芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし 花に舞う

2016年08月26日 | 競馬エッセイ
           この一文は2009年3月24日に書かれたものです。


   春三月 縊り残され 花に舞う
 三月二十日、駅に向かう途次、道沿いの小学校の桜の木を見上げ、つぼみのふくらみぐあいを見た。ふとこの句を思い出し、それを呟いた。妖しくも美しい句である。
 1911年の一月、大逆事件の幸徳秋水や管野すが等が絞首刑となった。その春、大杉栄はおそらくその生涯で唯一の俳句を詠んだ。大逆事件のおり赤旗事件で獄中にあった大杉は、奇しくもそれがアリバイとなって、近代天皇制の国家暴力から免れ得たのだった。近年、地球温暖化の影響で桜の開花は早まっているが、この年の開花も早かったのであろう。三月に舞う花びらの下にたたずみ、大杉は死んだ秋水や管野すが等を思ったに違いない。

 今回の話は、大杉栄や大逆事件、日本近現代史の癌である近代天皇制などという大それたものではない。たんなる競馬の話なのである。
 その日、新聞社会面の片隅に安田伊佐夫の小さな訃報記事を見つけ、また「春三月 縊り残され 花に舞う」という句が脳裏をよぎった。
 安田伊佐夫については2007年の暮れに書いたことがある。それは「元JRA騎手に有罪判決」という報に接してのエッセイである。元JRA騎手とは穴のヤスヤスと呼ばれた安田康彦のことであり、彼の父が安田伊佐夫だった。

 安田伊佐夫はシンザンで著名な、かの武田文吾調教師の弟子としてデビューしている。その後、島崎厩舎の騎乗依頼を受けることが多くなり、主戦騎手となった。やがて一頭の馬に出会った。タニノムーティエである。この馬はフランスの至宝シカンブルの血を引く。シカンブルは1948年生まれ、競走成績は9戦8賞。フランスの大レースを総ナメにした。典型的な底力血統である。
 その子ムーティエも大レースの勝ち馬だったが、気性と健康に難があって、「血統の墓場」日本に来た。気性と健康の難とは、つまり気違い馬だったのである。ムーティエには「身喰い」という悪癖があった。身喰いは自傷行為である。彼は自分の胸の肉を噛み切るような馬だったのだ。

 タニノムーティエも気性の激しい馬であった。しかしデビューから連戦連勝、圧倒的な強さを見せた。そして東上し、これまた連戦連勝の東のアローエクスプレスと激突した。彼らはトライアルレースを含めダービーまで、まさに一騎打ちの死闘を続けた。皐月賞、ダービーのアローの鞍上は関東のリーディングジョッキー、闘将・加賀武見だった。
 当時ラジオ関東の競馬実況に、ガナリのとっつぁんと親しまれた窪田康夫アナがいた。彼の名実況は忘れるものではない。「アローとムーティエがまたやった!アロー!ムーティエ!アロー!ムーティエ!やっぱりムーティエだっ!!ムーティエが強い!!」
 皐月賞、ダービーを制したのはタニノムーティエだった。狂気の名馬タニノムーティエを得て、安田伊佐夫は颯爽と二冠ジョッキーとなった。
 三冠も期待されたタニノムーティエだったが、その後は喘鳴(のど鳴り)のため全く精彩を欠いた。走る彼の喉からは、ヒューヒューという悲しい笛の音がファンの耳にも聞こえた。彼は引退し種牡馬になった。しかし、アローエクスプレスが種牡馬として大成功したのに引き比べ、彼は全く精彩を欠いた。彼らの戦いは、現役時代とは全く逆転したのである。

 年月は飛ぶように流れる。安田伊佐夫は引退し調教師となった。そしてハイセイコーの子のライフタテヤマの調教師として健在ぶりを示した。やがて息子の康彦も騎手としてデビューした。康彦はなかなかいい騎乗センスを見せた。また度胸もよく、大レースで大穴を出し、それなりの活躍をしていた。インタビューを受けて見せる笑顔は愛嬌もユーモアもあった。父が管理していたメイショウドトウで宝塚記念も制した。秋華賞も制し、よく重賞レースで人気薄の馬に騎乗しては大穴を開けた。ファンは「穴のヤスヤス」と呼んだ。
 しかし彼については、その素行の悪さが噂にのぼるようになった。二日酔いで調教を休んだり、酔ったままで調教に乗って調教師等から叱られた。またレース当日になって理由なく騎乗をキャンセルした。失踪騒ぎも起こした。こうして厩舎とのトラブルが絶えなかった。
 2000年の夏、康彦は札幌市内を酒気帯びの危険運転とスピード違反で現行犯逮捕された。2ヶ月間の騎乗停止処分を受け、騎乗が決定していた大レースを棒に振った。その後、彼は次々と有力なお手馬を降ろされ、騎乗数が激減していった。康彦の素行はますます荒れた。酒に溺れ、荒んだ生活を送った。馬主も他厩舎の調教師も、そしてついに父も彼を見放した。伊佐夫は自厩舎の馬に武幸四郎を乗せるようになり、康彦を騎乗させなくなった。

 これは私の想像に過ぎぬが、ある晩、父は子を激しく詰り、伊佐夫はついに息子に手を挙げたのではないか。康彦も酒に酔って暴れ、ことによると父伊佐夫に暴力をふるったのではないか。その晩康彦はふらつく足で家を飛び出したのではなかったか。
 おそらく翌日、伊佐夫は康彦の引退届を提出したのだ。突然の康彦の引退はファンを驚かせた。何があったのだろう。そう言えば康彦は最近さっぱり騎乗してないな…。
 その後、康彦の失踪が伝えられた。行方知れずだという。2007年初秋、康彦は京都市内のコンビニ店で店員に難癖をつけ、「殺すぞ」と恐喝の上、五千円未満の商品を奪ったことで逮捕された。このとき記者たちに取り囲まれた伊佐夫は「すでに勘当し、親子の縁を切っております」と言った。暮れに京都地裁は康彦に懲役二年、執行猶予三年の刑を言い渡した。

 短い記事によれば、伊佐夫は京都の大学病院で息を引き取ったとのことである。享年64歳、病死だという。まだまだ若いと思う。彼が息子の康彦のことを思わなかった日はあるまい。その悲しみが彼の命を縮めたか。康彦とは和解したのだろうか。康彦は父の死に目に会えたのだろうか。
 親族だけの密葬らしい。その席に康彦はいるのだろうか。「お別れの会」が京都のホテルで開かれるとのことだが、ぜひその会場に、がなりのとっつぁんの実況録音のテープを流して欲しい。
「アローとムーティエがまたやった! アロー!ムーティエ! アロー!ムーティエ! やっぱりムーティエだっ!! ムーティエが強いっ!!」…
 
 なぜか「春三月 縊り残され 花に舞う」という句が、私の脳裏から去らない。

                                                               

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