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瘋癲北欧日記

第二の人生 つれづれなるままに

トラブル

2015年01月15日 | 人々の暮らし

1月14日 晴れ


この国に来て最大のトラブルにあった。
スウェーデンの日本大使館、その警備員と激しい口論になったのである。こんなことは日本で
もめったにない。というか、ガキの頃をのぞいては記憶にない。
まあほとんど喧嘩と言っていい。お互い声を荒げながら、落ち着け、怒ってるのはお前だろう、
大きな声を出すな、とやりあった。
じつに不愉快な出来事であった。そして、これは、自分だけの問題ではないと思うので、こうい
う形で記録に残しておきべきだと考える。


発端は「ブザー」だった。
大使館の正門わき門柱に、ご用の方は左のブザーを押してくださいと小さな札が貼ってある。
その左側には、また別の札が貼ってある。これには右方向の矢印があり、その下にインター
ホンを押してください、とある。


この矢印の先のインターホンが、問題に輪をかけた。
何がインターホンなのかわからない。矢印の先には白いパネルが貼ってある。10X20セン
チくらいの薄いパネルである。これがインターホンなのだろうか。普通のインターホンとは違っ
ている。
ボタンのようなものが突き出しているわけではなく、しかも パネルはプラスチック製なのか光
っていて、図のようなものが書いてあるのだが、よく見えない。




後で写真を見ると、案外はっきり写っていて驚いたが、じっさいには点字で書かれたような、
1センチ大のベルのマークがどうにか判別できるという程度であった。


まあ、とりあえず、ここを押したが、その感触がいまいち。ちゃんと押せたのかどうか、レスポ
ンスが悪いので、正しい場所なのか自信が持てない。

しかも返事がない。インターホンなら、スピーカーがあるはずだが、それらしきも見えない。わ
からない。むろん、うんともすんとも言わない。


左のブザー、右のインタホン。矢印。右も左もブザーもインタホンも?である。

いったい、なんなのだ。ベルマークを押して、それで違うならと、パネルを手当たり次第押して
みた。ベルマークの上の、その右、左と押してみた。

それでも返事がない。
まったく不可解で、締め出しをくらっているのか、と苛立ってきた。インターホンでやれと言われ
て返事がなくて、1,2分も押し続ければいらいらする。
マンションではないのだ。門の向こう、10メートル暗い先には玄関があり、窓ガラスがあり、人
が来ているのが見えないはずはないのである。


ここに来たのは二度目だった。
前回は、どうやったかもう記憶にないが、すぐに返事があって(と思う、何より門が自動的に開
いたのだ)玄関前に警備員が立っていて「申し訳ないがボディチェックをさせていただきます」と、
ていねいに依頼してきた。
今回もボディチェックくらいは覚悟していたが、応答なしにはふざけるな、と思っているところへ
警備員が来た。若い男で30歳前ではないか、背は170センチくらいで、ブラウン色の短髪。
見た目はスウェーデン人らしくはなかった。


「何でボタンをあちこち押すのか?」
いきなりこれである。
目にはやや険があり、たんなる質問にはほど遠い詰問調。待たされた挙句、お前は何してるん
だ、という応対に、「どこを押せばいいかわからなかったんだ」と、日本語で答えた。
これがゴングの合図になった。



「ここに何と書いてある。日本語で書いてあるだろ。おまえは日本人なら、読めるのではないか」
「これはわかりにくい。だから、あちこち押すしかなかったんだ」
わたしは日本語を続けた。
こんなバカな質問、いや詰問口調にまともに答える必要はない、と思った。
「おまえは何度も押した。おれはビデオで見ていた」
「見ていたなら、返事くらいすればいいだろ。こっちはわからないから押したんだ」
これも日本語で答えた。相手は、スウェーデン語だった。

そんなやり取りで声が大きくなった。
わたしは仕方なく、途中からスウェーデン語で応酬した。お決まりの、落ち着け、静かに話せ、
と言い合いになって、それでも感情はエスカレート。どこでそうなったか、正確には覚えていな
い。彼が激昂して言った。


「もう帰れ!お前はきょうは入れてやらない!別の日に来い」
そう言いすてて、警備員はきびすを返し、通用門をガシャリと閉じた。
ふざけるな、である。


「冗談じゃない」と、私はうそを言った。
「おれには時間がない。明後日、日本に帰る。アポイントだって取ってあるんだ」
日本に帰るのは2月だし、アポはきょうか明日か、いずれかと大使館領事部には伝えていた
ので、正確には私のセリフはうそである。
しかし、このときには、嘘をつく余裕はあったが、私も怒り心頭に発した。


