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マルクス剰余価値論批判序説 その29

2021年03月20日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その29

 

(11)『資本論を物象化論を視軸にして読む』(廣松編、岩波書店)で高橋洋児氏は、「重要なことは、賃労働に対して労賃が支払われるというあり方は労働力商品を前提とする特殊歴史的なものであるにもかかわらず、それが《労働―労賃〉という一般的な図式のなかで無区別的に捉えられてしまうという点である。(五九五頁)」と述べている。高橋氏は、マルクスの労働力商品説の立場にあるものの、《労働ー労賃〉図式の根幹に迫ろうとしている。「それにしても、労働は必ず労賃を見返りにもたらすべきものという観念が確固たるものとして成立するためには、当事者たちの側にそれなりのいわば根拠認識がなければなるまい。〈労働ー報酬〉関係がくり返し行なわれるというだけでは、なお積極的な根拠づけに欠けると言わざるを得ない。(五九六頁)」という問題意識は、《労働ー労賃〉図式を自明のものとはせずに、なぜ労働が貨幣と引換に処分されるのかという課題に触れている。だが、氏はここまで来ていながら「労働にではなく労働力に支払われるのだという、マルクスの詭弁に同調するのである。対象が労働であるか労働力であるかという区別にかかわりなく、労働は支払われるものだという意識は、かくも強固なものなのである。

(12)上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店)によれば、次の通り。「『市場』を『市民社会』と同一視すれば、『市場』の外に『社会』はないことになるが、実は『市場』の外には市場原理の及ばない『家族』という領域があって、そこへ労働力を供給していた。」(六頁)。「家事が『収入を伴わない仕事』であるとは、それが不当に搾取された『不払い労働』であることを意味する。この『不払い労働』から利益を得ているのは、市場と、したがって市場の中の男性である。」(三七頁)。「フェミニストの要求は、第一に再生産費用の不均等な分配を是正すること、第二に、世代間支配を終了させることにある。」(一〇六頁)。上野氏のこの優れた著作の欠点は、マルクスの労働価値論および剰余価値論を、あまりにも無批判に前提している点である。「資本は労働を買うと

見せかけながら、その実労働力を買っている(二九六頁)」という、マルクスが批判抜きで賃金の現実形式について述べているものをそのままに受け取って、労働(労働力)が支払われるものであるという資本制的意識から、「不払い労働」を批判する。社会の外部としての家事労働を捉えながら、「社会」や「外部」や「労働」については常識的見解に囚われている。社会を公的、家族を私的領域としてしまうことは、マルクスにとっては思いもよらぬことだが、このような常識的理解に読者を導いたのは、マルクスの叙述によるのである。賃金を労働力商品への支払いと見なすことは、私的交換の社会を平等人格相互の公的領域として受け取らせ、その外部が私的領域であるかのように思わせ、労働には

対価が当然であるという資本家的常識を植えつけるのである。しかし、上野氏が、家事労働が「社会の外部」で行われていることを見抜いたのならば、労働そのものが社会の外部で行われているものであることに、気づくべきである。上野氏にそれをさせなかったのは、氏の再生産概念である。上野氏は、再生産のカテゴリーに一般的生産(生産物の生産)を含めない(七四頁)。しかし、生産とは再生産である(MEW二三、五九一頁)。物の生産も人間の生産も同じことなのである。人間の生産を別格に扱うのは、どのような理由によるのだろうか。(もちろん、労働をその結果(対象化)としての生産物から見るのは、間違っている)。

 



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