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瘋癲北欧日記

第二の人生 つれづれなるままに

ポール・オースター

2015年06月22日 | 人々の暮らし

6月21日 晴れ


午後から近くのフッディンゲまで買い物に行った。
晴れて気温16度。今年のこの地方では非常に暖かい、いや暑いくらいである。
で、散歩を兼ねて往復1時間歩いた。


買い物の一つは方眼紙を買うこと。
マンションの見取り図を書くのに、普通のノートでは具合が悪い。
フッディンゲでは本屋・アカデミーブウクハンデルに文房具が置いてある。


レジに並ぼうとして、オマケにぶつかった。
ノンフィクションのコーナーに、ポール・オースターの本を見つけたのだ。
好きな作家なので、捜していたわけではなかったが、手に取ってみた。


Report From Interior とかいうタイトルだった。
これは未読のはず。
本棚に表紙を見せて置いてあるのだから、新作なのかもしれない。
日本では、新刊のハードカバーは見ない買わない。文庫本になってから買う。
新作かどうかわからないのは、そのためである。


これはペーパーバックで1700円くらいではなかったか。
英語版で、冒頭から彼の世界へ引きこまれたような気がした。

昔は、自分が子どものころは月には人がいた、顔だけであったが不思議ではなかった、と
かいう書き出しで、さらにいろんなモノに名前がついていたり、仲間だったりしたというよう
なことが書かれていた。

ずいぶん前のことで忘れたが、Its good to die in Brooklyn と書き出す本があった。
最初のこの一行には衝撃を受け、同時に笑いだしたくなった。
現役時代には、毎朝毎晩毎回、それにとらわれていたからだった。

この本の冒頭を読んで、そんなことを思い出した。
この本もそれほど難しい「英文」ではなかった。
悩んだが、買わなかった。
じつは彼のニューヨーク3部作・スウェーデン語版を古本屋で買ってあって、これを訳して
見ようと思いながら、まだ手をつけていない。
新作は魅力的だったが、それもあって少し様子を見ることにした。



帰ってからネットで調べてみた。新作なのか、すで日本語訳があるのか。
2013年の本で、まだ日本語版はないようだった。
なら、買ってよいかもしれない。夏には恒例のバーゲンがあるので、この本が対象品にな
るかどうかわからないが、それまで待ってもよいか。


ネットでは、ついでにオースターと翻訳者の対談という項目を読んだ。
面白かったのは野球についての話。翻訳者が、アメリカがワールドシリーズとやるのは、お
ごりではないか、とか何とか聞いたのに対して、彼がこう答えた。

ワールドシリーズは、1903年、The Worldという新聞社がスポンサーになって始めた。そ
れでワールドシリーズっていう名前になったんだ。


じつは、同じ質問を、ロッテ監督を辞めた直後のバレンタインにしたことがあった。
彼の答えはこうだった。
「いや、アメリカのワールドシリーズっていうことなんだ。日本シリーズも、日本のワールドシ
リーズと言えばいいんじゃないかな」
そういや、ふたりの世界、動物の世界と、世界はそこらじゅうにあるな。なるほど、と聞いて
いたのだが、オースターのほうが正解ではないか。


オースターは大の野球ファンである。
若いころ、自らカードで遊ぶ野球ゲームを考案し、売り込みを図ったことがある。筋金入りだ
から、バレンタインよりも詳しくておかしくはない。

彼は自分と同じ年で、同じ70年にヨーロッパで貧乏生活を経験し、野球が好きで映画に強
い関心がある、という共通項があって、まあレベルは違うのだが、基本的なところで親近感
をもっている。


ついでにいえば、彼がニューヨークで本屋の店番をしていたとき、ふらりとジョン・レノンが入
店してきた。
ジョンがある本のことを聞き、オースターがこたえた。それだけのことだが、こういうエピソード
を自伝の中で書いたということに、ミーハー的なシンパシーを抱いた。



精神の迷路を、謎解きするようにかき分けて行くーー正解にはむろん行きつかないーー彼
の本には、いつでもそういう思いがする。
発想が突飛といっていいくらい自由自在、アミーバ的で、これが面白い。

ミステリーの原語は Mysterious Hunting というところから出た、と聞いたことがある。
江戸川乱歩がこれに猟奇的という訳語をあてたらしいが、オースターはこの系統を汲んで、
犯人を追うのではなく、人間の謎に迫るというミステリーを書いているような気がする。
わかりやすく面白いのは、そのためでもあるのではないか。



ところで買い物帰り、湖のわきを通ったら、サギをみた。

羽色はやや青みを帯びて、日本でふつうにみかけるサギより大きい。体長1メートル弱。
かれは、この辺りに生息しているらしい。
よく見かけるので、これにはキヨシという名前をつけた。
サギだからで、そのゆえんは、わかる人にはわかる。


不手際?