カメラを取り出して、門に貼ってあるパネルの写真を撮った。
「何をとっているんだ。見せろ!」
通用門をあけて、彼が出てきた。
「このパネルを撮った。ここは門の外だ。構わないはずだ」
そんな義務はないと思うが、写真を見せて言った。
「これを日本人に知らせる」
それからどうしたか、記憶が落ちているのだが、とりあえず彼は私を中へ入れた。


だが、彼はわたしを玄関に通さず、つまりボディチェックをせず、「あっちへ行け!」と、大使館
のわきにある領事部へ、私を押した。
そのとき「ヤーブラ」という言葉を聞いたような気がした。これは、こんなときに、まともにいわれ
たら、ホントのケンカになる言葉である。
「おまえ、いまおれにヤーブラと言ったか?」
「違う。そんなことは言っていない」
自分の聞き違いだったようだが、彼の言動には、言葉以上にケンカになる危うさがあった。
ちょっと緊張感が走った。


が、ことはそれ以上に進まなかった。
むろん、わたしだってそんなことは望んではいなかった。しかし、相手のある話で、自分はト
シや立場を守ったりできないことだって、ありえたかもしれない。


だが、それにしても警備員は間抜けではないか。
私のボディチェックを怠ったのだ。これだけ騒動を起こしているのに、あっちへ行けとアタマに
きて言うだけで、肝心の任務を果たしていないではないか。
もし、私が爆弾でも持っていたら、中に入れた責任は重大である。日本人の顔をした、どこか
のテロリストだとしたらどうするのか。
こんな男に、日本の財産を守る能力があるのか。時期を考えたらなおさらだ。

この前後が確かではないが、私も言うべきではないことを、言っていた。
「おれはモノを書いている。きょうのことは必ず書く。おれにはマスコミに知り合いがいる。こう
いうことは日本人に教えておかなければいけない。おれだけの問題じゃない。おれは、こうい
う名前だが、きみは何て名前なんだ」
マスコミ云々は言うべきではなかった、と思う。
虎の威を借りるみたいで、自己嫌悪に陥った。いくら激していたとはいえ、別のやり方で抗議
すると言うべきであったと思う。


しかし、この日のことは必ず書くつもりであった。
ブログでは、いまこの通り書いているし、どこかに投書するなりして、スウェーデン大使館の警
備員の対応を、世間に知らせる。関係する日本人だっているかもしれない。
小さなことかもしれないが、外国の大使館・領事部に用事があって訪問した日本人を、「帰れ」
と怒鳴るような警備員がいていいはずがない。


じつは日本大使館の電話受付嬢は日本語を話さない。
自分は多少コミュニケーションはとれるが、日本語しか理解できない旅行者などは、どうすれば
よいのだろうか。少なくとも、受付嬢は日本語を理解する担当者を置くべきではないか。数日前、
日本語で電話して、日本語の話せる人をお願いしたら、いまはいない、と言われた。
それで、あなたも日本語を少し勉強したほうがよい、ここには日本語を無料で教えるスプローク
カフェというのもあるじゃないですか、と冗談交じりに言った。
まあ、彼女の話し方はていねいで、日本語のできないことを申し訳なく思っている、というふうだ
ったので、まあ仕方ないかと思っていたのだが、こういう警備員がいると、話は違ってくる。
大使館にもクレームをつけたくなる。


領事部で用件をすませているときに、書記官が現れた。
騒動は領事部から上にもとどいていたらしい。
かれは謝罪し、警備員への指導を約束し、行政サービスには努めているのですが、と言った。
自分は書記官やほかの人間には責任がない、と思っているので、謝罪は必要なかった。
こういう騒動で、上司に当たる立場の人間に、謝罪する責任があるだろうか。今回のようなケ
ースでは、責任があるとすれば、それは警備員個人の対応言動にある。

高校野球の連帯責任、体育会系の上下関係、とりあえず経営陣が雁首そろえて謝罪、という
のは、自分には滑稽に思えてならない。間違いだと思う。
これを書くのは、じつは「どうやらインターホンに、技術的な問題がある」らしい、と説明を受け
たからだった。
「それなら、来訪者が来たら、よけい警備員はすぐに出てくるべきでしょう」
「いや、それがいま調べてわかったので」
そのような”原因”を聞いたときに、連帯責任、経営陣の謝罪を連想したのだ。


