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マルクス剰余価値論批判序説 その34

2021年03月25日 | 哲学思想

マルクス剰余価値論批判序説 その34

5、労働賃金

 

労働賃金という形式は、賃金が、行なわれた労働に対して支払われているかのような外観を植えつける。それは、賃金が個別資本家から個別労働者に支払われ、個々の労働者の労働種、技術、労働時間、資本への貢献度などによって様々に異なり、 いかにも賃金がその個別労働者の個別労働に対して支払われているように見えるからである。労働者も資本家もそのイデオロギーに捕らわれるのである。

マルクスは、階級的観点からはこのようなイデオロギーは簡単に見抜くことができると言う。

 

貨幣形式が生み出す幻想は、個別資本家や個別労働者に代わって資本家階級と労働者階級とが考察されるならば、たちまち消え去ってしまう。資本家階級は労働者階級に、後者によって生産されて前者によって取得される生産物の一部分を指示する証文を、絶えず貨幣形式で与える。この証文を労働者は同様に絶えず資本家階級に返し、これによって、彼自身の生産物のうちの彼自身のものになる部分を資本家階級から引き収る。生産物の商品形式と商品の貨幣形式とがこの取引を変装させるのである。(17)

 

しかし、マルクスが見抜いたものは、商品の全ては労働者が生産したものであり、労働者は自分が生産した商品の一部を貨幣の形で資本家から与えられる、ということである。資本家は、自分の資本の投下によって得た利益で、労働者に賃金を支払うとともに自分も貨幣を得るというように、労働者の労働によって得た利益を労働者にだけではなく資本家も取得しているように見える。しかし実際は、資本家が投下する資本そのものが、すでに労働者から資本家が奪ったものなのだ、と。このようなことは、マルクス以前に社会主義者たちが唱えたことである。マルクスはそれを、商品と貨幣との同一本質と形態の転化という、新たな視点で繰り返したにすぎない。

賃金も資本も共に貨幣であり、しかも同じ貨幣である。違いはその役割にあると、マルクスは言う。賃金は、生活手段である商品を取得するために、労働を提供して得た貨幣である。資本は、売る商品を作るために必要なものを取得するためのものである。労働者は買うために売り、資本家は売るために買う。両者の決定的な違いは、貨幣との関わりである。交換手段として貨幣と関わる者と、増殖手段として貨幣と関わる者との区別は、人が入れ代わっても、階級として固定される。階級とは、貨幣との関わりによって規定されるのである。(18)

ところが、階級は貨幣との関わりによって規定されるのだが、その貨幣は同じ貨幤であり、貨幣を見ても階級の区別は分からない。貨幣形式が人を欺くのは、諸個人の階級区別なのである。個人が、自立・独立した個人ではなく、階級に属し階級に規定された個人であることを、貨幣という形式が誤魔化してしまうのである。

 

賃金は、労働力の価値にたいする支払いではない。労働力の価値は、平均労働者の習慣的に必要な生活手段の価値によって規定されている。(19)

 

「労働」を「労働力」に置き換えたことによって生ずる違いは、労働の処分権の取得を交換関係(社会関係)と見なすか、それとも支配隷属関係(階級関係)と見なすか、という違いである。

労働と賃金との交換は、強制されたものである。労働者は、自分の労働を賃金と引き換えることを、強制されている。そうしなければ、生きられないからである。だからマルクスは、資本制を新たな奴隷制として、捉えたのである。

ところがマルクスは、奴隷維持費としての賃金を、商品の価格の一種として説明する。経済学者が労働の価値と呼ぶものは、実は労働力の価値なのであるとマルクスは言い、労働力の価値はその労働力の再生産に必要な生活手段の価値によって規定されていると言う。

マルクスの価値規定によれば、価値の大きさは労働時間よって規定されている。したがって、労働力の再生産に必要な労働時問と、その労働力が実際に発現される時間との差異が、剰余労働時間であり、剰余価値であるとされる。

マルクスは、剰余価値論を、徹底して弁証法的に書いている。それは、きわめて危険な叙述であると言わなければならない。実際の分析は、全く逆に行われている。

まず、賃金の総額、すなわち、労働者階級に与えられている貨幣の総額がある。それは、労働者およびその種族の再生産に必要な額であり、その額は、資本家階級が必要とする労働者の質量が労働者階級から供給されることを条件に、一定の幅を持っている。

労働者の再生産に必要な生活手段は、その殆どが(全てではない)商品として存在している。したがって、その必要な商品を買えるだけの貨幣額が、賃金として労働者に与えられていることになる。資本家階級から労働者階級に、それぞれ何らかの理由をつけて、個別労働者に違った量の貨幣が与えられる。その貨幣によって、労働者は自己と家族とを再生産する。そして、労働者の労働によって生産された全商品の貨幣額から、賃金と生産手段に要した貨幣額を差し引いたものが、増殖した貨幣の量である。

確実に言えることは、貨幣の増殖は、商品生産を間に置いて、支出した貨幣額と入手した貨幣額との差額だということである。支出は、労働と労働手段の買入れに区別できる。収入は、生産した商品の販売による。労働手段は商品であり、販売する商品と同様に、その価格は決まっている。それらは等価交換されるのだから、剰余価値を生み出すことはできない。

商品の価格は、その生産に要する労働時間によって、規定されている。つまり、直接的規定である。しかし、賃金の価格は、労働者階級を再生産するのに必要な生活条件の価格によって規定されると、マルクスは言う。間接的規定である。しかも、「労働者階級を再生産するのに必要な生活(生命)条件」には、無価格あるいは不価格である自然的および文化的なもの(男と女、あるいは家事労働など)が含まれている。それらの全てが価値物であり、全てを価格に換算できるとするのは、全てが商品であるとする貨幣意識の賜物でしかない。

資本家が賃金によって買うものは、労働でも労働力でもなく、労働者に労働させる権利である。資本家は賃金で、労働者の労働の使用権(処分権を)買うのである。労働者を、どのような労働の質で、どれだけの量だけ労働させるのかという、労働者の労働能力の消費権を手に入れるのである。(20)

労働させる権利を労働する者から取得する方法には、暴力的な方法がまず存在する。しかし、それはコストが高く生産力も低い。歴史的経験から、労働を収奪する者が採用した最も合理的な方法が、資本制生産様式である。このような、労働の取得の形式によって歴史の諸段階の形成を理解したのがマルクスである。マルクスは、全て解っていたはずである。

しかし、マルクスの叙述は、資本制生産様式における労働の収奪を、労働時間の取得として、論理的・合理的・合法的なものとして表わしている。

労働時間とは抽象的人問的労働の時間であり、直接的に社会的な労働の時間、すなわちゲマインヴェーゼンとしての労働の時間である。しかし、労働のゲマインヴェーゼンは社会によって隠蔽されており、それは貨幣によってしか現わされない。貨幣が価値を規定するのである。

労働の価値を規定するのは、貨幣である。労働の価値(労働力の価値)も、労働の結果の価値(商品の価値)も、それらが貨幣によって取得されるから価値として現われるのである。労働力の価値が貨幣(賃金)を規定するのではない。

 

 



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