2015年06月21日 | 人々の暮らし

6月20日 雨のち晴れ


午後4時ころに雨が上がった。
晴天がのぞいて、暖かかな日差しが降ってきた。
買い物に行く途中、近場にある湖の周りを散歩した。久しぶりの青空なので、少しくらい
歩かないと、と思った。
夏至祭でもあるし。

桜が散り始めて以来の散歩道。ひと月ぶりで、ずいぶんと緑が深くなっていた。雨上が
りで道はぬかっていたが、空気はさらにおいしく感じられた。
この、通いなれた散歩道も、あと2カ月くらいで疎遠になるかな。勝手に名前をつけた岩
場や岸辺を歩いて、ここは良い場所だったと、あらためて思った。

移住先には、近場にこんな湖沿いの散歩道はない。



それにしても、あの物件は大丈夫かしら。
売主は感じのよい人だったけれど、不動産屋がいい加減だったからなあ。
どんなふうにいい加減か、時系列に列挙しておこう。


最初に電話で問い合わせたとき、「これは95歳の夫人が住んでいた物件で、傷んでい
るところが多いですよ」と話し、連れ合いは話し方が丁寧でなかったと感じた。

そして、閲覧日時には、物件を見ることができなかった。
ネットに書かれた2度目の閲覧にいったのだが、不動産屋も来ていない。電話をしたら、
「取り消すのを忘れていた、都合のよい日時にお見せします」と言った。

建築年も間違っていた。
ネットには1985年築となっていたが、実際は1969年だった。
売主(95歳)の言うとおりに書いたんだ、彼女がここへ来たのが85年だったんだねと、悪
びれもせず弁解した。


物件には価格のほか、管理費と光熱費(維持費のようなもの)がかかる。
光熱費は、当該家庭の使用量によって異なるが、一応の目安額は書くのがふつうである。
が、この物件にはなく「忘れていた」と言った。


駐車場の台数は書いてあったが、空きがあるのか聞くと、管理会社に電話した。


2度目の閲覧には遅刻すると電話をよこした。
15分くらい遅れると言って、アイスでも買って食べて待っていてください、領収書をとって
おいてくれれば、会社が払います、と言った。
実際には30分の遅刻であった。


最初の閲覧時には管理組合長が、たまたま同席した。
2度目のときは、売主の娘さんが同席した。
こういう「偶然」が重なるなんて、これまでの物件閲覧ではなかったことである。
彼には一人でやる自信がなかったのか。


しかし、2度目の閲覧では、われわれと娘さんを残し、別件があるのでと先に帰ったが、
「金額の話は、おふたりの間ではしないでください。私がやります」と、くぎを刺した。


もともと、それほど気乗りする物件ではなかった。
それが応対の問題で、いよいよ興味が薄れ、あまつさえ閲覧できず、もうやめようと考え
たほどだった。
が、とりあえず約束したし、その日は、同じ街のほか物件の周囲を視察する予定だった。
こちらの物件は魅力的で、周囲を見ておきたかった。
どうせこの街まで来るのだから、そのついでに見ればいい、という程度であった。



それががらりと変わった。
建物周囲の環境が落ち着いていた。窓からの眺望が気に入った。価格も予算内で済み
そうだ。これなら買っても、というところへ急転回した。
そうなると、不動産屋の「不手際」が、むしろプラスに見えてきた。


こういう不動産屋だから、閲覧に来た客が手を引いた可能性がある。
そのおかげで競売にかけられる確率が低くなる。

もうひとつはネット紹介の拙劣である。

あえて拙劣というが、ネットの物件紹介でみた写真は、とりたてて魅力的ではなかった。
居間からの眺望写真は、森が見えるだけ。
運河が見えると説明はあったが、実際に街並みや運河を見せる写真はなかった。
バルコニーはガラス窓付きだったが、紹介写真では物置のように粗末に見えた。
12階建ての10階なのに、バルコニーや食堂の窓からは、隣の建物の窓がいくつも見え
て、とても10階とは信じられない貧しい眺望だった。
窓からの景色は邪魔ものが多くあるように写っていた。
じっさいには、隣接の建物など何の違和感もなかった。
隣と物件との距離がずいぶんあって、紹介写真が与えるほどの悪いイメージはなかった。