大使館バス停近く

バス停「大使館前」から、7,8メートル幅の坂道を上って日本大使館に来た。
小道の左手に米国大使館。スペースが広く、10メートル近くありそうな高さのフェンスが、道
に沿って7,80メートルは続く。大通りと坂道の角、中間地点、通用門の3か所に二つずつ
監視カメラが設置されていた。
対面にはノルウェー大使館。米大使館よりやや低めのフェンスが、こちらは50メートル強続く。
カメラは入り口に1台だけであった。
ノルウェーの隣に英国大使館。こちらは米国並みのフェンスで、ノルウェーよりやや長め。フェ
ンスと建物の前に30X60メートルくらいの広場がある。門は両サイドにあって、左側が通用
門らしく、脇に小さな検問室があったが、警備員は外に立っていた。
かれは、ヘイと挨拶してきた。笑顔だったので意外な気がした。
米大使館の隣はドイツ大使館。こちらはノルウェーと同じくらいの大きさで、カメラは一か所。
ここも、門のすぐ後ろに受付だか守衛室らしきがあった。


ドイツ大使館の対面、英国大使館の隣にあるのが日本大使館である。
これはフェンスも白い色で塗られ、高さも5,6メートルしかなくて、監視カメラは2か所見えた
が、建物はもっとも小さかった。
英国ドイツは4,5階建てだったが、日本は二階建て。正門から玄関までも10メートルくらいか、
庭も狭く、周囲の{列強国}に比べて見劣りがする。
用件に時間がかかってトイレを借用したが、内部も貧弱というしかなかった。

そして、いまになって知る「受付、守衛室」の場所。米国のは裏門で別として、ノルウェー、英国
ドイツすべて、受付、守衛室らしきが門のすぐ後ろにあった。
日本大使館はこの守衛室・受付が門から離れている。一般の訪問客には、今回のようなトラブ
ルが起きる可能性のある配置、ロケーションだというしかない。

しかし、それにしたって、いや、それであるならなおさら、インタホンでもよいが、わかりやすく使
いやすく、とりあえずは1分以内(それでもどうかと思うが)くらいには返事をするよう、受付だっ
て気を使えばよいではないか。

じつは、この国の大使公邸は別の場所にあり、そこは市内でも最高値の地区。あのABBAの
うちのBがお隣さんだった。有名な童話作家が建てた、由緒のある家で、購入手直しにはかな
りの金額が必要だったという。
じっさいに見たことはないが、きょうのことがあって、ちょっと考えさせられた。


異国の赤とんぼ

2015年01月12日 | 人々の暮らし

1月11日 雪


ストックホルム日本人会の主催する新年会に出席した。
今年は会員を辞めようかと思っていたが、歴代会長3人とは知己を得ているし、知人が毎
年、寄付をしていたり、きょうのような会に商品提供していたりするので、もう1年は続ける
ことにした。

会費は年間250クローネ(約3800円)。会員になっていないと、子どもを日本語学校に
通わせられないらしい。これは疑問に思うが、当方には無縁の条件である。
新年会は会員の参加費が一人80クローネ(約1200円)。非会員は、これより高い。つき
たてのお餅が食べられるらしいので、それに惹かれた。


日本人会の催しは、各種通知が来るが、参加というか見物に行ったのは一度だけ。夏の盆
踊りを、市内中央にあるKungstradgardenクングストレゴーデン=王様庭園に、見に出かけた
だけである。
新年会はむろん初めて。モチ食いたさもあったが、どういう具合に行われるのか、どんな雰
囲気なのか、のぞいてみたい気持ちも強かった。



プログラムは盛りだくさんだった。
面白かったのは若いスウェーデン娘たちのグループダンス。薄い柔道着のような上下そろ
いの服に、黒い法被のような上着を羽織って、若々しいダンスを見せた。
狂言小舞は案外、本格的。演目は「海人」どいう。演者がうたいも同時にやった。
スウェーデン女性の琴演奏には正月らしい雰囲気を味わった。
しかし会場がFolketHusフォルケットヒュース公民館のようなところで、音響効果は最悪。マイ
クのつながりも悪くて、演者がかわいそうになった。


引っ掛かったのは、日本人の女性コーラス「さくらコーラス」の童謡である。彼女たちは、夕焼
け小焼け、春がきた、などを見事なハーモニーでうたった。
合唱団は、昨年40周年を迎えたという。つまりは、お年を召した方たちの素人合唱団なのだ
が、40年のキャリアは半端ではない。十名ほどのご婦人たちの歌声は、音響装置の最悪を
乗り越えて、美しく耳に響いた。


そこで、夕焼け小焼け、である。
聞いたときに、1970年へタイムスリップした。
ロンドンのアーリントン・ハウス。NottinghillgateとHollandparkの中間にあって、ユースホステ
ルより安く、おそらく当時のロンドンで最も安い宿だったにちがいない。
その安宿の半地下部屋で、じつは童謡を歌ったことがある。




