闘病記(脳梗塞・脳動脈瘤)

今から11年前の31歳の時に、脳梗塞を発病し、それ以後、3回の脳梗塞と脳動脈瘤を併発。それでも1日も諦めなかった。

いよいよ手術日

2008-12-08 15:41:45 | Weblog
  2005年  平成17年  11月 ②       40歳


 手術当日。前日睡眠薬を飲んだせいか朝パッと目覚めた。10分ほどして手術担当の看護士が来て体調の具合変化等を聞き熱を計り帰って行った。8時過ぎに母と恵美子が二人でやってきた。雑談を交わしているとあっと言う間に手術開始の10時になった。搬送用ベッドに移され5階にある手術室に向かった。恐怖感と不安感で無言のままであった。手術室に入り首だけ回して上山医師を捜したら目と目が合い先生が、にこっと微笑んでくれた。その微笑を見て気持ちがギューンと落着いた。麻酔医師に注射を打たれそこから先の事は一切覚えていない。後から恵美子に聞いた話では手術時間は11時間、左腕の橈骨動脈を使ってバイパス手術を行い動脈瘤をクリップで 挟み不要な血栓化した血管を取り除いてゆくと言う大掛かりなもので11時間かかった手術でした。手術は大成功!10%の確立で脳梗塞になるかも知れません。と言われていたが、それも大丈夫でした。上山先生本当にありがとうございました。そして、僕の手術に掛け合ってくれた先生方ありがとうございました。長時間ご苦労様でした。感謝の気持ちで一杯です。ありがとうございました。

 上山先生はじめ、僕の手術に掛け合ってくださった先生、看護士さん方、ほんとうにありがとうございました。
旭川まで来た甲斐がありました。

しかし、術後また、起きせぬ事が起こるのです 

次回は、妻の日記Ⅲを掲載します 

旭川への旅立ち

2008-12-07 17:05:36 | Weblog
  2005年   平成17年  11月  ①     40歳


 旭川赤十字病院脳神経外科、副部長瀧澤医師からも入院の手続きにあたり、色々とメールを頂きあっという間に1ヶ月が経ち出発の日が来た。出発前日は緊張で一睡も出来ず。(病院着いたら爆睡すればいいや・・・。)と言う軽い気持ちで飛行機に乗った。11月14日北海道は寒かった。 
病院に着いて直に脳神経外科副部長、瀧澤医師の問診を受けた。ビックリしたのが瀧澤医師の服装であった。上から下までグリーンの手術着姿おまけにグリーンのキャップまでかぶられて何時でも手術はOKです。といった服装でこれには正直ビビリました。問診終了後、恵美子が「先生は何時もそういう格好なのですか?」と聞くと「だって、この格好が一番安いから。」とあっさりとした答えであった。この医師も上山先生と同じ様に仕事には厳しく真面目で1年間1日も休まず出勤しているという身体は細めだが鉄人の様な医師で頼もしかった。この先生も安心して任せる事ができる!と確信した。
病室に着くや直に担当の看護士がやってきて一番奥の会議室に連れて行かれ1対1で色々と質問が始まった。彼女の名前は岡崎朋美さんと言い私の担当になってくれる看護士さんらしく身長、体重から過去の病歴、手術した経験など1時間近く聞かれた。そして、血液検査、MRIを撮り終わりねむくなってきたのでベッドに横になっていると、ぱっと起された。恵美子の声がして起された。「宏ちゃん。上山先生だよ!」上山先生は私の短く刈り込んだ頭を見るや「あっはははー。気合入っているな。もうそれ以上切らなくてもいいからね。後は手術日まで待ってて下さい」と簡単な声をかけてくれた。何故か上山医師に声をかけてもらうと安心する。不思議な物だ。
 手術日が延期になる事が決まり、早速、瀧澤医師に頼み込んで外泊許可を貰い、旭川駅前にあるワシントンホテルに2泊した。旭川と言えば旭川ラーメンと言うほど味に自信のある店舗が数多くひしめくと言う事で駅の側にある蜂屋と言う店にいった。しかし噂ほど上手くは無かった。お客の数も少ないし味も今ひとつ。ぱっとしないなぁと言うのが正直な気持ちであった。ラーメンの好みもひとそれぞれだからなぁ・・・。すげえショック。
 あくる日は折角北海道まで来たのだからと言う事でジンギスカンを食べに行った。しかし、その店のジンギスカンも思ったような味では無くたれが甘くてああ言う焼肉を初めて食べた。(あーぁ明日から又入院か!)憂鬱な気分で雪道をテクテクホテルに急いだ。


 北海道!僕はまだ、”北海道”と言う所に行った事がなかった。
皮肉なもんですよね~初めて訪れる場所なのに、それが手術なんて!!  
でも、そんな事は言ってられません。命に関わる事なんだから 

  いよいよ明日は手術です    

命の恩人“上山博康医師”

2008-12-06 18:08:33 | Weblog
  今日はいよいよ上山博康先生との出会いです。いったい何が起こるのか?

