6月13日 晴れ一時雨
永谷さんが亡くなったと、後輩がメールで知らせてくれた。
つい先日、彼の原稿を読んで、旧懐にふけった。
西武と巨人の、郭泰源争奪戦についての話で、関係者の顔と当時のあれこれが思い出
され、ブログに書いたばかりだった。
まだ、現役か。立派なもんだと、たまには連絡してみようか、とも思っていた。そんな矢先
に日本から訃報が届いたのである。
永谷脩は一匹狼のスポーツライターだった。
夕刊紙に寄稿して記者バッジを入手。報道関係者として球場に出入りした。
彼の手法は関係者の懐へ飛び込んで行く、そこから確かな情報を得て記事を書く、とい
うスタイルにあった。
普通の新聞記者と違って、担当球団など持たず、ある意味では自由に活動できるし、組
織のしがらみもなく、取材相手とは家族感覚で付き合っていた。そんな風に見えた。
私たちのような雑誌系とも違っていた。私にはまねのできないこと、と思っていた。
彼自身は、そのような取材スタイルに、自虐的になってみえるときがあった。
スポーツ紙の記者連中から、一部ではあったが侮蔑されるようなことがあって、それを気
にしたこともあった。取材対象にどっぷりつかって、お話をいただいて楽でいいよな、とい
うふうに思われていたのを、「ちがうんだけどさ。わかってないからな」と、私に言ったこと
があった。
たしかに彼はブローカー的に取材源を増やしていた。
この業界に入るきっかけは、野球漫画の編集からで、まずは江川卓と親交を深めた。江
川から、彼を評価する野球人と顔をつなぎ、漫画から活字の世界へ入った。
人脈を広げ、盆暮れの付け届けをし、これが一部の連中に後ろ指を指されることになって
いたのだが、彼なりの取材源の構築には、私は感心していた。
あなたのやり方は立派なものですよ、気にすることはない、と私は彼に言ったことがある。
江夏豊が、西武を最後に米球界へ挑戦した。招待選手としてキャンプから合流、オープン
戦をこなしてメジャーへの入り口にたどりつこうかというときがあった。
この期間、終始付き合ったのが永谷さんだった。たしか日本で、江夏豊の引退試合を草
野球場で行ったのも、雑誌社を引きずり込んだ彼の仕業だったはずである。
江夏は好き嫌いの激しい性格で、普通に見れば傲慢に見える。
しかし、ひとたび懐に入ると、実に優しく繊細な男というのが分かる。薬禍事件を起こした
のも、そのやさしさからくる弱さが底辺にはあったと思う。
とまれ、こういう球界の一匹狼と心中するような行動を、永谷脩はとってきた。日本球界で
仕事をする損得勘定で計れば、江夏と結託するのは、当時は明らかにマイナスであった。
それを承知で、アメリカへ同行。むろん雑誌への記事連載という商売はあったろうが、それ
だけではない動機というか心根みたいなものがあったのだろうと、私には感じられた。
そういうことが肝心なので、どこかに自分とシンクロするようなところを感じて、私たちの付
き合いは少しずつ深くなって行った。
もう時効だろうが、彼を同業者から引き抜いて、私の会社に連載してもらう計画があった。
すんでのところで中断したが、いまでも、これは日本のプロ野球ファンにとっては損失であっ
たろう、と思っている。
プロ野球界で人脈を広げると、高校野球にも触手を伸ばした。
高校生のあこがれのプロ野球の選手を紹介し、うまい飯を食わせ、その高校生の急所を
握って、彼がプロ入りした暁には新たな取材源にする。
ブローカー的に取材網を広げたというのは、こういう手を巧みに使ったからである。
しかし、これには永谷さんの人たらしがあったからこそ機能したこと、とみていた。
ほとんどジャンパースタイルで、気さくな笑顔を見せ、ときには平気でおべっかを使って、
これって苦しいんだよなと自虐的な笑顔をのぞかせる。根は正直で、その損得はともかく、
これが選手や関係者の気持ちをとらえていたのだと思う。
えらそうにというか、エスタブリッシュでもないのに、そういう顔をするような手合いとは違っ
ていた。
笑顔の裏に反骨心を隠して、雑草のようにゲリラ的に業界を歩いてきた。
そんな風に受け止めていたから、彼の仕事には感心し、まあ「もう少し、読みやすく書きな
さいよ」とか、勝手を言わせてもらって付き合っていた。
68歳。いかにも早すぎた。もう一度、権藤さんと3人でラウンドしてみたかった。
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