マルクス剰余価値論批判序説 その30
第三章、剰余価値と社会の外部
1、労働価値説
労働は、価値ではない。労働が価値(商品)であると見なされるのは、それが貨幣で買われるからである。
労働価値説は、労働者が賃金と引換に労働を提供する事態の、理論的表現である。したがって、労働価値説は、現に賃金労働が行われている現象の説明としては、無条件に正しいものである。
労働価値説に対する批判は、労働が賃金で買われることの批判にならない限り、労働価値説を越えることはできない。賃金労働の存在を認めておいて、労働に価値はないとは言えないのである。
マルクスの労働価値説が批判されるのは、それが剰余価値論と直接に結びついているからである。労働が価値であることは認めても、労働が新たな価値を生み出すことは認められないのである。(1)
マルクスは、労働が価値であること、労働(力)が商品であることが、いかに「狂った」意識であるのかを、その商品論においては論述している(2)。だが、剰余価値(資本)論においては労働価値論を無批判的に適用している。
マルクスの商品論は、商品批判すなわち価値批判であるが、剰余価値論は価値批判としては展開されず、不払労働の収得に対する批判にしかなっていない。
労働を、支払労働と不払労働とに区分して、不払労働の部分が剰余価値を形成するのだという理論は、商品としてその価値が支払われるのは労働ではなく労働力であるという観点の切り替えによって、整合性のあるものとして受け取られる。しかし、この場合の整合性は、商品交換社会における整合性であって、商品交換そのものに対する批判を棚上げにした場合の整合性にすぎない。
マルクスは、剰余価値論において、資本制社会すなわち商品交換社会に対する批判を、意図的に除外して論述している。その訳については、次のように述べられている。
商品生産またはそれに属する過程は、商品生産自身の経済的諸法則にしたがって判断されるべきだとすれば、われわれはそれぞれの交換行為を、それ自体として、その前後に行なわれる交換行為とのいっさいの関連の外で、考察しなければならないのである。また、売買はただ個々の個人のあいだだけに行なわれるのだから、全体としての各社会階級のあいだの連関を売買のうちに求めることは許されないのである。(3)
だが、何故許されないのだろうか。
われわれが資本制生産をその更新の不断の流れの中で考察し、個別資本家と個別労働者とのかわりに、全体に、つまり資本家階級とそれに相対する労働者階級とに、着目するならば、事柄はまったく違って見える。だが、そうすればわれわれは、商品生産にとってはまったく外的なものである尺度をあてがうことになるであろう。(4)
マルクスは、資本制生産における所有法則の取得法則への転化について論じているので、その姿勢は明確である。商品生産自身の経済的法則によって、所有が取得に転化することを証明すべきだとしているのである。商品交換以外の尺度によって、商品交換から価値増殖が行なわれるという説明は、避けるべきだと言うのである。
マルクスは、当然のことを言っている。しかし、マルクスの剰余価値論やそれにもとづく資本制的取得法則なるものは、マルクス自身が商品交換の諸法則だけにもとづいて論証しているつもりであっても、すでに商品交換の外部が、社会の外部が取り込まれているのである。ただマルクスが、それに気づいていないだけのことなのである。
マルクスは、自分か社会の外部を取り込んでいることを、まったく意識していない。しかし、実際の分析では社会の外部を、まさにその外部性を取り入れている。
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