     

    2005年  平成17年9月 ②       40歳

  その後の恵美子の行動は素早かった。ホームページを見てアメリカでご活躍中の福島ドクターの存在を知り直にメールを出した。なんと、あくる日、北海道の旭川赤十字病院脳神経外科部長、上山博康ドクターを紹介されました。直にメールを送ると上山医師から今後1ヶ月のスケジュール表が送られ「10月に千葉の日本医大北総病院で会いましょう。」との回答を頂きました。私自身今だ開頭手術には気が進まない状態でやっぱり恐さがあった。名古屋で撮った写真を持参して千葉県日医大北総病院に母、妻そして私の3人で行った。夕方5時の待ち合わせに合わせて昼過ぎに家を出た。10月だというのに暑かったのを憶えている。
 母は巣鴨銘菓の塩大福を手土産に持ち3人で4時頃には病院に着いた。病院内の食堂で食事を済まし1階奥にある医局に向かった。5時きっかりに上山医師は来ていらした。
「こんばんは。初めまして。どうぞよろしくおねがいします。」と母の挨拶で始まり。「どうぞどうぞ。お座りください。」と言われ私、恵美子、母の順序で黒いソファアに腰掛けた。
「あなたが飯岡宏明さん?」と尋ねられ「はい。宜しくお願い致します。」と小声で答えた。私は緊張しっぱなしで中場俯きっぱなしであった。妻、恵美子がこれまでの病歴、そして、病院を尋ね歩いた事。を話し出し写真を先生に手渡した。先生は写真を受け取るやいなや地面に全て落としてしまい。
「ははは。すみません。私も一応プロですから・・・。」と言いながら白板のボードに写真を挟んでいった。私は「何か、変な親父だな?暴力団の組長みたいだな。」と思った。
先生は写真を見ながら腕組みをして「うーん。随分と大きいね。3,5cm位あるね。」すると、恵美子が聞いた。
「ほっといても破裂する確立は1%位だと言われてきたのですが・・・。」
「とんでもない。それは嘘。間違いなく高率で破裂します。」と上山医師は断言した。私はギョッとした。続けて上山医師は「僕がオペをしたビデオがここにあるから。見ますか?」と言い、パソコンに入ったCDRフイルムを見せてくれた。生々しい映像であった。見ながら事細かに説明してくれた。恵美子と母対先生の比率で会話をしていた。私は一人黙って映像を見ていた。(こんなに大掛かりな手術やんのか?)映像が終ると上山医師は私の顔をじっと見ながら話してくれた。
「死にたくなかったら私の手術を受けなさい。」この言葉を聞いて私の気持ちは充分に固まった。(この先生に命を預けよう。まだまだ死ねないからな。死んだら何もできない。麻痺が残っても気力で克服してやる。この人なら俺の命を助けてくれる。)気持ちはすっかり固まりました。と同時に母、恵美子の気持ちも手術の為に旭川に行くことに決まっている様で上山医師と更に世間話に夢中になっていました。「先生。手術は何処で受ければよろしいでしょうか?」と母が尋ねると上山医師は「やっぱり、僕のホームグラウンド旭川でするのが一番ですね。機材も全て慣れていますから。」と答えた。上山医師の目には信頼出来る輝きがあった。
 そして、私は旭川で上山医師の手術を受ける決心をした。

 あんなDrにお会いしたのは初めてだった。   
 しかし、先生のお話を聞いて、”僕の命を任せられるDrは上山医師しかいない
”と確信したのでした。この先生しか僕の命を助けてくれる先生はいない!

 次回は上山先生がいらっしゃる旭川へ旅立ちます。  

 
  

  