70年の夏、ストックホルム。コンサートホール前の階段で、わたしはロンドンから来た若い
日本人の旅行者にその場所を教えてもらった。
秋にパリからロンドンへ入り、到着4日目、その宿に行った。オーナーはインドの黒人で、巻
き舌風の英語を話した。
わたしは半地下の大部屋をあてがわれた。ベッドが6つもあって、客はすべて日本人で占め
られていた。だれもが一人旅で、20歳くらいの同年輩だった。

じつは、地下には別の大部屋があって、ここにはスペイン人たちがたむろしていた。これが
同性愛者たちの集団で、美貌の青年たちではあったが、わたしたちは敬遠し、日本人同士
で{団結}せざるを得なかった。
日本人の中に、さばけた明るい性格の、22歳の若者がいた。かれが夜間ミーティングを引
っ張って、みんなで話し合い、お互いをよく知るようになった。
そんなある夜、どうしたはずみか、みんなで歌を歌おう、ということになった。たぶん、かれが
音頭を取ったのではないかと思う。
みんなが知っている歌、日本の童謡を合唱し始めたのだ。


自分は恥ずかしいと思ったが、みんなに合わせて小さな声で歌った。
はじめのうちは、みんなそんな調子だったが、次から次へ歌い続けているうちに、案外と大
きく口をあける者が出てきた。
自然発生的に、とりあえずはコーラスふうになったのだ。


12月。ロンドンの冬は湿って寒く、安宿は満足な暖房がなく、歌でも歌って体を温めよう、と
いうことだったかもしれない。みんな旅の途中、というか放浪の身で欧州生活が長かった。
「望郷」という意識が、もしかしたらみんなの底辺にあったのかもしれない。




人一倍ひょうきんだった若者が泣き出した。だが、たしか彼は案外懐具合が暖かく、滞在期
間も2カ月くらいと短いほうで、もうすぐ帰国するという時期だったのではなかったか。
涙は、ほかの日本人には伝染しなかった。
わたしはカネの心配で、泣いている場合ではなかった。


そのときの歌声が、安宿の薄暗い半地下部屋が、脳裏によみがえった。
赤とんぼ、は間違いなく歌ったはずである。さくらコーラスの合唱が、その過去へ自分を連れ
去った。
あれは70年の冬、胸の中で年を数えて45年か、もう半世紀近く前になるのか、と。

異国で童謡、というのは、やはり特異な気がする。
連れ合いは、孫を思って胸が熱くなった、と言った。
新年会、いちばん記憶に残るのは、この童謡になるかもしれない。


老舗のセムラ

2015年01月11日 | 人々の暮らし

1月10日 曇りのち雪


「へーえ、食べたことないの。じゃあ、ちょうどいい。いまから食べに行きましょう。おいし
いところがありますから」
この国の代表的な菓子パン、セムラSemlaのことである。
「聞いたことはあると思います。見たことも、多分あるかもしれませんが、食べたことは
ないです」

セムラを食べに行こう、と言われたとき、何のことかわからなかった。
この国では、コーヒーとともに、甘いお菓子や菓子パンを食べる習慣がある。名前も
Kaffe Brodカフェブレード、コーヒー・パンといって、日本の菓子パンに近いと思う。
その中には「食べる季節」をもつものがある。日本の柏餅とか桜もち、牡丹餅のような感
覚に近い。セムラも、そのうちのひとつだという。


「本当はね、復活祭の前あたりから出るものなんだけど、もういまは季節前倒しね。暮
のうちから店に出ている。店によって違いがあるんだけどXXのは美味しいわよ。市内
で3本指に入るって評判。あたしは、Rosendalローゼンダールのセムラが好きなんだけ
どね」という声も出て、それならぜひ、ということになったのである。

寿司屋さんで昼食を食べた後、オーナーとシェフ、友人、私の4人で、市内にあるその
XXへ行くことになった。
ストックホルムに来て3年目。こんな風に「甘味」を食べに行くなんて、たぶん初めて。
期待が膨らんで、赤羽彦作村長になった気分。うまかったら村長にメールしなければ、
と胸に誓った。


http://hikosaku903.blog.fc2.com/    赤羽村長のブログ


午後から降り始めた雪が吹雪いて、あっという間に10センチの積雪。この地には珍し
い牡丹雪。降りしきる雪の中、ヨータ運河を渡って市内へ。週末のせいか人で混雑、ヨ
ータ通りも渋滞。Yさんは、店の近場でわれわれを下ろして駐車場を探しに。


店の名前はGunnarsonsグンナションスと言った。
ヨータ通りは、昔からの建物が並ぶ市内目抜き通りの一つ。その92番地。木枠に縁取
られたガラス窓を多用した、いかにも北欧スタイルを思わせるKonditoriコンディトリ=
喫茶店。入り口が1メートル強幅と狭く、これが古い建物を思わせる。
パンフレットを見たら、創業1946年とあった。



