荷風は彼我の文学者、知識人の差を思い知った。
 1893年、フランスで「ドレフュス事件」が起こった。フランス陸軍参謀本部付きのユダヤ人の大尉アルフレッド・ドレフュスが、スパイ容疑で逮捕された冤罪事件である。
 このときエミール・ゾラは新聞に「私は弾劾する」という大見出しの大統領宛の公開質問状を掲載した。これを機に世論も動き、多くの文学者や知識人もドレフュスを助けようと立ち上がった。ゾラは名誉毀損罪で告発され有罪判決を受けた。一時イギリスに亡命を余儀なくされたが、その運動は「人権擁護連盟」を結成して、自由と平等、正義と真理、軍国主義批判を展開したのである。
 ドレフュスは有罪となったが、その後特赦された。彼はその後も冤罪を主張し続け、やがて無罪判決を勝ち取り、その名誉を回復した。ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派がフランス政治の主導権を握り、第三共和政はようやく安定した。

 大逆事件を境に、荷風が師と仰ぐ森鴎外は、歴史物ばかりを書くようになった。他の文学者たちも政治向きのテーマを扱わなくなった。東京と大阪に特高警察が生まれた。
 荷風は「自分は文学者の資格を失った」と思った、意気地なしの弱虫であると考えた。「以来、わたくしは自分の芸術の品位を江戸作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。」
 こうして荷風は春本や春画の戯作者のように、堕落しようと決意した。彼は大学からの帰りに、花柳の巷で遊ぶようになった。そこで新橋芸者の富松(本名・吉野こう)と出会った。荷風は左腕に「こうの命」と入れ墨し、富松もまた「壮吉の命」と入れ墨した。しかし一年も続かなかった。富松が大金持ちに落籍されたのである。
 その後の荷風は好きになった女は、いち早く身請けし妾とした。次から次へとである。正妻はおらず、妾だらけとなった。一時妾の一人を市川左団次の媒酌で妻としたが、すぐ離婚した。彼は女たちを愛さなかったが、女たちもすぐ荷風を裏切った。
 荷風にとって女たちは、所有しているだけで嬉しかったのである。瀧井孝作が荷風を評した。「永井荷風氏は、女好きで、それは好色家、漁色家の風とはちがい、釣好き、釣道楽に似た風で、女の耽蕩とした気分が好きで、女の性質が可愛くて憐れでたまらないようです。」
 荷風はつとに日本の文学者を見限っていたが、やがて女たちも見限るようになった。荷風は二、三を除けば、その身辺に誰も近づけなくなり、いよいよ偏奇となり偏奇館主人と自称した。

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