奇跡は起きた! 福島孝徳先生、上山博康先生

2008-12-04 09:43:25 | Weblog
  今日は昨日に続き、妻の日記Ⅱです。

 一旦は退院したものの、私は不安でたまりませんでした。以前何度か、TVで拝見した事のある、「神の手」と言われている、脳外科名医師「福島孝徳先生」に相談してみよう!と思い、福島先生の連絡先を調べました。
 福島先生は今はノースキャロライナに拠点を置き、日本には限られた病院と数日しか滞在しておられない様でした。世界各国を飛び廻っていらっしゃり、毎日手紙、メールなどは100通も来る様です。その中で、私に奇跡が起きたのです。
あの、超多忙な福島先生にメールをしましたら、何と翌日、「このタイプの脳動脈瘤は、旭川赤十字病院の上山先生が世界一の治療実績をお持ちです。是非問い合わせてみて下さい」と返事が来たのでした。もう、天にも登る気持ちで、即、旭川赤十字病院の上山先生に、今までの経緯のメールをしました。
 すると、奇跡は再び起き、上山先生からも翌日、返事を頂きました。上山先生のお返事は、動脈瘤に部位は、症状から察するに内頚動脈の海綿動脈洞部にあると思われます。各大学では手術敵応が無いと言われた、との事ですが、充分に適応はあると思います。
 経験の少ない医師は、この種の動脈瘤は血栓化しているので破裂しない!と断言しますが、とんでもない誤りです。3㎝を越えると高率に破裂します!また、眼の症状も、症状が出てから早い時期に、手術した方が完全に治癒します。ただ、直接処置するのは、眼の症状を悪化させるため、腕にある橈骨動脈を用いて、バイパスを作成する方法が安全で確実です。ただ、このバイパスを作成することが出来る医師が少ないため、その技術の無い医師は、手術治療を選択しない傾向があります。まだ、患者様を診てもないのに、成功率を云々するのは早計かもしれませんが、上記の私の推論が正しければ、ほぼ100%うまくいくと思います。
 さて、診察に関してですが、東京の赤十字病院との関連は一切ありませんので、少々難しいかもしれません。その代わりに私がよく訪れる病院が幾つかありますので、その病院の先生に診て貰うことは出来ます。
 また、私が関東に手術に行く際に時間を決めてどこかでお逢い出来れば、その時に手術の詳細をお話できるのですが・・・
 これからの予定を記しますので、出来れば動脈瘤の写真を持ってきていただければ、もう少し詳しくお話が出来るのですが・・・・
 と言う内容のお返事を上山先生から頂きました。
 もう藁にもすがる思いでしたので、上山先生のお返事は私達にひとつの光を与えていただきました。やっと、本当のDrに巡り逢えた気がしました。こういう今までの苦労が実る時こそ神様が付いていてくれているのだと言う事なのではないでしょうか。

  あの有名で多忙な脳外科医、福島孝徳先生からのメールでのお返事。上山博康先生へのご紹介をして頂きました  

  
  そして、これからの私達にとって、上山博康先生は”命の恩人”である方となっていくのでした。  


    明日は上山博康先生とお会いします。 
                


妻の日記Ⅱ    度重なる脳血管の病気

2008-12-03 07:34:24 | Weblog
  今日は、妻の日記、第2段を掲載します。   


  2005年   平成17年   9月

 脳梗塞3回、そして脳動脈瘤どして宏ちゃんだけが、こんな思いをするの?この若さで、3回も脳梗塞だよ!でも、私はいつも、(起こってしまった事はいくらどう嘆いても仕方のない事。これ以上悪くならない様、どうすればいいのか!)だけをいつも考えていました。でも、やはり、本人にとっては、そんな簡単な事ではありませんでした。
 そりゃそうですよね!動かなくなった身体を少しでも、元通りにしたい。と思い、毎日頑張ってリハビリをしているのに、少し良くなってきたら、と思ったら、また脳梗塞。 これじゃーもういくらまた、頑張ってリハビリしても、またなるんだからいいよ!冗談じゃない!やってられないよ!と言う気持ちになるのはあたり前ですね。 
 でも、その気持ちは充分解るけど、リハビリをやらなければ、本当に身体が動かなくなり、車椅子?もっと酷ければ寝たきり?になってしまうかも?知れないんです。
 私は気持ちを抑え、嫌がる主人にリハビリをやらせていました。私は口煩いので、主人にとっては煩いな~といつも思っていたと思います。ごめんね!結構キツイ言い方してたよね!でもいつか、あの時、やってて良かった。と思う日が来るからね!
 脳動脈瘤が大きくなり、開頭手術は決心がつかず、血管内の手術でどうにかならないか?と思い、名古屋まで行ったのに、見事空振り。あれから、事態は悪くなり、また目が二重に見え「医師には手の施しようが無い。」と言われた時、流石の私ももう、目の前が真っくらになり倒れてしまいました。
いつもだったら何とか処置はあるのに、もう何もできないとなると、このまま左目は斜視で右目は二重に見えたまんまなの?そんなのってある?それに、「ベットは空いてないから他の病院に転院して貰うかも?しれません!」と当直の先生に言われ・・・いつも通院してる病院なのに、何それ?
他の病院に転院させられたら、宏ちゃんの目は間違いなく見えなくなってしまう。絶対にそれだけは阻止しないと・・・。先生に何とか頼み込み、無理矢理ベットを空けて頂きました。「よかった~ほっとしました。」
 「ありがとうございました。先生、看護師長。」
 しかしまだ、予断は許しません。
 一先ず、その場は点滴治療をして貰い、一旦家に帰り翌朝病院へ向かいました。
 主治医のO先生とお話をし、「効くかまだ解らないけど、ステロイド剤を投与してみましょう」と言われ、お願いしました。
 あの時、主人は、たぶん自分の目はもう見えなくなる。と思ったんだと、私は思いました。私の知らない所で、親・親戚、友人(会っておきたい人皆に)メールを入れていたみたいです。でも、皆が来てくれて、うれしかったのか。薬も序々に効き始め、10日余りで退院する事ができました。
 「ほんと、よかったね!」
 「神様は宏ちゃんを見捨てなかったよ」
 
