芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし カツラノハイセイコ

2015年10月14日 | 競馬エッセイ

 時の経つのは実に早いものだ。カツラノハイセイコは今から30年前のダービー馬である。ハイセイコーの初年度産駒であった。
 あちこちの牧場でハイセイコーの子が誕生した時、関係者は一様に落胆したという。皮膚が厚く、首が太く、ただ大柄な気品に欠けた子だったり、雄大な馬格を誇った父に似ず、小柄で貧弱な子が多かったからである。これはおそらく、小柄な母馬の欠点をカバーしようとハイセイコーをかけたところ、母親似が出ただけなのだ。いずれにしても、サラブレッドの優雅さや走る馬に共通し て見られる特長は持ち合わせていなかった。生産界のハイセイコー評価は一挙に下落した。そもそもハイセイコーは皮膚が厚く、首が太く、管囲(脚部の最も細い部位)が太く(だから脚部不安と無縁だった)、いささか優雅さや気品に欠けていたのだが。
 カツラノハイセイコは鮫川牧場で生まれた。母コウイチスタアは、さしたる種牡馬実績もない長距離馬ジャヴリンの娘で、不受胎が続き、今度不受胎の場合は食肉にされるところだった。馬名は馬主の社名である桂土地から付けられた。父ハイセイコーに似た点は、黒鹿毛ときつそうな性格だけであった。馬体はハイセイコーに似ず小さく貧弱で、首差しも細かった。彼はほとんど期待されず、栗東の庄野穂積厩舎に入った。
 この馬の購入を決め、馬主に勧めた庄野師だったが、入厩したハイセイコを見て落胆した。牧場で見た時から、あまり成長しておらず、馬体が大きく変化した様子が見られなかったからである。
 師は一勝でもできれば上出来だろうと思った。だからあまり熱心に調教しなかったのだろう。彼はデビュー時の馬体重が現役時代で最も重く、480キロ近くあった。明らかに太かったのだ。デビューから3戦は作田誠二騎手が乗り、いずれも人気より上の着順で入ったが、連敗した。レースが調教代わりとなって、馬体は450キロ台までが絞れたが、本当はあと10キロ軽い馬なのである。
 4戦目の未勝利戦で福永洋一が乗り、あっさりと勝った。その後2戦は福永、作田と乗って惜敗した。年が明けた呉竹賞で再び福永が乗り2勝目を上げた。検量所に引き揚げて来た福永は「今年、この馬が一番強いんちゃうか」と担当厩務員に囁いた。未勝利戦と、いま特別戦を勝ったばかりのわずか2勝馬への天才騎手の評価であった。福永はクラシック戦線で、服部厩舎の良血馬ニホンピロポリシーに騎乗することが決まっていたため、次走から武田文吾厩舎の大先輩・松本善登が騎乗することになった。
 禍福はどこにあるか分からない。福永はその後のレース事故で植物人間となってしまったのだ。松本は不遇な人である。武田厩舎には天才と呼ばれた栗田勝が主戦騎手として君臨していた。松本は常にその控え騎手であった。栗田はシンザンの出走をめぐって武田師と衝突し、深酒を続けた挙げ句、シンザン最後のレース有馬記念を棒に振った。その代打として騎乗したのが松本だった。
 この有馬記念の直線は日本競馬史上最も劇的なものであった。松本とシンザンは加賀騎手のミハルカスを振り切って勝ち、五冠馬となった。松本は下手な騎手ではない。調教での騎乗技術は高く評価されていたが、レースでの騎乗は 栗田に回るのである。しかし松本は腐らず「仏の善さん」と皆から慕われていた。栗田に衰えが見えはじめた頃、武田厩舎に福永洋一が入り、彼はたちまち天才騎手として頭角を現した(※)。松本はまた福永の控え騎手に甘んじた。そしていつしか松本は現役最年長騎手になっていたのである。
 (※)武田師は天才と呼ばれた栗田と福永の比較を尋ねられ、「栗田の方が何割も上だよ」と言った。
 カツラノハイセイコは松本を背に激しいレースをした。細い首を鶴ッ首にして目を血走らせ、チャカチャカとイレ込み、股は汗で真っ白な塩をふいた。胴は牝馬のように細く巻き上がり、あばら骨が浮き出し一見ガレているかのようである。蹴り癖があるため尾に要注意の標として赤いリボンが付けられていた。馬体重は430~440キ ロ台である。実はこれが彼のベスト体重であった。レースでは横に来た馬には絶対抜かせず、僅かな間隙を割って前の馬に襲いかかる。まるで馬群を切り裂くような進出の仕方である。
