還暦を迎えた初老のつぶやきNO.2

人生を一回りして、ふと振り返ると・・・。
還暦を迎えて、再スタートかな?
感ずるままにつづってみようかなと・・・!

『一大事』

2012年05月30日 18時29分12秒 | 信仰
一帖目第五通
 そもそも、当年より、ことのほか、加州・能登・越中、
両三箇国のあひだより道俗・男女、群集をなして、
この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとほり、
いかがと心もとなく候ふ。
そのゆゑは、まづ当流のおもむきは、
このたび極楽に往生すべきことわりは、他力の信心をえたるがゆゑなり。
 しかれども、この一流のうちにおいて、
しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。
かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。
一大事といふはこれなり。
幸ひに五里・十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこころざしは、
いかやうにこころえられたる心中ぞや。千万心もとなき次第なり。
所詮以前はいかやうの心中にてありといふとも、
これよりのちは心中にこころえおかるべき次第をくはしく申すべし。
よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。
 そのゆゑは、他力の信心といふことをしかと心中にたくはへられ候ひて、
そのうへには、仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。
このこころえにてあるならば、このたびの往生は一定なり。
このうれしさのあまりには、師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、
こころざしをもいたすべきものなり。
これすなはち当流の義をよくこころえたる信心の人とは申すべきものなり。
         あなかしこ、あなかしこ。
  [文明五年二月八日]

**この御文章の写経ならぬPC打ちも、案外大変だ。
これで5日連続で、がんばっているが・・・・。
八十通の五帖御文であるから、一日一通書いても、
八十日かかる予定だ。サボるのを入れると、うーーん・・・・?

当時も、信心を得る人が希であると嘆かれている。
まして、現代においてはいかがなものか?
一度坊主に聞かなくては。
「信心決定」していますか?と・・。

「しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。
かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。
一大事といふはこれなり。」
往生できるかどうか!これが一大事であると。
物見遊参で、参詣しておっては何にもならん。
あちこちの有名なお寺は、今は拝観料を払わないと入れない。
見て廻って終わり。坊主は一大事を説いていないなぁーーー。
     
     合掌  南無阿弥陀佛  なむあみだぶつ

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自問自答

2012年05月29日 18時14分31秒 | 信仰
一帖目第4通
そもそも、親鸞聖人の一流においては、
平生業成の義にして、来迎をも執せられ候はぬよし、
承りおよび候ふは、いかがはんべるべきや。
その平生業成と申すことも、不来迎なんどの義をも、
さらに存知せず。くはしく聴聞つかまつりたく候ふ。
 答へていはく、
まことにこの不審もつとももつて一流の肝要とおぼえ候ふ。
おほよそ当家には、一念発起平生業成と談じて、
平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふ
ことわりをききひらくことは、
宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、
わがちからにてはなかりけり、仏智他力のさづけによりて、
本願の由来を存知するものなりとこころうるが、
すなはち平生業成の義なり。
されば平生業成といふは、いまのことわりをききひらきて、
往生治定とおもひ定むる位を、一念発起住正定聚とも、
平生業成とも、即得往生住不退転ともいふなり。
 問うていはく、一念往生発起の義、くはしくこころえられたり。
しかれども不来迎の義いまだ分別せず候ふ。
ねんごろにしめしうけたまはるべく候ふ。
 答へていはく、
不来迎のことも、一念発起住正定聚と沙汰せられ候ふときは、
さらに来迎を期し候ふべきこともなきなり。
そのゆゑは、来迎を期するなんど申すことは、
諸行の機にとりてのことなり。真実信心の行者は、
一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあづかるときは、
来迎までもなきなりとしらるるなり。
されば聖人の仰せには、
「来迎は諸行往生にあり、
真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、
正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、
かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」といへり。
この御ことばをもつてこころうべきものなり。
 問うていはく、
正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。
 答へていはく、
一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。
されば二益なりとおもふべきものなり。
 問うていはく、
かくのごとくこころえ候ふときは、往生は治定と存じおき候ふに、
なにとてわづらはしく信心を具すべきなんど沙汰候ふは、
いかがこころえはんべるべきや。これも承りたく候ふ。
 答へていはく、
まことにもつて、このたづねのむね肝要なり。
さればいまのごとくにこころえ候ふすがたこそ、
すなはち信心決定のこころにて候ふなり。
 問うていはく、信心決定するすがた、
すなはち平生業成と不来迎と正定聚との道理にて候ふよし、
分明に聴聞つかまつり候ひをはりぬ。
しかりといへども、信心治定してののちには、
自身の往生極楽のためとこころえて念仏申し候ふべきか、
また仏恩報謝のためとこころうべきや、いまだそのこころを得ず候ふ。
 答へていはく、
この不審また肝要とこそおぼえ候へ。
そのゆゑは、一念の信心発得以後の念仏をば、
自身往生の業とはおもふべからず、
ただひとへに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり。
されば善導和尚の
「上尽一形下至一念と釈せり。
「下至一念」といふは信心決定のすがたなり、
「上尽一形」は仏恩報尽の念仏なりときこえたり。
これをもつてよくよくこころえらるべきものなり。
          あなかしこ、あなかしこ。
  [文明四年十一月二十七日]
**世間では、死を迎えたならば、僧侶から引導とやらを
してもらって、成仏、すなわち極楽浄土に生まれる。単純明快!
誰でも成仏できるようになっている。
釈迦は真理に因縁果を説いている。
悪因悪果、善因善果・・・。
悪い事すれば悪い結果を招く。
良い事をすればよい結果を・・。
それには縁が非常に大事であると・・。
何を以って成仏できるか?
ところが、御文ではそうは言ってないようだ。
御文では、信心決定しなければならない!
一念発起しなければならないのだ。
一念発起したところに次の答えがある。
「来迎は諸行往生にあり、
真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、
正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、
かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」
生きている間に、一念発起すれば、その瞬間に
往生は定まると・・・・。
経に「光明遍照十方世界念佛衆生摂取不捨
   合掌 なむあみだぶつ なむあみだぶつ