 
 この続きはまた明日  
  

















症状悪化!入院へ(未破裂動脈瘤)

2008-12-02 15:11:39 | Weblog
  2005年    平成17年  9月 ①       40歳


 9月に入り、その後、めまいは、不思議と治まりました。何時も起こる目まいは、1、2分でおさまる為、まあ何時、物事と鷹をくくっていた矢先、9月14日夜、大脱走のテレビを観ていたら物がまた二重に見え、左目が斜視になってしまった。頭がくらっとして立っていられない。“もう俺は駄目かも知れない!”とその時思った。
その晩は、都立大塚病院に搬送されたので当直の医師、Y先生の診察を受けると、「飯岡さん。今は手の施しようがありません。」と言われ、その時、いつも気丈な恵美子がその場で倒れてしまいました。
かなりのショックだったのでしょう。それから、一先ず点滴治療をして貰い、一晩様子を見る事となりました。
ベッドは空いてないけども、婦長さんに言って無理にあけてもらう。この状態で飯岡さんを家には帰せない。」と言って頂き、何とかその夜に緊急入院する事が出来ました。そして、その晩は熟睡しました。
翌日、主治医のO医師に起こされ触診され「よし。解った。ちょっと待っててね。」O医師に「ステロイドを投与してみよう、もしかしたら治らないかもしれない。」と言われた。が、入院後3日位経って薬の効果が序々に効き、目が普通に見える様になった。
斜視になっていた左目も正常に回復した。
恵美子は、毎日毎日病院に来てくれて心の支えになってくれました。
お袋や親父も来てくれ嬉しかった。兄姉家族も来てくれ、友人も皆見舞いに来てくれたよ。俺は人に恵まれている。その事が俺の宝物。日曜日になり眼帯もはずれ、一人で歩けるようになって、やっと一安心。21日に無事退院しました。O医師に「また、眼の発作は何時起こるかはわからない。」といわれ、今は毎日恐怖感と背中あわせで暮らしています。もう今の俺の状態は、何時未破裂動脈瘤が破裂し死ぬか、また何時脳梗塞になり半身麻痺状態になるかもしれない。もう何時どうなるか解らず状態なの。そこで、未破裂動脈瘤だけはここいらで開頭手術してほんの少しでも心の不安を取り除こうと思っています。
「人間て言うのは、病気になりたくてなる人はいないの。人間はまず自分の事を一番に考えるの。そして、余裕が出てくると他人の事を考える。今の俺には時間が無い。手先が自由に使えないから手紙も手書きで書けない。俺みたいのは、こうも次々と色々な病を背負うのはもうこれは俺の運命なの。神様が「あなたはこういう道を歩きなさい。」と道を示してくれたんだよ。」