 店はビル内の二階を占めている。一階は右手にショーケースがあって、これが部屋の
半分ほどを占めている。15畳ほどの客席は満席で、大理石の階段を上がって二階へ。
上がってみて驚いた。
行列ができている。すでに10人以上が並んで、しかもほぼ満席。一階の三倍はある広
さ、テーブル数はざっと40くらいあるのに、これでどうやって食べるのか。さすがに3本
指に入る店である。


「テーブルの空いたのを探して座ってて、あたしが買うから。飲み物はコーヒーでいいか
しら」
Tさんとふたりで、若干途方に暮れる。数分、立ちん棒。ようやくカップルが席を立った。
近くによって待つが、これがずいぶんのんびりしたカップル。ゆっくりコートを羽織り、話を
しながらで、なかなかテーブルから離れない。待っている客など意に介さない。
日本なら、気をきかせて、コートなどは手に持って席を譲るところだろうに、ストックホル
ムでは別の時間が流れている。せかせかしても、しょうがないのである。
だいたい、その隣の男性客は一人で、もう飲み食い終わっているのに、雑誌のクロスワー
ドパズルに熱中している。レジに並ぶ行列が、目と鼻の先にあっても我関せず、なのだ。



しかし当方も、じつは図々しいか、と内心忸怩たるものがあった。
行列先頭の客が、われわれの席取りをどう思うか。しかし、見回してみると、席に陣取っ
ている人は少なくはなかった。これがスウェーデン流なのだと理解した。


さて、セムラがやってきた。
これなら見たことがあった。パンに生クリームがサンドされている。「ハンバーグの代わり
に生クリームが入っているみたいなものですよ」と聞いていて、たぶんアレかと想像して
いた通りだった。生クリームの量がパンの3,4倍はたっぷりあって、食指がわかずにい
た菓子パンだった。



が、市内で3本指に入る、という評判のセムラである。
生きてるうちは何でも見て、話して、聞いて、やって、食べて、というのが基本的なポリシ
ー。パンくらいならと、恐れることもなく、ガブリとやったら、最初は舌がクエッションマーク
を出した。
生クリームは、滑らかでソフト。舌触りがよく、脂肪分をまったく感じさせない。ただ、甘味
がほとんどない。いや無味である。そのよさはわからない。
上品だけれどな、と「3本指」にも感心するまではなかったが、パンの下地にうまさが隠れ
ていた。
マシュポンという、何だろう、日本でいったらざらっと荒い練りようかん風の舌触り、何や
ら果実性の香りのする甘い、まああんこのようなものが入っていて、これと生クリーム、そ
して粉砂糖をまぶしたパン、それをいっしょに食べると、これは素敵なミックス。
なるほどね、これなら3本指かもしれない、と思った。


これを、Yさん夫妻にごちそうになって、値段がわからない。
店を出るとき、名刺を求めたら、黒っぽいユニホームを着た若い売り子さんが、仕事の手
を休めてくれた。見れば名刺の下のパンフらしきがあり、これももらった。
値段は書いてなかった。この店でセムラは人気ナンバー3とあった。1位はデンマークの
朝食パンDanskt frukostbrodダンスクフルコストブレードであった。


パンフによると、スヴェン・グンナーソンという若い男が、1946年、セーデルマルムトル
イSodermalmstorgセーデルマルム広場に面したヨータ通りに店を開いた。31歳のときで
あった。いらい今日まで、同じ92番地にグンナーソン家が経営を続けている、と書いて
あった。


店のポリシーとして、自家製のパン、絵粉材料のみを使う、とかいろいろ書いてあったが、
面白かったのは尋ね人の個人広告。50年代に、ある男性が、ダーゲンス・ニーヘーテル
DagensNyheter日刊新聞に、こんな広告を載せた。

「日曜アナウンス(案内)」(返事は)金曜日までに
復活祭翌日、グンナーションス・コンディトリーにいた(そして、自分を観たと思う)女性に。
日刊新聞の(私書箱)「もしかして、春」あてに、ご返事ください



 この店は、ヨータ・レイヨンという映画館の近くにあり、場所柄、恋人同士が待ち合わせ
に、あるいはデボラ・カーとバート・ランカスターの映画などを観たあと、お茶を飲むこと
が多かった、とパンフにある。
ロマンチックな店で、当時は店内でライブミュージックの演奏もあった。
映画が娯楽の王者だった時代。しかも、復活祭翌日、とあれば店の名物サムラを食べて
いたときなのだろう。男と女の目があって、しかしそのとき、男は切りだせず、後日、新聞
に個人広告を掲載して、女性の連絡を待った、ということなのだ。
ちょっとしゃれた、店の宣伝パンフレットであった。 