総じてネットの紹介写真は、この物件の魅力をきちんと伝えていない。
私たちが乗り気にならなかったのも、ひとつにはそのためであった。
これとても、つまり紹介写真の選択も不動産屋の仕事であるはずで、それが客にアピー
ルしないのは、担当者の責任、すなわち不手際ではないかと、思うのである。


それが、しかし結果として、わたしたちにはうまい具合に働いた。




だが、それでもあの不動産屋だからなあ、という思いは残る。

たしかに、キッチンなどは全面改装するしかないと思う。
普通は改装して、見てくれはきれいにして売りに出すのに、この物件は日本式に、現物
何とかの引き渡し、になっていた。
キズもののまま売りに出す、ということである。
この物件は、周囲に比べて1割くらい低い価格設定になっていたが、それは価格に改装
費を上乗せしなければならないからだ。

キッチンの改装費がどのくらいかかるか。
管理組合長は8万から10万クローネくらい(120万円から150万円)と見積もったが、不
動産屋と結託しているのかもしれない。
ほかの部屋の壁紙も張り替えたほうがよいかもしれないし。
安物買いの銭失い、ということだってあるのだ。

ほかにも欠陥があるのかもしれない、不測の事態が起きるかもしれない、どこかだまされ
ているかもしれない・・・。
不安は付きまとうのだが、いまのところは不動産屋の「不手際」に感謝している。
これが逆転しないことを望むばかりである。


不動産の娘

2015年06月20日 | 人々の暮らし

6月19日 雨


夏至前夜祭なのに雨である。気温10度で冷たい雨である。
北欧人でもないのに、夏至祭なのにと、雨空を恨めしく思っている。
滞在4年目くらいを迎えて、人間が少し変わってきているかもしれない。

まったく関係ないかもしれないが、たとえば風呂である。
当初は、風呂のない生活に苦しんだ。日本人ならよくわかると思う。
それが、いまはシャワーだけに慣れてしまったところがある。
風呂がなければ、という気持ちが弱くなってきた。


住居探しでも、案外そうだった。
絶対にバスがなければダメ、は条件ではなくなった。
悲しいことである。
こうやって人は異人さんに近づいて、目の色が変わってしまうのだろうか。



しかし逆に思えるときもある。

しかとはわからないが、異人さんが日本人みたいに思えることがある。
北欧人は日本人に似た感覚をもっている気がする。
かつて、この地で商社の代表を務めた人から聞いたことがある。
「いろんな国でビジネスをしたけれど、スウェーデンの人たちは我々と同じビジネス感覚
を持っていましたね。理解しあえて、とてもスムーズに仕事ができました」

今度の住居購入で、そういう人に出会った。
こじつけになるかもしれないが、優れて個人的な感想だから仕方がない。
「あなたたちが買ってくれてうれしかったわ」
彼女が、こう言ったとき、青い目の日本人という気がしたのだ。


自分が購入したのは、95歳の婦人が一人住まいしていた物件だった。
彼女がホームへ入居し、部屋が空き、娘さんが実質的な売主を務めた。
うれしい、と言ったのは、この娘さんである。
契約を交わした後、握手をして、彼女が誠実なほほ笑みを浮かべた。
その目を見て、あ、日本人の目だ、と感じたのだ。


それは、買主が見つかって、売主はうれしかっただろう。
空家にしていたら家賃は払い続けなければならない。さっさと処分できてよかった、と
いうのも間違いないと思う。
経済的なことなど考えれば当たり前のことだ。国籍の違いは関係ない。


だが、それだけでない、と思うのには理由がある。




じつは彼女とは、物件の下見をしたときに会っていた。たしか2時間近く、家をチェック
し説明を受け、さらに個人的な会話まで交わしていた。
これが「うれしかった」ところへつながっていると思う。
自分たちもまた、同じような意味で「うれしかった」と言うことができる。