血管内手術を求めて・・・

2008-12-02 07:01:11 | Weblog

2005年   平成17年   6月      40歳

 ある日、TVを見ていると、左目が二重に見える。何か変だ!慌てて病院に行くと、脳動脈瘤が大きくなっていた。その影響で左目が二重に見えるみたいだ。一体どうなってしまうんだ?明らかに症状は悪化している。
 手術をしないと、駄目なのか?
主治医である、O医師は、開頭手術専門の医師であった。
 僕は、まだ、開頭手術をする勇気がなかった。しかし、症状は悪くなっている・・
 どうしたらいいんだろう?と思っていると、
 妻が、インターネットである病院を捜していた。そこは、名古屋にある、藤田保健衛生大学病院であった。
 そこは、脳外科の血管内手術がとても有名である大学病院だった。そして、妻は「宏ちゃん!東京にはいないや。名古屋の藤田保健衛生大学病院にN教授と言う先生がいるらしいから行ってみよう!!」恵美子の行動力は凄まじく思い立ったら直に行動する事が彼女の利点でもある。
 7月に入り日本各地気温が熱くなってきた頃、新幹線を予約して名古屋に行った。
 藤田保健衛生大学病院までは、名古屋駅から名鉄線に乗り換え、前後駅と言う所で下り駅からタクシーで10分ぐらいの所に建つ病院と言うイメージを除けば古ぼけた一種の楽園と言う感じの病院であった。敷地内にはマクドナルドまで完備され、売店はスーパーマーケットの様に大きくて、それには驚いた。
障害者のリハビリに対する施設的には最適であった。
 そして、N教授の初めての診察で写真を診て頂いた所、「うーん。」と言う溜息と共にまずは検査をしましょう。」と言う言葉を頂いた。この病院は電話での予約ができない。その為、一度東京に戻って、予定を確認調整して、再度名古屋まで来て検査入院の予約をして8月に入った頃、検査入院した。
本当に面倒くさい病院であった。(こんな手間の掛かる事をやってたら助かる命も殺してしまう。)と恵美子と話していた。結局、1回目は初診で診て頂き、2回目は検査予約の為だけ、3回目は検査入院。3度も名古屋に来てしまった。当時は愛知万博の開催時期と重なりホテルの予約も中々取れず大変でした。
(しかし、血管内写真撮って検査するだけで名古屋に3泊だったのが、5泊だもんな。生きると言うのも大変だよなぁ。)とそんな事を思いつつ眠りに入った。
 あくる日、検査入院の為、藤田保健衛生大学病院に入院した。病室は一番端の通路側ベッドだった。壁は薄汚れていて夜中に幽霊が出そうな病室であった。8人部屋に私と同じ検査を受けると言う三重県から4時間かけてきたと言うNさんと言う男性の二人だけであった。
 昼過ぎにH医師の元、血管撮影検査が始まった。
 更に現段階の血栓化を知る為、造影剤注入の3DCT写真を撮ってもらいました。もう俺は生まれてから何度注射を打ち何度MRI、CTをとったか解らない。 カテーテル検査も筋肉注射が痛くて涙が出てくる痛みなの。本音はもうやりたくなかった。あくる朝、5時過ぎに目覚めてしまった私は一服しようと思い煙草を取り出してみると1本も残っておらずどうにも我慢できずに隣のNさんに1本貰おうと思い6時過ぎにNさんの起床を確認するとNさんのベッドの脇に行き「Nさん。煙草を1本いただけないでしょうか?」と尋ねた。するとNさんは、「煙草?なんや。我慢できへんのかいな。」と言いながら鞄の中から1箱取り出し「ええよ。これあげる。一緒に吸いに行こう。」と言ってくれ、二人で喫煙所へ行った。
早朝7時、朝日の出終わった清清しい朝であった。
片足(右足)を相変わらずびっこを引きながら、歩く自分の姿が気にはなっていたが、Nさんの優しさにどっぷり嵌った私は7対3のペースで話をしてしまった。
Nさんは柔道をなさっていた方らしく体格もずっしりとしていてとても脳動脈の病を抱えた方には見えなかった。「飯岡君。わしはなあ。後10年生きられればいいんや。
 子供達が社会人になるまでの10年間生きられればいいんや。」昼食を済ませ別れ際、野村さんの言ったこの言葉が今も忘れずに頭に残っている。
彼とは握手をして別れた。
僕にとって、Nさんとの出会いは掛買いのものになった。
午後になりN教授との1対2での検査説明があった。
検査結果は、動脈瘤は3,5cmに拡大しており、更に血栓化していてN教授に「破裂する可能性は0,5%以下です。2年後に保険適用になる新たなコイル手術が可能になるため、2年待ってから手術を試みた方が良いのでは・・・。瘤が血栓化さ検査結果、血管内での手術は出来ないとの答えであった。(あーぁ。また駄目かぁ・・・。)との気持ちをしまいつつ新幹線に乗り込んだ。
蒸し暑い名古屋を出てサラリーマンで一杯の車内の隅に座りながら閑散とした田畑を眺めながら(日本に俺の事、治してくれる先生はいないのかなぁ?)と思いながら家路に向かった。
 折角、名古屋まで来たけど、みごと空振りだった。あ~あ!!