「グレタ・ガルボ知っているでしょう。いまどきの人は知らないかもしれないけれど。彼女
はこの近くで生まれたんですよ」と、Yさんがガラス窓から見える小さな広場を指さし、「た
しかガルボの名前を取ったレストランもあるはずです」と、教えてくれた。


日本では、名物菓子にはいろんな由来がある。歴史も伝統もあり、味覚に関しては赤羽
彦作村長が、微に入り細をうがって楽しく紹介されている。
スウェーデンには、残念ながら日本ほどの歴史はない。あっても、その数は極めて限定
されて、甘味文化と呼べるものはそれほど多くない。


その、どちらかといえば貧しい環境にあって、このグンナションスのセムラは、50年代と
はいえ、ロマンチックなエピソードを残した。いや、50年代だからこその、男女関係を教
えて、どこかほほえましい。

食わず嫌いだったセムラだが、かなりうまかった。おまけに、こんなノスタルジックな風味
を知って、また食べてみようかという気になっている。
こんどはごちそうする番でもあるし。ロセンダールでもよいかもしれない。


スーパーのレジ係は客よりエラい

2015年01月10日 | 人々の暮らし

1月9日 曇り
京成バラ園


またスーパーでロブスターHummer(フンメル)を売っていた。
生鮮もの一匹99クローネ(約1500円)。400グラム前後の大きさで、大ぶりとは言えな
いが、かなりうまい。
普段なら倍以上はするのが、年末から年明けにかけて、バーゲンセールを続けている。冷
凍だと300グラムくらいで80クローネ弱(約1200円)だが、ちょっと水っぽく、味は落ちる。
これはもう買わないと決めた。

しかし、生鮮ものの安売りには手が出る。年末から、もう3匹目になるのに、また買ってしま
った。
年末から、こんなに続けているのはなぜだろうか。たんなるサービスか? あるいは大量入
荷して、年末にさばききれず、売れ残りを冷凍、解凍して売っているのか。スウェーデン経
済も停滞して、ロブスターは安売りでも高値の花なのだろうか。
などと思うのだが、魚類が日本より劣るので、エビ類には、こういうときにまとめ食いしてお
かないと、という気にさせらてしまう。


ところで、話はロブスターのことではない。
ロブスターの包み方が、じつに滑稽であった。金髪の、笑顔が可愛い売り子さんなのだが、
これを不器用というのかしら、包み方がじつにへたくそなのである。
薄手のポリ手袋をして、病院で使用するのと同じとおもうが、ロブスターをポリバケツから選
び出す。上から二段目の、自分もそのあたりがほしいとみていたやつをつかんで、「これでい
い?」と聞く。
それを、やや厚手のビニール袋に入れ、さらに包装紙で包む。包装紙は案外立派で、裏が
防水対策でコーティングしてあった。風呂敷くらいの大きさ。これでロブスターをくるくるっと
巻き、値札をつけて「どうぞ」と渡してくれた。


問題は、その「くるくるっと」にあった。
手際良く素早く包んだはいいが、値札を張るところが締めの部分から大きく外れた。




説明より写真が雄弁、なんのこっちゃ、と頭の中で笑いがはじけて、まあどうでも面白かった。
しかし彼女は、そのみだれ紙にも、恥ずかしそうにするどころか、まるでとんちゃくせず、笑顔
で手渡した。


日本だったら、どうかしら。
こんなときに、いつも思うのだ。こちらの売り子さんは、包み方を習っていない。一流デパート
でも、これは日本なら雑、と言われる出来栄えで、まずあり得ないことである。
これをもってスウェーデン人がいい加減だと言うつもりはない。不器用では、間違いなくある
のだが、その気配りを重視しないのである。まあもう慣れたし、目くじらを立てるほどのことで
はない。
包んでくれるだけで、ありがとうと言わなければいけない商習慣?なのだ。


サービスの考え方が違うのだと思う。
じつは包装の仕方より、さらに驚くことがある。スーパーのレジ係の業務態勢である。
この国のレジ係は椅子に座って業務を行うのだ。

レジの前にベルトコンベアーがある。幅60センチくらいで厚手のゴム製。これがレジまで、だ
いたい2メートルくらい伸びている。
客は、まず自分で商品をかごから取り出して、ベルトコンベアーに乗せる。ベルトに乗って商
品はレジまで運ばれ、レジ係はひとつづつバーコードを当ててから、商品をさらにベルトコン
ベアーに送る。ここから商品はさらにベルトに乗って、受け取り口まで進む。
客は、支払いをすませてから、自分で受け取り口に溜まった商品を袋に入れる。