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まず当流の安心・・・・

2012年05月28日 09時21分37秒 | 仕事
一帖目三通
 まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、
また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。
ただあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、
かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらものを、
たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、
一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、
たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、
かならず如来の御たすけにあづかるものなり。
このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、
往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、
わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。
これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。
あなかしこ、あなかしこ。
  [文明三年十二月十八日]

*諸悪莫作(しょあくまくさ )・・・諸々の悪を作す莫れ
 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう) ・・・ もろもろの善を行い
 自浄其意(じじょうごい)・・・自らの心をきよくせよ
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)・・・是れ諸仏の教えなり
  日々の暮らしにおいてどれだけの悪事を行っているか?
 どれだけの良い事をしているだろうか?
 ふと考えてみると、悪い事はけっこうしているが、
 良い事は、あまりしていないのに気がつく。反省!
 十悪のしたいほうだいである。
 こんな下賎な自分でも救ってくれるというのが、
 弥陀如来の本願だという。
 その前に、自分の姿を一度、深くかんがえなければ・・。
 来世があると思い、来世の自分を考えると、
 また同じ事を繰り返すのか?
 地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界にて
 また生きるのか。
 今、六道を離れて安心の世界に身を置くか。
 己の心の中にあるという。
  なむあみだぶつ なむあみだぶつ
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出家発心

2012年05月25日 09時33分17秒 | 信仰
一帖目二通
 当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、
捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、
さらに男女老少をえらばざるものなり。
さればこの信をえたる位を、『経』には「即得往生住不退転」と説き、
『釈』には「一念発起入正定之聚」(意)ともいへり。
これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。 
『和讃』にいはく、
「弥陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 
本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」といへり。
「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。
つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、
かたちはいかやうなりといふとも、
また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、
ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、
ふたごころなく如来をたのむこころの、
ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、
本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり。
さてこのうへには、たとひ行住坐臥に称名すとも、
弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもふべきなり。
これを真実信心をえたる決定往生の行者とは申すなり。
あなかしこ、あなかしこ。
あつき日にながるるあせはなみだかな かきおくふでのあとぞをかしき
  [文明三年七月十八日]

*一念帰命の他力の信心を決定すると得られる位は
        ↓
『経』には「即得往生住不退転」
『釈』には「一念発起入正定之聚」
これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。
この3項目の意味は次の4通目に、詳しく答えている。
いずれにしても、往生するためには、
ここにでてくる「一念帰命の他力の信心を決定」「本願名号信受」
することが前提である。
決定をけつじょうと読む。
どのように決定をするのかは、
これも後の御文章にかかれているが、果たして文章から
理解できるかどうか?
今の現代人の無宗教の感覚、宗教に対するとらえ方では・・・。
いつの時代からか、宗教の本質がゆがめられているのが現状かな。
当時の蓮如上人も嘆いておられる。
     なむあみだぶつ なむあみだぶつ・・・・・・。

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ある人いわく・・・・・

2012年05月24日 09時45分22秒 | 信仰
一帖目一通
或人いはく、当流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候ふやらん、
如来・聖人(親鸞)の御弟子と申すべく候ふやらん、その分別を存知せず候ふ。
また在々所々に小門徒をもちて候ふをも、
このあひだは手次の坊主にはあひかくしおき候ふやうに心中をもちて候ふ。
これもしかるべくもなきよし、人の申され候ふあひだ、おなじくこれも不審千万に候ふ。
御ねんごろに承りたく候ふ。
 答へていはく、この不審もつとも肝要とこそ存じ候へ。
かたのごとく耳にとどめおき候ふ分、申しのぶべし。きこしめされ候へ。
 故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰せられ候ひつれ。
「そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、
ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。
さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、
ひとにもをしへきかしむるばかりなり。
そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。
さればとも同行なるべきものなり。
これによりて、聖人は「御同朋・御同行」とこそ、かしづきて仰せられけり。
さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず、
たまたま弟子のなかに信心の沙汰する在所へゆきて聴聞し候ふ人をば、
ことのほか切諫をくはへ候ひて、あるいはなかをたがひなんどせられ候ふあひだ、
坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、
また弟子をばかやうにあひささへ候ふあひだ、
われも信心決定せず、弟子も信心決定せずして、
一生はむなしくすぎゆくやうに候ふこと、
まことに自損損他のとが、のがれがたく候ふ。
あさまし、あさまし。
 古歌にいはく、
うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな
「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、
むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、
正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、
信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、
おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、
をどりあがるほどにおもふあひだ、
よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。
    あなかしこ、あなかしこ。
  [文明三年七月十五日]

*「さればちかごろは大坊主分の人も、われは一流の安心の次第をもしらず」とは?
今の坊主はどうなんだろう?一流の安心をしらないとある。
信心決定してない。
念仏あげただけでは往生できないとある。
答えは我が心の内にある。あはは

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