 あ~あ  僕はこの先、いったいどうなってしまうんだろう?
 不安で仕方なかった。    

 

3回目の脳梗塞

2008-12-01 06:53:53 | Weblog
 
 2004年    平成16年  10月   39歳

  昨年、脳動脈瘤が見つかり、ただでさえ脳梗塞。と言う病気を抱えているの に、どうして俺ばかり脳血管の病気になるんだろう!一体原因は何なんだ!医師  に聞いてもはっきりとした答えは返ってこない!そんな事を思っていた矢先の  事だった。
 夜中にまた、左手の感覚が鈍くなり、救急車で、大塚病院に搬送された。丁度、 当直の医師が主治医のO先生だったので、安心した。が、医師は、MRを診る  と、”脳梗塞になっていないので、大丈夫ですよ”と言うので、一旦家に帰され てしまった。
 そして、3、4時間家で休んでいると、今度は身体が動かなくなり、また、救急 車で大塚病院へ搬送された。
 私はこの時、夜中運ばれた時は前兆にすぎなかったのでは。と思っていた。
 あのまま病院にいさせてくれれば良かったのに~と思いました。
 そしてこれが、3回目の脳梗塞でした。
 幸いにも今回は麻痺が軽く、左手・足の動きが鈍くなっただけで、10日余りで 退院する事ができました。が、しかし、言葉の方は以前に増して話せなくなり、 妻との会話もままならなくなってしまいました。
 「2回目に右半身麻痺になった時、身体の麻痺は何とか70%迄は回復したが、 言葉の方は構音障害の為、言葉が鼻から漏れてしまうので、言葉を話す事は非常 に困難で、疲れます。つい、何度言っても解ってもらえないので、自然と、話す 事が面倒臭くなってしまいました。言葉がこんなに話せないのに、国は僕を障害 者、と認めてくれない。障害者手帳さえあれば、僕は安心なのに!!言葉が通じ ない辛さ、解りますか?今の障害者制度はおかしいです。結局、こっちが泣き寝 入りするしかない!もっと、考え直して貰いたい! 僕は、外から見れば、健常 者に見えるみたいです。だから、余計辛いんです。
 この気持ち解りますか?」
 今の僕の心境です。


 3回目の脳梗塞   どうして何回も起きるんだろ 
 しかし、今は、起こってしまった事は仕方ない!
 毎日のリハビリをきちんとして、これ以上悪化させない様にするしかないんだ!
      
        



未破裂動脈瘤の治療

2008-11-30 19:14:03 | Weblog
2003 年     平成15年  6月   38歳


 さっき、神経科の外来で病院に行ったばかりなのに・・・スーパーで買い物をして家に帰ると、留守電に「緊急の要件がありますので直に病院に連絡してください。」とのメッセ―ジが主治医のH医師より、入っていました。
この様な事は初めての事だったので(何だろう?)と言う不安な気持ちを抱えながら妻と二人タクシ―に乗り都立大塚病院に急ぎました。
人気も疎らに外来で待っている間も(また梗塞ができたのかなぁ?)とか悪い事ばかり考えてしまい、30分位待ち名前を呼ばれ脳外科の外来に入りました。O医師と内科のH医師が待っていました。  
O医師より「左脳の眼の後側に未破裂動脈瘤があります。サイズは1,5cm位の大きさです。開頭手術をしてクリップで瘤を止めて破裂しないように手術も可能ですが、血栓化されているので、このままほっといても破裂する可能性は1%以下です。僕の同期の医師で血管内手術を専門医としているHと言う医師が東京医大にいますので血管内手術が可能か診察を受けてみますか?」と、とても誠意を持って紹介状を書いてくれました。そして、1週間後、妻と母と3人で画像写真を持ち新宿にある東京医科大学のH医師を尋ねました。H医師もO医師同様温和な方で、じっくり写真を見ると「形的に血管内手術は不可能ですね。投薬で様子を見ていった方が良いと思います。O医師にもその様に連絡しておきます。」と話してくれた。一安心したのは僕だけで、病院の帰り道に寄ったロイヤルホストで「他の先生にも診て貰った方が良いですよね。お母さん・・・。」と一人不満げな納得のいかない妻だった。今思い返してみても(先生を全国から探して良かった。)と思える私でした。そして、妻の友人に知り合いで日医大北総病院のK教授を知っている。と言う事で、O医師に紹介状を書いて貰い診察を受けるため巣鴨―印旛日医大間の遠い道のりを電車に揺れながらやっと辿り着いた。日医大北総病院は田舎にあった。(ここの庭先で歩行の為のリハビリをやる人は回復が早いだろうな・・・。)そんな事を思いながら、待つ事一時間。やっと名前が呼ばれ、先生のお話は・・
「開頭手術も可能だし、腕の血管を持ってきて行うバイパス手術というのもあるんだよ。こういう事を話すと患者さんも怖がっちゃうからね。やめておこう。この大きさなら放って置いても破裂する可能性は1%以下だからそんなに難しく考えないで・・・。」と話してくれた。病院の帰り道、梅雨空でシーンと静まり返った駅のホームに別れを告げ帰京した。
 結局、3人の先生に診て頂いたが、3人共答えは同じで、“血栓化されているので、破裂する確立は1%ですから、大丈夫ですよ”     
の答えでした。一先ず、投薬で様子を見る事にした。