ついでにいえば、支払いはほとんどがカード決済である。
売り子さんが、札や小銭をいちいち勘定して、客が待たされるということもない。売り子さんは
バーコードを照射して、最後にレジを打って「レシートいりますか?」と聞くだけの仕事である。


浅草


日本では考えられないシステムである。
しかし、これでよいのではないか、と思う。
レジ係を立たせっぱなしのシステムは、まったくばかばかしく、非人道的でさえあると思う。
座ってやって何が問題なのか。立たせっぱなしで体調を崩す、あるいは腰痛など起こしたら、
本人はもちろん、治療費から何から、ばくだいな出費が必要になるだろう。レジを打って、商
品を別かごにきれいに並び入れ替える作業も、本当に必要なのだろうか。売り子さんがやら
なきゃいけないことなのか。
これは「おもてなし」とは似て非なること、だと思う。


数年前、日本である会合で、当時のエリクソン日本支社長と話す機会があった。
話題が日本との社会比較になって、たまたま彼が日本のレジの女性の仕事ぶりに驚いた、
たいへんじゃないのですかと言った。値段をいちいち伝えるし、と。そのときにはよくわから
なかった。この国で、生活し始めて、彼の言わんとすることが理解できた。

また別の機会では、あるスウェーデンの企業人から、こう言われた。
スウェーデン製の車いすは高価だが丈夫である、日本製は安価だが少しもろい。しかしもし、
それで利用者がけがをしたら、治療費はもちろん利用者の負担まで考えれば、値段の差は
どうだろうか、と。

また、別の機会では、3代前のスウェーデン大使が、原子力エネルギーに関して、原子力は
コストは安いでしょうが、このような災害(東日本大震災)が起きてしまうと、そのリスクを含め
れば、コストは代替エネルギーの比ではないでしょう。日本では、そこをどう考えるかでしょう
ね、と言った。
スウェーデンは世界でも冠たる原子力エネルギー消費国である。しかし、地震や津波などの
自然災害が起きる可能性は皆無に近く、核廃棄物の処理能力の高さは日本の比ではない。



へたくそな包装をほめるわけではないが、そこから派生することは、人間をどう見るかにつな
がるように思う。
一つ一つ細かいことをきちんとする、という美意識や礼儀は大切だ。しかし、はたして人間の
生きざまに照らしたとき、用不要のけじめというか区切りをつけてもよいことが、多々あるので
はないか。
画一的に、サービスサービスでよいのか、ただ雁首そろえて、テレビの前で頭を下げなければ
いけないこと、なんてあるのか。
本質的なことより、形だけ「サービス」して、それで納得していればよいのだろうか。何が悪くて、
何をしなければいけないか、ではないのか。


日本にはない「客の不自由」を、案外価値のあることだと思うようになった。


DV実態

2015年01月09日 | 人々の暮らし

1月9日 曇り



雪が溶けて、湖に水が浮かんでいた。
きのうまで、湖は氷の下に潜んでいた。氷の上に雪が積もっていたから。その雪が溶ける
と、氷の上は水浸しになって、表面はまた湖のように見える。

当たり前だけれど、こういう風になると、湖の上を歩くのは難しい。
水が浮いて、足もとが濡れてしまう。滑りやすい。氷が薄くなっていて、割れてしまうのでは
ないか。
暖かくなるにつれて危険度は増して、それなりの勇気?も必要になってくるのである。


スウェーデンに来て当初、湖に沿って歩いていると、ところどころ標識が立っているのに気
がついた。
逆三角形で赤地に白抜き文字。感嘆府がついているので、意味はわからなくても危険信
号というのは明らか。遊泳禁止とか、そういう立て看なんだろうと思っていた。
しかし後年、言葉が分かるようになって、本当の意味を知った。
「薄氷危険!」



警告! 薄氷 冬


なるほどね。日本では、自分の知る限りでは、湖に立つ看板は遊泳禁止。しかし寒い国で
は、氷の薄い場所だから気をつけて、というのが常識なのだ、と思い知った。


そういう常識を持つ国民なのに、昨日か一昨日か、湖の事故がニュースで流れた。
ストックホルムで10件くらい、湖の氷が割れて人が落っこちた。メーラレン湖では、一人死亡
者が出た。
メーラレンは広大な湖で、この湖の中に点在している島でストックホルムがつくられている、
というくらい。又聞きなので、どのあたりのメーラレンで死者が出たのかは知らない。


しかし、水没死者がでた、というのは「恐怖心」をあおる。
このあたりの湖は小さいし、大丈夫だと思うけれど、でも歩かないでくださいね、連れ合いの
注意を背中で聞いて、家を出た。
このところ恒例にしている、昼食いや朝食か、の前の散歩である。