個人的な話というのはこうである。


彼女は母親をホームへ送った。
自分の連れ合いも、昨年、母親を施設へ送り、今年早々に彼女を失くした。
ふたりは、老いた母を気遣う気持ちを共有し、母親世代の共通感覚を面白おかしく話し
合い、ついには家族や仕事など個人的なデータも交換した。
ふたりは同じ年頃で、初対面なのに友人のような関係をもった。連れ合いは、引っ込み
思案なのだが、売主の娘とはスムーズに会話ができて、楽しんでいた。


娘は、たまたま花へ水やりにきた、と言った。
自分は、偶然だとは思わなかった。不動産屋が私たちの来る時間を教え、見計らって
彼女がやってきたのではないかと思った。
しかし彼女は気さくな、感じのよい女性であったし、詮索に意味はなかった。
不動産屋が所用ありと帰ったあとも、残ってくれて丁寧に説明し、よければ家具は残し
ますよなどと、こちらとしてはむしろ大助かりだった。

話は途切れず、時間を忘れて話し込んでしまい、これは彼女に商売っ気があってのこ
ととは思われなかった。
こういう関係になれたことが、おたがいに「うれしい」と思える契約になった。



日本でも同じような経験をした。

日本では、こちらが売主の立場だったが、買主とは驚くほどよい関係が持てた。
契約したあと、銀座アスターで食事をごちそうになった。こちらが誘って、おもてなしする
つもりが逆になって恐縮した。
家族同士でテーブルを囲み、今度はゴルフでも、という会話まで交わした。
この人たちに買ってもらってよかったと、心底、思えたのである。


それが、異国でも繰り返された。

食事こそしなかったが、契約にはご主人も同席し、いずれ食事でもという話になった。
日本でもスウェーデンでも、売主でも買主でも、気分の良い取引ができた。
そんなこともあって、スウェーデン人と日本人について、あらためて考えたのだ。
異国で「うれしい」と感じられたのは、なぜか。

私の目が青くなったのか、彼女の目が黒くなったのか。

たぶん、問題は色ではないのだろう。
人のつながりに目の色は関係がない、というとではないかしら。
もっと別の、いろんなものを取っ払った後に残る何か、なのではないか。
それを、ごく当たり前のこと、としては片づけられない気がした。


夏至祭前夜の雨に、日本人が肩を落としても不思議はない、ということになる。
落胆の度合いは違っても。


無題

2015年06月19日 | 人々の暮らし

6月18日 雨


今年は冷夏になりそうだ。
きょうも最高気温13度。6月に入ってからも、こんな調子が続く。

70年。最初に、この地を訪れた時が、やはり寒い夏だった。
曇り空と、しのつく雨を見ていると、45年前のあれこれを思い出す。
ユールゴーに向かうリンデンの並木も低かった。
バイト先のカフェまで、はだしで往復していたころは、2メートルもなかった。それがもう
10メートルを超す大木に育った。豊かに葉を茂らせている。

おれも年だよなと、そういうところへ思いが向かう。
つい先日、バスの窓からリンデン並木を見て、自分の老いをあらためて実感した。
あれからもう45年だぜ、と。


で、こんな年になって海外に住居を買うのかよ、大丈夫かよ、と思う。
まあ70年だって、45年後のいまだって、あまり先のことは考えない。考えたってしょ
うがない、動けるうちは思うように好き勝手やればいいんじゃないか。
じぶんは、そうやってここまで来たんだから仕方がない。

死んだら、しかし日本へ。
鹿児島の墓に骨は埋めてもらいたい。
どこでくたばるかわからないけれど、それだけは家族にお願いしている。
死ぬことだけは間違いない。これははっきり先の見える話だから、仕方がないとは思
わない。それこそ、思ってみても意味がない。



明日はミッドソンマル・アフトン。夏至祭前夜である。
夏至祭は、この国最大のお祭りだという。宗教とは関係がない。自然の恵みを祝う祭
りである。
日照時間が最大になる。これが、北欧の人には何より素晴らしい。
陽の光に感謝するのは、長くて寒くて暗い冬を耐えているからだ。

唐突だが、いま思いついた。
涙の数ほど幸せ云々、という歌があった。ようするに、そういうことなのだ。
つらさを知らなければ喜びはわからない。
暗い冬が夏のありがたさを、日差しの価値を教えるのだ。