 またまた新たに今度は脳動脈瘤が発見されてしまったのです。
 でも、3人の先生方に診て頂きましたが、「血栓化されているので、破裂する確立は1%ですから大丈夫ですよ!」と診断されたので、一先ず命には差し支えなさそうだから、よかった~
でも、破裂したら、最悪は死。よくて、半身不随になってしまうかも?知れない?今は先生を信じるしかない!と僕は思った。


やる気をなくした僕

2008-11-27 18:08:24 | Weblog
  
  2002年      平成14年   5月      37歳


 昨年、肝機能障害で10日余り入院し、それからは、すべての事に対し、自暴自棄になっていた。何かをやろうとすると、必ず又、病気が襲い掛かってくる恐怖感。四年前の脳梗塞での事が再び蘇ってきた。
 朝起きた時、右半身が動かない。
 言葉も出せない!もう、二度とあんな思いはしたくない。あの時のトラウマが僕の脳裏を駆け巡っていた。それからの生活は、家に引きこもり、妻にも随分辛い思いをさせてしまった。しかし今の自分には、どうする事も出来なかった。妻はそんな僕の様子を見て、何も言わず、明るく振舞っていた。
 妻の笑顔だけが、今の僕には、支えになっていた。そして、月日が経つにつれて、僕も今のままではいけない!一体何やっているんだ!もう一度ホームページを作りたい!   
 やってみよう!と言う活力が再び沸いてきた。さあ!また、一貯頑張ってみるか!!
今の僕に出来る事。
 それは、今の現状をしっかり見つめて、何が自分に出来るのか?
 できる事から始めてみよう。
 そして、ネバー・ギブ・アップ!
 諦めたら、そこでおしまい。
 生きている限り、毎日がリハビリだ。
 僕には、夢がある。いつか必ず、社会復帰して仕事をする。その為にも、これから、どんな至難が待ち受けていても、僕は負けない!夢に向かって、GO MY WAY!! 

  再び、僕は立ち直るのでした     

新たなる病気

2008-11-23 17:58:43 | Weblog
半年ぶりのご無沙汰でした~ごめんなさ~い
なかなか続きを書けませんでした。あしからず
これからは、続けて書きたいと思いますので、どうぞお付き合い下さい     

 2001年      平成13年   7月     36歳


 あれから、何日か経ち、諦めていたら、受講する予定だった先生から連絡があり、先生の自宅で個人的に教えて下さる事になりました。
 先生の自宅は、江ノ電の由比ガ浜で、僕の家からは、2時間近く掛かる。
 でも、学生の頃サーファーだった僕にとって、海は大好きなので、先生の家に通う事が楽しくて仕方なかった。
3回妻と通った。後は自分達でやって見る所まで教えて頂いた。家に帰って、妻と試行錯誤、色々と考え、少しずつ出来上がる所まできていた。が、しかし夏の疲れか身体が妙にだるい!熱を計ったら40度近くある。慌てて病院へ行くと、検査の結果は“肝機能障害”即入院になってしまった。
 全く、ついてないよなぁ~今度は肝臓かよ!いい加減入院生活はうんざりしていた。   
 やってられないよ~全く!!

新たなる病気とは、肝機能障害だったのです。   あ~あ  










パソコン教室

2008-05-19 14:25:16 | Weblog
こんにちは 1年ぶりのご無沙汰です 
すっかりご無沙汰してしまって、失礼致しました
また、続きを書きたいと思いますので、よかったら、お付き合い下さい。

   2001年   平成13年1月            36歳

 昨年、パソコン教室に通う為、色々と探したが、直には入れず、三ヶ月が過ぎてしまった。 今の所、幸いにも体調の変化もなく、妻と一緒に週1回三ヶ月間、パソコン教室へ通い始めました。僕一人では、なかなか理解できない所も多々あったので、妻と一緒で助かりました。三ヶ月勉強したが、この教室でのカリキュラムはインタネットとホームページで、ホームページはさわり程度のものだったので、最っと詳しく知りたい。と思い引き続きホームページ専門のコースに4月から申し込む事にした。“ホームページが立ち上がれば店に行かなくても、家で店の仕事が出来る“僕にも役に立つ事が出来るかも知れない。と思うと、今から気持ちがワクワクしてきた。
そして、四月からの開校を待っていると、パソコン教室から電話があり、「今回のホームページの講習は定員が満たない為、中止になりました。」と連絡があり、私は折角これからやる気満々だったのに・・・。
残念で仕方なかった。

あ~あ次回は更なる病が...