湖まできて、どうしようか。
割れるわけはないと思うが、ずいぶん水が浮いていて、こりゃあ滑る危険がある。若いころ
ならいざ知らず、と逡巡していたら、若いカップルがやってきた。
ティーンエイジャーで、男の子は少し立ち止まった後、湖の上まで出た。しかし女の子は岸
辺に残ったまま。会話は聞こえないが、男の子は平気だ歩こう、と言っているのに、女の子
は嫌がっているのが明らか。口答えして、両手を振って抵抗している。


つい気になって見守っていたら、1,2分の応酬があって、男の子が勝った。
というか、彼が一人で歩きはじめてしまったので、女の子も付いて行くしかなくなったという
展開。女の子が、ヤだけど仕方ないわというように、肩を落としているように見えた。



どこの国にも、しょうがないのがいるんだな、と思って、しかし待てよ・・・。
スウェーデンと言えば、いかにも男女平等のイメージ。フリーセックスというのは、やるやら
ないでなく、男性と女性という差別からの自由ということ。
ジェンダー問題に関して、日本などとは比較にならない歴史がある。
しかし、じつは、これが怪しい。実態は大きく違うのだ。


ドメスティックバイオレンス。DV。家庭内暴力が、この国では頻発している。
近年の暴力による死亡事件のうち、4分の1がDVによる、とのデータがあるそうだ。

12年の統計では、18歳以上の女性が被害を受けた暴力傷害事件は、2万8254件あった。
事件の85パーセントは男性が加害者。うち75パーセントは「知り合いの男性」によるもの
だった。事件の73パーセントは室内で起き、うち45パーセントは近親者による。

しかし、これは届け出のあった件数。じっさいには5件に1件の割合いではないか、という。
ざっといって13万人くらいの女性が、知り合いの男性・近親者から暴力行為を受けている、
という計算になる。
この国の人口は900万人くらい。その中で、18歳以上の女性の13万人が被害者という
のは、恐るべき数字ではないか。


この理由について、被害者の中には少なからず(意識の低い)外国人がいる、というのが
挙げられているが、むろん、復讐が怖い、よそ様に話すことではない、というのもある。妻
を撲殺しながら1年で出所、というケースもあったらしいから、事件の裏には法的な制裁の
甘さもあるのだろうと思う。



私のごく近くでも、同棲相手から暴行を受けて別居した女性がいる。
子どもがふたりいたのだが、女性が耐えられなくなったからだ。ところが、この女性はまた、
その後付き合った男性から独身だという嘘を信じ、あまつさえ暴力を受けたのに、しかも
警察が介入したにもかかわらず、被害届は出さなかった。
独身ウソ男は感じの悪い若者だったが、同棲相手は物静かなスポーツマンで、筋肉男。
気は優しくて力持ち、というイメージだったから事件を知ったときには、にわかに信じられな
かった。


スウェーデンの女性は概して強い。
背景の事情はいっさいおくとして、日本との比ではない。それが男の暴力を誘う一因にな
っているとも思う。知人は決して、典型的な強いスウェーデン女性ではなかった。むしろ、
やさしくかわいらしい女性であった。こういうと、これも差別と言われかねないが、日本女
性と変わらない印象を持っていた。


しかしフリーセックス、男女平等で、強い女性が多いのは事実である。
男性優位主義者には、それが我慢できず、たぶんい理論をたたかわせても負けることが
多く、暴力に打って出る、というパターンも少なからずあるのではないか、と思う。
「女のくせに」と、紳士的な笑顔の裏に凶器をしのばせている男は、けっこう多い。「女」が
「外国人」となる場合もありそうで、自分には、そう見受けられる男性が少なくない。



ミレニアム・ドラゴンタトゥーの女ではないが、男性が地位利用して女性を辱める、というの
も例外的な事件ではない可能性がある。
この国も就職事情が悪い。女性の中には、上司の機嫌を損ねたらいけない、と悩みを抱
えている者もいる。アフター5の付き合いが断れないとか、日本以上にシビア?な上下関
係もあるようだ。


この国は豊かではあるけれど、それは女性の社会進出に支えられている。
夫婦共稼ぎで、その豊かさを得る。専業主婦では豊かさを享受できない、へたすりゃ食え
ない、という現実もある。ニワトリと卵ではないが、女性が強くなったのか、社会が女性を
強くしたのか、その功罪の黒い部分がドメスティックバイオレンスを生む一因になっている
のではないか、と思えてならない。


 水の浮いた、凍った湖を歩くかどうか、どこまで歩き続けるか。
若いカップルはどうするのだろうか。