何だろう。
不動産の続きを書こうと思って、ついこんな風になった。
まずは、今日の天気をメモしておいて、というところから別の世界へ入り込んでしまった。
まあ、しかし、こんなものだ。
何をするにも、いまは目的意識が明確なわけでも、確固たる意思があるわけでもない。
生きるのは商売でもないし、それこそつれづれ。


うっとうしい曇り空と、夏には冷たい空気を吸って、強い陽光に思いが走る。
不動産なんて、焦ることはない。それより、ミッドソンマルが明日にも迫っているのにと、北
欧の人間でもないのに、季節の裏切りを感じてしまう。

人生の季節でいえば、そうだよな、もう真夏は過ぎて秋も深まって、そろそろ落葉の掃除で
もしなきゃいけないころだろうな、と思うわけだ。
リンデンの並木も、もうすっかり大きく育ったことだし。
すべて世はこともなし、かな。
しかし、こんなんでよいのだろうか。


不動産3

2015年06月18日 | 人々の暮らし

6月17日 晴れのち曇り


寝室の窓からさくらに似た木が見える。
窓からおよそ4メートル。樹高は10メートル以上はあるだろうが、窓から見えるのは下
半分である。

この木に、キツツキがよく餌をついばみに来る。
幹をつついて、キンキン音を立てるので、キツツキ・キタローという名前をつけた。
ところが、この日は2羽がいた。

1羽は、まだ子供である。からだは成鳥並みだが、どこか動きが幼い。幹ではなく、細い
枝先に逆さにとまって葉をついばんでいたりする。




写真を撮っていたら親鳥が来て、口移しでえさを与えた。
こんなのはテレビなどではよく見るが、実際に目撃したのは初めてだった。
残念ながら、この瞬間は葉に隠れてよく撮れなかった。

それから昼飯。晴れていたのでゴルフへ行った。明日からはまた雨だというし。



不動産購入で、銀行が懸念したのは、管理組合のことであった。

マンションの買主に毎月の管理費を払い続ける能力(財力)があるかどうか、管理組
合がチェックするというのである。
この国では、買主はマンションに住む権利を買うので、部屋の管理は管理組合の仕
事になる。
権利をいくらで売るかは持ち主の自由だ(そのために競り売りなどができるわけだ)が、
管理組合が買主の懐具合を診断する。
やばいと思えば購入を拒否できるというのである。

マンションを購入する現金があっても、定期収入がなければ、買うことができないケー
スもある。管理組合の性格によって、この条件の厳しさには差があるという。これは別
の不動産屋から聞いた話である。

自分は定期収入がない。貯金だけでは信用されないのである。すでに契約は交わし
ているが、まだひと波乱あるかもしれない。
しかし、マンションを見に行ったとき、偶然なのか管理組合の会長がいて、このマンシ
ョンは良いとか、修繕はこうすればよいとか、不動産屋と一緒にアドバイスしてくれた
ので、たぶん問題はないだろうと思う。
銀行の担当者も、とりあえず、この客は定期的に日本からの送金がある、というのは
証言すると言った。だからといって保証はしないが。

契約をかわしたとき、不動産屋は「現金で支払うのなら問題ない。自分の仕事が少な
く済んでよかった」と言って笑った。



日本ではあまり重視されないが、それはこのケースが中古物件のせいかもしれないが、
パンフレットには管理組合についての記述が結構、多く割かれている。
よくわからないので、現地の物知りYさんに翻訳、解説してもらった。管理組合の借金と
か、持ち主の配分計算とか、修繕歴とか、建物の住民全員の名前を調べることができ
るという別の資料も教えてもらい、いろいろメモをとった。

わかりやすかったのは、住民全員の名前がわかる、ということだ。
外国人かスウェーデン人か、名前で判断ができる。
つまり、まあ、ありていに言って、中近東諸国の名前が多いと、イスラムの習慣などで問
題が起きる可能性があるから、注意が必要である、敬遠したほうがよい、というのが、こ
の一覧表でわかるのだ。

説明を受けたときは、わかったような気がしたが、実際の購入時には管理組合の記述
はよく読まなかった。読んでもよくはわからなかっただろうが、エイヤッと決めてしまった
ので、後悔するかもしれない。

自分の部屋の隣人の表札にはJohanssonとあった。購入を決めた後でわかったことだが、
ヨハンソンは典型的なスウェーデン人の名字である。