 皐月賞はビンゴガルーとゴールまで激しく競り合い、頭差及ばぬ2着だった。 ダービーは1番人気になったが、これはたぶんに父ハイセイコーファンの心情馬券を集めたものである。レースは激しいもので、直線、抜け出しながら斜行したテルテンリュウの500キロの馬体に弾き飛ばされ、その不利を受けたリキアイオーが沈む中踏ん張って先頭に抜け出し、テルテンリュウのあおりを受けたリンドプルバンの猛追を鼻差かわして優勝した。
 松本は45歳11ヶ月の、日本ダービー史上最年長優勝騎手になったのである。騎手となって25年、控え騎手松本善登のクラシック初制覇だった。しかしこの頃から、松本の身体に異変が起こっていた。
 秋、ハイセイコは熱発で体調を崩し、京都新聞杯を大敗した。さらに脚部不安と肺炎で、一年近くの長期休養を余儀なくされた。松本の体調も思わしくない。古馬となって復帰してきたハイセイコの鞍上は河内洋になった。肺に癌が見つかった松本が闘病生活に入ったからである。河内は福永洋一去った後に台頭した関西の「乗れる騎手」である。話を割愛する。
 ハイセイコは実が入って馬体重も460キロ前後になっており、目黒記念を鮮やかに強い勝ち方をして見せた。ところが肝心の天皇賞では不良馬場の中、牝馬のプリティキャストに大逃げをうたれ、ホウヨウボーイと牽制し合う間にまんまと逃げ切られて、泥だらけの6着という惨敗に終わった。次の有馬記念はホウヨウボーイに鼻差(僅か1センチ)の2着に泣いた。
 翌年、マイラーズCを最後方から馬群を切り裂いて優勝。今は亡き名騎手・名調教師の野平祐二をして「いま日本で一番素軽い馬」と感歎させたのである。続く不良馬場の大阪杯はゲート内で暴れ鼻出血し六着に惨敗。ハイセイコーの子に似ず、重馬場は嫌いだったのだろう。目標の春の天皇賞は、当日の朝に馬房で大暴れした挙げ句、壁板で尻を擦りむき、カンカン(馬体重を計る秤)の上でも大暴れしたという。彼は尻に赤チンを塗って登場した。2番人気に押されたが、関係者は一様に諦めていたという。レース前にそんな大暴れした馬が勝てるわけがなかった。しかし馬群を割って先頭に立つと、カツアー ルを押さえ込んで優勝した。強い勝ち方だった。続く宝塚記念は後方から馬群を切り裂いて飛んできたが、カツアールに届かなかった。この後再び体調を崩し、秋も深まった11月、引退していったのである。ともあれカツラノハイセイコは、父が超えられなかった距離2400メートル以上の大レースを二つ制覇したのだ。そしてハイセ イコが引退してから一月後、松本善登も48歳の生涯を閉じた。
 2000年になって、河内洋は宿願のダービーをアグネスフライトで制覇した。そして2003年2月に30年の騎手生活にピリオドを打った。通算勝利度数2111勝。まさに名人芸の職人だった。彼の記者会見が行われた。記者たちは「一番思い出に残る馬は何ですか?」と質問した。記者たちは河内の答えを予想していた。初勝利の馬か、メジロラモーヌか、ダービー優勝馬の名を挙げるだろう。しかし河内は「カツラノハイセイコです」と即答した。記者たちは意表をつかれた。「どうしてですか?」と質問が飛んだ。河内は独り言のように言った。
「あの馬は恐かったよ。ほんまに恐ろしい馬やった。あの馬はいつも怒ってたよ」
 記者の質問が続いた。「一番印象に残っているレースは何ですか?」…記者たちは当然アグネスフライトのダービーという答えを予想していた。河内は答えた。
「カツラノハイセイコで負けた有馬記念だね。あれは悔しかった。あれは僕の騎乗ミスやったんや。僕のせいで、ハイセイコをグランプリホースにさせてやれへんかったんや…あれが今でも一番悔しい…」
 河内がカツラノハイセイコを「恐ろしい」と言った理由は、レース映像を見ると分かる。横に馬がいればカーっとなって競り合いに応じ、決して引くことはない。それは勝負根性と言われる。ハイセイコは直線に向いた馬群の中で、わずか4、50センチの間隙でも見つけると、騎手の意志や指示など無視して、その間に自ら割って突き進むような馬だったという。騎手にとって、これほど恐ろしいことはない。そしてハイセイコは、ゲート内で暴れ鼻をしたたかに打ちつけ、馬房で暴れて羽目板を蹴り破り、カンカンの上で暴れて尻餅をつき、とにかくいつも怒っていた恐ろしい馬だったのだ。

        (この一文は2009年4月20日に書かれたものです。)
            「光陰、馬のごとし1」に所収

                                                           

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