店での事件

2007-06-11 20:55:00 | Weblog
  今日はその後の事件の事を書きます。

  2000年 平成12年9月     35歳 

 体力も大分付いたので、身体の調子が良い時は、店に出る生活をしていた。
 或る日、店のレジの所に居ると、隣の試着室でお客さんが、Gパンを試着し、
丈を詰めて欲しい、と言われたので、長さを測ろうと、メジャーで計っていると、
いきなり、感情失禁が出てしまい、可笑しくて可笑しくて笑いだしてしまい、
お客さんは“一体何が可笑しいんだ!全く失礼な店だ!”と怒って出て行ってしまった事があった。僕はその時、悔しかった。 笑いを抑えれば抑え様とする程、
可笑しくて溜まらなくなる。この時、俺は“もう店には出れないな~また、
何時こんな事が起こるか解らないもんな~お客さんを怒らしたら商売にならないもんな~もう商売は無理なのかな?”と思っていた。
側から見れば僕は健常者。話が上手く伝わらない以前の問題であった。
 「一体この後遺症と、いつまで向き合わないといけないんだ」もう、外に出る事もやめた方がいいのか?とも思っていた。そんな事を考えていると妻が、ふと、「宏ちゃん、店にでるのが嫌だったら、手のリハビリにもなるし、パソコン教室に行って、ホームページの勉強しない?ホームページ作れる様になって、家のお店のホームページ作ろうよ!これからは裏方に回れば良いじゃない。ね!」僕は妻のその言葉に後押しされ、「そうだよな~店に出るだけが、仕事じゃないもんな!よし!一丁、やってみるか!」と思い、パソコン教室に通う事になるのでした。

 折角、店に出たのに、お客さんを怒らしてしまったんです。
 でも、妻の後押しで、次回はパソコン教室へ通うことになります。
 新たなチャレンジ!ぞ~

リハビリ終了。そして、その後・・・

2007-06-03 15:13:45 | Weblog
 1999年 平成11年6月     34歳

 リハビリも終了してしまい、これからは、自宅でのリハビリをしなくてはいけない。 「自分との闘いだ!少しでも言葉がしゃべる様になりたい」 この気持ちは変わらない。 先生から頂いた、口のトレーニング表を毎日30分練習した。
 そして、筋力も大分落ちていたので、近所のスポーツジムに通い、体力を付けていた。 身体の調子は順調だったが相変わらず感情失禁の方は変化なし。
 半年前と、全く変わらなかった。
 「焦っても仕方ない。長い目で見ていくしかないな」と思っていた。
 その後、この感情失禁が基で、ある事件が起こってしまうのでした。

 いよいよ、次回はこの感情失禁が基で、また更なる悪夢が起こってしまうのでした。 
 
 でも、めげずに 













退院後の生活

2007-06-02 13:08:20 | Weblog
ご無沙汰しておりました。ブログの他にホームページも作っておりまして、そちらの方の作成に手間取っており、ブログを書く事が出来ませんでした。あしからず もしよろしかったら、HPも 

では、引続き、退院後の事を書きます。

 1998年 平成10年11月     33歳

 十一月末に退院をしてから、言語(ST)のリハビリは週1回、半年間通院していました。僕の言語の状態は、「構音障害」と言って、言葉が鼻から漏れてしまうので、はっきりと言葉を話す事が出来なかった。その為に、人と話す時は、非常に動力を使う。リハビリも半年間やって頂いたが、当然、元の声には戻る事が出来なかった。が、しかし、ゆっくり話せば何とか会話ができる所までは回復していた。
ただ一つ、後遺症として、「感情失禁」が酷く、感情失禁というのは、「可笑しくなくても、笑ってしまう」と言う症状であり、これを抑える事は出来なかった。
 側から見れば、全く可笑しくないのに、「何、笑ってるんだ~こいつ頭おかしいんじゃないの」と白い目で見られる。この事は辛くて溜まらなかった。
「感情失禁」この症状を治す治療は特に何かをすれば完治する。という事はなく、自然に治ってくる物だそうです。
 「ほんとに何時か治るのかな~」僕は毎日不安を抱いていました。けど、「何時かは良くなるよ!焦らずゆっくり行こうよ。怒ってるんじゃないんだから!いいでしょ」大丈夫、大丈夫!!

今でも、この「感情失禁」は治らないままです。が、気にしていません 病気には、後遺症はつきものです。
だって、考えてもしょうがないもんね!