今日は、妻の日記を掲載させて頂きます。
その時、妻は何を思っていたのか?が書かれています。
1998年 平成10年8月
二年前に、脳梗塞になり、正直、あの時は驚きました。
でも、あの時は、脳梗塞と言う病気が、こんな事になるとは、思いもよらなかったのです。月一回の外来、薬を飲んでいるから、大丈夫!と安心していました。が、
まさか、こんなに早く起きるなんて!あの日は忘れもしない八月二十九日です。
その日の朝は、地震があったので、いつもより、早く起こしにいかなくては、と思い、八時位に起こしに行きました。
主人は、いつも寝起きが悪いので、いつもどおり「ほら、何やってんの!起きなさい!」と布団を剥ぐと、「うう~。」と唸っているので、“また何、冗談言ってるの”と様子を見ると、何と!ベットの布団はおしっこで、びしょびしょになっていました。右半身麻痺、身体は動かず、言葉も出せない状態だったのです。
ビックリした私は、母に電話をし、救急車を呼び、通院している、東京女子医大に搬送して貰いました。 搬送している途中、主人の手をしっかりと握りしめ、「大丈夫だから・・・。」と何度も何度も声をかけました。
言葉を交わした時、一瞬でしたが、言葉がはっきり聞こえ、「た・す・け・て」と聞こえたのでした。病院に着くと、ICUに入り、酸素と点滴での治療が始まりました。 私は主人がこんな状態になっているのに、
(絶対私が元の身体に戻してあげるから!)としか考えられませんでした。
それから、ICUに三日、その後は個室に一週間。個室は母と毎日交替で泊まりで看病しました。主人はあんな身体になってしまって、遣り切れないと思いました。身体も動かない、声もでない・・・
もう主人は、絶望的になり、死にたい。と何度も言っておりました。でも、死にたくても、身体が全く動きません。病気は本人にしか、解らない苦しみです。代われるものなら、代わってあげたい。でも、それは無理何です。
私は、(主人に前向きに生きて貰いたい)一身で、母と看病をしました。それから一週間後に六人部屋に移り、リハビリがスタートしました。
それからは、毎日、言語療法(ST)理学療法(PT)作業療法(OT)の訓練です。まだ、若い。と言う事もあったのと、本人の努力でみるみるうちに回復をし、3週間で、近くのリハビリ専門病院(都立大塚病院)に転院する事が出来ました。
本人が、この3週間の間、本当に頑張って頑張り抜いた成果だと、思いました。
あの姿を見ていて、私も負けてはいられない!と逆に励まされました。
「宏ちゃん、二人で頑張って、絶対、この病気を治そうね!」
「私はどんな事があっても、絶対逃げないからね!」と病院の屋上で主人に誓いそして、9月中旬、大塚病院へ転院したのでした。
2回目の脳梗塞!右半身麻痺になり、絶望的になっていた私を救ってくれたのは、家族でした。あの時の事は、一生忘れられません。
今の私に出来る事。それは、自分に出来る事から始め、焦らず、自分のぺースで、何にでもチャレンジして見よう!と思い、明日、何が起きるか解らない!んだから、1日1日を悔いの無い様、送りたい!と思って実行しています。
その時、妻は何を思っていたのか?が書かれています。
1998年 平成10年8月
二年前に、脳梗塞になり、正直、あの時は驚きました。
でも、あの時は、脳梗塞と言う病気が、こんな事になるとは、思いもよらなかったのです。月一回の外来、薬を飲んでいるから、大丈夫!と安心していました。が、
まさか、こんなに早く起きるなんて!あの日は忘れもしない八月二十九日です。
その日の朝は、地震があったので、いつもより、早く起こしにいかなくては、と思い、八時位に起こしに行きました。
主人は、いつも寝起きが悪いので、いつもどおり「ほら、何やってんの!起きなさい!」と布団を剥ぐと、「うう~。」と唸っているので、“また何、冗談言ってるの”と様子を見ると、何と!ベットの布団はおしっこで、びしょびしょになっていました。右半身麻痺、身体は動かず、言葉も出せない状態だったのです。
ビックリした私は、母に電話をし、救急車を呼び、通院している、東京女子医大に搬送して貰いました。 搬送している途中、主人の手をしっかりと握りしめ、「大丈夫だから・・・。」と何度も何度も声をかけました。
言葉を交わした時、一瞬でしたが、言葉がはっきり聞こえ、「た・す・け・て」と聞こえたのでした。病院に着くと、ICUに入り、酸素と点滴での治療が始まりました。 私は主人がこんな状態になっているのに、
(絶対私が元の身体に戻してあげるから!)としか考えられませんでした。
それから、ICUに三日、その後は個室に一週間。個室は母と毎日交替で泊まりで看病しました。主人はあんな身体になってしまって、遣り切れないと思いました。身体も動かない、声もでない・・・
もう主人は、絶望的になり、死にたい。と何度も言っておりました。でも、死にたくても、身体が全く動きません。病気は本人にしか、解らない苦しみです。代われるものなら、代わってあげたい。でも、それは無理何です。
私は、(主人に前向きに生きて貰いたい)一身で、母と看病をしました。それから一週間後に六人部屋に移り、リハビリがスタートしました。
それからは、毎日、言語療法(ST)理学療法(PT)作業療法(OT)の訓練です。まだ、若い。と言う事もあったのと、本人の努力でみるみるうちに回復をし、3週間で、近くのリハビリ専門病院(都立大塚病院)に転院する事が出来ました。
本人が、この3週間の間、本当に頑張って頑張り抜いた成果だと、思いました。
あの姿を見ていて、私も負けてはいられない!と逆に励まされました。
「宏ちゃん、二人で頑張って、絶対、この病気を治そうね!」
「私はどんな事があっても、絶対逃げないからね!」と病院の屋上で主人に誓いそして、9月中旬、大塚病院へ転院したのでした。
2回目の脳梗塞!右半身麻痺になり、絶望的になっていた私を救ってくれたのは、家族でした。あの時の事は、一生忘れられません。
今の私に出来る事。それは、自分に出来る事から始め、焦らず、自分のぺースで、何にでもチャレンジして見よう!と思い、明日、何が起きるか解らない!んだから、1日1日を悔いの無い様、送りたい!と思って実行しています。