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労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその12

2021年02月21日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその12

十二、労働価値論の可能性

 

労働の価値は経済的な価値ではなく、人間的・生命的な価値なのだ。中上の言い方では、経済学や社会科学ではなく文学的価値、ということになる。「人間の在り方」と「価値」とが同義であり、存在概念と価値概念とが合致する世界を「文学」と呼んでいることになる。この合致を実践において「哲学」と捉える廣松(『新哲学入門』第三章)と、同じ立場になるのかもしれない。柳田も、政治的や経済的ではない農民の生活の在り方として、労働を捉えた。生活そのものとしての労働に、価値を見たのだった。

労働時間以外の自由時間の為に嫌々働くとはいえ、人は労働においてより良い仕事をしようとし、物や人々と協力しようとする。それらは全て、経済的利益のためだろうか。支配・監督されているからなのだろうか。そのような側面が強いことは確かだか、それだけではないだろう。奴隷制下の労働ではあっても、労働そのものの喜びを、労働者は感じる時があるのではないだろうか。自分の労働が人に役立つという喜びを、それで賃金を手に人れるという事とは別に、覚える時があるのではないのか。

現実の労働は、人の役に立ち、喜ばれることばかりではない。人を不幸にし自然を破壊し、嘘をつき、屈辱にまみれ、憎しみや悲しみや苦しみや怒りを生み出す仕事も多く、労働そのものが価値なのだという実感を得ることは少ないかもしれない。人を蹴落とし踏みつけて、自分だけが得をするのが働くということだとさえ、思っている人もいるだろう。

だが、それらは全て、経済的労働価値論の基盤から生じている。人間には闘争本能があるとか、競争が進歩をもたらすとか、人間は政治的動物だとか言うのは、贈与としての労働が忘れられ、取得としての労働に歪められた結果、後になって人間に植えつけられた観念にすぎない。

マルクスも含めた経済的労働価値論が日常的イデオロギーとなって、労働観念を歪め、本来の労働観が隠蔽された。そして、誤った労働観に立って労働者の解放が唱えられた。労働者は労働から解放されるのではなく、自由な労働を(再び)自分のものにしなければならないのだ。

労働者が賃金奴隷であるということはよく言われるが、間題は、奴隷である労働者が、なぜ奴隷に甘んじているのかだ。現代の賃金労働者の実践行動には、奴隷制度を崩壊させようとする方向性が、ほとんど見られない。現在の労働制度が、人間や自然を破壊している事実には事欠かないのに。

賃金労働者は、自分が奴隷であることに気づかないのか。従来は、そう考えられていた。だから、マルクスの理論を宣伝し、労働者は搾取されており、現代が賃金で縛られた奴隷制の時代であることの理解を求めた。

しかし、労働者は、自分が賃金に縛られた奴隷であることを知っている。日々の賃金労働が、それを労働者に教えている。労働者が知らないのは、労働が奴隷の行為ではなくて、労働こそが人間としての価値を持つ喜悦の行為であることだ。だが、賃金労働者は、自分が労働において奴隷であると実感しており、労働以外の時間のために奴隷的労働に従事するのだと理解している。

奴隷は、鎖でつながれているから奴隷なのではない。奴隷だから、鎖でつながれているのだ。

奴隷としての存在観と価値観からは、奴隷としての実践観しか生まれない。奴隷解放の実践観は、奴隷ではない存在観と価値観から生まれる。労働が奴隷の活動だという意識からは、奴隷解放の実践は生まれない。労働は奴隷的な非人間的な活動ではなく、労働は本来人間的価値に満ちた活動であり、生命の喜びを分かち合う行為なのだ。このことを深く認識する所から労働者の存在観と価値観が変革され、奴隷解放の実践観が生まれることになるのではないだろうか。労働観・労働論の変更が、労働者としての存在観と価値観を変革し、新たな実践の意識が生まれるのではないだろうか。

人間的労働無価値論である経済的労働価値論に、未来はない。地球そのものが破壊されるだけだ。人間的・自然的労働価値論の復興こそが望まれる。

 

 



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